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「関心領域」 上手すぎて失われるもの

アカデミー賞国際長編映画賞を受賞した「関心領域」を観ました。
ちょっと否定的な感想なので、お気に召した方々、ごめんなさい。

確かによくできた映画

正直に白状します。
最初に映画を見終えた時点では、この映画の真意というか狙いが分かりませんでした。「ずいぶんと淡々と終わってしまったなぁ」と感じた。
その後、いろいろな方の感想や考察を読んで初めて、「はぁー、なるほど」となんとなく理解したのでした。
それでも、一抹の違和感は残っています。

この映画の主題を要約してしまえば、「ナチスによるホロコーストという史上最悪のジェノサイドも恐ろしいが、それに無関心なまま暮らしていた人々のその無関心さの方がむしろ恐ろしい」ということでしょうか。

そのメッセージはもちろん分かります。賛成です。
そしてこの映画では、そのことをさまざまな技巧を凝らして表現しています。
よくできています。
検討に検討を重ね、緻密に計算し、最大の効果が得られるような演出方法を導き出したのだろうなと思います。
が、それが良かったのかどうかは、いまも疑問を持っています。

以下、ネタバレを含みます。


上手すぎて見えなくなる(ネタバレあり)

先ほども書いたように、この映画はさまざまな演出方法で「無関心さの恐ろしさ」を表現しています。

開始すぐの永遠に続くかのような暗闇と不協和音、定点カメラのような淡々としたカメラワーク、役者の演技、壁の向こうから時折聞こえてくる悲鳴や銃声、真っ赤に塗りつぶされる画面、サーモグラフィのような映像、突然インサートされる現代の映像などなど・・・。

各映画賞や批評の場で評価が高いのもそういった演出が優れているからこそだと思います。

が、このさまざまな技巧が、かえってホロコーストの恐ろしさから目を遠ざけさせてはいないだろうか

これが、私がいまも抱いている違和感の正体です。

この映画の関心領域

例えとして適切かどうかわかりませんが、以下のようなことが起きていないでしょうか。

花があったとします。
とても綺麗で、この花の美しさを他の人にも伝えたいと考えた人がいたとします。
その人は、花の写真を撮ることにしました。
この花の美しさを最大限に引き出すために、性能の良いカメラを用意し、最適なレンズを用意し、最適なストロボを用意し、背景にも気を使い、撮影後には細かいところまでレタッチし、美しい花の写真ができ上がります。

このとき、この人の関心はすでに花にはなく、写真技術の方に関心が移ってしまっているような気がするのです。

そして写真を観る側も、あまりにも花が綺麗に撮影されているので、「花の美しさ」は所与のこととして綺麗に腹に落ちてしまっていないだろうか。

この映画に置き換えると、映画の“上手さ”によって「無関心さの恐ろしさ」を綺麗に理解してしまい、観ている者に葛藤が起きない。
「無関心さの恐ろしさ」を綺麗に理解させる映画的な技術は素晴らしかったが、観客自身の中の「無関心さ」と対峙するような経験にはならない。

結果として、映画を作る側も観る側も、【無関心さの恐ろしさ】よりも【『無関心さの恐ろしさ』の伝え方の素晴らしさ】が前面に出てしまっているように思うのです。演出が技巧的すぎて。

まとめ

アウシュヴィッツ強制収容所の隣でナチ高官一家が牧歌的な暮らしを平然と送っていた、という恐ろしさ。それ以上でもそれ以下でもないです。
それを、映画的な技巧の限りを尽くして映像化した(だけの)映画かなと思います。

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