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【短編小説】鋭角

人の顔色を窺って生きる、自分のことを何一つ誇れないつまらない女学生の「私」がある日、数学教師からの視線に気付く。友達という名の信用できない級友たちの中で一人きりのまま、「私」はその視線の意味を思う。 どんなに些細でもいいから、自分に誇りを持つということについて考えた作品です。

 先生と目が合うようになったのは、少し前のことでした。
 数学の成績の悪い私を、疎んでいるのかと初めは思いましたが、私が気付けばすぐに逸らす先生の視線に、人を疎む時にある悪意や嫌悪は伴っていないようでした。

 ええ、私も学校生活に慣れていますから、分かります。
 人の悪意や嫌悪の伴った視線は、目を上げて確認せずとも、薄ら寒いような気配になって感じられます。
 私たちの年頃は皆、そうじゃないでしょうか。そんな視線に鈍感でいられるほど、私たちの暮らす世界は安らかで平和なものではありませんから。

 先生は、私たち女子生徒には、何を考えているのか分からない大人、として興味の範疇外に置かれていました。
 人気があるのは、若くて冗談を言ったり、生徒を生徒というよりは友達のように気軽に話をしたりするような先生で。比較的若くても、あの先生は生徒に冗談の一つも言いませんし、数学の授業も生徒に理解させるというよりも、数学の定理について先生が一人で話をするだけの時間で、私を含む生徒たちは注意されないことをいいことに、数学の授業は誰も真面目に聞いてはいなかったと思います。


 先生と目が合うことに気付いてから――とは言っても、私が勝手にそんな気がしただけで、ほんの偶然が重なったというだけかもしれませんが――、私はその視線に気付いていないよう振舞う努力を、無意識のうちにしていたように思います。
 教室で友人と他愛もない話をしている時。誰が好きかとか、放課後に何を食べに行くとか、そんな他愛もない話です。
 うっかりすると、誰が嫌いだとか、気持ち悪いとか、そんな話にもなりますが、先生の視線に気付いてから、そういった話には乗らないように気をつけるようになりました。
 ――女子生徒なら、誰しも知っていると思いますが、誰かの悪口を言うほど簡単に親しみを示す方法はありません。誰かをこっそり悪く言うだけで、仲良くしたい相手に本心を明かしたように親しみを示すことができるので、うっかりするといつ仲間外れにされてしまうか分からないこんな環境では、悪口を言うことが一番簡単な味方の作り方なのです。
 ――それについては、友達に気取られないよう気をつけなければなりませんでした。
 私は普段どおり振舞っていなければいけないのです。でなければ、先生の視線に気付いていることがばれてしまうし、それがばれてしまえば、私を見ている先生が女子の悪口の槍玉に上がってしまうのが目に見えているからです。


 嫌では、ありませんでした。
 少しでも嫌だと思っていたら、きっと率先的に友達に自ら先生に見られているということを告げ口していたでしょう。
 ……私だけが、性格が悪いだとか、卑怯だとか思わないで下さい。私でなくても、同じことです。
 この閉鎖的な教室という環境の中で、毎日穏やかに居場所を確保していくためには、先ず自分の立場を守らなければなりません。友達という形だけの級友たちとの関係次第で、この狭い教室の中で過ごす毎日が、平和にも地獄にも簡単に変わりえるのです。
 理解して貰えるかは、分かりませんが、少なくとも私にとっては、友達という人間関係を保つことが何よりも大事に思われました。

 信用を失うこと。
 「どうして言ってくれなかったの」と秘密を教えてくれなかったと糾弾される時の、逃げ場のなさは想像に難くないと思います。その後に待ち受けているだろう逃げ場なく息苦しくて長く続く居場所を失った日々も。


 話が逸れてしまいましたが、先生のこと。
 私は先生のことを守ろうとしたのかもしれません。いえ、先生を守るというよりも、私を見出してくれる視線を、と言ったほうが間違いのない気がします。

 本や映画や級友たちとの会話の中で、毎日と言ってもいいほど話題になる恋愛を、経験したことのない私にとって、誰か男性が私に気を留めていてくれる状況が、珍しく嬉しかったのかもしれません。
 ——そう、嬉しかったのだと思います。
 歌や映画で描かれる恋愛は、美しい男女に限られた特権的なもので、制服を着て毎日を暮らす私のような派手でもない女子生徒にとって、無縁なものでしたから。
 目新しさ、というよりも、安堵と言ったほうが良いのかもしれません。派手できれいな大人っぽい同級生だけに付随する恋愛の噂は、私には一生縁がない、それどころか私には人に好かれる資格もないのじゃないか、そんな風に思っていましたから。
 自分を守るためとはいえ、人に嫌われないように振舞う、それを最優先にして日々を過ごす特に綺麗という訳でもない私のような中学生が、誰かに好意を寄せられる訳はない、そんなことはとっくに分かっているつもりでしたから。


 ええ、私のことを好きでいてくれる人は、居ないんじゃないかと思っています。友達という名前の級友たちも、私のことを好きだから友達でいるのではなく、話し相手として具合が良いというだけのことだと。
 分かっています。私にとってもそれで十分です。


 私は先生の視線に気付きつつ、気付いていない振りを続けながら、考え続けていました。
 先生が私に留意していたとして、その理由がどうしても分かりませんでした。数学の成績が悪く疎ましく思うのでなければ、女子生徒としての一並びの中で目を留めるとしたら、女子生徒の中でも派手で目立つ生徒に目が留まることと思います。
 成績が良くて、運動部で背が高く、痩せて大人びていて気が強く、人の顔色を伺わず自然と話題の中心に居る、そんな子に。同級生から見ても完璧に見えるそんな子に、私が勝てることなんて何一つないと思います。

 先生は、私のことをからかっているのでしょうか。
 恋愛など経験もない地味な中学生を気にかけている振りをして、私が気付かぬ振りをしながらも、内心動揺している様を見透かして、面白がっているのでしょうか。

 ――そう思いたくはありませんでしたし、そう信じるつもりもありませんでしたが、そう考える以外に、見ているだけで声をかけてくるわけではない先生の、気持ちの程は量りかねました。


 不思議に思えば思うほど、理由を考えれば考えるほど、私は息が詰まっていくような思いを感じました。

 出口がない思考に窒息してしまうような。
 友達に話せば少しは気が晴れたのかもしれません。ですが、私はそうしたくはありませんでした。
 誰かに話せば、全てが壊れてしまう。
 その他大勢の中から私を見出してくれた初めての人と、その視線によって優越感にも似た自信と安堵を持つことができるこの状況は、私にとって救いにも似た幸運でしたから。


 そうは言っても、もし実際に話しかけられてしまうと、私はどうすれば良いのでしょうか。
 万が一に愛を告白されたとして、私は先生に特別な感情を抱いているわけではないのですから、私はその真剣な告白を受け止められるとは思えません。
 冗談として茶化してしまうことは避けたいけれど、それが一番妥当な逃げ道なのかもしれません。同級生には秘密で先生と恋愛をしてしまう、それは級友たちにとって優越感を覚えるためには有効な手段かもしれませんし、恋愛というものに私自身興味がないと言えば嘘になりますが、私自身に先生に対する特別な想いがないのに、好かれているのが分かったからといって、「はい分かりました」と恋愛をしてしまうほど、私は安っぽくないつもりでいます。
 先生を否定するつもりはありませんが、私はこれから大人になって、今よりは魅力的に変わっていく中で、特別に好きな人が出来て、愛したり愛されたりするものなのじゃないかと人並みに夢を見ていたりもしています。


 考えれば考えるほどに、私はどんどん自分が醜く愚かな馬鹿のように思えてきました。
 何故私がこれほどまでに、思い悩み、考えなければいけないのでしょうか。そんな義理はないはずです。先生に特別な恩があるという訳でもなく、先生に嫌われたくないというような恐れがあるわけでもないのです。


 私は、先生の視線を意識しながらも平静を保ち、その中で考えることに疲れ始めていました。
 先生の視線が気にならなくなったと言えば嘘になりますが、私は少しその状況に慣れ始めたのかもしれません。
 ――考えるのは、もうやめよう。
 そう思った矢先のある日の放課後でした。先生に初めて呼び止められたのです。




 誰も居なくなった教室で、私は本を読んでいました。
 終礼後、暫くの時間が経っており、校庭からは部活に励む声が時折遠く聞こえ、廊下を行き交う生徒ももう殆ど居なかったと思います。
 夕暮れにはまだ幾分かの間があり、私は家に帰ってしまうまでの寸刻を誰にも見咎められないささやかな自由の時間として、教室で過ごすことを好んでいました。

 がたん、と音がして扉が開き、私は顔を上げました。

 扉に手を掛けたままの姿で、先生は私を見て面食らっているようでした。
 もう誰も残っていないと思ったのでしょう。脇に抱えた教材の束を置こうともしないまま、先生は私を視界に捉えたまま、何かを迷っているようでした。

 幾許かの呼吸の後に、私が再び手にしていた本に視線を落とすと、先生は静かに息を吐き、教室に足を踏み入れ音を立てないよう留意した様子で扉を閉じました。

「こんな時間まで、残っているんですか」

 本に目を落としたまま、私が息を殺して動揺を隠していたことは言うに及ばないと思います。予期していた言葉を裏切る、教師が残っている生徒に声をかける一般的な言葉を先生が選んだことで、私も教室に残っていた生徒として力を抜いて振舞うことができました。

 本から目を上げ、先生を初めてかもしれません、素直に見上げました。

 先生は唇を噛み、目を伏せて次の言葉を考えているように見えました。腕組みをした右手の指を顎に当てるのは、癖なのかもしれません。
 私たち中学生から見上げた大人というのは、全て一緒くたの『大人』という分類に纏められてしまうものですが、素直に見上げたすらりと痩身に白いシャツを着た先生は、近頃の行動や私の懸念を差し引いても、きれいな男性であるように思えました。
 他人事のように、そんな奇妙な冷静さを保った私の前で、先生は小さく何か言葉を口にしようとして躊躇した様子でした。

 私がそれに気付き、言葉を聞き取ろうとした仕草を見て、先生は目を泳がせて、言葉を続けました。

「私は、高校の頃、美術部で」
 予想もしない言葉を投げかけられ、私は俄かに呆気に取られました。

「デッサンも習って、美大も受けたのですが落ちてしまって。浪人ができなかったので、大学を落ちた地点で、絵を描くのは諦めたのですが」

 先生は右手を口に当て、言葉を遮るような姿勢で、静かに言葉を続けました。それを聞く私はきっと滑稽な顔をしていたと思います。予想に反した言葉に、ここ最近の悩みとも呼べるような妄念が消し飛んでいくのを感じました。

「……きみの絵を、描かせてもらいたいのです」

 消え入りそうな小声で、しかしきっぱりと口にしたその言葉が、音として空間に溶けて消え、暫くの沈黙がありました。
 それまで聞こえなかった世界の音が、窓の外を吹く風の音、校庭から聞こえる部活の声、音楽室から聞こえる吹奏楽の練習なんかが、捉えがたい沈黙の中で瞬間を刻んでいくように、耳に遠く届きました。

「先生は、この間から、私と目が合っていましたよね」
「……気付いていたのですか」
「気のせいかとも思ったのですが、私もずっと気になっていたのです。どうして私なんですか? 数学の成績が悪いからですか?」
「……違いますよ」

 そこで、先生は初めて微かな笑いをこぼしました。教室の中に張り詰めていた緊張がほどけたように、空気が緩むのを感じました。

「同級生の私から見ても、もっと相応しい子は沢山いるように思えます」

 口にしながら、私は先生が絵を描くということに、俄かに驚いていました。いつも授業を聞いている生徒がいなくても顔色一つ変えず、感情的になるところなど見たことがない、言ってしまえば無表情の鉄面皮のような、冷たい印象さえ持っていた先生が、美術のような感情的に思える芸術を志した過去があるとは、思いもよりませんでした。

「どうして、と言われても……、そうですね、描いた絵を見てもらえれば分かるんじゃないでしょうかね」

 先生は近くにあった椅子を引き、座って私を覗き込みながら、言葉を続けました。

「十分、いいえ、五分で構いません。きみの横顔を描かせてください」

面食らった私が、思わず立ち上がろうとすると、先生は静かにそれを制止しました。

「そのまま、本を読んでいてください」


 先生は、脇においてあった教材の束の中から一冊のノートを取り出し、胸のポケットに挿してあったボールペンを抜きました。
 私が多少の狼狽を滲ませながら、平静を装おうと再び本に目を落とすと、先生は足を組み、ペンを右手に縦に持って親指で遠近の当たりを取るときの仕草をしている気配がしました。

 動揺を隠そうと、いくら本を読もうとしても字面を追うばかりで、本の中身は一向に頭に入ってはきません。一行を下まで追って改行すると、同じ行をもう一度読んでしまうことが何度もあり、私は姿勢を崩さず本に視線を落としたまま、本を読もうとすることを諦めました。

 耳を欹てると、沈殿してゆく教室の空気の中にペン先がノートの表面を滑ってゆく微かな音が聞こえます。
 姿勢を崩してはいけないのだと思うと、私の体の表面が蝋で固められてしまったように、金縛りにあった時のように身動きできない時特有の重さに支配されていくように思われました。

 顔を動かさぬまま、視界の端で脚組みをしたまま手元のノートにペンを走らせる先生の姿を見ると、先生は、無心という言葉が相応しく思われるほど、無防備な真剣さで視線を落としていました。


 不意に、私は己のことがみっともなく、恥ずかしく思われました。
 級友たちの手前、自分の保身のことしか考えず、一人であらぬ心配をして、これほど真剣な面持ちで絵を描く先生を、優越感の道具にしようとした自分の、魂の醜さとでも言うべき羞恥と自己嫌悪がふつふつと静かに沸き立つのが感じられました。

「……ごめんなさい」
 ペン先がノートに擦れる音が止まりました。先生が顔を上げるのが分かりました。

「何が、ですか」
「……いいえ、なんでもないんです」

 それを先生に弁解する度胸は、私にはありませんでした。
 もっとも弁解する必要も無かったのかもしれません。そんなことを口にすれば、無駄に先生のことを傷つけるだけで、もしかしたら私のことを愚かで馬鹿な生徒として軽蔑してしまうかもしれません。

 私は、先生に軽蔑されるのが、怖かったのだと思います。
 単に人に嫌われることに敏感になりすぎているという部分もあったのかもしれません。ですが、それは私には、分からないことでした。


 どのくらいの時間が経ったのか、私には分かりませんでした。絵が完成して、先生が「できました。ありがとう。もういいですよ」と声を掛けてくるまでの間、私はどのくらいの時間、そこでじっとしていたのでしょうか。
 窓の外は、さっきよりも少し暗さを滲ませ始めていましたが日は暮れておらず、それほどの時間が経ってはいないことを示していました。

 先生は、柔らかい笑みをたたえていました。目が合って気恥ずかしく思え、私は視線を外して小さく会釈をしました。

「ありがとう」

 そう言った先生の顔を見て、懸念していたような、曇った気持ちは微塵も持ち合わせていないことを私は悟りました。

 私は、感謝されるようなことは何一つしていません。
 先生のことを一方的に思い上がりのような気持ちで、一人で勝手に妄想の中貶めていたのですから。

 唇を噛み、俯いた私に先生は描きあがった絵を差し出しました。
「きみはさっき、『どうして私を』と言いましたが」

 差し出された絵の中の私は、内面の濁りや迷いなどと全くの無縁であるかのような無垢な横顔をしていました。

 初めて見る絵の中の自分の横顔に、言葉を失った私に向かって、先生は言葉を続けました。

「御覧なさい。横から見ると、きみの肩はとても美しい鋭角をしている」

 誰も聞いていない授業の中で、数学の定理の当然さについて語る時にも似た、先生の自信に満ちた様子に、私はそれまで支配されていた自己嫌悪の重力が掻き消えていくのを感じました。

「……肩、ですか」

「ええ、肩です。これほど美しい曲線を写し取れたことを、僕は絵を描く人間の一人として嬉しく思いますよ。どうもありがとう」

 私は笑いを堪えることができませんでした。急に笑い始めた私を前に、先生は「どうかしましたか」と顔を曇らせました。

「いいえ、いいえ、ありがとうございます。美しいなんて、言ってもらったことが初めてだったので。嬉しいです」

「良かった」
 屈託のない顔をして照れたように笑い、先生は席を立ちました。

「時間を取らせて申し訳ありません。きみももう帰りなさい」
「はい」


 私の抱いた邪念や懸念は消え、身軽になったような気持ちで歩く、その日の帰り道に、私は先生に貰った言葉を反芻していました。

 他に目を惹くだろう生徒も沢山いる中で、先生が私を描きたいと思ってくれたことが、素直に嬉しく、誇らしく、今まで特に大切に思ったこともないのに「美しい」なんて言葉をかけてもらえた自分の肩が、少し愛おしく自慢に思えました。


 他人の顔色を伺って日々を暮らすのは、もうやめよう。
 私は、「美しい曲線」という言葉をかけてもらえた肩を持っている。
 自分のことを少し大切にしよう。自分に少しの誇りを持とう。そんなことを考えながら歩くと、毎日歩く見飽きた通学路も、自分の両の脚で支えて体を運んで歩くことが、楽しく嬉しく思えてくるから不思議でした。

 ――歩かされているのではなくて、歩いているということ。

 ――生かされているのではなくて、生きているということ。

 ――存在させられているのではなく、存在しているということ。

 自分の存在に対して、そういったことを初めて意識したように思います。


 私はきっと、この日のことを、何十年後にも覚えていると思います。
 もし、自分の人生で分岐点があったとしたら、あの日の放課後に、先生に素直に向き合ってみたことだったのでしょう。

 先生とはその後、個人的な会話はあれきりありませんが、廊下で会うと会釈を交わすようになりました。あの日に絵を描いてもらったこと、あの日に「美しい」という言葉を貰ったことは、誰にも言っていません。

 私は人の顔色を伺うことをやめましたが、恐れていたように居場所を失うことにはなりませんでした。
 身軽に振舞っていれば、案外自分で自分の居場所は用意できるものなのですね。そんな簡単なことも、怯えている限り、私は永遠に知ることがなかったのだと思います。

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