19 セキュリティのはなし

   痛ましい事件が起きた。犯人は大量のガソリンをビルの中でばらまいたという。おそらく令和最大級の放火事件ではないかとぼくは思うし、起こってしまった以上そうであって欲しい、つまりこれ以上の事件が少なくとも令和の世には起こらないで欲しいと祈っている。


 これに対して、防げなかったのか、という声がでているが、結論から言うとこの手口は実行された時点で現状防ぎようがないものである。これの実行を防ぐためには、実行しようとした瞬間に犯人を行動不能にしてしまうか、ガソリンスタンドでなにかしらの対策を行う以外にない。銃という現実でもっとも素早く対応できる緊急手段が規制されている日本において、こういった緊急性の高い案件への対応はかなりハードルが高いだろう。


 こういったように、理不尽によって自分の安全や安心が脅かされるということは、その多寡や規模の大小にかかわらず、残念ながら非常によくあることであり、しかしながら法治国家である以上、防ぎようがないものも相当数存在している。それは、防ごうとしてしまうと人間社会の根幹を毀損しかねないからあえてそうしているものばかりであって、だからこそ、社会ではなく自分の力だけで防衛することを強いられてしまっているという現状があるし、社会の仕組みが大きく変わらなければ、それを打開することも難しい状況に置かれている。セキュリティというものを強化すれば、当然それは相互不信を引き起こすものであり、信用によって成り立っている社会を毀損するものになるからである。


 先日「治安と自由のはなし」で日本の治安はいいと述べた。自分で書いておいて恐縮だが、これはおそらく正確な表現ではない。治安がいいということになっている、というのがおそらく正しい。というのは、治安の定義から考えるに、少なくともある部分においては、日本の治安が決していいとはいえないからである。
 その代表的な例が、性犯罪である。もちろん、統計上の数値で言えば、他の国よりかなり低い水準であろうことは容易に想像ができる。ただし、これらはたとえば満員電車の中の痴漢については一切カウントされていない。これは、カウントされているものと、そうでないものを比較すれば「一切」と表現できるくらい、カウントされているものが少ないという意味である。ぼくの周りでは、痴漢被害に遭ったことのない女性は、少なくとも電車には乗らないであろう女性とほぼ同じ意味になるので、おそらくほぼすべての女性が何かしらの痴漢被害等の性犯罪に日々遭遇しているものと思われる。また、素性を知っている人間ですら気持ち悪いと思う他者の性欲を、素性の知らない人間から受けるその気持ち悪さを想像できる男性は、ぼくが思っている以上にどうやら少ないらしいということに最近気が付いた。かれらは現状、法治国家としての日本の中で違法行為を行い、明確に罰則が設けられている行為を行っているにもかかわらず、全く罰されることなく社会生活を送っている。そうすると、実は何の関係もない、つまりぼくと同じように普段全く痴漢と遭遇しないうえに、その直接的な被害を受けない人間においても社会的なダメージが発生する。
 主な部分で言えば、ひとりの社会上に存在する人間としての信用の失墜である。不特定な誰かからの被害を受けた女性は、それ以外の男性にも、男性というだけで当然疑いの目を向けるし、その多寡にかかわらず自衛行為をとるはずである。これは個人の尊厳を守る行為としてぼくらは否定することが出来ない。むしろ、これを否定すること自体、ぼくらには許されていない。だから、結局のところそこに巻き込まれてしまう可能性が、ふつうに存在している。ここまで考えられない男性諸君が、「痴漢の冤罪が」などと寝言を言っているのではないかとぼくは邪推している。
 だから、痴漢をはじめとした性犯罪者は絶対に許すべきではないし、可能であれば死刑以上の、人間の尊厳すら奪い取るくらいの刑罰を受けてしかるべきであると考えている。たとえば臓器をドナーに無償で提供するとか、生体実験の対象になるとか、現行法上、というよりも現行の日本国憲法上で許されていない残虐な刑罰を与えてもいいのではないか、と個人的には思う。彼らは女性をモノとして扱っているのだから、ぼくらだって彼らをモノとして、つまり人間の形をしている動物として扱っていいはずだ、と思うわけである。というか、多くの人間はおそらくこういう結論に一度は達しているのではないだろうか。ここから始まっていくひととモノの間にある何かについての議論は、長くなるので別のはなしにしよう。


 ふたたびセキュリティのはなしにもどると、結局のところ、現行法で防ぎようがないものに関しては自己防衛するしか方法がないし、それだってこういった事件の際に思い出すのは、結局一般的な人間や組織は、ひとりの人間の理不尽な狂気によって粉砕されることがままあるということである。人間が社会を形作り、国家という福祉統制組織を作って今日のありようがあるということが、それを何よりも証明している。共同体的な社会は、狂気と激情に弱いし、はっきり言ってしまうと、今後もこういった事件は起きてくるのではないかという予感がしてならない。だが、かれらの狂気を絶つということは、人間の内心の自由が保障されている限りは不可能である。これらの結論から、改憲案が組まれているのだとしたら、論理としては理解するところだろう。なぜぼくがそう思うかは、当該改憲案を読んでくれればわかることであるのでここでは述べない。


 結局、人間は社会という枠組みの中で生きる以上、完全な個人というものは把握されない。この把握されないというのは、生の個人が観測されることは、当該個人の中においてもないし、仮に観測されたとしてもそれを社会の文脈の中に翻訳できる機能を持つことはないがゆえに、社会の中では個人はすべて仮想として規定される、という意味である。かれが起こした狂気も、べつのだれかによって仮想され、表現され、偽りの共感を経て社会の中に残置されるが、それはかれ自身の本物の狂気、あるいはゆがんだ理性とは一致することはない。あくまで社会の中で残置された事象と、かれが残した社会とのかかわりの中から個々人が推定で表現していくことの積み重ねでのみ、かれは表現されていく。犯罪をおかすということは、社会の中に夥しい量の自分の狂気の、全く完全でないコピーが人柱として様々なところに囚われることに等しい。それは、かれ自身が持つ個人としての尊厳を著しく毀損する。社会が与える刑罰というのは、こういった側面を強く持つのだと僕は思う。だからぼくは自分がそれをしていないかを強く危惧するし、危惧しない人間を非常に恐れる。


 ぼくの中にも狂気はある。「かれ」が消えたあとも、確実にその狂気は存在しているという自覚がある。そして、その狂気を押さえつけているのは、道義的なものではない。社会のこの残忍すぎるほどの本質を痛いほどよく知っているからである。だからぼくは悪法も法なりであると思っているし、社会がゆがめば、ぼく自身も同様に形を変えるだろうと思っているし、だからこそぼくの思いを伝えれば変わっていくような社会になるように、日々努力を惜しまない。


 人間が社会の中で生きるということは、自分の部屋に入る鍵を、誰にも渡さないことと、それが許される社会であるということが最低条件ではないかとぼくは思っている。

おすしを~~~~~よこせ!!!!!!!!おすしをよこせ!!!!!!!よこせ~~~~~~!!!!!!!おすしを~~~~~~~~~!!!!!!!!!!よこせ~~~~!