101 「創作」と「感想」のはなし

 とある書き手の熱量のある独白を読んだ。いろいろと思うことがあったのと、ぼくが様々な書き手生活を経て、なぜ読んだものに対して可能な限り感想を書くようになったのかということについて、ここでは書きたいと思う。


 先におことわりしておくが、ここから先に書くことはあくまでぼく個人の経験に基づくものであり、それ以外の書き手がそうであるかどうかは確証がない。そのうえで、一般的に考えると、という類推を含めての記述になってしまうことをここで申し添える。


 多くの書き手、というよりはほぼすべての書き手、いやともすれば書き手に限らず、創作者たちにとって「感想」というものは厄介な存在である。ぼくのようなアマチュアが創作したものは、その主目的は「自己表現」にほかならず、したがってコミュニケーションの文脈に組み込まれることを防げない。衆目にさらされた時点ですべての創作物は感想や批評の対象とならざるを得ない。逆に言えば、創作物をどこかしらで公開するということは、何らかの形で受け手からのレスポンスを拒絶しないということでもあるし、より大胆に、かつ、一般的に言えば受け手からのレスポンスを欲している、ともいえるはずだ。したがって、どのようなものであれ、自らの作品を作者の特定が可能な状態で公開している作り手は、その感情の大小はさておくとして、「作品を他者に評価されることを望む」といえる。現に、ぼく自身もそういった側面はそれなりにあると実感している。もっともぼくの場合は普遍的な承認欲求に近いものではなく、もっと屈折したもので、その辺は最近刊行した「〇(ゼロ)」に詳しく書いている。


 読み手からの反応に恵まれなかったので書き手をやめる、と独白した書き手がいた。ぼく、つまりひざのうらはやおの「芸風」にそぐわないため普段はあまり書かないことであるが、それでもあえて書けば、ぼくはその「気持ち」はとてもよく「わかる」のだ。だからこそ、これが魂の叫びにも似たホンネであることも読み取れてしまった。しかしながら、(悲しいことではあるのだが)身もふたもないことを書いてしまうと、そのような独白を公開してしまう時点で「仕方のないこと」であるとも感じた。
 というのは、そもそものはなし、受け手が書き手にわかるようにはっきりとした「感想」を、それのためにのみ書かれた文章で表現するというのは、そうでない文章を書くよりもはるかに技量のいることであり、必然的にそれが「可能である」ひとは割合としてかなり少なくなるからだ。まして、それが「可能である」ひとは「書き手」の意図や表現すらも「くみとって」「感想」を書くひとたちである。「感想」それ自体も文章表現である以上、当然ながら読むにはそれ相応の技量が必要となる。おそらくであるが、このあたりの技量の格差や感覚の乖離が、「感想やさん」や件の独白などの最近の「感想ブーム」においてあまり意識されていない、身もふたもないけれども厳然とした事実であるように感じる。


 こと作品を「消費」することを強く推奨してくる昨今であるが、「感想」を書くということは作品の消費とはほぼ対照的な位置にある。そういった意味でぼくが考える「感想」と「批評」にはそれほど(つまり、世間一般が考えるほどの)へだたりはないと考えている。「批評」はより分析的に、その作品以外のものについても絡めて書かれたもので、「感想」は書き手の感情に寄り添った表現で、というのが印象での差であろうか。いずれも、ひとつの作品に対して、その書き手、作り手を見ながら書かれたものであることは間違いがないと思う。だからこそ、創作者は常に反応を求めるし、より自らに向けられた「感想」を欲するものなのだ。特に、「当該スキルをほめられた経験」を持つ書き手ほどその傾向は一層強まるように思う。


 しかし、ぼくらはプロではない。あくまでアマチュアの創作者であり、ぼくに至ってはプロに至るための選考をほとんど通過したことがない根っからの「アマチュア」である。そういったひとが作るものは、プロのそれと比べてまず明らかに受け手の量が少ない。そして、さらに言えば、「訓練された」受け手の割合もさらに減る傾向にある。すなわち、ぼくらは「感想」を欲しているのに、「感想」はほとんどの場合「必要量をもらえない」のである。アマチュアの市場は、最初から構造としてそうなっているのだ。だからぼくはことあるごとに「自分の創作に感想や承認を欲しないほうがいい」と言っているし、その感情は可能な限りコントロール下に置いたほうがよいと経験上もそう思っている。砂漠で「水がほしい」とだけ叫んでいても水は来ない。水を飲むには、まずオアシスを探す必要があるし、探すためには高いところに上ったり、ラクダを捕まえたりしないとならないだろう。「自分の作品についての感想を求める」というのはつまりそういうレベルのはなしなのである。


 さて、書き手、すなわちアマチュアの文章創作家が「感想」を多くもらおうとした場合、最も合理的な方法はなにかというと、できるだけ多くの人に読まれる努力をすることである。つまり、「多くの人にとって読みやすい」文章を書くということであり、多くの場合は文章それ自体のスキルを向上させることである。身もふたもないが、急がば回れではない、最も簡単で明らかでしかもほぼ確実な方法である。ぼくらのような書き手がこれに取り組まない手はないといっていいだろう。
 そう、ぼくがなぜ、読んだ本の「感想」をできるだけ書いていき、それを「公開」することにしたかといえば、つまるところ、できるだけ多くの「感想」を書くことそれ自体が、自らの文章スキルの向上に直結していると考えているからである。前述したように、文章表現の作品を読み、その感想を同じく文章表現であらわすということは、当該作品を「読む」ちから、当該作品を読み込んだ印象を言葉に変換するちから、そしてそれを「作者」へ目を合わせて語るちからのすべてが必要になってくる。まして書き手の満足する「感想」に関してはこれらは必要不可欠だろう。それは、「読み」および「書き」の確かな精度はもとより、自らの文章表現に対する矜持と責任感がなければ成り立つことはない。そこまでそろえた「感想」をもって初めて、書き手は「感想」として認識する。だから安易に「感想がほしい」と口にすべきではないとぼくは考えるし、そのうえで常に「感想」を書いていきたいとぼくは考えている。


 ぼくが具体的にどのようなことを考えながら「感想」を書いているのか、という部分については、また別の機会に書いていきたい。

おすしを~~~~~よこせ!!!!!!!!おすしをよこせ!!!!!!!よこせ~~~~~~!!!!!!!おすしを~~~~~~~~~!!!!!!!!!!よこせ~~~~!