80 愚痴のはなし


 ツイッターを見ていると、結構な頻度で愚痴を吐くひとをよく見かける。
 ぼくはひとの愚痴を受けるのが得意ではない。解決しようがないものを他人に話してなんになるのか、実はあんまりよくわかっていない。解決しうる問題を解決しようという意思を持たずに愚痴だけたれ流すというのはフェアではないと思っている。
 ため込め、というのではない、ただ単にぼくは見たくないし、それを受けとめる技量は極端に低いというだけで、それは受けとめられるひとのもとか、もしくはひとりで処理していただきたいというだけのはなしだ。
 特に嫌いな愚痴のジャンルはいくつかあるがここでは割愛する。はなしたところで一分の利もないからだ。
 こういった愚痴の原因としてまず間違いないと考えられるのが、コミュニケーションの欠如である。たいていの愚痴はここからはじまる。コミュニケーションは十中八九ことばでのみ行われる(もっともぼくはことば以外のコミュニケーションは存在しないと思っているし、たぶん受けることが不可能である)ので、だいたいはことばを尽くせないか、相手にことばを受ける能がないかのいずれかである。
 特に、人間は自分を加害した人間と同じ属性をもつ「だけ」の人間に対してはいくらでも加害していいと考えがちで、同じ被加害意識(厳密に言うと被害者意識とは異なる)を持つ集団で固まってしまうと強烈な暴力の応酬が行われる。これはきわめて不毛であるが、愚痴のほとんどはそこにつながりかねないような相互不理解を原因としているように思う。殺意を持つのは自由だが、相手を理解しないまま鉈を振り回したところであたりはしないし、相手に武装させる格好の理由になってしまうということがわからないと、こちらの手勢は減っていく一方だ。だから、相手を理解するために徹底的にことばを磨いたり、観察する必要がある。それを怠っていることを示すように見えるものが愚痴には多い。だからきっと許せないのだろうと思う。
 相手に自分のことばを聞いて貰おうと思うのであれば、相手がまずどのような状況であれば自分のことばを聞くのか、どのようにすればそれが伝わるのかというのをまず考える必要があるとぼくは常に思っているし、それを考えることで精一杯だ。それすらできないようであれば、ひとである資格を失ってしまうような気がしているからである。
 つまり、そう、ここから先は、あえて割愛する。

おすしを~~~~~よこせ!!!!!!!!おすしをよこせ!!!!!!!よこせ~~~~~~!!!!!!!おすしを~~~~~~~~~!!!!!!!!!!よこせ~~~~!