84 「春」のはなし

 季節はついに一周し、だいたい30回めの春をむかえた。「かれ」が死んでから、明日で1年になる。「かれ」の死に直面したとき、ぼくはかなりうろたえた。そして常磐線の中でひとしきり泣いた。自分の中にある明確な部分が死を迎えることの感覚はそう多くのひとには共感できないと日々感じている。それでもなお、ぼくは「かれ」が遺してくれた残りを背負って今日も生き続ける。
 春という季節は実のところいやな思い出ばかりで、嫌いだ。友人が死んだ、ひとと別れた、大切だったひとを失った、猛烈な災害に遭った、そして「かれ」を失った……そういったネガティブな感情の固まりが春になるとうごめいて、ぼくに襲いかかる。
 去年だけではなく、ぼくは春になると極端に活動レベルが落ちる。一昨年の春も実はほとんど何も書いていなかったし、その前の春も本こそ出したがその原稿は2月にはほとんど書き終わっていた。そう、特にぼくは3月が苦手だ。毎年この時期は年次有給休暇を2、3日は使うことになっているし、去年は「かれ」を失ったこともあって5日も使ってしまった。休暇が取りやすいところでなければおそらくぼくは転職を余儀なくされただろう。
 去年の今頃、ぼくは「平成バッドエンド」に収録することとなる短編小説「平成アポカリプス」を書いていた。そのほぼ最後のところまで来たとき、「かれ」は物音ひとつせずにぼくの中から消えた。これはもう小説を書けなくなる、いや、ほんとうのことを言えば「書かなくてよくなる」のではないか、とぼくは期待していた。けれどみなさんご存じの通り、結果としてそうはならなかった。あれから1年が経ち、ぼくはすでに2本の中編小説と、2本の短編小説、1冊の情報系(?)同人誌、そして80あまりにもなるこの記事たち、またすべてを合わせると30万字を超える、「かれ」をめぐる回顧録「〇(ぜろ)」をも揃えた。しかし、まだまだ、先は長い。この毒にも薬にもならない文章は全部で100本以上を書くことにしているし、リメイク短編小説集「現石(ゲンセキ)」はまだ途上だ。「R/E」に収録する小説にいたっては、まだ影も形もできていないものすらある。そしてぼくは再び、「春」に負けてしまうのではないかと危惧している。
 不安定に暖かくなる季節が嫌いだ。好きになりすぎて執着ということばの恐ろしさを教えてくれたあのひとの生まれた季節が嫌いだ。大嫌いな虫がうごめきはじめる季節が嫌いだ。ぼくにとって「目に見えないエネルギーの流れが大地から足の裏を伝わって」くることはなく、それは明確に「怒り」だとか「苦しみ」となって立ちはだかる。春という季節は嫌いだ。四季のどれもそこまで好きではないけれど、嫌いな季節はと聞かれれば間違いなく春だ、と答えるくらいにはこの季節が心から嫌いである。
 春だっていいところあるでしょ、桜とか、なんていう人もいるだろう。否定はしないが、実をいうとぼくにとって桜の花というのは天敵も同然でものすごく苦手なのだ。桜自体が持つ文脈として苦手なわけではなく、単純なはなし、色と香り、そして花びらが散ってそこかしこに散らかる風景と葉桜に這い寄る虫たちを一気に想像してしまっていまひとつその美しさというのを想起できないのである。花見というのも得意ではない。春のひととはなしをするのはやぶさかではないのだが、前述したとおりそもそも桜の花びらが舞い散る様子がきれいとは思えないのであって、すなわち花見というイベントでぼくはまともに花を見たことがないのだ。
 春というものをポジティブに過ごすということ自体にもあまりいい思いがないのだが、しかしなぜだか(ぼくにとってほんとうにそれは、なぜだか、としか言いようがないほど理由が不明なのだが)春という季節はいいものだ、という固定的な観念(固定観念、という意味合いではない、念のため)がこの社会には厳然としてあるので、ぼくも一応は、たいていの場所においては春というものはいいものだ、というような顔をしている。もちろん、気温はちょうどいいので外を出歩くにはちょうどいい、という理由はたしかにあるのだろうな、とは思う。
 もうひとつ、春の代名詞として思い当たるのがスギ花粉である。ぼくも実は重度の花粉症なのだが、スギ以上にカモガヤというイネ科の植物に猛烈な反応があり、スギもふつうの花粉症の人間と同じくらいには反応がでるはずなのだが、主観的にはそれと比較してしまうので、つい最近まで自分がスギ花粉症だという自覚を持たずに生きて来られた。この国の都市部においてそれは非常にまれなことであるとぼくは思っている。そんなぼくもついに、今年は花粉がやたらきついなあと思い始めている。つまり、春に対して持っていた最後の切り札、「花粉症という自覚がない」というものをばっさりと切り捨てられてしまったのだ。こうなってしまってはもはや、春に打ち勝つことは不可能なのではないか、というふうに思っている。
 そして、なんとか春のうちにまたひとつの小説を書き上げようと思っている。とあるぼくの知り合いの音楽青年を題材にした小説であり、そこには共鳴と青春の終わりがあった、というようなものにしたいと思っている。思っているだけなのでほんとうにそうなるのかは書き上げてからわかることであるし、これがみなさんに読まれるようになるかはなんともいえないところなので、つまるところそういう小説を今書いている、というだけここでは書いておこうと思う。
 ぼくにとって春への嫌悪感は、そのまま厭世観につながっているのかもしれない、などと思うようになって、ああ自分という人間もずいぶん、経年劣化がはじまっているのだなあと思うようになった。

おすしを~~~~~よこせ!!!!!!!!おすしをよこせ!!!!!!!よこせ~~~~~~!!!!!!!おすしを~~~~~~~~~!!!!!!!!!!よこせ~~~~!