52 距離のはなし

 しばらく原稿に取りつかれたようになってしまったので書くことが出来なかった。こんなに小説に取りつかれたように歌集中を起こしたのはたぶん初めての出来事だと思う。逆に言えば、今までのぼくはある程度小説を書く際に、その小説自体とはそこそこ距離を置くことが出来ていたということでもある。それがいいことなのかどうかはわからない。書きあがったものを読んだみなさんが決めることのようにも思う。

 先日おはなしした、「HUB a NICE D!」への旅から今帰ってきたところだ。ぼくの住んでいる千葉県浦安市から、兵庫県神戸市まで青春18きっぷを使用して、すべてJRの在来線だけで旅をした。片道10時間の長旅である。東京から神戸三ノ宮までは東海道本線を延々と乗り継いでいくのだが、やはり距離を感じる。一度「のぞみ」に乗ってしまうとあっという間だったそれを、きちんと感じることができるのはいいことだ。以前、「こだま」を使って新大阪まで行った時も、4時間くらいかかったので、すごく遠く感じたものだったが、今回はその倍以上の時間がかかっているのである。特に、土曜日は午後のイベント開始時間に合わせるため、朝一番の列車に乗る必要があった。それを延々と乗り継いでいくことになるわけだが、もともと「そういう」ダイヤになっているらしく、それらしい旅程であろう人間を多く見かけた。また、乗り継ぎが「よすぎる」ため、途中で水分や食べ物などを補給するのがとても難しかった。乗り換え案内アプリの遣い方も考えるべきであると感じた。

 このように、物理的な距離というものはかかる時間によって圧縮しうる。極端なはなし、どこでもドアを使って世界中どこにでも一瞬で行けるようになってしまったら、人間の文明はすさまじい勢いで画一化され、老成してしまうのではないかと思う。地球じゅうがひとつの村になってしまうようなイメージである。だからこういった、距離を圧縮するような高速輸送手段というものはある程度管理しないと、文明の収拾がつかなくなるはずだ。

 もうひとつ、距離とよばれるものがある。精神的、あるいは人間関係の中ではかられる距離だ。たいていの人間は、こちらの距離に細心の注意をはらいながら社会生活を送っていることだろうと思うし、もちろんぼくもそのひとりである。それも、同じようなことが言えるのではないかと思う。誰にでもすぐに近づけるひと、というのは特性であるし、実際社会生活において重宝されがちである。しかし、誰にでも近づけるひとは、つまり人間同士の精神的な距離を、新幹線のようなもので圧縮しているだけに過ぎないのではないか、とここ2日ばかり自分とその周りの行動を振り返って思った。つまり、本来人間同士の距離というのは縮めていくものではなくて、時間をかけて相手のテリトリーまででかけていくものなのではないだろうか。相手のそれまでひたすら歩くひともいれば、とっととレールを敷いて駅を作って新幹線を通すような人もいる。誰にでも近づけるひとは、まさにどこでもドアを持っているようなものだ。それは単なる長所というわけではない。諸刃の剣であるということが言いたいのである。ある場所にどこでもドアが出来たら、みなさんどうするだろうか。利用料にもよるが、まずはそこに足を向けるようになるはずである。そのほうが合理的な場合が多いからだ。実際、日本にだって同じ地方なのに新幹線を乗り継いで行った方が早い地方都市なんかはある。

 つまり、そこにだけ人間関係が集中してしまうので、そのひとのキャパシティがどこかで飽和してしまうのではないだろうか。とぼくは思うのである。もっとも、ぼくはもちろんそういう人間ではないので、余計なお世話なのだろうな、と思いながら、心配してしまうのである。

 ぼくはわりと人間関係の距離と歳の差というのを比例的に見がちである。それは、何も年功序列的な考え方を基幹としているわけではない。もっとも、その下地はあるし、呪縛としては未だにあるけれども、本位はそこにはないはずだ、と思いたい。というのは、創作歴と実年齢の関係というのは、その作風にはある程度のバイアスがあることを認められるものの、そのクオリティや個性は全く関係しない、というのが同人界隈の著作物をいろいろと読んできた結果ぼくが感じたことである。ただ、やはり生きてきた年代というものはすごく厄介で、同じ時期に同じ義務教育課程を進んだ人間は比較的近い文化的傾向があるように思う。そして、それはどんどん強まっていく一方なのではないかとも考えている。そう、情報というものに関しては、その距離はどんどん縮まっていく一方なのだ。いまや、インターネットで日本中の同年齢、同世代を探し出してその発言を観察することが可能である。しかも、相互に。こうなると、みんながどこでもドアを持っているのと同じで、文化資源のビッグクランチがやがて起きるのではないかと思う。というか、ぼくとしてはすでに起きていてもいいはずだ、とすら思っている。

 おそらく、それが起きていないのは、単純な話「情報のやりとりだけでは思想などの文化資源を完全に共有することは不可能である」というただそれだけのはなしで、だれが作ったわけでもないのだけれど、ここに行き着いたときに「人間ってよくできてんなあ」と思ってしまった。

 ここ1週間で突然書いた小説は、人間の相互不理解と、それを超えた先にあるもの、を自分なりに解釈して肯定的に進もうとする主人公の姿を描いたものであるようにぼくは認識している。また、主人公の境遇とそのキャラクターを、今回はあえてぼくに非常に寄せた。今までの小説において、主人公はどこかしらでぼくと全く異なる体系を持つように仕向けていたのだが、今回は逆にそれをやめてみて、できるかぎりぼくとシンクロできるような主人公を描いてみた。おそらく、だからこそ取りつかれるという現象が発生したのではないかと思われる。

 やはり、どのような場合であっても、適切な距離をとって適切に運用していくということが、すべての肝心であるということを思い知らされた休日であった。

おすしを~~~~~よこせ!!!!!!!!おすしをよこせ!!!!!!!よこせ~~~~~~!!!!!!!おすしを~~~~~~~~~!!!!!!!!!!よこせ~~~~!