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想い出の旅12 北海道、稚内の空


  大学二年生になって、すでに一年生のとき基礎学習をしたドイツ語は、いよいよ小説の読解の授業に入った。担当の先生は、生野幸吉先生でした。 

 生野先生は風呂敷包みの教科書とノートと辞書を教壇に置き、それを広げて教科書を取ると授業開始になる。授業は、学生に文章の一区切りを訳させながら進められる。先生は、気になる言葉が出てくると、講義はともかく、その言葉の追求に熱中するところがあって、突然辞書を引きだしたら止まらなくなることがしばしばだった。言葉をめぐって考えることが面白くてしょうがない、という感じで、学生はちょっと戸惑うこともあった。

 けれども、私は、そうした先生の振る舞いがごく自然に思われた。どんなきっかけがあったのか覚えていないけれど、先生と親しくなり、三鷹市井の頭のお宅に遊びに行ったりしていた。

 お宅で先生の詩集『飢火』をいただいていたので、言葉をめぐる情熱がごく自然に感じられて楽しかった。

 私が工学部建築学科に進学した時、先生も本郷の独文学科の教授になるという。ということは、本郷に移っても先生の授業を受けることができる、ということだった。幸運というよりほかはなかった。

 ある日、本郷で生野先生の講義を受けに文学部の教室に行くと、学生は誰もいなかった。そのうち一人だけ来た。彼は文学部だが哲学科の学生で、つまり他学科の学生は、その日の、彼の休講を知らなかった、ということらしい。

 私たちは予定していた授業が無くなったので、時計台のある建物の地下食堂に珈琲を飲みに行くことにした。お互いに自己紹介をし、生野先生に惹かれていることなど話した。それ以来彼とはよき友人になった。彼の名は小玉成夫。

 大学院に進学したころ、小玉と彼に紹介された画家の吉田義生と三人でよく会って話した。飯田橋の日仏学院で三人とも勉強していた。フランス語が共通の関心で、この三人で北海道旅行に行く計画が持ち上がったのです。

 真夏、八月、東北本線に乗って、青森で青函連絡船に列車ごと乗って、函館に着いた。いよいよ北海道である。室蘭では富士製鉄に勤めていた前出の金子秀雄の世話で、社員寮に泊めてもらった。学園闘争が盛んな頃で、それに対して金子は、ほどほどに、といって熱い議論にはかかわらなかった。

 札幌、旭川を経て、稚内に向かった。空気も植物も、森も、何か大きく変化していた。稚内から船で礼文島に上陸、稚内に戻った私たちは、西に傾きかけた太陽に迎えられた。誰言うともなく、港に降り立った私たちはそのまま夕陽を見ようということになった。

 稚内の港の突堤に腰を下ろした。野寒布岬まではかなり遠く、最北端の宗谷岬は遥か彼方だ。ともかく日本最北端の町、稚内まで鉄道で来た。ここでおよそ最北端の夕陽を見ることにしよう。

 西の山の空が紅く染まってきた。太陽が赤く大きく見える。夕陽が沈む。稚内の駅の向こうはすぐ山になっていて、その山におおきな夕陽が沈んでいく。この壮大な風景を、今、最果ての町の海側から見ている。色が変わりゆく空、暮れなずむ海、波の音。

 陽が落ちてしばらく、西空は明るく輝いていたが、次第に暗くなり、とうとう一番星がきらめきだした。金星である。

 空腹なのに気がついた私たちは、町へと歩き出した。近所で海鮮料理の店に入り、新鮮な海の幸に舌鼓を打った。店を出ると、見上げる空に星々がきらめき出ていた。暗い町には星がまるで降るようだった。

 夏の星座をよく覚えている。南北に天川が大きく横たわり、左側には、白鳥、琴、鷲座が大きな三角形を描き、右側には、子熊、竜、牛飼い、冠が、ヘルクルス、蛇使い、天秤と続く。

 けれども、星座表に出てくる星々の間に数限りない星々が浮かび上がり、注意しないと星座など意味がなくなるくらいに瞬き始めたのである。

 それはこれまで見たことがない星ぼしのきらめきであり、東京でなら、かすかにしか見えない星を繫いでいけば、容易に星座が浮かび上がるのに、そうはいかない。あまりに多い輝きのために星座を見誤るほどなのだ。

 これだけ圧倒的な数の星を見たことはなかった。東京も子供のころはこんなだったろうか。星が降るような空というのは、このような星空を言うのだろう。

 夕陽を見ようと言って始まった稚内港の夕べは、星のみごとな瞬きによって時間を忘れさせた。私が携えてきたちゃちなテントをどこにでも張って固定すれば夜を過ごせるので、気楽な旅であった。

 適当な場所を見つけて、ブルーシートで出来たテントを広げた。二本の支柱を建てて、シートを張れば、後は周囲を金具で止め、簡易な宿泊用テントが出来上がりだ。三人の寝床に不自由はしない。ろうそくを立て、準備完了。しばらく、テントの外に頭を出して仰向けに寝たまま満天の星空を眺めていた。星空の美しさと宇宙の神秘なイメージを堪能し、やがて、テントに入って、眠った。

 早朝、目を覚ますと真夏なのに寒さを覚えた。ろうそくを点ける。ろうそく暖房、それで十分しのげた。今日は、根室方面、さらに釧路へ下っていこう。きっとどこかであのような星空にまた出逢うだろう。




 


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