98 泉由良氏のはなし

 最後の最後にこの書き手について取り上げるのは少しばかりハードルが高いのだが、しかしここまでお世話になった書き手のみなさんを書いているのに、氏だけ書かないというわけにはいかないので、泉由良氏についてもきっちりと書く必要があると思い、こうして書いてみる。
 と書くが、実のところこの数字は氏のためにとっておいたものだ。なんとなくではあるが、このタイミングでなければ氏のことを書くことはできないような気がしたからである。それだけ、氏に言及することはぼくにとってハードルが高い。ならば書かなければいいだろうという声もあろうが、ここまでお世話になっている書き手について言及しておいて泉由良氏に触れないというのはより不自然でもあるだろう。


 多くのことを確からしく書くことができないが、ひとつだけたしかにいえるのは、泉由良という書き手は言語による独自の世界観形成において、少なくともぼくが見てきた書き手の中ではトップクラスであるということだ。よりわかりやすくいえば、泉由良が書いた文章は泉由良以外の書き手が書くことはおそらくできないであろう、と思わせるものが文章のそこかしこに存在している、ということでもある。氏はラブホテルアンソロジー「満室になる前に」で寄稿をいただいているがとかく短編および掌編における、言葉選びのキレにおいては氏の右にでる者がなかなか出てこないし、ともするといないのではないかという気すらしてくる。短編というのは一縷の隙を消す技術が長編よりも光りやすいが、氏の技術がいっとう輝いているのも短編集が非常にわかりやすい。当然ながらその技術は中編にも長編にも応用することができるので、氏の長編はまだ読んだことがないが、中編も同じく卓越した言語技術が強烈な持ち味となっている。ある方が「泉由良氏の小説には酒が合う」というようなことを述べていたが、感覚的にとてもわかりやすい。小説や詩歌における卓越した言語技術というのは音楽における楽器の演奏技術とほぼ同じであり、それだけでも受け手を自らの陣中に引き込むことができるのだ。多くの書き手がおよそ持とうと思っていても持ち得ないちからを会得しているのが泉由良という書き手のひとつの側面といえるだろう。


 しかしながら、それはほんとうにあくまでひとつの側面にしかすぎない。どころか、それはもはやひとつの側面ですら、ほんとうはないのかもしれない。実のところ、氏のもっとも特徴的な部分は、ここまで書いてきたことすらもすべてどこかで覆ってしまうかもしれない、という確定的な不確定性にあるのだとぼくは思っている。それは、前述した言語技術とは別の、氏の表現者としてのあり方によるものではないかと考えている。氏の表現に対するありかたは創作に対して非常に真摯で、力強く、厳しい。だからこそ、曖昧模糊としてぼくらのあわいに漂っている言葉を明確に取り出していくことに対して、ひときわ厳密になれるのだろうと思う。
 これらからわかるように、氏の作風は純文学に顕著に出やすい。それ以外の作品も存在しているようであるが、ぼくはまだ読んでいない。もしかしたら読むかもしれないし、読めないまま一生を終える可能性もある。それはほんとうにわからないことだ。だからこそ、氏の作品はできるだけ追っていきたいというふうに考えている。ぼくが感じていることが次も、その次も、その次の次も同じかどうか、違うならどう違うのか、たしかめなくてはならないような気がするからだ。そういう不可思議な空気を全面に纏っているのが泉由良という書き手である。もちろん、氏の周りにだけ空気が著しく多い、という意味ではない。(森博嗣風ジョーク)


 氏の主催する白昼社は氏の単独誌以外にも合同誌やほかの書き手の作品も取り扱っている。前述したラブホテルアンソロジー「満室になる前に」の表紙も担当していただき、また当該作品も白昼社に委託をお願いしている。いずれもすさまじい作品ばかりであると思うので、即売会で見かけた際には見ていくとよいだろう。


 また、先日から重ねて書くが、現在行われている全通販型即売会「Text-Revolution Extra」(以下、「テキレボEX」とする。)では先述したにゃんしー氏とともに「白昼社ex」として出展をしている。(カタログ)こちらにぼくの純文学小説集「平成バッドエンド」を委託している。こうしたかたちで氏のブースに自分の作品をおいてもらえることは非常に光栄であるからくどいほど告知してしまうが、もし気になった方は是非チェックしていただきたい。

おすしを~~~~~よこせ!!!!!!!!おすしをよこせ!!!!!!!よこせ~~~~~~!!!!!!!おすしを~~~~~~~~~!!!!!!!!!!よこせ~~~~!