96 「リメイク」のはなし

 やはりこれにかんしてはひとつトピックを別にしてはなしをする必要があると思い、こうして書いている。


 ぼくが初めて家庭用ゲーム機に触れたのはプレイステーションで、初めてプレイしたゲームも「ファイナルファンタジー7」(以下、「FF7原作」もしくは「原作」とする。)であった。ファミコンのドット絵などを後から知ることになるため、当時はこれが最先端であった、というのは実は後から知ることになる。レゴのおもちゃのようなポリゴンキャラクターと、大きくて立体的な戦闘画面や時折流れるムービーは当時でも臨場感があって、怖いところはふつうに怖かったため最初プレイしたときは最後まで進めることができなかったのをよく覚えている。
 自力でクリアしたのは中学に入ってからで、このあたりにほかのFF作品も含めて猛烈にやりこむことになった。ぼくの中学時代のほとんどはFF作品をプレイし、関連音源を可能な限り手に入れ、シナリオ考察サイトなどを読みながら世界観やキャラクター観、そして主なスタッフの仕事ぶりを総合的に考えることばかりしていた。高校時代はそれをまとめた論文を(授業の一環とはいえほぼほぼ)勝手に書いて、その分量の多さとあまりにも膨大すぎてまとまりがない文章に当時の教員にいやなかおをされまくったのをよく覚えている。
 個人的に好きなものや、完成度の面でいうとほかの作品をあげることが多いものの、前述したようにぼくにとって事実上初めてプレイしたロールプレイングゲームであることや、そのキャラクター観や世界観が後の創作等に大幅に影響を受けていることを鑑みると、やはりFF7原作は非常にセンセーショナルであり、とんでもない経済効果を生み出した作品であるということは認めざるを得ない。


 そして、過日4月10日にそのリメイク版といわれた「ファイナルファンタジー7 リメイク」(以下、「FF7R」もしくは「リメイク」とする。)が発売された。当時のスタッフと現在のクリエイターをうまいこと取り入れたこのコンテンツは、FF7原作同様に相当な経済効果を生み出したようである。今回はFF7原作におけるシナリオの最初の重要ポイントともいえる「ミッドガル脱出」までというかたちで、それ以降については後の作品に譲るという、三部作スタイルがとられている。ここまではネタバレを気にする人でもある程度は目にしていることであろう。
 以降は、このFF7原作とFF7Rを比較し、かれらがいかに原作を「リメイク」したのか、そして今後どうなっていくのかという、ぼくなりの解説と、ちょっとした予想を書いていきたい。もっとも、ぼくは数年前にFFオタクを卒業してしまった人間なのでおそらく「現役」には遠く及ばない情報量と考察力であることはここに書き記しておく。




 ネタバレ回避のため、ここでいったん切る。





 まず、FF7Rについての感想として、そしてこれから始まる長いはなしの最初にどうしてもこれだけは書かなくてはならないので、おつきあいいただきたい。
 このFF7Rというゲームは原作とその関連作品をプレイしていることを前提としており、少なくとも新規で直接FF7Rをプレイするというユーザーの方をまったく向いていない。それがこの作品を手がけたスタッフの「答え」であるというのが、ぼくにはどこか世知辛く、それでいて鋭く突き刺さってしまったのだ。だからこそ、この長い長い文章をこの場に書きちらかすことに決めたのである。


 以上、感傷である。

 何度か言及しているけれども、全体の方向性を決める上で重要なタイトルにわざわざ「リメイク」とつけ、しかも三部作の最初の作品であるということすらも記さないというのは(いままでの文脈という意味で)どこか変な感触があったわけであるが、これはFF7Rのシナリオを最後までプレイしてみるとその理由をかいま見ることができる。というのは、最終盤で、本作のメインヒロインであるところのエアリスが「運命の分かれ道」というような奇妙な発言をしており、以降に原作のポイントとなるシーンが断片的に(もちろんリメイク画質で)流れる。そのひとつには原作のクライマックスのひとつであるエアリスが死ぬシーンも含まれている。ここから、FF7Rは原作の単なる上書きおよび高画質化ではなく、原作を既出として尊重しながら、再び描き直された、まさにリメイク作品であるということが間接的にあかされるのだ。これが当該作のタイトルがシンプルになっている主な理由ではないかとぼくは考える。すなわち、第二部以降の続作については、必ずしも原作に沿ったシナリオになるとは限らないということもここで示唆しているのではないか、と考察できる。だからこそ、第一部として「ミッドガル脱出」までのシナリオを起用したのだろう。
 というのも、原作のシナリオ的な分量を考えるならば、「ミッドガル脱出」はもちろんキリのいいところではあるものの、三部作に収めるつもりであるならば極めてアンバランスと言わざるを得ない。
 ここでぼくのプレイ記録からデータを引用するが、リメイク作品のエンディングを見るためにかけたプレイ時間はおおよそ45時間だった。また、過去のプレイデータから、原作のエンディング、つまりフルサイズにかかる時間はおおよそ30時間程度と考えられる。ここで、原作における「ミッドガル脱出」までのプレイ時間を同条件で計ったところ、4時間半ほどであった。もちろんシナリオの分量とプレイ時間の比が完全に比例するわけではないにせよ、3つに分割するには極めて少なすぎるということは明らかだろう。また、シナリオの分量的にリメイク作品はほぼ同一プロットであり、実質的に行間を10倍にしたともいえる。これはぼくの実感ともそこまで乖離しない。FF7Rは少なくとも、ひとつの作品としてかなり丁寧に作られており、また最近のゲームの傾向と、原作とのかねあいもしっかり意識されていた良質なゲームであったことは言うまでもないとぼくは思う。何年もファンを待たせただけのことはあるし、原作のファンであればプレイしたほうがよいと思っている。


 ぼくはとくに、「ミッドガル」という自らの創作上における「性癖」ともいえるものの芯に存在しているこの機械都市の、様々な風景を見ることができたというだけで軽々しく「神だな」とか言ってしまいそうになるくらいにはすばらしいとは思っているが、それはそれなので横に置いておく。ミッドガルという特異な、極端な企業的合理性を追求された都市に生きる様々な立場の人たちが原作以上に濃密に描写されているのがFF7Rの最大の特徴であり、原作との差異でもある。いくつかのぼくの小説を読んでいただいた方はおわかりのことと思うが、ぼくの創作というひとつの大陸の内部に、この「ミッドガル」という概念がしっかりと埋まってしまっているくらい、ぼくはこの都市の持つ雰囲気や構造が好きで、それを主眼的に描いているところが実によかった。もし同じような「性癖」をおもちであれば、今すぐにプレイした方がいいだろう。これだけは断言できる。すなわち、リメイクで描かれたのは、原作ではさらっと、ほんの表層の部分(それでも、実は登場するすべてのモブキャラクターに話しかけたりだとかマップの隅々までおたからを探し回ったりとかするとシナリオ上に存在しないディテールをそれなりにかいま見ることはできるのだが、それはそれとして)のみ描かれていたそれらが、しっかりと地に足をつけている様子を見ることができる。そして、そうであるがために、本作は「ミッドガル脱出」までという、原作基準でいえばシナリオ上極めて微妙な位置でエンディングを迎える。FF7Rにおいて主軸となるのはあくまでミッドガルであり、そのミッドガルを通してクラウドやバレット率いるアバランチ、エアリスや神羅カンパニーを描いている、とぼくは考える。だからこそ、終盤でエアリスが「本当の敵は神羅カンパニーではない」と口にするのだ。これは実はトレーラー動画にも掲載されているシーンでもあるのだが、実際にこの流れで原作と比較すると非常に興味深い。原作をひもとくと、同様のセリフをクラウドが口にしており、それにエアリスが同意する流れになっている。つまり、原作ではあくまでクラウドと神羅(正確に言えば神羅ではなくラスボスであるセフィロスとの対峙であるがこの時点では設定の開示の都合上クラウドから見てほとんど同じ延長線上に存在しているとみなせるのでここではあえてそう表記する)にある確執からクラウドが急に熱に浮かされたように口にする、というようなものであるが、リメイクでエアリスに言わせることで、別の敵(すなわち、セフィロス)が「クラウドの敵」ではなく「星(つまり、登場人物全員)の敵」であるということをかなり暗示的に示唆する効果が生まれる。


 もちろん、この程度の差異では単なる推敲ととることもできる。しかし、リメイクにおける原作との重大な差異は、FF7Rがやはり原作とは別物であるということをしっかりと示している。


 わかりやすい部分で言えば、「フィーラー」の存在である。これもまったく新しい概念かといわれると、そうでないような記憶があるのだが、少なくともFF7原作のみに限ってであればまったく新しい概念であり、FF7Rがリメイク作品であることをもっとも端的に示している。作中では「星の運命を覆させない存在」というふうに呼ばれているが、ここでいう「星の運命」とは原作のそれを指していると思われる。FF7Rの実際のラスボス的な存在(もちろん、ゲーム自体のラストボスはおなじみセフィロスであるが、ストーリー上でのラスボス、という意味である)として登場することからも「星の運命(原作)」と対峙するというテーマを読みとることができるだろう。


 もうひとつの大きな差異は、七番街プレート崩落後にビッグスとウェッジが生存している描写が入ることである。原作ではジェシーとともにかれらアバランチのメンバーはプレート崩落後に生死不明のまま物語に登場しなくなるため、ふつうのプレイヤーであれば全員死亡したものと考えるし、ぼくも死亡した描写ととった。しかし、リメイクでは原作同様に生死不明であるジェシーを除けば、のこり2人は生存している描写がそれぞれ差し挟まれる。ウェッジに至ってはバレットが気を失った彼をエアリスの実家に運び込むシーンすらある。たしかに、アバランチのメンバーである3人はそのシナリオの性質上、原作よりも非常に多く登場しているため、3人全員を原作同様死亡させるのは商業コンテンツとしての方向性やミッドガルに住むひとびとを横断的に描くという裏コンセプト(もっともこれはぼくしか感じないことなのかもしれないが)にそぐわない。だが、原作との比較においてこの描写は示唆に富むとぼくは考えている。ここでもっとも端的に示唆しているのはバレットのミッドガルにおける地縁が断絶していないということだ。原作において、ミッドガルで生存しているのはバレットの娘(正確には実の娘ではないがFF7Rでは当然ながらその設定があかされないのでここでは娘として表記する)であるマリンのみであるが、彼女はバレットがミッドガルに住む前から一緒にいたはずであるので、ミッドガルに対する地続きの縁がほぼ断絶する、という描写にとることができる。しかしFF7Rではそうはならない。わずかな描写であるビッグスはともかく、少なくともウエッジにおいてはバレットが生存を認識しており、またミッドガルに残ることがほぼ明らかである。つまり、娘以外にも、バレットはミッドガルに帰るための理由があるということになるわけだ。これをわざわざ挿入したのは今後のシナリオにおいてやはりミッドガルに戻ってくるというものがあり、それの伏線ではないかとぼくは考えている。もっともこれは非常に薄弱な線であることをここでは申し添える。いずれにしても、アバランチのメンバーの生存にはぼく自身非常に驚かされたし、やはり何らかの意図をもって描かれたとみて間違いないはずだ。


 これらのことから総合すると、冒頭に述べたとおり、FF7Rの第二部以降のシナリオが、原作に必ずしも沿わなくなってくる可能性が高いと言わざるを得ない。あくまで例であるが、エアリスが死ななかったり、宝条とヴィンセントの一騎討ちが作中で実現したりするかもしれないということである。個人的にはバレットの故郷である炭鉱都市コレルに関する描写がどうなっているのか気になるところである。また、以後のゲームデザインについても少し気になっている。たとえばセーブデータの引継や連携が行えるのか、そもそもワールドマップをどう表現するのか、などなど。


 原作において、「ミッドガル脱出」までのシナリオ進行はかなり完成度が高く、物語への没入感がひときわ光る。この完成度によって原作は世界的ヒットとなったといっても過言ではないとぼくは思う。ひるがえって、そこで表層だけなぞられたミッドガルという設定過多にしてSF作品として描写するにあまりある都市を捨て置いたことが、(原作の英断ではあるけれども)リメイクへのモチベーションになったのかもしれない。逆に、原作は物語後半になってくると設定過多気味の世界観にシナリオが追従しきれず、ややとっちらかり気味になってきてしまう。クラウドの自我崩壊からのヒュージマテリア紛争あたりでは様々な設定をどうにか横断的に描いてはいるものの、肝心の主人公にはいまいち寄り添いが足りない印象を受ける。クラウドという主人公は実は強い主人公ではない、というのが後半でキモになってくるわけであるが、ティファという、あまりにも都合の良すぎる設定を持つヒロインが「ちからわざ」でストーリーを進行させているような印象が拭えないままぼくはFFオタクを卒業してしまった。

 ここまでを読んでくださった奇特なみなさんはおわかりだろうが、つまるところぼくは「リメイク」がいかにぼくにとってすばらしいものであったか、としか述べていないし、要旨はまさにそれとしかいいようがない。そして、今後の作品においてもそのすばらしさがあるかといえばやや疑問が残る、とやはり言わざるを得ない。言わざるを得ないが、ぼくは結局すべてプレイしてしまうし、おそらく第二部と第三部についてもどこかしらでこれ以上の分量で何らかの感情を文章化するのだろうと思う。

 そんなわけで、プレイして久々にオタクエナジーを受け取ってしまったのでここで供養しようと思う。

おすしを~~~~~よこせ!!!!!!!!おすしをよこせ!!!!!!!よこせ~~~~~~!!!!!!!おすしを~~~~~~~~~!!!!!!!!!!よこせ~~~~!