芋以上

父掘るや芋以上のもの現れず 三鬼


父が芋掘りをしていた、ただそれだけの句である。おそらく父はそもそも芋以上のものを(以下のものも)求めてはいない。埋蔵金を掘っていたわけではないのだ。しかし「芋以上のもの現れず」と芋以外の可能性を示すことによって、却って芋を掘る行為が余計純粋に立ち上がり意外な詩性が現れた。


クローバに青年ならぬ寝型残す 三鬼


これも、おっさんがクローバー畑に寝ていた、それだけの句である。しかし「青年ならぬ」の打ち消しによって、かつては青年であったこと、さらには行為そのものの青年性が示され、なぜだかおっさんがそれをすることにさえ清々しさが残された。単に中年(あるいは老年)の寝型残す、ではおねしょみたいだろう。


否定が単なる限定でなく、むしろ可能性の豊かさを提示した上での貴い選択のごとくなっている。

ものは言い様である。



それぞれ1952年『今日』1962年『変身』所収。

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