53 時間のはなし

 空気に秋を感じることも増えてきた。こうして夏は少しずつ終わっていくのだろうと思う。いつも、夏は少しずつ、突然終わっていく。


 時間というものは時に、ぼくらの感覚と乖離していく。人間は天体現象や自分たちを含めたすべての生物における不可逆的な変化を時間という概念で表現した。特に、連綿と、延々と同じことを繰り返しているように見える天体現象に、むしろ不可逆性を見いだしたのは、まさに発明と言わざるを得ないだろう。つまり時間というのはぼくらの祖先が作り出した、人間特有の概念であって、本来自然に存在するものではない。それゆえに、人間が作り出したものすべてに時間という概念は内包されている。この文章だって、随所に時間という概念がなければ語り得ない内容が含まれているし、みなさんはそれを何の違和感もなく読むことができるはずだ。
 ぼくの友人(もっとも、ぼくは友人であると思っているが彼はそうではないかもしれない、というエクスキューズをわざわざここで書いてしまうくらいの距離感である。彼もまた、ぼくと同じように書き手である)は、「小説というものは時間を操る芸術である」と語った。ぼくはこれは的を射た表現ではあるものの、かなり大ざっぱな言い方ではないかと思っている。確かに、音楽はむしろ時間に操られる芸術といえるし、絵画は時間を操るのに相当な技量を要するのが明白である。まさに、小説は書き手が時間軸を操作していくという技法によって綴られるものであることはこれらと比較しても明らかだろう。しかし、それは小説だけに限定されるものではない。絵の連続で表現される漫画にも実は同じことがいえるし、映画や動画もある種、そういった側面がある。おそらく彼が言いたかったのは、物語という概念が時間というそれと不可分に存在するものであり、小説のほとんどが物語を内包しているという事実から、小説というものは時間を操る芸術であるということなのだろう。だから小説固有のものではないし、文芸固有でもないから、小説の切り分けかたとして時間軸をその第一線に置くというのはぼくにはしっくりこない考え方である。

  小説を批評するというのはすごく難しい。それは小説が文章表現だけで構成されているがゆえに、読み手ごとに想起される内容が異なってくることに端を発するのではないかと思う。だから批評者は結局書き手と同じ土俵にあがることがないまま、自分で土俵を作って、その土くれから書き手の偶像を作り出さざるを得なくなる。プロ、つまりマネタイズできる場ならともかく、そうでない世界のその競技は、高い技量が必要とする割には不格好である。そしてそれすらもわからない人だけがやっている、という状況である。ぼくはこれがすごく悲しい。批評という言葉が死んでしまったのは、かれらのような未熟な批評者がこのネットの海にぷかぷかと大腸菌のように無数に浮かんでいるせいである。どうせなら有害な大腸菌になってみたいものだ。


 ぜんぜん時間と関係のないはなしをしてしまった。こんな風に、文章というものは読んでいてもなにひとつ真意を理解してもらえなかったり、表題と全く異なることを書いてしまっていたりして、書き上がると何を書きたかったのかが全くわからないことがある。こんな文章を読んで作者の気持ちを考えろなどという現代文の問題を作るような人間もなかなかに意地が悪いのではないだろうか。


 ぼくが書き手、もとい同人創作者として復帰するまでにもかなりの時間をいただくことになっている。小説を書くちからはそれなりに戻ってきたのではないかとは思う。しかしながら、やはり既存の小説を修復したり、よりよいものにリノベーションしていくちからはまだまだ戻っていないし、組み立てるちからは未だに低いままだ。だから、これからもまだまだちからを溜めていく必要があって、そのためにも活動を休止しながら、研鑽を積まなくてはならない。それには時間がどうしても必要となる。


 時間というのを管理するのは難しい。貯めることはできないし、また簡単に浪費されてしまうからである。むしろ、時間というものから解き放たれたとき、そのひとはもっとも有効な時間の使い方をしているのではないか、と思う。
 この、人間が作った概念なのにそういったものの見方をしづらいものというのは時間のほかにも、たとえば論理とか、神とかいろいろあって、ぼくはそれらから解放されたものを見てみたい。そう思う今日この頃である。

おすしを~~~~~よこせ!!!!!!!!おすしをよこせ!!!!!!!よこせ~~~~~~!!!!!!!おすしを~~~~~~~~~!!!!!!!!!!よこせ~~~~!