78 小説のはなし その4


 昨日初稿を完結させた小説を読み返すと思っていた以上に未完成で、ずいぶん推敲を重ねなくてはならないのと同時に、分量的にぼくの描いていた「完成形」とは明らかに大きさが異なるということが判明し、仕方なく「サイズダウン」をはかることにした。ここまでで書いてきたように、ぼくは小説を書きはするものの、初稿を書き終わってしまえば以降はその小説のことなどどうでもよくなってしまう悪癖がある。良くも悪くも、筆をあげた瞬間にぼくが書いたものだと思えなくなってしまうのだ。今回初稿を完結させたものはまだそうなっていないことから、おそらくはぼくの考える「初稿」すらまだ完成していないのであろうと考えると、かなり先が長いと思わされる。

 小説を書けなくなって、ふたたび書くようになって、その前とあととで最も異なるところはどこか、とひとから聞かれたら、ぼくは「ない」と答えるだろうと思う。それはほんとうに「ない」のではなくて、ひとが知覚できる水準には「ない」という意味である。ぼくはこれらをぼくが書いたものだと仮定したとき、明確にその差を見出すことができ、それをことばにすることも可能であると思う。しかしそれはぼくが「ぼくの書いたもの」として読んで初めてわかる程度のことであって、それは読み手の皆さんが知るに値するような情報ではない。そう、しいて表現するならば、ぼくがいま、そしてこれからしばらく書いていくもののほとんどは自意識と「自意識」の間にあるものと「表現をすること」の関係性についてのはなしになるのだと思っているし、もしかすると、むしろひざのうらはやおという書き手はそれしか表現することができないのかもしれないとすら思っている。
 感情と事実のあいだにことばはある。ことばはどちらも表せるし、だからどちらでもない。それはお金と社会の関係に似ている。ぼくらは社会という枠組みの中で互いに助け合って生きていく生命体であるが、お金というのはその助け合いの中でさまざまなものになり替わることができるから、そのどれにもならない。

 感情というのは決算に似ているような気がした。やり取りをしているとき、ぼくらは何の感情をどう処理しているのかを実はあまりよくわかっていない。有機物かつ自然構造物である脳はそこまで人間の行動概念に合理的にはできていないはずで、動物としての、つまりコンピュータでいうところの機械層の処理を優先させてしまうから、高次な部分というのは揮発的に発生はするものの、それが起こったという記録の一部が記憶として残るだけでそのすべてを同時に正確に処理しているわけではない。だから、その時の感情をほんとうに知る必要があるときは、その時のことを思い出して周囲の状況を踏まえたうえですべての行為を分解し、時系列順にたどったうえで解釈しなくてはならない。実際に、そういうカウンセリング方法があるそうだ。さながら、すべての取引を勘定科目ごとに仕訳して並べていくようである。だから感情は後から確定されるし、その時生じたばかりの感情は全くとは言わないにせよ、確定した後のそれとは大きく異なってしまうことも多い。おそらくであるが、世のなかの夫婦喧嘩等のたぐいはこの確定のタイミングが個々人でずれることによって生じることが多いように思う。というのは感情の確定は決算とは異なり、定期的に行われることはなく、ある日突然、何らかのきっかけで不随意に起こるものであるからだ。何かのきっかけで何とも思わなかったことがある日突然つらいと思うようになったりするのはそのためではないだろうか。当たり前であるが、人間というのは元来他者となにかを共有するようにはできていない。だからこそことばやお金を生み出したのだろうとぼくは思う。そして、ことばとお金は非常に似通っている性質があるがために、互いに変換されにくいという特徴もあるのではないかとぼくは考えている。

 ぼくは復帰、あるいは最終発表を行おうと考えているのは、ここまでのひざのうらはやおのすべてを決算するという意味合いもある。回顧録、過去リメイク短編集、新作小説群のすべてが、ぼくに対してきわめて内向きであるというのは、それらをすべて決算し、感情を確定させたいという思いが強いからでもある。その新作小説群の軸となる小説の初稿としてはあまりにも弱いことに驚きながら、ぼくはこれからもきっと小説を書いていくのだろう。だからこそ、これからは自分の小説にもっとしっかりと向き合っていくべきだろうと感じるばかりである。

おすしを~~~~~よこせ!!!!!!!!おすしをよこせ!!!!!!!よこせ~~~~~~!!!!!!!おすしを~~~~~~~~~!!!!!!!!!!よこせ~~~~!