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街路樹にも宿る『命』

新年度のスタートは、気持ちのいい青空が広がりました。

気分も晴れやかなので、「明るい話題からスタートを」といきたかったのですが、最近気になっていることを書いてみます。それは道路の脇に生えている街路樹のこと。春には花が咲き、秋には紅葉となり、運転の途中にホッと癒やされることも少なくありません。毎日、見慣れた風景なのですが、よく見てみると、いろんなことが気になってしまいます。

まずは茂みに捨てられた缶や瓶、いろんなモノが詰め込まれたコンビニ袋等々のいわゆる『ゴミ問題』。ゴミを捨てる人でも罪悪感が少しは働くのか、低木の茂みの中に捨ててある・・・となると掃除がなおさら大変。ボランティアなのか雇われた方なのか、ハサミで一つひとつ拾い上げ、手元の袋に入れている光景を見かけます。それでも決して無くなることはありません。

それから『雑草』。これから暖かくなると雑草がぐんぐん伸びて、樹木に巻き付くほか、車道や歩道にまではみだして危険な状態になります。これも定期的に除草作業は行われているのですが、とても追いついていないのが現状です。

そして『剪定』。広がった枝葉が車に当たったり、運転する人の視界を遮ったり、信号や標識を覆い隠すところも少なくなく、とても危険です。そこで、幹に近いところから大きな枝をバッサバッサと切り落とす。そのことを強剪定と呼ぶそうですが、その痛々しい木々の姿が私には無惨に映ります。木の幹が成長して、歩道のアスファルトを押し上げている様子も見かけます。バリアフリーではないし、人や自転車の通行の際、やっぱり危ないなーと感じてしまう箇所は少なくありません。

そんなさまざまな樹木を見るに連れ「木を解放してあげたい」と思うようになりました。当たり前なのですが、木は好きで道路脇に生えているわけではありません。やれ緑化推進だ、癒やしだ、環境だと、無理やり狭い空間に植えられ、大きくなりすぎるとバッサリとやられてしまう。ギロチンと表現されるくらい、殺伐とした気持ちになります。熊本は全国でも表彰を受けるほど小中学校での緑化活動が盛んなのですが、教育的な観点からも、あの様子を見たら台無しでしょう。

私も行政の側にいたので、ある程度気持ちはわかるんです。維持管理の予算が少ない。緑化を求める声もある。景観も大事。一方では、落ち葉の掃除が大変。虫に刺された。などの苦情も多く、一気に剪定してくれ、できれば撤去してくれとの声は少なくないんです。いわゆる板挟みといったところでしょうか。

思い切って言えば、「街路樹は要らない」。木が自由に成長できないような所に植えてはいけないと思います。街路樹の効果は理解した上でも、やめた方がいい。どうしても必要なら樹木の植生を十分に理解した上で最低限にすべき。そう思います。

言うまでもなく木にも命が宿っています。ウクライナでは戦争が終わりません。相変わらずコロナも猛威を奮っています。命を大切にすることを、もっと身近なところから考えていく必要がありそうです。桜、満開の木々を見ながら、改めてそう思いました。




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