54 パズルのはなし

 うちの母はパズルが大好きだ。ジグソーパズルなんか旅行するたびにおみやげで買ってくるくらいだし、クロスワードも好きだ。今はそんなにやらないが若いとき、すなわちぼくが子どものころはぷよぷよやテトリスに熱中していた。今でもディズニーツムツムはやっているのではないかと思う。あれがパズルかどうかはまあ、微妙なところだとは思うが。
 ぼくもパズルゲームは嫌いではないが、根本的に向いていないと思っている。ぷよぷよもテトリスも家族の中ではぶっちぎりで弱いし、弟にすら勝てない。もっとも彼はゲーム自体が得意な上にぼくとの勝負では基本負けない(手を読み尽くされているのだろう)のでこれは当たり前だが。
 特に、ジグソーパズルが子どものころから何となく苦手だった。ピースが少ないうちはいい。というか、ルール自体もその作業もそこまで難しいものではない、とは思う。しかし、ピースが多くなってくるととたんにやる気がなくなってしまう。特に、写真やイラストをジグソーパズル化したものを見ると、その意義に疑問を感じてしまう。それなら完成型を飾ればいいのではないか、という風に思ってしまうし、実際作業に意義を感じない。完成図が隠されたらストレスはかかるもののおもしろさもあると思うのだが、当然ジグソーパズルというのはそういうものではないらしく、そんな商品はたいてい売られていない。
 あと、これはほかのゲームや創作物でもそうなのだが、終盤、残ったピースが少なくなると妙な気持ちになるのだ。ピースが足りなかったらどうしよう、だとか、これが埋まってしまうと、この絵が完成してしまう、だとか、不思議な不安感である。この終わり恐怖症のようなものは、つまり、自分が完成されてしまい、以降成長しなくなるのではないかという恐怖を投影しているのではないかと、最近思うようになった。


 未完成なものにその補完としての美しさを見いだすということは、古今東西いろいろなところから知られている。日本の芸術なんてそれを利用した極致、みたいなところがいろいろなところにある。狂言や落語なんかまさにそうだ。受け手の想像力をフルに導いたエンターテイメントである。つまり、ミロのヴィーナスのように、実は両腕を失っている、つまり完成されていない方がより完成度が高い状態まで上り詰める可能性を秘めている、という部分にぼくはアラサーにもなってまだ過信しているところがある。これは認めなくてはならないだろう。
 具体的に言えば、最近台頭している、ティーンから二十代前半の若手にはもう勢いとフットワークでは一歩及ばなくなってしまっているので、ぼくはつまり書き手として完成することでしか、かれらに対抗しうるちからを持つことはできない。ぼくが年齢に固執しているように見えるのは、実際に若い人間は思考はともかくとして身体は間違いなくぼくより若くて、ぼくよりよく動くことのできるからである。それは単に筋肉や臓器だけでなく、脳も同じだと考えているからでもある。
 実際、ぼくよりも年上で、歴も長い書き手でちからを持つ人はたいてい、この完成されたちから、つまりジグソーパズルを埋めきったひとつのなにかのちからをもって、存在感を確固たるものにしているひとばかりだ。ぼくは未完成であるということは十分に自覚していながら、実はその残されたピースがあと2、3個しかなく、しかもおそらくこのペースをもってすれば数ヶ月程度でそれらは見つかり、埋まってしまうのではないか、と考えている。ぼくはこれに、みなさんが考えているよりもはるかに重い恐怖を覚えている。それはぼく自身が完成されてしまうということよりも、その完成されたものがいったい何か、というのをぼくはきちんと直視せざるを得ないという状況に否応なしに置かれてしまうという点に、である。しかし、前述したように、それこそ抜けているピースがたくさんあるような人間と比較してしまうと、すでに全貌がほとんど見えてしまっているという点で非常に分が悪いのは事実であって、ぼくはもうまもなく、これを完成させないとならないと考えている。
 これはおそらく、人生でももっとも難しいパズルのうちのひとつに入るだろう。そして、完成された何かは、実は完成などしていなくて、最初から組み替えることだって、本当はできるはずなのだ。
 それを信じて、ぼくは残りのピースを血眼になって探している。

おすしを~~~~~よこせ!!!!!!!!おすしをよこせ!!!!!!!よこせ~~~~~~!!!!!!!おすしを~~~~~~~~~!!!!!!!!!!よこせ~~~~!