55 「モデル」のはなし

 小説を書くとき、はなしにあげられているものやひとなどが何か、実在するものをかたどっているか、もしくは、実在するものを所与としてはなしを広げている場合が、往々にしてある。

 たとえば、ぼくの小説で恐縮であるが、「平成バッドエンド」に掲載されている中篇「猫にコンドーム」は千歳県宇佐見市を舞台として描かれているが、この実在しない都市は千葉県浦安市という実在する都市をモデルとして描いている。また、作品内に登場する固有名詞には「無印良品」「ユニクロ」など、実在するものも含まれている。このように、フィクションにおいて描かれているほぼすべてのひとやもの、ことに関しては、必ず実在する何かと何らかの対応関係にある。そこに実在性、つまり「リアリティ」を追求すればするほど、実在する何かとの関連性は深くなっていく。それは人間が学習していく機構が、何かをまねる、つまり模倣することを中心としている以上、避けようのない宿命といってもいいだろう。まして、ぼくのように実在する社会のありようを投影して、社会に何かを投げかけたいという動機をもって創作をしている場合、「モデル」の存在は必要不可欠である。
 「モデル」は時にやっかいな存在である。もちろん、現実を模倣した世界観を構築するという部分では、非常に役に立つし、実際、それで「リアル」になることは多い。前述した「猫にコンドーム」にも、実在する人物を「モデル」とした登場人物は非常に多く存在する。というより、この作品は視点人物である古田良子を除き、ほぼ全員に実在する「モデル」が明確に存在している。だからこそ、リアルな風景を顕現させることができたと思っている。


 しかし、その反面、「モデル」という所与があることによって、架空の人物が「モデル」に「引っ張られてしまう」という現象も確かに存在する。「猫にコンドーム」でも、当初はそういったキャラクターでなかった人物が、別の理由で付けた名前により、その名前を持つぼくの知人のキャラクターに寄ってしまった、という「事件」があった。
 もちろん、これは書き手だけに起こり得るものではない。読み手は、逆にそれ以上に「引っ張られて」しまう。書き手の意図せざるところに現れた「モデル」は、往々にして読み手に「モデル」そのものを想起させてしまう可能性がある。こうなってしまうと、本人と全く関係のない作品であるのにも関わらず、読み手は「モデル」と書き手との「関連性」をそこに読みとってしまい、現実には存在しない何らかのつながり、もしくは印象を持たざるを得なくなる。創作をする人間が増えていく以上、その割り切りをしっかりと行っていく必要があるように、最近感じている。
 とかく、ぼくは強い感情を持つ人間を「モデル」として小説に登場させがちである。「〇」でいくつか解説しているが、ヨコハマアンソロジー「ジーク・ヨコハマ」に寄稿した作品はその極致とも言っていい。もちろん、登場人物は架空であり、そのパーソナリティも個人を特定しえないような書き方はしている。しかしながら、「モデル」を知っている人間からすれば、ぼくがだれのことを書いているのか一目瞭然になってしまうのである。こういったように、小説というものはとかく個人の尊厳に関してナイーブな側面を持つ。
 こういった書き手なので、ぼくは自分がだれかの小説の「モデル」にされることに関して、可能な限りなにも思わないことにしている。それに、本人が認めない限り、「モデル」というものは結局不確定であるし、そう読めてしまったのならあなたが「モデル」を小説の先に見いだしているということにほかならない。ただ、登場人物のファーストインパクトになりがちな名前については、示唆的である可能性が高いので、やはりいかなる創作であってもそれなりに配慮する必要があるのだろうと思っている。

 自分の小説を読んでいると、しかし一定の何か、自分の中で満たされていないものがありありと出てしまうのがどうにも気味が悪いなあ、と思う今日この頃である。

おすしを~~~~~よこせ!!!!!!!!おすしをよこせ!!!!!!!よこせ~~~~~~!!!!!!!おすしを~~~~~~~~~!!!!!!!!!!よこせ~~~~!