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先祖と思いを分かつ場所

お盆にまつわる墓参りの話題を一つ。我が家の墓は山の斜面を整地して造られた墓苑の中にあり、駐車場から急な坂道を登った高台にあります。息を切らせながらお墓に着き、振り返ると、いつもながらとても見晴らしのいいところです。少しだけ周囲を掃除して、持ってきた花を生けて、ろうそくと線香に火を灯す。それは墓参りの前のルーティーンのようなもので、線香の香りを確かめながら、静かに手を合わせました。

その日は、午前中の曇り空とはいえ湿度が高く、汗が滴り落ちるほど。蝉の大合唱に包まれるとともに、近くには高校の野球部のグラウンドがあることから、打球音や部員たちの元気な声も入り混じります。しばらくすると、うるさく感じられていたそれらの音も静寂に変わり、暑さを感じなくなるから不思議です。

ここには代々の先祖が眠る場所。私がこの世に生を受けてから亡くなったのは、祖母と両親。私が生まれる前年に他界した祖父は、もちろん面識はないのだけれど、結果的に同じ仕事をすることになったこともあり、祖父をよく知る人たちから色んな話を聞かされていました。時には、この地に眠る一人ひとりに語りかけることもあり、私にとって大事な時間を過ごす場所でもあります。

誰かが「お墓参りでは『お願いごと』するものではない」と言っていました。「確かにそうだよな」と思いつつも、最近の家族の動向の報告を終えると、「家族を見守っていてほしい」ことから、昨今のコロナの感染、相次ぐ水害、終わりの見えない戦争、世界的な不景気等々の現世にいると、ついつい「平穏な世の中であるように」などとお願いしたくなります。

言われた方は迷惑かもしれませんが、戦争や幾多の天災も含めて、大変な世の中を生き抜いた先人たちを思い、その声に耳を傾けてみると、「今を生きるあなたたちがもっとがんばりなさい。私たちはそれを見守っているから」と率直に、優しく返してくれたように思いました。

先日は宗教や信仰のことをとりあげました。ここでは、なんの教義を意識することなく、決まりごとがあるわけでもなく、ただ手を合わせて無心に祈れることができます。そのことに、ただ感謝したい気持ちになりました。今度はお彼岸になるのかもしれませんが、またとりとめもないことを話に行こうと思っています。

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