87 「文脈」のはなし

 自宅の前を通る道路は夜中になると暴走族(今は珍走団ともいうのかもしれない)の格好の「走り場」になってしまっており、外が暖かくなってくるとともに騒がしくなっていく。困ったものであるが、かれらにとってはそうしなくてはならない理由がきっとあるのだろう。受け入れがたいけれども。

 道路交通法をひもとけば、第22条に「車両は、道路標識等によりその最高速度が指定されている道路においてはその最高速度を、その他の道路においては政令で定める最高速度をこえる速度で進行してはならない。」とある。ここでいう「政令」というのは道路交通法施行令のことであるから、道路交通法施行令をさらにひもとくと、第11条に「法第22条第1項の政令で定める最高速度のうち、自動車(略)の道路を通行する場合の最高速度は、自動車にあっては60キロメートル毎時、原動機付自転車にあっては30キロメートル毎時である。」とある。つまり、高速道路のような、別に速度制限が設けられているものでもない限りは、普通の自動車は時速60キロを超えて走行するとこれらに違反していることになり、しかるべき罰則を受けることとなる。
 しかし、実際に自動車を運転したことのある人間ならすぐにわかることであるが、時速60キロを超えて走行している車を、実のところ非常によくみる。自動車教習校でも「法定速度を守れ」とは習うけれど、実際に法定速度を順守しようとかたくなになるひとほど運転が下手、という印象があるし、事実そうやって事故に遭ったひとを何人も見てきた。一方で、ぼくの知っている運転が上手なひとはだいたい「車の流れがどうなっているか」をまず気にする。流れの中でどう動けば自然か、周りに迷惑をかけないか、ということを考えれば、自然ととれる行動は限られてくるからそれをしていく、というようなことをいうひとが多い。たとえばその流れの中で、時速60キロを超えたことに気が付いてブレーキを踏んだらどうなるだろうか。事故になるかどうかはともかくとして、安全上の面において周囲の車に相当な負荷をかけることは想像に難くない。自動車を安全に運転するためには、現状が法律などの公的な規定にのっとっているかどうか以前に、周囲がどうなっているのかすぐに確認できるようにしておく必要があることがわかる。
 もちろん、道路交通法と、その下位法令はそれなりの理由があってこういった規定をしている。たとえば、時速60キロという単位を決めるのも、結局のところ「そう定めるのが最も事故が起きにくいだろう」と想定されて規定されたものであり、だからこそ一般的な車両においての最高速度を道路交通法でそのまま定めるのではなく、わざわざその下位に属する政令である道路交通法施行令で定めているのである。これは政令のほうが改正に対してのハードルが低いという理由がある。安全な速度は自動車の技術なんかによっても変化するわけであるから、少なくともほかの条文よりは柔軟に対応する必要があるわけだ。


 このように、車の最高速度ひとつとっても社会にはこと細かくルールが存在し、ひとはそれを守ったり守らなかったりしている。そういったルールは大きく分けて明文化されているものと、そうでないものが存在している。後者は特に「不文律」と呼ばれることが多い。基本的に、現代日本の社会において、「不文律」を守らずに公的な処罰を受けることはない。それは、すべて「法令」という明文化された社会のルールに沿って動いており、なぜ法令が作られたかといえば、個人の権利を最大限尊重しつつ、社会というひとつの枠組みを合理的に運営していくためにあるわけで、多くの法令には最初か、その次の条文にその「目的」がきちんと書かれているためである。つまり、法令に書いていないからといっても、その法令の「目的」にそっていない行為を行うということは、処罰の有無はともかくとして法令の趣旨にそぐわないため、社会的行為としては許容しないということを示す。
 つまるところ、大なり小なり、すべての社会においてルールというものは確実に存在し、ぼくら個々人の行動を制約する。ルールがない社会、というものはそれが社会という人間の共同体である以上存在しない。やくざにだって「掟」はある。そして、「自由」というものはルールがない、ということではないし、したがって存在する大小さまざまな明文化あるいは不文化されたルールを無視したり、曲解したりすることでもない。これはぼくらが人間であり、かつ、どこかの社会に属する以上前提となることであり、当該社会からの脱却なくして、そのことわりから逃れることはできない。全裸で生活するターザンはジャングルの中であるからこそ全裸でいることができる。これが東京のど真ん中であれば数分もしないうちに公然わいせつの現行犯でおまわりさんに捕まってしまうわけで、だからこそ全裸のターザンは都会に居続けることはできないのである。都会に居続けるならば、まず服を着て、戸籍を登録して、しかるべき税金を支払わなければならない。もしくは、しかるべき税金が支払えない身の上であることを説明する必要がある。そうでなくては社会を構成する要素として存在できず、露頭に迷うか、あるいは誰からも見つからずに細々と暮らすしかない。それは有史以前の生活水準に戻ることと同義であり、逆に言えばこの制約と積層こそが文明であると言えるだろう。


 思うに、創作の世界でも同じことが言えるのではないだろうか。何もないところから今までになかったものを作り出すことは不可能だ。もしあなたがそれをしているというのなら、すでに誰かが行っていたのを知らないか、はたまたそれを見て見ぬふりをしているかのいずれかであって、どんな創作にも起源が存在する。それは作者と観者がいずれも人間である以上確実に言えることである。そして、長く続いているものこそ、そういったお約束の積み重ねが多くあるのだ。言うなれば、これが創作における「基本のルール」ではないかと思う。ぼくはそれをすべて知らない。だがきっと、やがてはすべて知ることになるだろうと考えている。そして、しることこそが、知らない「不自由」を解決するただひとつの方策であると信じて疑わない。

おすしを~~~~~よこせ!!!!!!!!おすしをよこせ!!!!!!!よこせ~~~~~~!!!!!!!おすしを~~~~~~~~~!!!!!!!!!!よこせ~~~~!