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しゃべりのテクニックを磨く

文章に書き残すことは、とても意味があり、大事なことと思っています。しゃべり言葉は、なんとなくの雰囲気や、抑揚や強弱をつけたり、畳み掛けたりすることができるので、慣れさえすれば、テクニックでその場を誤魔化せるようになります。しかも録音や録画でもされない限りは、その場限りで、後に検証されることはありません。

ところが文章は、後々まで残ることになり、仮に間違いがあればずっとそのまま。もちろんネット上ではあとで修正することは可能ですが、修正前のものがずっと残ってしまうことだってあり得ます。ましてや、本として出版でもしようものなら、増刷する機会でもなければ、永遠にそのまま。印刷後に気付いたのか、修正箇所を記した紙片が挟まれていることもありますが、いつの間にか失くしてしまうこともあります。だからこそ、文章に残す際はいつも緊張してしまいます。

私はこれまで、人前でしゃべる機会が多くあり、お世辞が含まれているのは承知の上で、「しゃべるのが上手い」と言われることもありました。ところが、自己評価ではいつも厳しい点数で、終わった後に自己嫌悪に陥ることも多々ありました。ただ、だからといって「苦手なので」と避けるのではなく、「もっと上手くしゃべれるようになるためにはどうしたらいいのか」それこそ試行錯誤の連続でした。その試みの一つが、あえて文章にすること。抑揚も強弱も関係なく、聴衆が生み出す雰囲気に包まれるでもなく、ただひたすらに言葉を繋ぐことに専心する。そうすることできっとしゃべる言葉も磨かれてくるのでは、そう信じて取り組んできたものです。成果が上がったかどうかは計りかねますが。

あらためて自分の文章を読み返して気になるのは、「思う」や「のようだ」といった婉曲的な表現が多く、言い切りが少ないこと。できるだけ校正の際に修正しているつもりの「など」「等々」が多いこと。これらはいずれも、あとで突っ込まれたときを想定した、逃げの言葉。本来、自分の思いを伝えるのに正解や模範解答は無く、逃げも用意する必要は無いはずです。政治家が、逃げとして多用する「現時点では」や、謝罪の際に用いる「もし誤解を与えたとするなら……」といった表現は決して使わなくなったものの、まだまだ及第点はほど遠いようです。

このnoteも昨日で250回になりました。こりずに「もう少し続けよう」と考えているところです。

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