#9 何世議員かもわからないほど世襲を重ねた某エリート議員の顔がよぎるはなし

 「郷に入っては郷に従え」ということわざがある。なにごともコミュニティには独自のルールがあり、その正当性はともかく、まずはそのコミュニティのルールに従ったほうがよいという意味のことわざだ。

 もう少し正当性のあることへ置き換えてみよう。日本国内では日本の法律が適用されるので、いくらアメリカ人が米国内で携行を許可されていたとしても、その銃を日本国内で持ち歩けばそこそこの重罪になってしまい、警察に逮捕されてしまうだろう。「暴漢に襲われるから」という理屈で銃を持つことは通用しないし、米国籍であっても日本国内であれば原則的に日本の法律が適用されるのだから、日本の法律を守る必要がある、という内容を端的に示しているというわけだ。このことわざが使われるとき、本人の意向や事情は基本的に問われないし、たいていの場合は二の次にされる。
 つまり突き詰めて考えるなら、このことわざは「コミュニティにおいては、個人の意思以上に(当該コミュニティの)社会秩序が優先される(のでコミュニティのルールには従うべきである)」という意味でもあるのだ。


 ここで突然日常会話に思いを馳せると、日常会話で完全な日本語の文を聞くことはかなりまれだろう。たいていの場合は主語と述語の関係が対応しておらず(どころか欠落していることもあるだろう)、慣用句や単語はほとんどが誤用で、「てにおは」がすべて間違っているなんてこともしょっちゅうだ。巷の雑踏にあふれる会話を聞き取って実際に文章に書き起こしてみると、いかに文面だけで「会話を読み取る」ことが難しいかがわかるだろう。どころか、「会話を正確に文章に書き起こす」こと自体が相当難しいことに気づくはずだ。実際、いわゆるテープ起こし、反訳という作業はその手のプロがいまだに――音声認識入力プログラムがいろんなところで使われているこのご時世においても結構な数いらっしゃり、それで生計をたてていらっしゃる方もそれなりの数いるというくらいには――活躍されていることもこれを裏付けている。


 当然ながら、実際の会話をそのままフィクションの世界で「会話」にすることは不可能である。実際の会話はぼくらの脳内で補完され、コンテクストを保持した状態でトリミングされてしまうため、実際の会話が持つ「非常に多くの雑音」が発する「情報」を「会話」として認識できず、また「反訳」することも事実上不可能だからだ。だからぼくらは「会話」を書くときはそういった情報を「適度に」入れ込み整理された疑似「会話」として書くほかない。会話文、せりふの難しさはそこにある。話してほしいことばを会話に翻訳し、さらに「会話」に翻訳する、つまり都合2回の翻訳が必要になるわけだ。これが一人称ひとりがたりだと労力が半分以下になる。

 ライトノベルや純文学に一人称ひとりがたりが多いのはどう考えても「書きやすい」からで、そうでない文章と比べて「読みやすい」し「書きやすい」から人気も出やすい。つまり「コスパがよい」からよりシーンにあふれやすくなる。逆に言えば、一人称ひとりがたりの難しさは「共感」の味付けにあるように思う。一人称ひとりがたりはどうしても私性が強く出てしまい、読者との境界を弱くすれば薄っぺらく感じ、強くすれば拒絶される。この距離感をどう調整していくのかというところが、特に純文学だと「キモ」になることが多い。さらにいえば、距離感の調整がうまい書き手は総じて会話文の調整も絶妙であるので、この距離感の調整力だけで書き手のスキルは相当左右されてしまう。そういう書き手になってみたいものである。

 さて、これまで会話と文章は似て非なるものであり、話し言葉を書き言葉化することはかなりの労力を要するということを散々書いてきたが、都合上どうしても話し言葉と書き言葉を一致させなければならないという職業がいくつかある。その最たるものが政治家といえるだろう。そして、その文章の内容が「読めない」ために文章の正確さをもって「信頼」とする読み手が付きがちなのも政治家である。また、文章の内容が絶対に正確になるもっとも簡単な方法として「A=A」という繰り返し強調構文を用いる方法がある。つまり、とある有名な政治家が多用していると噂の強調構文は、政治家が多用しがちな強調構文そのものなのである。


 せめて文章の内容として最低限のものくらいはいつも読めていたいと思う今日この頃である。


おすしを~~~~~よこせ!!!!!!!!おすしをよこせ!!!!!!!よこせ~~~~~~!!!!!!!おすしを~~~~~~~~~!!!!!!!!!!よこせ~~~~!