【短編小説】手
◇
午前三時を回ると、弛緩した空気がファミレスの店内を重くさせ始める。
木曜日の午前三時。見回してみると広い店内に居るのは、スーツのままテーブルに突っ伏して眠るサラリーマンが数名と、居場所がなさそうに身を寄せ合う老夫婦。携帯を覗いて笑いあっている飲み屋で働いているらしき化粧の濃い女の子たち。テーブルを囲んでカードゲームに興ずる大学生だろう男の子たち。そして私たちだけだった。
電車の終わった平日の夜に、ファミレスに溜まって朝を待つ人々には、それぞれ理由があるのだろう。仕事があるだろうサラリーマンは、着たままのスーツでお風呂にも入らず会社に向かうのだろうし、飲み屋の女の子は仕事の後の一息をついているように見える。大学生は授業の取り方で朝から行かなくてもいい日があるし、行かなきゃいけないとしても朝まで待ってその足で講義に出るのかもしれない。
私は店内奥の席でテーブルに頬杖をつき、視界にある彼らそれぞれの生活と、こんな平日の夜中にこんな場所で始発を待っている理由をそれぞれに思い描いてみていた。
老夫婦は広いソファに並んで座り、寒さに耐えているかのように身を寄せ合っていた。煙草を喫うおじいちゃんに、毛糸の帽子をかぶったおばあちゃんがもたれかかり、昔のロマンス映画のポスターにある構図みたいだ、と思う。あの夫婦は昔のロマンス映画の頃からああやって身を寄せ合って生きてきたのかもしれない。誰も知らない場所(たとえば深夜のファミレス)で、身を寄せ合う恋人たち。なんて美しい人生なんだろうと、他人事だからかもしれないけど感嘆を覚える。
永遠の恋人。結婚しているバイト先の主婦たちの口からは「そんなものは存在しないまやかしだ」なんて言葉が聞こえてくるけれど、ああやって永遠の恋人たちで居続ける人たちも居る。自分たちが生活に追われて恋のイメージを失ってしまったからと言って、それが世の中には存在しないと言い切ってしまうって、心が貧しい証拠じゃないのかと、物知り顔に結婚を語る三十過ぎの生活に疲れた主婦の話を聞きながら、私は内心で軽蔑を飴のように舐め続けている。口から飴の匂いが漏れてしまわないように気を付けながら、真面目に耳を傾ける表情を作り、私は舐めても小さくならない軽蔑という名の飴を舐め続けている。
明日は、というか日が昇れば木曜日だ。私のバイトしているファストフードは繁華街にあるため、週末が一番忙しい。だから金曜日の夜から土日にかけてお休みをもらいにくいけど、今日みたいな平日は比較的遠慮せずにお休みを貰うことができる。
明日は休みだ。朝になって電車が走れば、家に帰ってお風呂に入って、暖かい毛布に包まってゆっくり眠ることができる。目覚ましなんてかけない。目が覚めれば一日が終わってしまっているかもしれないけど、それはそれでいいと思う。今日、お休みを貰っていて、本当に良かった。
テーブルに突っ伏して眠っていたエミリちゃんが急に身を起こしてメニュー表に手を伸ばした。
「何か頼むの」
ララちゃんも身を乗り出して、テーブルに広げられたメニューを覗き込む。
「うん、甘いもの」
「パフェにしようよ」
「寒いよ」
「そうだね、……じゃあ、あたしこれにする」
エミリちゃんが赤い付け爪の先で指したのはアップルパイだった。
「いいね、私もそれにする」
「え、頼まなくてもつつけばいいじゃん。あげるよ」
「そう? ありがと」
ララちゃんがテーブルの上に備えられたボタンを押すと遠くでピンポン、と電子音が響いた。
「ユリちゃん、何か食べる?」
黙って見ていた私にエミリちゃんがメニューを押してよこす。私はメニューに掲げられた体に悪そうな食べ物の写真を一瞥して、
「ううん、いいや。冷めちゃったから、紅茶だけ貰いに行く」
と答えた。
「じゃああたしも。カフェオレ貰う」
それまで黙っていた月子ちゃんが「いこ」と私を通路の方へ押しながら促した。月子ちゃんの顔を見返して、私は小さくうなずく。
「行ってくるね」
「行ってらっしゃい」
俯いて携帯をいじっていたララちゃんが、目線を上げて指先をヒラヒラさせて見送ってくれた。ララちゃんはいい子だ、と思いながら口の両端を持ち上げて応える。私は彼女がどんな暮らしをしてるのかすら知らないけど。
私に続いて席を立った月子ちゃんは、今日居る五人の中では私と同じ匂いがする子だ。
――付け睫毛や付け爪をせず化粧が薄いというか常識的な、言い換えれば地味な、という意味で。
エミリちゃんやララちゃん、ソファの端に持たれて眠り込んでいるベルちゃんは、そういう意味で派手な子だ。よく言えば華やか。グロスをたっぷりと唇に乗せ、念入りに髪を巻いて、念入りにチークを頬に乗せる彼女たちは、どこへ行っても人目を引く。
どうしてあんなに華やかなエミリちゃんやララちゃん、ベルちゃんが、こんなに普通の私や月子ちゃんと一緒に居るのか、私たちを見かける人は疑問に思うかもしれない。
私自身そんなことはよく分からない。ただ一つ言えるのは、私たち五人が集まるのはあのバンドのライブの日だけだということだ。
「今日のライブ良かったよね」
「そう? A声出てなくなかった? Bもギター間違えてたし」
テーブルに届いたアップルパイを突きながらララちゃんが言う。物知り顔をしたがる月子ちゃんがいつものようにダメ出しをして、見た目よりも大人な彼女たちは月子ちゃんの反応に嫌な顔もせず「そうかなー」と顔を見合わせている。
「気付かなかったよ、月子ちゃん耳いいね」
皮肉にも取れるエミリちゃんの褒め言葉を好意的に受け止めて月子ちゃんは満足げに笑った。
「演奏がどうとか、音楽的にどうとかは、別に評論家じゃないしいいんだけどさ。今日のAの服よかったね」
「可愛かった! もっとフリルのブラウス着たらいいのにね」
「だよね」
感想一つ言う度に、同席している彼女たちの顔色を窺わなければいけないなんて、いや窺わなくてもいいのかもしれないけど、性格的になのか、彼女たちを不愉快にさせないために私は自分の素直な感想なんて、言いたくても喉の奥に飲みこんでしまっていることを自覚する。
「良かったよね」
何が、という部分には言及せず、私は曖昧に頷いた。
「だよね」と私の顔を覗きこんで彼女たちは笑う。鮮やかなピンクのワンピースを着て、大きな偽物のパールのネックレスを首からかけたララちゃんは、近くで見ても六十年代のバービー人形を等身大に拡大したかのように見える。真黒のワンピースにヘッドドレスを合わせたエミリちゃんはストローで緑色のソーダを飲んでいる。私はそれを頬杖をついて黙って見ている。
「ていうか、何の曲やったかあんまし憶えてない」
「わかる。必死すぎて全然記憶がないとかよくある」
ライブ中の彼女たちは、履いている十センチを超えるヒールを脱いで、裸足でステージ前の集団に飛び込んでいく。靴を脱ぐのはライブのマナー。人を踏んでも怪我をさせないように。そんなルールがまかり通るなら、ライブハウスは全部畳敷きならいいのにと思う。
両手をボーカルのAに向かって必死に伸ばしながら、あの人で揉みくちゃの最前エリアで彼女たちは何を思っているんだろう、と私は人に押されるのが嫌で後ろの空いているところに立ち、ステージとそれに群がる女の子たちを遠く見守る。
あの揉みくちゃになる人々の頭の上に突き出された腕の青い石の腕輪はララちゃんだ。
ステージの明かりに光が反射しているあのキラキラした指輪はエミリちゃんの指先。
私は壁に凭れて薄まったお酒を飲みながら、前方で繰り広げられている地獄絵図を見ている。何十人も何百人もの女の子ばっかりが飽和状態の通勤電車よりもひどい密度で押し合って、しかも身動きもとれないまま飛び跳ね続けているなんて、実際に見たことある人でなければ想像も付かない阿鼻叫喚じゃないのかと思う。若い女の子が何百人も集まって長い髪を振り乱す、こんな地獄沙汰があるなんて、想像もしたことない人たちは少なくないだろう。
着飾ることを生きる理由にするように過剰に着飾る派手な子のほうが、積極的に前列に身を投じていくのは、着飾る理由が自己肯定というよりも、好きな人に会うからということなのだろうか。
恋愛ってなんだろう、と思った時、相手のために着飾ろうとすることなのかもと私は思う。思いつく限りの、過剰さなんて気にせずできる限りのお洒落をすることが恋愛の定義なのかもしれない、と少し思う。
自分のためではなくて、相手への愛情を着飾る過程の労力に総て注ぐのだ。その理屈で行けば、彼女たちは恋をしているのだろう。歌ではなく、音楽ではなく、Aという存在に。
Aの顔をして、Aの雰囲気を纏ったAという存在に。ステージ上で見るAに。雑誌に載る写真のAに。その横顔や首飾りや唇に纏われたイメージに。Aが纏ったAという仮面に。
Aはおそらく普段の生活やレコーディングなんていう日常では、Aの仮面を被ってはいないだろう。彼女たちはAの被る仮面に恋をしているんだ、A本人ではなくAという仮面に。
そのことに彼女たちは気付いていないのかもしれない。純粋な手の届かない(届くかもしれないと思ってるかもしれないけど)片思いに身を投じていると思っているのかもしれない。でもそんなこと指摘したって何がどうなる訳ではないだろう。ただ彼女たちの機嫌を意味なく損ねるだけだ。だから私は言わない。彼女たちと私を隔てるものがあるとすれば、そこかもしれないと思う。
私はといえば、バイトを休んでライブに通い、彼女たちのように前列に身は投じないまでも真剣に私もAを見守っているから、きっと他の人から見れば、私も彼女たちも同じように見えるのだろうと思う。
バイトに通うために大学を出ても定職に就かず、アルバイトで貰ったお給料は全てライブのチケットや交通費、ライブに行くための服飾費に消える。
ご立派に生きている大人から見れば、私も莫迦で刹那的な女の子に見えるのだろう。別にそれで構わない。ある意味では事実だ、と思う。
ライブの途中、揉みくちゃになる何百の頭越しに時折ステージ上のAがマイクスタンドに手を寄せる。その瞬間、私は息を止めてその両の手を見る。瞬きをするのも惜しいと思われるくらいの短い時間、そして両の手はマイクスタンドから離される。そこまでを見守って、私はようやく息を吐く。
Aの両手が美しいことを、どれほど言葉を尽くして分かってもらおうとしても、誰も共感してくれないだろうことを私は知っている。
私たちはAに対する「好き」という気持ちだけを共有している。どこが好きか、どんなに好きかなんて、話し合ったところでそれぞれの持っている愛情が一番だと思っているんだから共感なんてしようもない。
Aの姿を見ていたいからライブに行くし、Aが笑う写真を見たいから雑誌を買うし、Aに喜んでもらいたいからプレゼントだってするし手紙も書く。
その行動論が共通するからこそ、私たちはお互いに深く言及することなく一緒に居ることができているのだと思う。お互いに身に着けて居る服やアクセサリーを褒め合いながら、誰が一番Aに気に入られているかなんてことを探り合っていることは普通のことだ。みんな気付いているけど口には出さないし、気付いていないふりをしている。
「ライブ良かったー。あの歌聞けたの本当嬉しい」
テーブルに頬杖をついたままララちゃんが思い返すように言う。ララちゃんはAのことはもちろん好きなんだろうけど、純粋に歌が好きでライブに通っているらしい節があって、無邪気に喜ぶ顔は素直に可愛く思える。
私はAの手が好きだ。
好きという簡単な一面で切り取ってはいけないような気がするくらい、Aの手指は美しい。
骨格標本のように端正な配列のAの手指に目を奪われたのは、去年のバイト中だった。いつもの通り店のカウンターに立ち、客の注文を聞いていた時、目の前のメニューを指示したのがAの右手だった。
私は咄嗟にその右手に目を奪われた。細く長く整った指と薄い甲に浮いた骨格と青白く透ける血管。その瞬間に世界は音を消したように思えた。私は瞬きもできずに目の前にある右手を見下ろしていた。
作り物のように整った爪の形。関節の一つ一つの曲がり具合に深い意味が宿るような、そんなことすら思ってしまう完璧に美しい指が、カウンターのメニューを覗き込んでいた。
「ちょっと、お姉さん、聞いてる?」
「え、……あ、失礼いたしました」
我に返った私は、聞き損ねた注文をもう一度聞き、彼の手指を見ないようにしながら暗唱した。
あの指に視線を戻してしまうと、私はあの手を見つめていたい衝動に駆られてしまう。バイト中で、注文を聞いているということすら忘れてしまって、あの手を見ていることだけで、自分の存在や人生なんかの全ての意味が理解できたような気がした。
揃えた注文をカウンターの上でビニル袋に入れて「お待たせいたしました」と声をかけると、美しい手指をした人は「ありがとう」と言い、それを受け取った。
手渡す一瞬に指先が触れ、私は心臓が止まるかと思いながら、笑みを作って会釈をした。一瞬触れたAの手指は氷のように冷たかった。
連れの男性と談笑しながら店を出ていく青年の後ろ姿を見て、あの顔を憶えていよう、と思った。あの男の人の顔を憶えていれば、いつか再びあの美しい指を間近で見ることができると、彼らの背を見送りながら、私は考えていた。
あの美しい手指をした青年の名前がAだということは、彼の担いでいたギターケースに貼られていたシールに書かれていた言葉を片端からネットで検索していると、思ったより簡単に知ることができた。
あの当時、私はAのことを調べることに自由になる時間のほぼ総てをつぎ込んでいたと思う。
バイトの休憩時間に携帯から、バイトが終わると自宅のパソコンから、私はあの青年の手指を再び間近で見たいという一心で、Aのことについて調べ続けた。
三人組のロックバンドのギターヴォーカルであること。それなりに人気があって雑誌に載ったり頻繁にライブをしていること。お客の大半は二十歳くらいの女の子であること。来週の金曜日にはバイト先の近くでライブがあること。
気取った姿で切り取られた写真の中でAは長い指で黒い帽子を押さえていた。その指の造形を見て、私は確信したと言ってもいい。私はあのAの手指に、あの神様の造形とでもいうような、完璧な形をした手指に、恋をしている。
ライブ予定のある日を中心にバイトの予定を組み、私はライブに通うようになった。
幾度か一人でライブを見ていると、お客の女の子の中にも見覚えのある子たちができて、いつしか私は彼女たちと言葉を交わし、行動を共にするようになっていた。
私がAの作る歌や、その顔や歌う姿、その声やパフォーマンスに興味がないということは、彼女たちには隠しておかなければいけないことだった。
彼女たちが生活をかなぐり捨てる勢いで恋をしているAの彼女たちの信じる価値を否定することになってしまうから、私はAの手指にしか興味がないということを、彼女たちに絶対明かしてはいけないと心に決めていた。
悪い子たちではないし、嫌いなわけではない。彼女たちのどこが好きかと問われると困るし、好き嫌いを決めるほど深く彼女たち自身のことを知っているわけではないけれど、私の居場所を与えてくれることは嬉しいし、一緒に過ごして楽しいと思う。
そういう意味で私は彼女たちの純粋すぎる恋心に共感はできないけれど、私は彼女たちが好きだった。ステージの上のAの存在に渾身の恋心を抱く彼女たちの直向きさがまぶしいと思う。
「今度さ、CD出る時に、発売イベントするんだって、知ってる」
携帯から顔を上げないままエミリちゃんが声を上げる。
「サイン会だって。来月発売のCDの整理券で、だって」
エミリちゃんは顔を上げないまま携帯の画面にあるだろう文章を読み上げる。私たちは言葉を挟みもせずエミリちゃんの読み上げる言葉を聞く。
サイン会、ということは、間近でAと話ができるということだ。
顔を見合わせてはしゃぎ合うララちゃんとベルちゃんの嬌声を聞きながら、私はAの手を間近で見ることができるということで、気が遠くなるくらい嬉しかった。
Aの手指を美しいと思ってから、私はどれほどあの手指の形を思い出そうとして見ただろう。
他人の手に執着を感じたことなんてそれまで一度も経験がなかったのに、美しいものを前にすると抗えなくなるのだということを思い知りながら、私はその造形を思い出して何枚も絵を描いていた。
絵なんて描こうと思ったこともなかったし、実際描いたこともない素人の私が、頭の中に貼りついて消えないAのあの手のイメージをぶつけたくて買ったスケッチブックは、もう三冊めになる。
Aの、手が見える写真が載った雑誌は通販をしてでも手に入れて、一枚の写真に写る影の陰影を濃く薄く何度もスケッチブックに写し取る。中学校の美術の時間のデッサンくらいしか絵を描いた経験のなかった私が初めて描いたAの手は、Aの手を見て描いたという事実が嘘だと思いたいくらい下手だったけれど、毎日眠る前の一人きりで過ごせる時間に必ず一枚描くようにしたら、少しずつ上手くなってきているように思える。
Aの手に宿る特別さ。神々しいくらいの絶対的な存在感。完璧な均整。輪郭と陰影。表情。骨の影。中指に嵌められた指輪の石の色。
美しいものを見て絵を描くのなら、美しい絵にしなければいけない。美しさを損なってはいけない。その美しさの結晶のようなものを私の手で掬い取りたい。誰も気づいていない何よりも美しいものを、私だけの宝物にして、絵の中にしまっておきたい。
Aの手指の絵が次第に自分で気に入るようになってから、私は自分のことを好きになれたような気がした。
でもそんなことは彼女たちには絶対に言わない。
言わないというか、言えない。もし言ってしまったら、人に見られてはいけない一番大切なものが無防備に晒されて、きっと私は気がくるってしまうと思う。
誰にも知られてはいけない。だから私はAのことが好きだと振る舞う。Aに恋をしていると思われていれば、それ以上の追及はされないから。
「サインとかってさ、珍しいね」
「最近、出待ちしても殆ど喋れないもんね。人多くて」
「そうだね」
彼女たちはソファにもたれかかっていた姿勢からテーブルに身を起こして顔を寄せ合い、来月のCD発売イベントについて話し続けている。
「じかに会えるなら、プレゼントとか、あげれるよね」
「最近は話せることとかないから、なんかあげてもいいかも」
「可愛い服着ていきたいよね。買わなきゃ」
「あたしも来ていく服ないよ、どうしよう」
彼女たちの笑いあう顔を見て、Aは彼女たちが彼女たちであるために必要なものなんだろうな、と思う。
私にとってはどうなのだろう。AがAでなくても、Aの手をした全く別の人だったとして、これほどに執着していたのだろうか。
私も結局のところ、彼女たちと一緒で単純にAが好きで居ながら、ひねくれた心持で「自分だけは違う」「周りの女の子とは違って私だけ特別」だとでも思いたいだけなのだろうか。
正直なところ、そこのところは自分でもよく分からない。考えようとして見ても、肋骨の隙間に差し込むような痛みがあるように思えて、すぐに考えるのを諦めてしまう。
――私は彼女たちを、見下しているのだろうか?
電車が走り始めた朝の五時に、ファミレスは閉店を迎える。電車を待つ人のためだけに開けていたという姿勢が優しいのか冷酷なのか、だるく重くなった頭ではよく分からない。
駅には平日の早朝だというのに、会社に向かう人たちよりも私たちみたいに無為な時間を朝まで過ごして疲れを貼りつけた人たちのほうが多かった。
彼女たちと、どこでどんな挨拶をして別れたのか、私はどうしても思い出すことができなかった。
*
新作のCD発売イベントでサイン会がある、と彼女たちが話していた通り、イベントの日は日常を過ごすうちに一日一日と迫ってきた。
今回だけは、私は一人で足を運ぶと決めていた。会場で彼女たちに会っても、気付かないふりをしよう。そう覚悟のような気持ちで決めていた。
Aと会って話し、握手をするということは、Aの手を間近で見て、触れることができるということだ。
寝ても覚めても頭から離れない美しい造形のイメージの結晶とも言えるAの手が、実在のものとして目の前に在って、私がその手を握ることができたなら。
――夢に見る程に、白い紙の上に輪郭を象りたいと思うあの手を。あの手を自分の手で触れることができたら、信じられなくて、私自身の存在が解けて消えてしまいそうな気がする。
それで解けて消えてしまったとしても、実際にそんなことがあるはずはないと頭の中では分かっているにしろ、例えば本当に夢にまで見た美しいものに触れて、気が狂って卒倒して死んでしまったら、それはどんなに幸せなことだろうと思う。
涙が出るかもしれない。死んでしまうかもしれない。自分でもどうなってしまうか分からないくらいに取り乱す姿を、無防備に知り合いに見られたくはなかった。
現実では、卒倒することも取り乱すこともないんだろう。そんなことは分かってる。私はがっかりするほどに冷静で、美しいものにも素晴らしいものにも、素直な反応なんてできはしない。きっとA本人を前にしたら、表情を取り繕って現実感のないまま、嬉しくもなさそうに握手して、私の番は終わるんだろう。
黄色い声を上げて喜んで飛び跳ねるような、この日のために可愛い服を着てくるような女の子にはなれない。なれないし、なりたくもない。羨ましいのだろうか。悔しいのだろうか。いや、恥ずかしいのかもしれない。そして明るく元気で可愛い女の子を憎んでいるのかもしれない。
イベントを明日に控えた夜、私はいつもよりも長くお風呂に入り、いつもより丁寧に体中を洗い、お風呂上りには念入りに髪を乾かして、腕や首にまで良い匂いのするクリームを塗った。
毛布をかぶって、暗闇の中で考える。
——明日、私はAに会ったら、何て言うんだろう?
*
イベントの会場になったレコード店の店内イベント会場では、開始時間よりもだいぶ前から店内に着飾った女の子が多くうろついていた。
ベルちゃんやララちゃんに会ったらどうしよう。きっと今日もあの子たちは華やかで、すれ違った人は振り向くほどに強く、可愛い。
今日彼女たちに会ったら、私はきっと劣等感で、卑屈な気持ちになってしまうと思う。彼女たちを憎く妬ましく思ってしまうかもしれない。だから、会いたくない。せめて、私の順番が過ぎてしまうまでは。
そう、願うような気持ちで強く思う。
私の右手にある整理券の番号は百九十五番だった。それほど大きくないレコード店の店内に二百人ちかい人の並ぶ場所はなく、私たちは普段はしまっているのだろう非常階段へ列を作ることになった。非常階段は十段足らずで踊り場を挟んで折り返す。
視界には十数人ほどの姿しかなく、近くに並ぶ女の子たちが寒いと文句を言う傍らで、彼女たちの姿が視界にないことが幸運に思えた。
列が進むに従って、数段降りて、再び鞄を床に下ろす。前方や後方、上方や下方のあらゆる方向から数百の女の子の喋る声が閉鎖された白い壁に沿う階段に響きあう。
その中で私は一人で、考えていた。Aを前にして、何を言えばいいのかを。Aの手を前にして、私は何を期待しているのかを。
私がどれほどAの手を美しいと思っているかってことは、きっとこの世の誰にも伝わらないことなんだと思う。Aに訴えたところで、A本人にだって伝わらないだろう。だから何かをAに伝えたって無駄なのだと思う。
何かを伝えたいのではなくて、私は私の存在を、認めて欲しいのだ、とふと気が付いた。
そうだ、その一心だったのかもしれない。華やかで可愛く素直な愛情表現のできる女の子たちに感じた劣等感も、冷やかされたり興味本位で覗き込まれたりするのが嫌で、誰にも見せたことのないスケッチブックも、Aの手を美しく思う気持ちを、それでいっぱいになっている私自身を、A本人が認めて許してくれたら、美しい手で私の頭を撫でてくれたら、それだけで私は自分を大切にしてあげられるような気がした。自分を蔑まなくてもよくなるような気がした。
列は進む。当たり前だけど、列も時間も巻き戻されることはない。一歩一歩近づいて、私はAの前に立った。
Aは笑顔を作って「こんにちは」と言った。私は喉の奥が詰まってしまい、しどろもどろになりながら、Aを直視できないまま、頭を下げた。
気にも留めず、Aは油性のマジックを持ち、CDにすらすらとサインをした。ペンを持つ指先を私は息を止めて見つめる。ささくれひとつない白く細く長い指。骨の影。血管の浮いた薄い甲。爪の色。指輪の石の深い青。
「はい」という声とともに手渡されたCDを受け取ると、Aは私の顔を初めて直視した。
「ああ、よくライブに来てくれてるね。ありがとう」
顔を憶えられていたことに動揺しながら、Aの差し出した右手を握る。大きく華奢で冷たい手指だった。
「はい、有難う」
Aの手指が幻のように私の右手から離れて、Aが再び私に向いて、笑顔を作って見せた。終わってしまう。
次の瞬間には、私はこの機会を、失ってしまう。さっき何度も口の中で反芻した言葉を、私は掌を握りしめながら、息を止めて一気に発声した。
「あの、すいません、Aさん」
次に並ぶ人に視線を移そうとしていたAは、私の声に反応して、こちらに向き直る。
「あの、頭を、撫でてもらっても、いいですか」
「うん、いいよ」
祈るような気持ちで言葉を一息に吐き出して、頭を突き出すように深く下げた私に、Aは嫌悪感を見せることなく軽く請け合ってくれた。
掌が私の頭を髪の流れに沿って軽く押さえるように数度撫でた。大きくなってから男の人に頭を撫でられたことがなかったな、とAの掌の重さを頭に感じる数秒間のうちに、私は考えていた。
「有難うございました」
取り乱すこともなく、ちゃんとお礼も言えたし、何よりAは私のことを憶えていてくれていた。何より美しいAの手に触れたし、頭も撫でてもらえた。上出来だ。
「さっきもね、頭撫でてくれって言われたの。それって女の子たちの間で流行ってるの?」
Aが屈託のない表情で私に言った。
その一言が、嬉しさと安堵で気を緩めてしまっていた私を打ち砕いてしまうのに十分だったことをAは知らないのだろうと思う。
きっと私があの場で傷ついたことすら、気付いていなかっただろう。私は場の和やかな空気に頬を歪めて笑顔を作りながら、あの場を後にした。
――Aは何も、認めた訳ではなかったのだ。
そんなことは、初めから分かっていたはずだった。
何も期待していないつもりだった。Aの手を目の前に見て、Aの手に触れて、それで十分だったはずなのに。
何も伝わらないことなど、何も期待してはいけないことなど、最初から分かっていたつもりだったのに。
頭を撫でてもらうという行為に、無理やり私の存在を認めさせる意味付けをして、勝手に喜び、勝手に落胆しているだけの話だ。なんて滑稽なんだと自分でも思う。
店を出て道を歩いていると、涙が出て、前が見えなくなってしまった。
頭が割れるように痛い。額が熱を持っていて朦朧とする。私は立っていられなくなって、道の端へ行き、暫く泣いた。ぼやけた視界の中で、私はもう二度と、Aのライブにも行かないだろうという予感を覚えていた。ライブに行かなければ会わないあの子たちにも、もう会うこともないのだろうと思う。
この間の夜、彼女たちと駅で別れる時の言葉がふと甦った。
「じゃあねー」
「またねー」
「おやすみー」
口々に手を振るエミリちゃん、ララちゃん、ベルちゃんの華やかな三人に、私も精一杯の笑顔を作って手を振りかえす。
「じゃあねー」
顔だけ笑顔を作り黙ったまま手を振っていた月子ちゃんが、三人の姿が消えた後で、私に言うともなくぽつりと言った。
「あの子たち、そんなにバカじゃないと思うよ」
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