59 小説のはなし その2

 「小説のはなし」で今ぼくはまさに同人活動のリハビリ中であり、3つの作品を手がけていると書いた。それ以外にも小説について語りたいことが出てきたので、そのまま書いてみようと思う。非常にまとまりがないが、よもやここの読み手にそれを気にするものはおるまい。


 同人活動をしていると、ひとえに小説といってもその捉え方は千差万別であるということに気づかされる。特に、二次創作から一次創作、そしてキャラクターベースの小説を書く書き手の中には大きく考え方が異なると思う人も多い。それはいわば生まれ育ちの問題で、バンドで言えば音楽性の違いのようなものではないかと思う。なので、はっきりいってしまえばお互いを理解しきることは不可能であって、そこにリソースをさくのはある程度のリスクを伴うのではないだろうか、と考えている。
 ツイッターをしていて流れてきた話題で、何度も話題になっていることがあって、それは「漫画と小説をたしなむ人の差」みたいなものであるのだが、ぼくはこの手の話題があまり得意ではない。どちらもコンテンツという意味では同じであるし、特に漫画と小説の両方を配したアンソロジーだって現に多く刊行されている。それ故に、漫画しか読まない人、小説しか読まない人、両方を読む人、などすべてに消費されるため、様々な世界観の中で醸成された感想がたちのぼってくるところがいわゆるよろず本の魅力ではないかと思うし、逆に言えばその構造そのものに異論を申し立てるのは野暮ではないかと思うので、それ以上議論が進捗しないのである。ただ、ぼくは今回の流れでひとつ、思い出したことがあって、それをここで書いていきたいと思う。


 ぼくの前の職場の同期に、高卒で入社した女性がいた。大卒ばかりの職場のなかにイレギュラー的に入ってきた彼女は、確かにめちゃくちゃ仕事はできるのだが、かなり変わっていると感じていた。一番印象に残っているのは、「漫画が読めない」ということだった。どういうことかというと、漫画のコマ割の約束がわからなくて、コマの順序がわからなくなり、それを考えているうちに読む気がなくなってしまうとのことだった。これを聞いたときにぼくはまさに目から鱗が落ちるようにあることに気付いた。すなわち、ぼくらがふつうに消費しているこれらのコンテンツは、そもそもそのままでは消費できないひとたちがいて、そのひとたちのためにメディアミックスが存在するということだった。
 彼女はさらに、「だから少女漫画の実写ドラマとか映画は絶対に見る。みんな漫画が出たときにそのはなしをしているのに自分だけ仲間外れだったから」と言っていた。また、彼女は小説も「漫画よりは読めるだけマシだけど読むのに時間がかかって飽きるからあんまり読まない。でも少女漫画のノベライズは読む」とも語っていた。ここから察するに、ひとによりけりだとは思うが、彼女とは逆に、漫画は読めるが小説は読めない、映画も長いし退屈、みたいな人種はそれなりにいるのだろうと思うし、さらに言えば、ドラマの中身だってそんなに詳しく見ているひとがどれだけいるのだろうかというところなのだ。職場の中にはいまでも月9ドラマを毎週みているようなひともいるわけだが、彼女たち、もしくは彼らは絶対に役名で会話をしない。「山田くん」とか「キムタク」みたいに役をやっている俳優でドラマのはなしをしているのだ。それはおおかたの場合、脚本よりもまず役者でドラマを見ているというわけで、逆に言えば決まった役者の存在しないコンテンツは彼女たち、もしくは彼らの消費にのらないということでもある。思うに、大多数がそういった人間で構成されている社会だからこそ、二次創作でも、キャラクター小説でもない世界の文芸ジャンル内にはびこっている、ある種の日陰者感があるのだろうと考えるようになった。
 ぼくは、自分のコンテンツが消費者に何も残さずに消費されるということを極端に嫌っている。それは単に前述した層が圧倒的マジョリティであり、ぼくはかつて彼らのような存在に無限に苦しめられ続けてきたという感情的な理由もあるが、やはり創作をするということにどこかしら意義を求めているということもあるのではないかと思う。だから、前述した人間がぼくのコンテンツを間違ってとってしまわないように、細心の注意を払って広報をしてきた。多くの人にとられるよりは、少なかったとしても、とるべきでない人にはとられない方がいいという考え方である。これは、実はぼく自身の創作スタイルとはあまり相性がよくない。というのは、ぼくの書く小説は、明確にだれというほどではないにせよ、特定のだれかにあてることを考えて書いたものばかりであるからだ。両者は矛盾しないまでも、両立させることは非常に難しいし、そのことにもっと早くぼくは気付くべきだった。


 ぼくにとって小説というのは、だれかに殺されもせず、だれかを殺しもしないための最後の手段のうちのひとつである。したがって、「あなたが小説を書く理由はなんですか」と聞かれたら、すべてのタテマエに満足できず聞き続けた人間にあてた最後の答えとして、「あなたのようなひとに殺されず、あなたのようなひとを殺さないためです」と答えるしかないだろう。だから書かないほうがいいし、書けないほうがおそらく「正解」なのである。そして、読めないほうがなお、「正解」に近いのではないか、とすらぼくは思っている。だからぼくは本当の意味で、小説を読みすらしないかれらを憎んでいる。そして、その憎しみがぼくの中に横たわり続けている以上、ぼくは死にでもしないかぎりは、きっと小説を書かざるを得ないのではないか、と最近気付いた。


 ただ、小説だろうがなんだろうが、それ自体には正解もへったくれもない。そんな客観的なことが許されるような媒体ではないだろう。さらにいえば、ぼくの小説を読めなくたって死にはしないし、呪ったりもしない。だから読みたくないのならば読まなければいいし、読む必要がない。ただ、それはぼくやだれかが決めることではない。それを決めるのはあなた自身である。その結果求めるのであれば、ぼくは望みに従うだけだ。もちろん、「正解」に越したことはないし、「正解」の人間は圧倒的に社会で生きていきやすいだろう。だが、かれらが「正解」であったことをいつか後悔させてやる、そういった薄暗い感情で小説を書いている人間のことも考えていただきたいし、そこに「正解」も「正解ではない」もない。ぼくは「正解」を憎むが、「正解」であるあなたを憎んでいるわけではない。そういう難しいことを常に考えていかなければ、ぼくはたやすく自身が持つ暴力性に負けてしまうだろう。
 そのために今、こうして小説でもなんでもない文章を書き続けているのである。だからこそ、ぼくはもっともっとどん欲に、小説とは何かを考え続けなくてはならない。
 復帰作を書きながらそう思った。

おすしを~~~~~よこせ!!!!!!!!おすしをよこせ!!!!!!!よこせ~~~~~~!!!!!!!おすしを~~~~~~~~~!!!!!!!!!!よこせ~~~~!