89 「死」のはなし

 ツイッターで「1日目」から見ていた「100日後に死ぬワニ」の最後を見て、ふつうにシメたな、と思うくらいには様々なエモーショナルなものとは縁遠い人生を送りがちなので、別に「ワニ」の進行とそれ以後のプロモーションについて思うこともおそらくふつうのひとたちが思うこととだいぶずれているような気がする。

 ぼくにとって「死」は身近でも縁遠いものでもない。何度か言及しているが、ぼくの今の仕事は、大げさに言えば都市全体の基礎を支える仕事であるから、そもそも「ひと」を見ることはほとんどない。だからそういった意味では「死」は縁遠いのかもしれない。けれど一方で、いくつかの「死」を目の当たりにしてもいるわけで、「死」を知らないといえばうそになってしまうだろう。

 22歳になるかならないかくらいの時、高校時代に部活が一緒だった同級生が急死した。成績優秀で文学的な素養もそうでない教養もかなり深く、どこか飄々とした人間だった。実家が医療業界にどっぷりつかっている人間にありがちなことであるが、彼もまた有名な私立大学の医学部に進学した。そこを卒業しないまま、本当に突然彼は死んだのだ。

 部活が一緒だっただけで別にさほど親しいわけでもないが、もし彼が今も生きていれば、どこかしらで頭角を現していたかもしれないという無限の可能性と、彼の葬式に山ほどの、見てすぐそれとわかるくらいのおぼっちゃんおじょうちゃんが参列していて、千葉の片田舎にある某しょぼくれたシステム保守会社の最終面接の途中で「あ、ここどう考えても薄給ブラックや、や~めた」と思って切り上げてそのリクルートスーツのままネクタイだけを黒にかけかえたぼくとのコントラストは今も忘れられない。同じ学校に通っていたのに、ぼくと彼の人生はほとんど交錯しないままであった衝撃。当時ぼくと同じ高校を出て、ぼくと同じ年に就職「した」人間はぼくしか知らなかったし、つまるところぼく「だけが」就職「せざるを得なかった」わけで、いうまでもなくぼくは「身の丈に余る」教育を受けていたし、だからこそどこかの大臣が言った「身の丈に合わせて」という発言に対してひどく憤りを覚えるのだが、しかしながら同質な人間と一生を過ごし続けるという人生は実は多くの人間が目指しがちで、居心地がいいのだろうと思う。そういったことを今後何年も何年も考えさせられる彼の葬式はぼくの中では人生の中で最も鮮やかな瞬間のひとつであった。

 職務上、また生活上、ほかの人間と接することがどちらかというとレアなぼくは、「死」というのは別にさほど特殊な現象ではないと考えている。それを人間に当てはめるから「死」になるし、人間というものに唯一無二の個性が存在すると考えられているからその喪失を恐れる、というだけのはなしであって、それを除けば「死」に近い現象は身近のあらゆるところで起こっている。それは複雑な機構の不可逆な変化であれば非常に多く起こり得る。たとえば、ある日自転車のペダルの軸が錆びてしまってぼっきりと折れてしまったとする。その時、ペダルの部品を取り換えれば直ることもあれば、様々な部品に錆が進行して、結局二度と乗ることが出来ない、なんてこともある。どちらも元の自転車に乗ることは二度とないという意味では自分の所持品という意味での自転車の「死」となる。というふうにぼくは考える。人間の意識というものは脳の神経を行き来する電流によって出来上がっているのだとすれば、それが不可逆な反応を起こし、人間全体として活動することが不可能となったときに人間は「死」を迎える。しかしこれは人間の意識が連続であるという前提に立ったはなしである。たとえば人間の意識が不連続で、いったん眠って起きると思考回路が全て変容してしまう場合、人間としての同一性を保つことができないのだから、眠るたびに人間は「死」ぬし、人間の「寿命」は1日「以下」ということになる。そう考えたとき、「死」とその逆の「誕生」、もしくはそれにつながる「セックス」に特殊な意味を持たせることそれ自体が人間が人間たる要素を下支えしているということに気づいてしまった。逆に言えば、これらを単なる「現象」ととらえるきらいは、どちらかといえば「非人間的」ではないだろうか。

 人間の感情や意識というものは脳の神経運動によるものであるということをぼくは強く意識している。というのは、これらのはなしで散々述べてきているように、ぼくは服薬によって思考や感情が著しく変化した経験があるからだ。たった数ミリグラムの物質を経口で取り込むだけで変容してしまうそれらはもはや「現象」以外の何物でもない。この現象に何らかの夢を見るのか、見せるのか、見ないようにするのか、知らないふりをするのか、というところがいわゆる「文学」なのかもしれないとぼくは思うし、そうでなければむしろ「文学」にはならないのではないか、とすら思う。

 しいて言えば、「死」をことさらにとりあげて、生命の尊さのようなものを声高に訴えるような作品は、おそらく一般的に反響の大きいものであるはずだが、あえて食べ物で例えるとそれはファーストフード的であるよなあとも思うし、つまるところぼくは下品であまりやりたいとは思わない。

 もっとも、書くべきものによってはそういったスタイルをとることもむしろあり得るし、そのスタンスを軽視すべきではない、というふうには考えている。いずれにしても、「死」というものに関してなにかを想うほど、ぼくは既に「生」に対してなにも感じていないし、おそらくぼくの小説を読むひとたちは、ぼくにそれを求めているわけではないということは容易に想像ができるし、そうでない人間は読むべきではないのである。つまりはそれが言いたいがために、自分が得意としない駄文を書き連ねている。

 以降、90番台については、特定の書き手やぼくがこれまで出会ってきた「だれか」についてのはなしとしたい。もっとも、今考えている時点で10人も思い浮かばないので、足りないようなら途中でふつうに戻るだろう。

 このはなしに期待されているものはその程度である。

おすしを~~~~~よこせ!!!!!!!!おすしをよこせ!!!!!!!よこせ~~~~~~!!!!!!!おすしを~~~~~~~~~!!!!!!!!!!よこせ~~~~!