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移民の父の思いを今に

なかなか収束の兆しが見えないウクライナ戦争。先日、岸田総理が難民の受け入れを表明しています。続々と国境を越えポーランド等に向かう、ウクライナの人々の様子をニュースで観ながら「どのくらいの人たちが海を越え、この遠い日本に救いを求めるだろうか」と思いつつ、少しでも早い収束を願うばかりの自分に、もどかしさを覚えています。

そんなことを考えていると、今朝は「"移民の父"銅像消えた」という地元紙の記事に目が止まりました。記事によると、1908(明治41)年に日本からブラジルに向かった第1回移民船・笠戸丸を率いるなど、『移民の父』と呼ばれた上塚周平氏の功績を称えてサンパウロ市内に建てられた銅像が行方不明となり、金属盗にあった可能性が高いとのこと。元々貧富の差が激しいと指摘されるブラジルでは、コロナの影響もあり、近年特に治安が悪化し、マンホールの蓋などが大量に盗まれるのも日常で、紛失したものが戻ってくることはまずないとも報じていました。

実は私は2008年『熊本県人ブラジル移民百周年』を記念する行事に参加するために、ブラジル・サンパウロを訪れたことがあります。現地には、ブラジルだけでなく、南米各国から日系熊本県人会の皆さんが集い、さながらリオのカーニバルの会場のように、日付が変わってもサンバのリズムで踊り続け、心から歓待してくれましたが、その際も、移民の労働・生活環境を少しでも改善しようと、日本とブラジル両政府を奔走した上塚氏の功績について熱く語ってくれました。

その時、私は、飛行機を乗り継ぎ丸一日かけて移動。日本からすれば地球の裏側にあたるわけですから、その遠さを実感したものです。1908年、上塚氏たちが初めて渡った時はもちろん船で、2カ月近くもかけて荒波を乗り越えながら、ブラジルへとたどり着いた移民の人たち。おそらく無事に着いても、過酷な環境にさらされ、さまざまな苦労があったことは容易に想像されます。

過酷な環境にありながらも、夢や希望を抱きながら新境地を切り拓いていった人たちの思いが、2世、3世へと代々受け継がれ、上塚氏がその象徴的な存在であったとすれば、その記憶を残すためにも「なんとかできないものか」と考えるのは私だけではないと思います。

寄付を募って再建することも考えられますが、資金面だけでなく、その後の管理の問題などもあるでしょうから、まずは現地の人たちの今後の動向に注目し、できるだけ応援していきたいなと思っています。ウクライナもそうなのですが、遠く離れていても、しっかりと気持ちでつながっていたいものです。

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