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対立の構図に潜む無関心~社会の根底に脈々と

最近、「目的は同じなのになぜ対立するのだろう?」と感じることが、よくあります。
目指すところは同じでも、そこにたどり着くまでのルートや手段はさまざまなはずです。「違いがあって当たり前」、皆さんはそう思いませんか?
 
日本人は議論が苦手だといわれます。最近学校では、特定の論題について肯定派と否定派に分かれて討論を行い、相手側もしくは第三者に対して理論的に説得を行う『協議ディベート』が採用されています。そうした経験のある若い世代は議論することを身に付けているのかもしれませんが、社会全体からすれば、“論じる”ことに抵抗がない人は、まだまだ少数派なのではないでしょうか。
 
「とにかく声の大きい人の意見が通る」――残念ながら、それが今のご時世です。一方的に延々と主張することはできても「相手の考えを聴きながら、自分の考えとの一致点と違いとを整理し、理路整然と考えを述べる」そんな人に出会うことは少ないですよね。

そして、どんな世界でもよくあるのが「あいつの言うことには反対!」と、嫌いな人の意見は全く受け付けない『駄々っ子理論』。あなたもどこかで見聞きしたことはありませんか?『人間の性』と言ってしまえばそれまでですが、目的を達成するために、本気でよりよいものを創ろうとするならば、人の好き嫌いは別なはずですよね。イデオロギーの対立は認めたとしても、イデオロギーとは全く別次元のテーマで対立している場面などもよく見かけることがあります。
 
私は行政の長を務めた経験から、行政に対して一方的に文句を言う人が多いと感じていました。もちろん行政側に問題がある場合もありますが、自分に都合がいいように無理難題を押し通そうとする人は結構います。また、行政側もそんな場面に慣れてしまうのか、クレームに対して「またか」という感じでまともに受け止めようとせず、たとえ行政側の過ちであってもなかなか認めようとしないというケースも珍しくはありません。そうなると両者の溝は深まるばかりです。
 
『対立の構図』とともに深刻だなと思うのが『無関心』。自分に直接関係のないことには努めて無関心を装う。たとえ、それが公金が使われていようと、次世代に悪影響を及ぼしかねないような問題に対しても。
 
『対立と無関心』、それが現在の社会の根底に脈々と流れているような気がしてなりません。
それらを乗り越えてよりよき社会に近づけるため、私たちは何をすればいいのでしょうか。
そのヒントは対話にあります。対話からの気づき。気づけば無関心は興味へと変わります。他人事から自分事へ。まずは私との対話から始めてみませんか。

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