97 「先生」のはなし

 昔から教師という職業の人間と適切と呼ばれる距離を保てないでいるのがひとつのコンプレックスとなっている。

 ぼくは、一般的ではない部分で「問題児」であることが多かった。小学校時代は自分よりものを知らない教師を心の底から馬鹿にしていたし、大人というものを「自分よりものを知っているかどうか」で選別している、いわゆるいやな子どもであった。校長や教頭には優等生を演じ、学校で疎まれているような教師が自分の担任であるとここぞとばかりに無視をしたり親をけしかけたりしていた。自分が教師だったら幼いぼくを校舎の裏に引きずり出してわき腹を青あざがでるまで殴っただろう。もっとも、そういう性根であることからぼくに講師や教師という職業は適性以前になりようがないともいえる。ぼくの出ている大学の教育学部も、小学校教師になるための専門課程が当然存在し、日々教師になるために学生が勉強をしているわけであるが、そういう学生とは徹底的に話が合わなかった。たいてい、ぼくのいたような大学に入ってまで、しかも激務であることがわかりきっているようなこんなご時世に小学校教師になろうという人間は、教師という職自体をどこかしらで神聖なものとして見ているわけで、つまりぼくと正反対に近い思想の持ち主であり、さらに言えばぼくと全く逆のタイプの「いけすかないガキ」だった人間でだったうえ、多くはその自覚すら持っていないような者ばかりだ。むしろ好きになれるはずがないだろう。


 だがしかし、世の中はそこまで偏っているわけでもなくて、そんな学生が多いのはぼくの周りだけで、ぼくにも「先生」と呼ぶことのできるひとは数人おり、中でもぼくのツイッターアカウントをフォローしている、小学生時代の恩師と中学高校時代の恩師には当時も今もそれなりにお世話になっている。どちらも国語科の担当で、少なくとも陽の空気を全面に纏っているとはとうてい言い難いような方々だ。ぼくがお世話になっていると明言でき、なおかつ嫌悪していないというだけでそれは明らかである。「先生」というのはどこかしら「先生」ぶってしまうところがでてくるし、ぼくはその「先生」ぶった人間が嫌いだった。その「先生」という仮面はある種の陽の空気として現れてきたり、それが時に強権的な雰囲気を纏うこともあった。ここまでお読みくださっている方々はもうおわかりのこととは思うが、いずれもぼくがもっとも嫌うタイプの人格である。それを纏おうとしないという部分がぼくとしては非常にありがたかった。ぼくは中高を男子校で過ごしたわけであるが、その学校特有の雰囲気からか、そこには「先生」然とした教師がそれほど多くないように感じられた。どちらかというと研究者みたいなひとが多くて、大学に通ってはじめて、ああ、あれは大学と似たような雰囲気だったのだなと気づくわけである。それゆえにぼくのようなさほど精神の成長が早いわけではない人間にとっては身に余るところが多々あったわけであるが、その辺については別のはなしにしようと思う。


 仕事をするようになって初めて教師というものの大変さを知るようになったし、しかしながらやはり教諭という職業につく人の大半は苦手であるという印象が拭えない。学校でいい思いをしてきて、それをより多くの生徒に与えたいという動機でなるひとが多いせいかもしれないと考えている。学校生活でいい思いをしてきたような連中とぼくは可能な限りコミュニケーションをとりたくはないので、つまるところそういうことなのだろうと考える。誰のせいでもない。
 だからこそぼくは、今それなりに交流がある教職のひとに対しては最大限の尊重を送らざるを得ない。世の中の多数派と対峙していることがほぼ間違いないと思われるからだ。この国の教育システムが恐ろしく高いのは、専門職のひとへの態度を見ればよくわかる。つまり、専門職に比肩しうる知識を自らが修得していると疑うことすらせずに社会に出て生き抜くことができるひとが非常に多くを占めているのは、そもそもこの国の基礎的な教育レベルがある程度以上の水準に達しているということである。その前線に立っているひとたちにぼくはそれとして尊敬の念を送っているが、そこにいるひとたちの好き嫌いはまたはなしが違うということ、ただそれだけである。
 その証拠に、ぼくもそういった「先生」がたから受け継いできたものがいくつも、自分の創作の中にすら見つけることができる。教育というのはつまりそういうもので、だからこそぼくはこれからも教職に関して複雑な感情を抱きながら仕事をこなしていくだろうと思っている。

おすしを~~~~~よこせ!!!!!!!!おすしをよこせ!!!!!!!よこせ~~~~~~!!!!!!!おすしを~~~~~~~~~!!!!!!!!!!よこせ~~~~!