79 個性のはなし

 インターネットで、障害は個性か、という議論があった。その行く末になんとなくもやもやしたものを感じてしまったので、それについてつらつらと思うことを書いていこうと思う。
 そのはなしを聞いて、ぼく自身まず思ったのは、「そもそも個性ってなんだろう」ということであった。個体差ということであればそれは物理的なものであるので、確かに障害は個性に含めうる。乱暴な表現には間違いないが、論理的には包含してしかるべきであると考えられるだろう。
 しかし、当然ながら当事者たちはそういった議論をしているわけではない。ただ、ぼくは思うに、個性ということばが個体差以上のことを指す必要があるのかどうか、それ自体が気になって仕方がない。すべて人間は生まれながらにして画一ではない。ぼくも、これを読んでいるあなたも思考は接続されないし感覚は共有されない。ぼくが今なにを見ているのかあなたは知ることがないし、知る必要も方法もない。つまり個性というものは生まれながらにして人間に存在するものであって、人間という生物の「個」という単位の根源であるということができる。すなわち、この民主主義かつ法治国家における「個」の存在の根拠となるだけであるのだが、この「個性」ということばにおいてはそれ以上のことを指すと推察できる。たとえばある人はそれを「愛」と呼び、別のひとはそれを「セックス」と呼ぶ、みたいなレベルのことを「個性」とよぶのかもしれないし、周囲の観測上それはかなり近いのだろうと思う。
 だとするのならば、障害者というのは、ぼくの定義でいえば、それは通常の社会生活を送ることが困難になるような個体の事情を抱えたひと、という意味合いであろうと思われるので、障害は個性たりえないと思う。現に身体ならびに精神障害を持っているひとびとは、そうでないひとに比べれば圧倒的に社会上不利な立場に置かされている。その状態を障害というべきではないかとぼくはつくづく思っている。だから、たとえば車いすでの生活を余儀なくされるようなひとがいたとして、その不便が完全に解消されるような社会が到来すれば、そのひとは身体障害者と呼べなくなるし、呼ぶ必要もなくなる。もっと簡単な例でいえば、ぼくは視力が悪くてめがねをかけている。しかし、めがねをかけさえすれば社会生活上、少なくとも視力が悪いことにおいて何ら不利な立場に置かれることがない。だから視力に問題を抱える身体障害者ではないし、めがねをかけることで障害を持たなくなるひとは非常に多いのではないかと思う。それは、ぼくらの身体の視力が低下していても、それを補うことで、視力がふつうのひとたちと何ら変わりない社会的生活を送ることが現に可能であるからだ。そうであるならば、たとえばめがねをかけるのか、コンタクトレンズを使うのかというのは「個性」になるのだろうと思う。


 このように、障害というのはそれを取り巻く社会によって容易に変動するし、つまりそれは障害者支援の方法も日々臨機応変に対応していく必要があるということである。そしてそのためには障害「でない」、つまり健常者や定型発達者の範囲というものを定める必要があり、その範囲からはずれた人間に対して、はずれた部分だけを補えるような社会にすべきであるなあ、と日々の仕事をしながらなんとなくそう思う。
 単なる「個性」として障害を片づけられるという行為そのものが、ぼくは障害者差別ではないかと思っている。

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