58 「生」のはなし

 生まれてからもうすぐ三十年になるところであるが(おそらくこの定型句をあと数年は使い回したいところだ)、一度も生でセックスをしたことがない。もちろん、ぼくは既婚者でもないし、自分の子どもがほしいわけでもないのだから、しなくて当然であり、むしろそのほうがいいに決まっているのではあるが、しかしながらセックスをしたことがないわけではないし、経験人数がひとりだけ、というわけでもないうえ、さらに言えば、あまり公言することでもないがいわゆるそういったお店にも入ったことがあるような人間でありながら、そのすべてにコンドームをした状態で挑んでいるというところにぼくの何か、言語にしがたい「業」のようなものを感じている。

 なんどか言っているし、自分のパートナーにも言っていることでもあるが、ぼくは自分の子どもがほしいと思ったことはなく、むしろ自分の遺伝子をもった子どもが存在する場合、ぼく自身に対してすさまじい脅威になるだろうと考えている。その競合を考えたとき、ぼくはどうしてもその子どもを優先させるべきという考えに至ることができない。それは、自己保存の本能のようなものがそれなりに強く働いているということであり、この本能がぼくの人生のターニングポイントで様々な影響を与えている。そういった部分を鑑みるに、このある種の予感めいたものは、おそらく正しいのではないかと考えている。
 ただ、自分の子どもが自分を脅かすという強迫観念それ自体は、おそらくそういった創作ばかり読んでいるせいで、それこそ精神病理分野の用語の元となっている「オイディプス王の伝説」から、スターウォーズに至るまで、息子や娘が親を脅かすという筋の創作はそれなりにあるし、こともあろうにぼくはそういった筋書きが比較的好みである。そして、二次創作を除けば、意図的にその筋を避けるきらいがある。たとえば、ぼくが書いていた長編ファンタジーシリーズの「Ophiuchus」にある没のプロットには、途中でとある夫婦の娘が主人公たちの組織に入り、敵に寝返った父親を討ち果たすという流れがあり、これが主人公とラストボス、そしてそこまでの流れに対する伏線として機能させる予定だったのだが、時間軸の設定で非常に無理があることを理由に没にした。だが、おそらく没にしたほんとうの理由は、従前のようなことが関わっているからではないかと思う。
 その証拠に、ぼくの小説には親という概念を宿した登場人物がほとんどいない。これは小説を書き始めてから実に十年以上を通じて全く変わっていない部分である。これはぼく自身が親となったことがない、というところも大きく関係しているとは思うが、それ以前に、親自体ではなく、むしろ子どもを書くということになにがしかの恐れがあるように思う。

 こと最近、生きるということそれ自体について深く考えるようになった。書き手界隈には、自己をしっかりと持っている人間が非常に多いと、ぼくは思う。対して、ぼくは自己と他者の境界というものが非常に曖昧な人間だ。だからこそ、しっかりと線を引いたり、言葉で区切る必要があって、それが表現活動、ひいては文章創作をしている動機のひとつではないかと考えている。創作を始めたときは、ただ自分の考えていることをしっかりと表現したい、という欲求だけが純粋にあった。だから、本当になんでもよく書いたと思う。日常のあれこれや、ゲームの世界のような、今で言うところの「なろう系」みたいなものも書いたし、二次創作も書いていた。ぼく自身の文章によって、だれかに何かを残すということは考えたこともなくて、むしろそれによって目立つならやめたい、とばかり思っていた。それは今も大きく変わるところはない。しかし、明確に変わったのが、ぼくはこの、周囲を取り巻く社会に対して、どのようなことをしていけばいいのだろうというようなことが、まず最初に頭をよぎるようになったというところである。これはぼく自身の職業によるくせもあるとは思うが、それ以前に、元からあった妙な部分の自己顕示欲と、それと見かけ上相反するように存在する目立ちたくなさ、のようなものがうまいこと社会ナイズされた結果、落ち着くべきところに落ち着いたというほうが近い。


 書き手の友人が「遺書」を書いた、と言っていた。かれの遺書がどのようなものか、読んでいないのでわからない。しかし、それを聞いて、ぼくが、ぼくのために「遺書」を書くのだとしたら、それはどうなるだろうかと考えて、試しに書いてみた。それはぼくが書き手を休止することになった、おそらくほんとうの理由が書かれている。ぼくはこの問題をあえて自覚しようとせず、先延ばしにし続けてきた。いわば、自らの実存に関する問題であり、また、同時に創作をしている根源的な理由のひとつだった。これと向き合うことは、ひざのうらはやおというひとりの書き手の存在そのものと向き合うということである。それは容易に、また短時間でできるものではない。自らの武器を犠牲に、すべてを解き放つことを選んだとある漫画のラストのように、ぼくの書き手としてのラストも、もしかするとそうなるかもしれないということである。
 生きることと死ぬことは表裏一体のようでいて、まったく別のことであるように思う。人間にとって生きるというのはすなわち、どのように社会を構築していくのかということそれ自体で、死ぬというのはいかに自らの存在について向き合うかということではないかと思う。だから前者はマクロで、後者はミクロである。だがおそらく、ひとによってはぼくとまったく逆のことを考えるかもしれない。それはそれである。それをそれとして受け止められることが、書き手をやっていてもっとも受けた恩恵であるとぼくは思う。

おすしを~~~~~よこせ!!!!!!!!おすしをよこせ!!!!!!!よこせ~~~~~~!!!!!!!おすしを~~~~~~~~~!!!!!!!!!!よこせ~~~~!