86 「呪い」のはなし

 インターネットをさまよっていると、いろいろな「呪い」を日々目にする。それは書き手が密接な関係者から投げつけられたものがほとんであるが、しかしながらそうして形成された「呪い」はそれを目にしたぼくらにも微々たるかたちであるが「伝播」していく。もしかすると、世界を席巻したウィルスよりもずっと厄介な代物なのかもしれないと、時たま思う。


 お互いを察することで明確に相手に言葉でもって希望を伝えない文化圏というものが、この世界にはあるようだ。そもそも言葉というものは必然的に自と他の境界線となるべきものである。ぼくたちは言葉をもって概念を共有し、互いを隣接しうる。察するというのは言葉を省略するという行為であり、行き着く先は同質化、つまり強固な同調圧力である。お金という概念が存在するがそれ自体が希少であるとき、わずかな金額でも絶大な価値をもつことがあるが(つまり極度のデフレ経済下ということであるが)、それと同じように、こういった文化圏では直接的な言葉そのものがすさまじい威力を放つことになり、結果使用することを控えようとする動きが強まる。そうすることによって直接的なコミュニケーションを避け続けることで、むしろそのコミュニティ内での意識を完全に同質化し、あたかもそのコミュニティそのものがひとつのいきものであるかのように振る舞うことを強制する。人間の集合体となり複数の脳が事実上接続された「それ」はおぞましいほどの知能と思念をもって「敵」を貪る。ぼくがもっともおそれる人間の最終形態であり、憎むべき敵そのものでもある。
 かれら、つまりそのコミュニティの主たるものが人間を従わせるツールはまさに「呪い」であると言うほかないだろう。書いてしまえばその呪いをぼく自身も放出してしまうことになるのでその例示をあえて伏せるが、この「呪い」というのは女性により多くかけられているように思われがちな昨今の風潮であるが、あくまでぼくの観測上の範囲でいうのであれば、どうもそういうわけでもないように思う。


 きわめて卑近的なはなしになるが、たとえばよくあるジェンダーバイアスの一例として「気遣いのできる女性、空気の読めない男性」というような対比が様々なところで描かれている。しかし従前のことをふまえると、それが女性に多い傾向かどうかはともかくとして、たとえば言葉によらない気遣いができて察することがうまく、また自らも察してほしいというコミュニケーションが優れている人間がいるとして、それはノンバーバルコミュニケーションかもしくはハイコンテクストな言語に過度に頼っているということになる。どういうことかというと、相手に「空気を読ませる」ことを「強制する」という意味できわめて傲慢な性質を包含している可能性があるし、実際のところこういった人間は文化的エントロピーの高い場においては過学習(過剰適応ともいう)を引き起こして前述した性質をあからさまにすることが少なくない。ぼくはこういった種類の「気遣いができる」ひとに悩まされてきた。「気遣いができる」ひとは、実のところ相手の「気持ち」を読みとっているわけではなく、相手の行動から気持ちを自分の中で「翻訳して」読みとっているだけであり、それは正しい気持ちにはなりえない。けれど、「気遣いができる」ひとはそう思うことは「ない」のだ。なぜなら「気遣いができる」と思っているからである。だからその幻の「気持ち」を所与として動いてしまう。そして、自らの要望や気持ちは直接的には出さない「ように」している。相手の気持ちを勝手に読みとっておいて自分の気持ちをその文法上で暗号化するのだから、同じ暗号鍵をもっていない限りは複合することなど不可能で、同じ暗号鍵を持つには思想や概念を極端に統合する必要がある。こうして「察する」文化は人間の脳と脳を仮想的に接合させひとつのいきものとして行動することを「強いる」結果となる。こういう社会のことをなんかかっこいい呼び名があったような気もするのだが、ぼくとしては自分がわかりやすいように名付けるのであれば「キングスライム社会」とでも名付けるだろう。スライムが合体して強くて大きなキングスライムになるように、それがひとつのいきものとして動いていると感じられるからだ。


 いうまでもなく(正確にはあえていうのであるが)ぼくは言葉によってすべてを表現していく人間、もとい球体の生物なので、こういったキングスライム社会とは極端に相性が悪い。それは、前述したように言葉というものが自分と他者の間に引かれる境界線の役割を果たしているからである。同じ母語の人間同士であっても、それぞれの生き方や環境によって概念と言葉の対応が微妙に異なっており、つまり言葉を扱うことによって、ぼくらは接触することこそできるが明確に接続することはできない。この社会でもっとも言葉の指し示す範囲が狭いであろう法律の世界でさえ、その言葉を操って法曹たちが日夜様々な争議行動を繰り広げているのだから、ましてぼくらのようないわゆる「素人」同士の言葉の対応が一致するはずがないのである。だからこそ前述したキングスライムと比較すると、言葉で形成された社会、すなわち現代の法治国家のような社会は非常に連携という意味では弱い。それでも、古くはハンムラビ法典以前にすらさかのぼることができる「言葉による社会」の歴史を考えると、その接続の弱さこそが逆説的に市民の多様性を生み、そのエントロピーの増大によって分裂こそすれ人間それ自体を繁栄たらしめてきたのではないかとぼくは思う。もっとも、歴史についてはれの字も知らないし、高校の歴史なんて落第ぎりぎりだったわけで詳しくは全くわからないのだが。


 「呪い」というのは他者がキングスライムのように自らを取り込もうとしたときに発するものであるとするならば、言葉というのは「呪い」を発する元凶であるとともに、逆に「呪い」を断ち切ることの出来るほぼ唯一のツールでもあるといえる。それは、言葉というものが個々人の思想を隣接させることこそすれ同一にすることができない部分にある。力学の法則のように作用反作用の法則が必ずしも通用しないということだ。


 コンテンツにおいて、言葉を減らすという取り組みがなされているものをより優越なものととらえる動きもあるが、ぼくはむしろ、誰かの「呪い」をも断ち切ることの出来るこの言葉の隣接性にこそ人間それ自体のちからが眠っているように感じる。だからこそ、ぼくは言葉のみで構成された小説という表現技法にこだわるのだろうと思う。

おすしを~~~~~よこせ!!!!!!!!おすしをよこせ!!!!!!!よこせ~~~~~~!!!!!!!おすしを~~~~~~~~~!!!!!!!!!!よこせ~~~~!