83 「書き手」のはなし


 今回は小説でもない、創作でもないはなしだ。文章を書いてひとに読ませる趣味のひと、もしくはそれをなりわいにしたいひと、という意味でぼくが使用している、「書き手」についてのはなしをしたい。たぶん途中で脱線するかもしれない。

 ここまでのはなしで書いてきたように、ぼくが明確に「書き手」と名乗り始めたのはせいぜい2、3年程度のことであるが、その中で、またそれ以前にもネットやオフラインで様々な「書き手」の小説や評論を読んできた。手に入れた同人誌はすべて合わせるとおそらく500冊以上にはなるだろう。泣く泣く手放してしまったものも、それなりに出てきている。ここでは、プロとして活動としているかどうかを問わず、同人というひとつの特殊な世界観の中で文章を書くことを中心に同人誌を作っている人間を以下「書き手」と称することにする。


 これもまたここまでのはなしで書いてきたように、ぼくは何かと言えば数値化して分析するくせがある。それは元からそういった手法に長けているというところは当然にあるのだが、主な理由は、ぼく自身がそういったものの見方を普段からしているというところにある。ぼくは偏差値のような相対的な価値を持つ数値がとりわけ好きである。逆に、絶対的な価値を持つ数値はあまり好きではない。たとえば、ぼくがつい昨年まで行っていた「シーズンレース」は同人誌即売会でぼくが手に入れた作品をぼくの独断的な基準で評点し、その上位については記事で、選外になったものについてもまとめ記事でコメントするという手法をとって、上位と選外を差別化した。この評点化という手法がおそらく一番わかりにくかったようで、数人の書き手から「評点が低すぎるのではないか」などの苦情なのか感想なのかよくわからないコメントがきたりしていた。ここに書くまでもないことであり、また書くべきことでもないのだが、実のところ「シーズンレース」に使用される評点は相対評価システムであった。それゆえに各評点は満点こそ設定されているが、その満点は理論値であり存在しない理想の作品にのみつけることができうる評点である。だからこそ、ぼくは「シーズンレース」には基準作が存在し、それを自作としていたのである。それは同時に自己批評をも衆目にさらすことにより、外部との関わりを絶つことなくより正確に行うことを義務とし、より精度の高い批評を行う必要がぼくにはあったからだ。もちろんそれは外的な理由ではなく、もっぱら内的な理由である。そして少なくともそれが明確に開示されることはない。そういう試みだった。ぼくが絶対評価が好きではないのは、比較がしにくいというところにある。とくに学校のような生ぬるい絶対評価の世界では、満点以外をとるもののほうが少なく、つまり満点以外は落ちこぼれの烙印を押されかねない。そんな空間で育ってしまえば、当たり前だが統計的ないし比較論的な思考ができなくなってしまうだろう。そうしたひとにとって、おそらくぼくの思考というものは理解しがたいのだろうと推察できる。それはそれで仕方がないのだとも思う。だれのせいでもないし、強いて言えばぼく自身のせいだ。
 つまるところ、そうして得てきた数値的蓄積は、必然的にぼく、すなわち「書き手」ひざのうらはやおの客観的な「戦闘能力」を浮き彫りにさせていく。そうして消極的手法によって得たぼくの数値は、ぼくの期待を遥かに下回っているとも感じるし、その逆であるとも感じる。ぼくの期待というものはそれだけ不安定である。
 しかしながら、この数年の「書き手」生活のなかでぼくはやはりいくつかの能力において絶対に追いつくことが不可能な「書き手」を何人も見てきた。それは先輩にあたるひとでも、後輩にあたるひとでも、同年代でも枚挙に暇がないほどに多い。つまるところぼくの「書き手」としての「戦闘能力」はそれほどまでに平々凡々としている。さらに言えば尖りに乏しく、そのわりに致命的な弱点を抱えている。つまり「試合」には向かない。ぼくはこと勝負事において何の強みも持っていない。しかしそれは「書き手」として強みがないということを意味しない。この何の強みも持たず、尖りに欠けるという存在は、ここまでで書いてきたように、「書き手」の「戦闘能力」をより正確に見定め、かれらの効率的な「戦術」を見極めることができるということができる。それは尖りに欠ける存在であるからこそで、しかも「書き手」はこの尖りに欠ける、つまり裏を返すとそれなりにまんべんなくパラメータ値を持つ存在というのはそんなに多くない。だからこそ、ぼくはぼく自身をしっかりと「分析」し、ぼくの「戦術」をここで明らかにしておく必要があると最近感じている。さらにいえば、ぼくは一度、いや正確に言えば二度、「書き手」として「死」んでいる。そしてみたび、また生き返ろうとしているところだ。観測するにこれはそれなりに稀有な経験ではなかろうかと思う。それすら糧にして、ぼくはより強力な「書き手」になるために前に進まなくてはならない。なぜなら「書き手」というものは前に進むものであると、ぼく自身が「決めた」からだ。


 最近感じることだが、「書き手」の表現行為の高度化が進んでいる。しかしその高度化というのはつまるところ商業化ないし大衆化であって、ぼくはそうではない方向に進む人間としてそれに抵抗する必要があるように感じている。そうでなければ、高度化した表現行為によって、「書き手」はその裾野を自ら縮めてしまうことになりかねないからである。そしてそれはそのままぼく自身の、「書き手」としての生存可能性につながる。


 明日、広島で文学フリマが行われる。ぼくにとって広島というまちは非常に好きな都市ではあるものの、どうもこのまちで行われる文学フリマには招かれざる客、という感じがひしひしとしているので静観をしている。ぼくは自分がなぜそういった感情を抱いているのか、いまはまだわからない。そしてそれがわかったとき、ぼくは再度文学フリマ広島に挑むのだろうと思う。願わくば、表層的、あるいは大衆的な表現活動のみに拘泥しないような表現者にいくばくかの幸運があるように、ぼくは静かに祈るとして、このはなしを結びたい。

おすしを~~~~~よこせ!!!!!!!!おすしをよこせ!!!!!!!よこせ~~~~~~!!!!!!!おすしを~~~~~~~~~!!!!!!!!!!よこせ~~~~!