62 「ふり」と「ことば」のはなし

 沢田研二だったか、「トイレに行っている間に出て行ってくれ」みたいな歌詞を歌っていたような記憶があるし、わざわざジュリーを出さなくてもそんな歌詞や小説の描写はいくらでもあるのだが、別にジュリーの歌詞なのは何も意図がない。浮かんだだけである。そのわりにはうろ覚えというところがポイントである。この中では彼氏、もしくは恋愛関係のうちの片方で自らの家に相手を住まわせている方がトイレに行く「ふり」をするからもう片方に出て行ってくれ、と促すという一種のコミュニケーションであることがわかる。典型的、かつ高度なノンバーバルコミュニケーションで、ぼくにはまねのしようがないなあ、とこの手の描写を見ると思う。


 「ふり」をするというのはそれ自体が非常に高度なコミュニケーションである。典型的なのが寝たふり、などであるが、それが、相手に対して、本当に寝ているのかどうかということを「見せる」かどうかというのも含めると本当に高度で、それは相手がどれだけ高度なコミュニケーションを積めるだけの間柄なのか、ということを意識的にしろ無意識的にしろ期待していなくてはならない。いや、もちろん正確に言ってしまえば期待しなくてもよくて、単に意思表示がしたいだけの可能性もあるし、現にぼくは後者であればよく使う手法なのだが、ここから話すこととしてはじゃまになるので今回は割愛する。


 創作表現という世界においても、「ふり」というのはその手法の多くを占める根幹的にして基礎的なものだ。ツンデレというキャラクター様式なんかはわかりやすいのではないかと思う。相手を好きではない「ふり」をする、が好きではないという「ふり」自体がそもそも好きであることの裏返しとして表現されている、というかたちになる。そして、これが受容できるかどうかというところが読み手の印象を大きく変えることになる。そういった部分で、直接的な表現から一段階ハイコンテクストになっているといえる。また、「ふり」ということそれ自体はノンバーバル、すなわちことばによる翻訳を伴わずにやりとりされるのがふつうであるが、しかしその「ふり」を「ふり」たらしめるのはことばによってのみである。つまりツンデレキャラの行いがツンデレであるということを示すのは何かしらのことばによってでのみ通常行われる。それはなぜかと言えばその手法がもっとも手っ取り早い上にわかりやすいからである。この絡み合いがひとつのコンテクストとなる。そしてこのコンテクストという構造そのものがもっとも説明しやすく、ことばのみという性質上もっとっも多層的に複雑になるのが詩歌や小説という表現形態であると思う。逆に言えば、ことばのみの形態はそれだけことば自体のコンテクストに制約を受けやすいし、もっと言えば読み手によって受容されるもののふれ幅が非常に大きい。そもそも、日本語の読解テストで高校生の約半数がいわゆる「悪文」を正しい意図で読めないという報道があったように、母語ですら読むということそれ自体に相応のスキルを要するのだから、いかに読みやすく意図が通じやすい文章を書いたところでそのふれ幅が、ことばによる制約が少ない漫画や映画よりも大きいのは確実であろう。人間は絵を省略するために文字を生み出した。つまり概念を効率よく圧縮するためにことばが生まれたわけであって、それはもちろん非可逆圧縮、すなわち微分的要素が強いわけで、それは正しく元のかたちに戻すことなど誰にもできないのである。先史時代の記録はそのほとんどが語り部に任されていたというところからも自明なように、そもそも映像などを残せる技術があればことばを生み出す必要なぞなかったはずである。そういった意味ではことばというのはある種レガシーな側面も含んでいる。しかし、それでもなおことばが我々人間の通常の意志疎通ツールでありつづけられるのは、現にハード面とソフト面のほぼすべてのインフラがことばによって規定されているからにほかならいだろう。たとえば「ドアノブ」といううことばひとつとっても、その概念がなくなってしまうといちいちドアノブの絵を描いたり、「部屋と部屋の間を行き来するときに使う可動式の仕切を動かす為についているあれ」みたいにめちゃくちゃ冗長なことばを使わざるを得ない。名付けやことばによる映像的手法というのはこういった冗長な表現を省略することに成功し、より高度な表現を生み出すことに成功した。そして、ことばによって表現しやすくなったものの中で、もっともその恩恵をうけており、かつ、他の媒体においてもポピュラーな手法になっているのが前述した「ふり」ではないかと考えられる。たとえば、落語や能、歌舞伎なんかは必ず「型」というものが存在する。演者がその「ふり」をしたら、たとえばこれは「大男」を表現しているだとか「武士」であるとか、そういうものである。本当は大男に特殊メイクしたり、鎧を着なければならないところを、その「ふり」で省略できるという技法である。詩歌の世界では、たとえば短歌などで「たらちねの」とつけば「母」がくる、というような枕詞などにその型が残っている。


 しかし、この技法は当然ながら受容先がそれを知っていなければ通じることはない。たとえば「鬼」を知らないひとは、絵本などで「なんでこいつの頭に角があるのだろう」と思うこともあるはずだ。つまり「ふり」や「型」というのは一種の暗号でもあるのだ。それを知っている人間だけが本来受容できるものであって、そうでないひとは受容しては「いけない」ものではないかとぼくは考えている。もちろんそうである必要はないし、最近のトレンドはむしろ逆向きであるように感じる。できるだけ多くの受容(ないし、需要)を取り込むために、そういった「ふり」や「型」を取り払うか、もしくはそれを持っていないひとにもそれとして受容できるような構造にすべきである、という圧力を感じることがある。だが、ウィキペディアを読めば明らかなように、誰にでもふれることのできるものは誰の手によってでも「書き換えられることのできる」ものでもある。消せるボールペンで書かれた婚姻届は役所の人間が簡単に書き換えて法的に有効なものに作り替えてしまうかもしれない。それは極端な例だとしても、この、ある種の反知性主義的な流れは(おそらく知的階級へのカウンターのつもりなのかもしれないし、現にぼくはそのつもりでそれに呼応することもままあるのだが)非常に危ういのではなかろうか。たとえば、自動車を運転するのに免許が必要なくなってしまえば、信号の意味を知るものは激減し、結果的に信号が意味をなさなくなって交通事故が頻発するようになり、道路というものが実質使用不可能になってしまうだろう。それと同じで、これらの暗号的な表現手法の中身を知らなくてもいい、むしろ使用する方が間違っている、と考えることはすなわち、巡り巡って表層的な表現しかできなくなってしまうことを意味する。それはきわめて危うい。単純な創作表現活動のみのはなしではなくなる。この世界にある社会インフラが崩壊する危険性すらあり得る。ある意味ではもっとも冒涜的で反社会的な思想であるともいえるかもしれない。そういった考えの人間に、ここまで書かれていたことが、はたしてどれだけぼくの意図通り読めているのかは、ぼくにはもうわからない。


 もちろん、この記事を書いて、この媒体で公開するという行為そのものがある種の「ポジショントーク」であり、それは高度な「ふり」である。そしてさらに言えば、この公開しているひざのうらはやおという人間がいかなる人物であるのかを知っているひとが読めば、おそらくそうでないひととはまた異なる読み方になるであろうことも、ぼくは打算的に考えている。ぼくにとってことばを使うということはそれだけ考えに考えを重ねた上で、(そう思われることが不都合である場合がほとんどなので)なおも衝動性を維持し、また重視して上書きされるものである。つまりすべては「ふり」なのだ。ぼくはひざのうらはやおという書き手の「ふり」をしているだけにすぎない。そして、ひざのうらはやおでない、ぼく本来の自意識だと認識していたものはとうの昔にどこかに消えてしまっている。


 ただ、ひとつだけいえることは、ぼくが小説を書く理由は、小説にある独占的な理由ではなく、比較優位であるということだけだ、ということである。小説はことばによってのみ形成される。すべてをことばにするのは面倒だし、難しいし、手間がかかるし、なによりすべてことばにしたとして、ほとんどの読み手はぼくの意図通り読むことなどできない。けれど、だからこそ読み手本人の受容したいように受容できるというやさしさがあるし、また、ことばのみで形成されるものというのは、つまり実体化しえない概念を描写することに非常に優れている。その最たるものが人間の意識や、思想や、肖像である。ぼくが小説を書く理由はまさに、そういったほかの媒体では表現しようがない、もしくはほかの媒体では著しく労力を要するがために実質不可能であるような概念を探すことそのものにあるのだろうと思う。

おすしを~~~~~よこせ!!!!!!!!おすしをよこせ!!!!!!!よこせ~~~~~~!!!!!!!おすしを~~~~~~~~~!!!!!!!!!!よこせ~~~~!