【中編小説】ワルツ
◇
考える、ということは、大分昔に止めてしまっていた。
僕は、ただ、見ているだけだ。この自分の目の映すものを見る。何も思わず、何も考えず、ただそれを、受け止める。
考えるのを止めてから、どれほど日々を暮すのが楽になっただろう。愚鈍だと笑われているかもしれない。馬鹿だと思われているかもしれない。だからって、それが何だというんだろう。そんなこと、どうだっていい。
僕は、ここに居て、自分の目が映す『日常』をただぼんやりと眺めている。そうやって時間は過ぎてゆき、僕をいつしか絶望しかない景色から連れ出してくれる何かが訪れるかもしれないことを、僕はただ、ここで待っているのかもしれない。
*
ローンを組んで買ったギターを、弦が切れたという理由で捨てた。
理由なんて、どうだって良かったのかもしれない。何より大事だと思っていたものを、手放すきっかけが欲しかったのかもしれない。
手に入れるまでは、店の前を通る度に売れてしまっていないかと覗き込んでは確かめて、時間があれば立ち寄って触らせてもらい、家に帰ってからもネックの太さを指先で思い描くことができるようになって、初めて買おうと決心したギターだった。
昨日のことは、あまり憶えていない。ライブハウスの薄暗がりの中、見慣れた幾人かが笑いあう景色の中に、僕は何も見いだせないことに気が付いた。そして席を立った。
耳鳴りするような音量で流れる音楽が内耳を痙攣させて、麻痺させてゆく。小声で囁かれる噂も、悪意も、悪ふざけも、覆い隠してしまうように。汚れた空気を吸い込みたくなくて、息を止めたまま、控室に置いてある荷物を肩に担いで、店を出ようとした。
「ちょっと、どこ行くの」
カウンターで受け付けをしていた金髪の女が声をかけてきたが、聞こえないふりをして、店のドアに体重をかけて押す。
遮音機能を伴ったライブハウスのドアは、体重を傾けなければ、一人で開けるには重すぎる。そんなこと、毎回思っていたはずなのに、今初めて気が付いたことのように思える。そんな簡単なことも、分からないくらいに莫迦になってしまっていたのかと自分を嘲るように落胆を誤魔化して一人頬で笑う。
「待ってよ、出番まだでしょ」
追いかけてきて、腕をつかもうとした女を見返し「弦が切れたから」と言うと、女は「出番までには戻ってね」と、表情を和らげて店内に戻った。
「買ってくる」とは一言も言っていないのだから、嘘を吐いたことにはならないだろうけれど、一時間後に起こるだろう混乱を思うと、幾分の罪悪感が鳩尾に苦しさを滲ませる。
――考えない。考えるのは、止めたんだ。
そう自分に言い聞かせて、顔を上げると、いつも通りの渋谷の裏通りの喧騒と、見慣れた汚らしい街並みが視界いっぱいに広がった。
*
――家には、帰らない。
行き先はどこでも好かった。『どこか』。『ここではない場所』に連れて行ってもらえるなら、どの電車に乗っても良かった。
――美しいものが見たい。
そう強く願った。
――僕の中の淀んだものを、総て洗い流してしまうほどの。
それだけが、僕を支配する強い願いだった。
*
電車は空いていた。扉が閉まり、動き始めても、車内には自分を含めて数人の乗客しか数えられなかった。時期外れの平日遅い時間に、寒いだけの山間に向かう酔狂な人間はそれほど多くないらしい。
美しいもの、をと考えた時、まず思い浮かんだのが雪だった。
圧倒的に白くて、景色の全てを覆い隠してしまう、白さと冷たさ。静けさ。
そのイメージが予想以上に気に入って、雪へ閉ざされる地域へ向かう切符を、財布に残るなけなしのお金で買った。
座席に深く腰を下ろして力を抜くと、自然に瞼が重くなるのを感じた。ガタンガタンと周期的に体を揺らす音と、窓の外の暗さのせいかもしれない。
瞼を重力に任せて閉じ、揺れに体を任せていると、忘れていたと思っていた色んなことが俄かに浮かんでくる。そのたびに打ち消すように瞼を開けて周囲を見回す。
――大丈夫だ。
再び瞼を閉じて、自分に言い聞かせるように、呟く。
――僕が今、ここに居ることを、世界中の誰も知らない。
その事実だけが、静かに確実に、僕のことを守っていてくれると感じる。
*
列車の着いた先は白く閉ざされた街だった。
地平の境界を切り取る山の稜線を遠くに見ながら、一本煙草を吸う。口からこぼれてくる白い気体は、自発的に吐き出す煙なのか、白い冷たさに凍らされた息なのか、ゆっくりと吐き出してみても区別がつかない。
煙草の煙も、凍らされた息も、同じようなものなのかもしれない、と思う。考えることを止めてしまって鈍った頭では、少なくとも違いは見いだせなかった。そのことが色んなことと重なって思える。
日常を取り巻いていた、様々な人。様々な状況と、優しさと、悪意と不運と、期待と同情。全く違うものでも、自分の愚鈍さのせいで、違いが見いだせないなんてこと、気付かなかっただけで、今までに沢山あったのかもしれない。
気付かないそんな無神経さに、知らず知らずのうちに、誰かを落胆させていたのかもしれない。
――やめよう。
短くなった煙草を足元の雪で消し、バス停に置かれている灰皿へ捨てた。荷物を担ぎなおそうと足元を見下ろして、シャツからズボン、上着や靴や鞄まで、自分の身に着けているものが黒一色であることに気が付く。
真っ白さに塗り込められた白い景色の中で、異物のように真っ黒に身を包んだ自分が滑稽に思えて少し笑った。
――異物でもいい。この真っ白の中を歩いているうちに、僕一人の黒の分量なんか、圧倒的な白さに塗り潰されて、なかったことになってしまうだろう。本望だ。もとから居なかったかのように、白くて圧倒的な雪に塗り潰されてしまえるなら。もう何も思わなくて済む。
*
歩き続けても、不思議と疲れは感じなかった。昨日まで体中に濡れた砂が詰まっているかのように重かった体も、嘘のように軽い。
一歩ずつ降り積もったままの柔らかな雪を踏み潰しながら、僕は何時間も歩いたように思う。
時折、景色の中に光がさして、白さに反射した白さに、立ち止まって目を細めた。
駅から離れてゆくにしたがって人通りはなくなり、果樹園らしき丸裸の木々が群生する界隈を抜けてゆくと、大きな川の傍らに出た。
風はないけれど、頭上高くで雲が流れてゆく。冬らしく白く濁った青さの空が、時折顔を見せては消えてゆく。
凍った空気を切って歩いているうちに、頬は冷たく強張って、内側に熱を持っていることが感じられるようになった。上着のポケットに突っこんでいる指先は冷たくないけれど、革靴で雪を踏みしめる度に滲み始めた氷の気配に、足の爪先が微かな痛みを覚えている。
目的地はないながら、目の前にある道に従って、僕は歩き続けることだけを決めていた。
山の勾配に従って上下する道を辿って歩くうち、住宅街や人の気配のある山村を歩いていた時よりも、空気が澄んで一層の冷たさを増していることに気付く。
空がみるみる暗くなったと思ったら、景色は雪に閉ざされた。音もなく大きな粒が緩やかに空から舞うように降りてきたと思ったら、数メートル先も見通せなくなってしまうまで、時間はかからなかった。
道は山を縫うように続いてゆくところだった。
傘を持っていないので、上着についているフードを深く被って、勢いを増した雪の中を歩いていると、民家もまばらな山の中腹に、廃屋のような古びた二階建ての木造建築があった。
建物前の敷地にバスケットコートくらいの広さの庭を抱え、それを取り囲むように塀があって、道に面した場所に石造りの門扉があった。
雪のせいで顔を上げて仰ぎ見ることも難しい。学校らしきその建物は校名を門扉から外しているところを見ると廃校になって暫く経つという風合いだった。
固く閉ざされていることを予想しながら鉄製の門に手をかけてみると、力を加えるまでもなく、ゆるりと隙間が開いた。建物の中までは入れなくても、入り口の屋根の下で雪を凌げればそれでいい。
雪を踏んで足跡が残ることを少し気にしながら、僕は校舎の玄関へと足を進めた。
屋根の下で、体に付いた雪を払い、荷物を置いて腰を下ろすと、先ほどまで感じなかった重力が再び体の中へ溜まり始めていることを感じた。
雪は勢いを緩めるどころか、音をさせないまま、視界の全てを白く塗りつぶしつつあった。つい先ほど歩いてきた道の足跡も、気が付くともう何もなかったかのように上書きされてしまっている。
――これでいいんだ。
浮かんで来ようとする不思議な感情に目を閉じたまま、白一色に塗り潰されてゆく景色に安堵する自分を感じる。
――自分など、最初から居なかったかのように、誰にも知られない場所で、一人きり消えてしまえればいい。
消えてしまおうとする自分が悲しいことを思い出そうとしたところで、何になるというのだろう。
消えてしまうだけならば、悲しみの記憶など必要のないものなのに。
しゃがみこんだ体の上を行き過ぎた風が、背後にある硝子戸を揺らす音をさせた。ガタガタ揺れる音の隙間に、風の吹きこむ高い音が混じる。
覗き込んでみると引き戸になっているレールを外れて、硝子戸は幾分傾いていた。
これなら鍵もかかってないかもしれないと淡い期待を以て、両手に力を込めて引いてみると、多少の抵抗のあと、体を滑り込ませられる程度の隙間を作ることができた。
使われていない廃屋は、もっと埃と黴の匂いがするのだと覚悟していたけれど、屋内はこざっぱりと片付けられたまま、それほど荒んだ様子はなかった。
玄関の左右には靴箱だったらしい区切りの棚が作りつけられている。上り口の簀子を踏んで、靴に付いた雪を払ってから、ゆっくりと周囲を見回してみると、一階は小作りな体育館のような空間が備えられていた。
荷物を壁にそった場所に置き、室内を見回してみる。奥は台所のように流しが備え付けられている。少し高く作られた天井。壁に寄せられて折り畳まれた卓球台が二台置かれている。木造りのベンチのような長椅子を見つけ、そこへ重さを増している体を少し横たえさせることにした。
――このまま目が覚めなかったら、それでいい。
抗いきれなくなった瞼にかかる重力に意識を途切れさせながら、窓の外の薄暗くなりつつある白さを見て、他人事のようにそう思った。
*
寸時の恐怖に息を凍らせて、目を醒ます。辺りを包む暗さの中に見慣れぬ景色を見て、頭が記憶を辿ろうとする。
何度かの呼吸を経て、記憶を辿った僕の目に、階段の上から漏れる暖色の明かりが滲んだ。
――人は居なかったはずだ。
緊張に身を固くしながら音をさせないように体を起こすと、上着の上に掛けられている見覚えのない毛布に気が付いた。
入り口奥に据え付けられた木製の階段を、音をさせないように気をつけて上がると、二階奥の部屋に、灯りの元があるのが分かった。一階よりも二階の方が幾分か暖かい。
部屋を覗くと、小さなランプを傍らに置いて、女が一人、本を読んでいた。
思わず息を飲むと、足元の床が小さく音を立てた。
女が顔を上げる。気付かれてはいけないと反射的に扉から身を引くと、再び大きく床が鳴った。
「起きた?」
引き戸から顔を覗かせた女は、身を強張らせて緊張する僕を、猫でも手なずけるかのように笑って迎えた。
「……毛布、貸してくれましたか」
「ああ、うん。寒くなかった?」
「……はい」
「良かった。あ、シチューあるんだけど、食べるでしょ?」
そう言うと女は、僕の返答を待たず身を翻して部屋へ戻った。覗いてみると、部屋の中央に置かれた石油ストーブが赤く燃えている上に、金属製の鍋がかけられているのが見えた。
「ちょっと作りすぎちゃって。遠慮なくどうぞ」
無意識に、視線を合わさぬよう目を伏せてしまう。俯いたまま、差し出されたシチューの椀を受け取り、小さく会釈をする。
窓の外は闇に沈んでいた。
この建物にも電気は通っていないらしく、天井から吊られた蛍光灯は取り外されたままになっている。電気のない暗闇がどんなに濃いものなのか、窓の外に広がる一つの明かりも見当たらない夜を見て、この中を歩いてきたのだと、少し恐ろしいような気持ちを覚えた。
シチューは煮込まれた野菜が柔らかく溶けて熱かった。甘い牛乳の匂いが鼻先を擽ると、今まで張り詰めていたようなものが解れて溶けていくように感じた。
女は先ほど読んでいた本に視線を戻している。見ていることを気付かれぬよう、目線を伏せ、添えられたスプーンでシチューを掬う。
――この女は、ここで何をしているんだろう。
人のことを言えた義理はないけれど、この世の果てに来たような気持ちでここに居る自分に毛布をかけて、シチューを差し出したこの女は、一体何者なのだろう。ここで暮らしているのだろうか。電気も通らず、交通手段もなさそうなこんな場所で、一人きりで。
ストーブの炎に照らされる本を読む横顔をまじまじと眺める。
長く伸びた髪が柔らかく肩から背中に垂れている。最初に姿を見た時には、童話に出てくる森の中に住む老婆を思い出してしまったけれど、厚手のウールのケープを肩から被ったその姿をよくよく見れば、頬にも皺はなく、もしかしたら年齢は同じくらいなのかもしれないと思った。
「聞いてもいい?」
遠慮がちにかけられた声に、顔を上げる。
「どうして、こんなとこで寝てたの?」
返答に詰まってしまう。首をかしげて黙っていると、女はこちらをまじまじと眺めながら
「そうよね、困るよね。私もどうしてここでシチュー作ってるのか聞かれたら、何て答えたらいいか分からないし」
と言って笑った。
「……あの」
「何?」
「ここに、住んでるんですか?」
「ううん、今だけ。」
女性の住居に侵入してしまったのではなくて、少しの安堵を感じた。
「でも、今日はもう暗いし、ここで寝ていきなよ」
聞き分けのない子供に言って聞かせるように、顔を覗きこまれて念を押されて戸惑う。返答を待たず、女性は食べ終わったシチューの椀を取り上げて、部屋を出て行った。彼女の遠ざかっていく足音を聞きながら、今夜一晩でも静かに眠ることを許されたのを、僕は素直に嬉しく思った。そんな夜は長らくなかったように思う。眠ることを許されて、安心して静かに眠るなんてこと。
僕はその夜、悲鳴を上げて目が覚めることもなく、久しぶりに悪夢も見ない深い眠りに落ちることができた。
*
翌朝、雪はやんで、昨晩の暗闇が嘘のように、視界は柔らかな光に満ちていた。
「お早う」
かけられた声に会釈を返す。
「珈琲入れたけど」
「……有難う」
女性は調子外れな鼻歌を歌いながら、パンにバターを塗っている。
「晴れたね」
嬉しそうに微笑みをかけられて、曖昧に笑みを返す。
「晴れたから、私、今日買出しを兼ねて出かけようと思うんだけど、暇なら来てくれない?」
珈琲を頂いたら、荷物を片付けてここを出ようと考えていた矢先だったから面食らった。女性の顔を見返す。彼女は何の迷いも疑問も挟まない笑みで、こちらに向いていた。
「珈琲を頂いたら、出て行こうかと」
「どこか、行くの?」
「どこに、っていう訳じゃないんだけど」
「ふうん」
「でも、泊めてもらったし、荷物くらい、持つよ」
「有難う、助かる」
凍った坂道を滑りながら身軽に下る女性の後ろから、ゆっくり付いていく。光る滴が木々の葉先から時折落ちる。
「ねえ、なんで昨日あそこで寝てたの」
振り返らないまま声をかけられる。
「歩いてたら雪がひどくなって、屋根のあるとこで少し休ませてもらおうと思って」
「そうなんだ。どこかへ行く途中なの」
「どこへ、って訳じゃないけど」
「行き先、決まってないんなら、決まるまで居たら」
振り返らないまま、数歩先を滑るように歩く女性の後ろ姿を立ち止まって眺め、「考えない」ということを自分に課していたことを思い出す。
「……そうだね、有難う」
聞こえるか聞こえないかと言うくらいの声で答えた筈が、彼女はすぐに振り返って嬉しそうに笑った。
「本当? 宜しくね。私、べにっていうの。紅と書いて『べに』」
べに、と名乗った女性が振り返って無防備に笑うのを見て、僕はここに居ることを許されたのだということを知る。いつまで、という訳ではないんだろう。とりあえず、今だけは。この今という目の前の時間が、いつまで続くのかは分からないけれど、今だけは、僕はここに居ていいということなのだろう。
どこかへ行かなくては、どこか誰も居ない場所を見つけなければ、と急かされていた昨晩までの気持ちは、昨夜までのように僕を責め立ててはいなかった。
今、だけでいい。ここに居ることを許してもらえるというのなら、その間だけでいい。居場所があるというなら、消えてしまわなくてはいけないと再び思う前に、何かをするための時間があるのだと思ってもいいのだろう。
僕は素直に、紅の提案を有難く思った。彼女が何者だっていい。彼女の素性は分からないけれど、僕に居場所を許してくれるというなら、それだけで十分だ。
*
買い物から戻ると、紅は荷物をぞんざいに床に置いて、両手で高く伸びをしながら入り口脇の、昨日僕が眠っていた部屋へ進んだ。玄関で肩から荷物を下ろし、思わず床に座り込む。
雪は止んでいるとはいえ、雪の積もった山道を、荷物を持って延々と歩いてきたからか、体が重かった。
紅は簡単な柔軟体操の後、ふいに両手を高く上げ、天井を見据えた。ぴっと空気が張り詰める感触がして、思わず息を止めて彼女を見る。
紅は、そのままの姿勢のまま息を整えたかと思うと、両手を強く地面へ吸い寄せさせた。
滝の雪崩る様を見ているような。
彼女の足が強く体育館の床を踏む。地鳴りがするほど強く力を叩き付けたかと思うと、その反動で彼女は身を翻した。
僕は呆気にとられて、彼女の姿を追う。彼女の動きのほかに、世界には音も動きも存在しなかった。彼女が全身の隅々まで力を漲らせて、高く低く、身を翻すさまを暫く呆然と眺めていて、初めて気が付く。
彼女が踊っていることを。
それまで僕が目にしてきた『踊り』という名前の物で、これほど強く烈しいものを見たことがなかったから、すぐに理解できなかったのだ、と遅れてきた思考がゆっくりと視界に追いつく。
軽やかなバレエでもない。情熱的と言われるタンゴや、緩やかな舞踊みたいなものとも違う。踊るということは本来、その体を美しく見せるためのものではないのかもしれない。美しさを表現するためのものだと、思い込んでいたから、彼女の動く様を踊っているのだと気付けなかったのだと、改めて思い知る。
紅の姿は、大地の力のように強く重く、また反面水のようになめらかで、鳥のように軽やかだった。
僕は息をひそめたまま、紅の姿を追った。紅が先ほどまで、僕と談笑していた一人の女性だということを忘れてしまうほど、紅は強く、激しい、炎の姿をしているように思えた。
あまり広くない体育館の隅から隅へと体を振り回した後、紅は身をくるくると床へ崩した。
体育館へ静寂が戻る。窓の外から差し込んでいる午後の光が、舞い上げた塵を透かしてキラキラと光らせている。その中で紅は、床に倒れ込んで、肩で息をしていた。
「……凄いね」
見たままの感想を、そのまま口にしてしまったことを、彼女がこちらに振り向いた時に気付いて微かに後悔する。もう少し柔らかく、褒める意味の強い言葉を、選んだ方が良かったのかもしれない。
「……そう?」
「うん。何て言うか、……目が離せなかった」
言葉を選んで曖昧なことを言うべきか、一瞬迷って、止めた。
目が離せなかったのは、本当のことで、すごい力を、壮絶とも言えるくらいの力を、感じたことをそのまま伝えようと思った。
「……ありがとう」
僕の感想など、紅は期待していなかったのかもしれない。彼女はくるりと寝返りを打って、僕の居る方とは逆の方へ体を向けた。乱れた息が次第に安らかになっていく。
紅の踊る姿は、些細な欺瞞も打算も何もない、そのままの真剣な姿なんだと思った。
美しく見せようとか、そういった打算や嘘や演出のない、そのままの表現が彼女の踊る姿そのものなんだと感じた。
本当に感じたことだけでいいんだ、と思う。
相手の機嫌を伺うような真実味のない褒め言葉や、義理で言うのをお互いに認識した上でやり取りする言葉が濁って感じられる。濁った言葉を、真剣な人に差し向けるのは、軽蔑されても仕方のないことなのかもしれない。
どうしてこう、卑屈に物事を考えてしまうのだろうと、微かな自己嫌悪に身が縛られるのを感じる。
紅には、彼女には、そういった偽物の言葉を向けない。彼女は濁った言葉を見抜くだろう。だから軽蔑されるのを恐れる僕の怯懦のために。居場所を許してくれた彼女に軽蔑されたくないこの気持ちすらも濁ったものであることには変わりがないけれど、濁りを濁りとして気付けないよりは、幾分ましなのではないかと思う。
初めて暗がりで紅を見た時には、本当に絵本の中に出てくる魔女のように思えた。森の中で一人きりで暮らす魔女。老婆のように見えて、近寄ると若い女性になる恐ろしくて、不思議な魔物。
紅の踊る姿は、人間の姿をすることを忘れた炎が巻き上がるように見えた。炎。
消えることを夢にも思わぬ勢いで、総てを飲みこんでいく炎。そしてそれをすべて消し去る怒涛の水の飛沫。大地のように強くて、風のように軽やかな。
部屋に差し込む午後の光の当たる場所で、珈琲を入れて本を読む紅は、老婆にも少女にも見えたし、肩から長く腰まで垂れた髪はゆるく絡んで、陽だまりで寛ぐ動物のようにも見えた。
「この建物さ、もとは小学校だったの」
こちらを振り返った紅が言葉をかけてくる。
「古そうだね」
「うん。随分昔に廃校になって、そのままみたいね」
そう言って紅は部屋を見回す。部屋の前方には当時のままらしい黒板が作りつけられていて、当時はこの教室内を明るく照らしたのだろう頭上の蛍光灯も、光を失ったままそのままの姿で残されている。
この二階の教室の左側にあるガラス窓は端の方が割れていて、そこから外部に伸びている植物が入り込んできている。以前は毎日子供たちが学んだ教室だったということが現実感を失って忘れ去られるまで、どれほどの時間が流れたのだろうと思う。
「もともとここを知ってたの?」
「ううん、何年か前に通りすがって、たまたま。それから時々来るようになったの」
「そうなんだ」
「うん」
紅は片手に持っていた本を床に伏せて、大きく伸びをした。
「冬になるとね、一人きりになりたくなって、ここに来るの」
紅は埃だらけの床にそのまま寝ころぶ。割れた窓から吹き込んだだろう枯れ葉や砂が髪に絡むのを気にしない。
「一人きりになって、踊ることと向き合うの」
僕に向かって言うというよりは、自分に言い聞かせるようにして、紅は小さく呟いた。僕はそれを聞こえなかった振りをして、煙草に火を付けた。
「雪が降って、音がしないから、時間が止まっているみたいで、安心する。真夜中みたいに」
真夜中に一人きりで居るのが、一番安心できるということは、僕にも憶えがある。
誰にも介入されない自分一人の世界。窓の外の暗闇が明るく白むまでは、誰も自分一人の世界を邪魔されることがない。
紅は寝ころんだままの姿勢で、雪の止んだ窓の外の空を眺めているようだった。
*
「ねえ、髪伸ばしてるの?」
「願掛けだよ」
「へえ」
「嘘だけど」
「そういえばさ、どこから来たの?」
「東京」
「静かだね」
「昨日もそう言ってたよ」
「そうだっけ」
「うん」
「……僕は、どこにもない場所に行きたいと思ってたんだ」
「……ふうん?」
「…………」
「どこにもない場所が何かは分からないけど、」
「…………」
「それって、朝の来ない夜とか、終わらない夏休みとか、そういったものでしょ」
「……そうなのかもね」
「あ」
紅の指差す先を、窓の外遠くに追う。
「鳥だよ」
目を細めて、紅の指差す先を追ってみるものの、僕には何も見つけることができなかった。
*
電気の光のない暗闇を、紅は恐れていないようだった。多くの人がそうだと思うのだけれど、懐中電灯や携帯電話の光すらない、自分の手を見下ろしても見ることのできない暗闇の中で、恐怖心を覚えるのは、自然なことだと思う。
「怖くないの?」と問うと紅は、「最初は。でも慣れちゃった」と答えた。
「慣れるものなのかな」
「天気によるよ。晴れてて月の光が入れば、ランプなしでも結構見えるよ」
「そういうものかな」
「うん、それに」
紅は一呼吸置いて、薄暗くなり始めた夕暮れの教室の中を見回して
「この建物は、私たちを守ってくれてる気がする。悪いものは近づけないよ」
と答えた。
*
夕方の六時を回ると、電気のある暮らしをしていた頃には想像も付かない速さで、世界は夜の闇の中に浸されてしまう。
自分の指先をも見えない闇に、僕はなかなか慣れることができず、ストーブの赤く燃える炎の照らす部屋の一角でしか過ごすことができなかった。
そんな夜でも、紅は時折、思いついたようにランプに火を入れて、「下に行ってくるね」と階下の体育館に、踊りに行く。
猫のように普段は足音を立てない紅が、踊り始めたことは遠くに響く不規則だけれど秩序だった足音で知ることができた。
時折、月が差し込む部屋の中、僕は毛布をかぶって丸くなり、小さく響く紅の足音を遠くに聞きながら、自分で蓋をした東京での記憶を、思い出すべきかどうか迷いながら眠った。
*
僕と紅がストーブを囲んで普段過ごしている教室の隣の部屋は、学校が閉鎖された折に、廃材置き場にされているようだった。壁には黒板もあるので、もともとは同じように教室として使われていたのだろうと思う。
ある日の日中に、建物の中を見て回っている時に、隣の部屋の廃材の影に、埃を被っているギターが置かれているのを見かけた。
ここに来てからの生活の中で、削ぎ落としたものは、かつての生活の中心にあった音楽というものだと、今になって思い知る。
毎日暇があればギターを抱えて過ごし、一人きりの時間はギターを触って夜を明かしてという暮らしを何年も続けていたのだから、ギターという楽器と、音楽というものから距離を取りたくて、僕はここへ来たのかもしれないと感じた。
思わず足を止めてギターに目を奪われてしまっていたことに、気が付く。階下から、紅の足音が聞こえ、少し安堵を覚えた。
*
晴れた日に、僕たちは散歩に出た。どこから出したのか、紅がチュッパチャプスを僕に手渡してきて、僕たちは飴を口に突っこんだまま、無言で雪の解けた道路を歩いた。
昼間には道路に積もった雪が溶けると言っても、気温はまだ真冬のもので、僕たちは持っている限りの服を着込んでいたから服の重さで体は動かないようなものだったけれど、紅は何重にも布を巻いているにも関わらず、身軽そうな足取りで歩く。
山近くの道を歩くと、雪が深く積もった上を、地元の人が乗っているらしいホバークラフトが過ぎていくのを見た。
「ああやって滑るのが一番早いのかもね。スキーもそうだし」
「一歩一歩埋まりながら歩くよりはね」
「静かだね」
「うん」
「何かを思い出しそうになる?」
「時々ね」
「あなたは、何者なの」
「僕は、何者でもないよ。……紅は」
「あたし……、あたしも何者でもないな」
「紅は、踊る人でしょう?」
「そうでもないよ。食べるし、眠るし、歌いもするよ」
「そうか」
「うん、そう」
*
建物の中を歩いていた時、教室の壁に掛けられているカレンダーが今年の物であることに気付く。
――紅が持ち込んだものなんだろうか。
普段、時計も見ず、曜日や日にちに無関係に寝起きしているように見えた紅が、カレンダーを持ってきたのだろうか。僕の前では、このカレンダーに足を止めたことはないし、日時を気にする素振りを見せたこともない。
――彼女がこのカレンダーを持ち込んだのだとしたら、どんな理由なんだろう。
思わず辺りを見回して、紅の姿がないことを確かめて、僕は一月を示しているカレンダーに指をかけて、二月、三月、と捲る。一月にも二月にも書き込みはなかったけれど、三月の二十日に赤くペンで丸印が付けられていた。それ以外に書き込みはない。
洗面所で洗い物をする水音が聞こえ、僕は息を殺して、カレンダーの前を離れた。
*
久しぶりに夢を見て、目が覚める。
ついさっきまで、全身を水浸しにしていた絶望にも似た重さが何のためだったか、夢から覚めると手繰ることはできなくなっていたけれど、さっきまで体を包んでいたあの悲しいことしか思い出せない視界は、この場所に来て忘れていたものだったのだと知った。
一つ、深く息を吐いて身を起こす。
月の差し込む夜だった。紅はランプを付けて本を読んでいたようだった。
「うなされてたよ」
「うん、夢見た」
紅は本から顔を上げ、カップのお茶を一口啜った。
「最近、眉間に皺よってなかったのにね」
「……え?」
「最初は苦しそうなくらい、寝てる時に眉間に皺が寄ってたけど、最近は寄ってなかった」
「そう」
「お休み。あたしまだ少し起きてるから、うなされてたら起こすよ」
「……有難う」
横になって、窓ガラス越しに見上げた月が白かった。薄雲が流れて影を落とし、そしてまた白い光が現れる。
「あのさ」
「うん」
「悲しいことを、思い出したりしない?」
「たまに、あるけど」
「うん」
「思い出したって、どうしようもないから、悲しいのよ」
紅は、本に目線を落としたままで続けた。
「でも、悲しいことは大切で捨てられないから、鞄の底へ入れたまま持って歩いて、そのうちに忘れてしまえばいいんだと思ってる」
言葉を返せないでいると、紅は視線を上げて
「お茶、淹れるけど飲む?」
と訊いた。
*
眠っていると、遠くで紅が踊っている足音が聞えることがあった。暗闇の中で目を瞑って、毛布に包まって横になったまま、踊っている紅の姿を、聞こえる足音に重ね合わせて瞼の裏に描いてみる。
――飛んで、両腕で円を描いて、体を翻して、反らして、
その姿と足音に、不規則に見える秩序が見え始める。
――三拍子だ。
指先でタントントン、タントントン、と無意識に拍を刻んでしまう。
踊る姿と、その足音。それに重なる三拍子。暗闇の中で、ぼんやりとそれらを思い浮かべていると、気付かぬうちに頭の中で音楽が流れ始める。
紅の踊りは、決まった振付がある訳ではない。その日、その時の気分で体の中の力を、踊りの形に現すのだ、といつか彼女が言っていた言葉を思い出す。
再び眠ろうと思っていたはずが、目が冴えて眠れなくなっていることに気付く。月は高く、まだ夜半も回っていない時間なのだろう。
小さく決意を決めて、体を起こす。毛布を出ると、裂くように冷たい空気が全身を取り囲むのが分かった。
耳の奥で鳴り始めた音楽と、遠くで聞こえてくる足音、それに暗闇の中で浮かぶ紅の踊る姿は、消えていない。
ワルツにも似た三拍子、いつ終わるともない三拍子を、時間が止まった夜の中に刻み続けるなら、眠れない夜に、僕もその一端を担おうと思った。
上着を着込み、マフラーを巻いて、ランプに火を入れて、隣の部屋へ向かう。壁際に立てかけられたギターの埃をタオルで簡単に拭って、弦が切れていないことを確かめる。
ギターを左手に抱え、足音を立てないように階段を降りる。静けさの音が響く様な闇の中に、紅の足音が時折強く鳴る。
体育館に姿を現した僕を見て、紅は驚いたように動きを止めて振り返った。一人きりで真剣に踊りに向き合う姿は、もしかしたら見せたくないものだったのかもしれない、という考えに躊躇が浮かびそうになるのを掻き消して、床に座る。
紅が微笑みかけてこちらを見ていることを知りながらも、目は合わせない。月明かりの差し込む体育館の中で、僕は久しぶりにギターを膝に乗せて弦を押さえた。かつてギターの弦を押さえ続けていたせいで石のように固くなっている指先の皮膚は、数週間の隙間を挟みながらも、弦を正確に押さえることができた。一つ息をして、右手で弦を擽ると錆びた弦の少し濁った和音が滲む。
「続けて」
顔を伏せ、こちらを見ている紅と視線を合わせないまま、演奏を続ける。三拍子の、先ほどの踊る足音と同じ速度で、頭の中に流れていたあの音楽。
紅は、少しの間、こちらを見たままの姿でじっとしていたけれど、旋律が三周したところで、両手を高く掲げた。そしてそのまま滑らかに円を描く。
三拍子の旋律は、紅の描く残像と、その足音に、影のように形を合わせた。高く、低く、静かに、烈しく。炎のような、水のような。風のような、大地のような。
ギターを触っている時に、時間が止まる感覚を覚えることがある。時間が止まる、というのは違うのかもしれない。我に返ってみれば、十分余りに思えた時間は、時計で見る数時間だったりもする。『時間が止まる』ではない。『時間を忘れる』と言えばいいのかもしれない。
時間を忘れる密度で音楽と戯れている時、僕は半分眠っているのかもしれないと感じることがある。
感情や思考を忘れて、目の前にある音の景色だけを見て、好奇心を頼りに、目の前にある一本の道を辿って全力で走っているような感覚だ。
走り終わって我に返った後、僕の中に残るのは、全力疾走した後のような疲れと、眠っている時の夢の中で見た景色を現実の中に垣間見たような感触だった。
音という曖昧な音像の持つ触感は、触れば触るほどに飲みこまれてしまう底なし沼のようなものに思えるけれど、時間を忘れる密度で音と戯れる時にだけ、その核の部分にある特別なものを時折触れることができるような気がする。
音の世界の核にあるものは、柔らかく穏やかな光を放つ、神々しいイメージだ。きっとこの世に一つしかない。例えて言えば、澄んだ夜に浮かぶ、真っ白な月に似ているのかもしれない。
そうして僕は音と戯れ、紅は踊りと戯れた。気付くと夜は白く朝に近付いていて、空気は凍るほどに冷たいというのに、うっすらと肘の内側に汗をかいていた。
*
僕がギターを触り始めたことに、紅は触れようとはしなかった。そのことは僕にとって有難いことだった。紅にとって踊ることが自然なことであるように、僕にとってギターを触っている時間が自然であると、何も言わずに紅が振る舞ってくれたことは、不必要なことを考えずにただ、僕が音楽に没頭する時間を作ることを促してくれた。
紅は踊り、僕はギターを触っている。
紅は本を読み、僕は珈琲を淹れている。
紅は買い出しに行き、その間僕は眠っている。
紅が一人で体育館に行く時は、その足音を遠くに聞いて、音を乗せる。
違う行動を取りながら、安心して時間を過ごせているのは、窓の外の景色が変わらないからかもしれない、と時折思うことがあった。
僕がこの場所に辿り着いた日も、今日と何も変わらない、真っ白な雪の景色だった。
明けない夜。
春の来ない冬。
朝は来なくていいし、雪は解けなくていい。
――僕はどこかで、時間が流れていることを、認めたくないのかもしれない。
――時間が止まっていると、信じて安心していたいのかもしれない。
――何かを恐れる気持ちがある。それが何なのかは、分からない。
*
「あれ、誰か居る?」
階下から声がして、ギターを触っていた僕と、本を読んでいた紅は顔を見合わせた。
近くに集落もない雪の積もった山の中腹にある廃校なんて、通りかかる人も居なければ、入ってくる人も皆無だった。僕と紅がここに居るということは誰にも知られないことなのだと思い込んでいたことに気が付く。そして、今、下に居る人間が警察だったりすると、僕たちは不法占拠や何かの罪に問われて、ここにいることはままならなくなってしまうのかもしれない。
おそらく紅も一瞬のうちに同じことを思ったのだろう。僕たちは身を固くして顔を見合わせたまま、狼狽して身動きすることもできずにいた。
「こんにちはー」
階下から響いてくる足音は階下を一周した後に、階段を上がって、部屋へ近付いて来た。僕はその場で動けなくなったまま、意味がないことを知りながら、息を潜めていた。
隠れているならばまだしも、身を隠してもいないのに息だけを潜めても何の意味もない。頭ではそんなことは理解できていても、その時に僕たちにできたことは、驚きと怯えで体を竦めながら、訪れた何者かを待つことだけだった。
「こんにちは」
教室の入り口の引き戸がガタッと大きな音を立てて引かれた。隙間から髪と髭の伸びた男が一人顔を出した。
「車が調子悪くてね、一休みしようと思ってきたんだけど、人が居るとは思わなかったなあ」
闖入者が警察ではなくて、僕は内心で少し安堵する。紅は予想外の訪問者の姿に、身を凍らせたままだった。目を見開いたその横顔を見て、警戒する猫のようだ、と思う。
男はこちらに構わず部屋に入って、肩に担いでいた重そうな荷物を床に下ろして喋り続けた。
「去年寄った時は、本当に廃校で誰も居なかったんだけど。あれだねえ、人が居ると雰囲気っていうか、場所の空気が違うね。柔らかい」
男は長期旅行者のような服装をして、長いマフラーを首に巻きつけていた。鞄の大きさを見ても、長期旅行者というのは妥当なのかもしれない。
――この人は何者なんだろうか。
男は見られていることに気付いたらしく、目線を合わせてニッと笑いかけてきた。驚いて目を逸らし、下を向く。
「……どうぞ」
紅が男に座布団を差し出した。ストーブに近い場所に置き、小さく頭を下げる。
「ああ、どうも」
男は床に置いた荷物を担ぎ直し、座布団のある場所へ行って息を吐きながら座りなおした。
「あんたら、……いつから居るの」
体が強張るのを感じて、僕は紅の顔を見た。紅もこちらを見返した後に小さな声で
「少し前から」
と答えた。
「ふうん。いいよね、ここ。……俺だけが知ってる穴場だと思ってたんだけど、やっぱ目を付ける奴は居るもんだね。俺が住みたいくらいだよ。……あんたら、ここに住んでるの?」
紅は黙って首を左右に振った後、「今だけ」と答えた。
男はそれほど興味なさそうに「あ、そう」とだけ言い、まじまじと教室の中を見回した。紅が差し出した珈琲のカップを軽くお辞儀しながら受け取り、一口啜る。
僕は男から注意を逸らすように、自分に言い聞かせて目線を逸らした。膝の上に抱えたギターを持ち直し、弦を軽く弾く。
「……あんた、良い指、してんね」
いつの間にか傍らに来て手元を覗いていた男がこちらを見て、親愛のような笑みを浮かべた。
投げかけられた言葉の意味が分からず、自分の両手を見る。甲。掌。指。弦を押さえるせいで潰れた左手の指先。少し伸びてきているものの普段は深く切っている爪。
「あんたの指は、きれいなものが作れる指だよ」
不意に光が差したように感じて、反射的に顔を上げる。男はそれを見て満足したらしい。笑みを浮かべてこちらを見たのち、ごそごそとポケットを探って何かを取り出した。
「これ、やるよ。持ってな」
握らされた指をゆっくり開いて見ると、薄汚れた金属の腕輪だった。所々に小さな石が嵌め込まれている。
僕がそれに見入っている間に、男は席を立ち、窓辺へ移動していた。
「今日はこれ、吹雪くな」
声につられる様にして顔を上げると、男の言葉の通りに、先ほどまで光が差していた空は濃灰色に曇り、辺りは薄暗さを滲ませていた。
「暗くなってからじゃ動けなくなるから、俺行くわ。珈琲ご馳走さま。また会おう」
言葉をかける間もなく男は荷物を持って、部屋を出て行った。
辺りには静寂が残されていた。もとから誰も訪れなかったような静寂の中で、僕と紅は暫く呆然と時間をやり過ごした。胸の中がざわざわする。だけどそれを言葉に変えて紅に伝えることは、何故かどうしてもできなかった。
*
蝋燭の小さな光の中、暗闇で紅が踊る。
僕は毛布に包まって、背中を向けている。紅は僕が眠っていると思っているだろう。
僕は小さな光が壁に映し出した紅の影を見ている。
窓の外では暗い闇の中、音もなく雪が降り続いている。雪が降っていると安心する。降り続いている雪に閉じ込められている間は、時間が経つことに怯えなくてもいいから。
*
目が覚めると、雪は止んでいた。紅の気配はない。身を起こして周囲を見回すと、机の上に「雪が止んでるうちに、買い出しに行ってきます」と書置きがあった。
立ち上がって大きく伸びをする。雲の割れ目から光が細く差し込んで、窓辺に小さく陽だまりを作っている。春の日みたいだな、と思って、ふと我に返る。
――春は来るのだ。
ここに居る限り、景色は雪に閉じ込められた真っ白なままで変わらないのだと、心のどこかで期待するように信じていたことに初めて気付く。そうだ、春は来るし、雪は解ける。当たり前のことじゃないか。
――春が来た時、僕はどうしているだろうか。過ごしやすくなった夜に、変わらずこの部屋でギターを触っているだろうか。
簡単に想像はできる情景ではあったけれど、それは何故か現実的な予感を全く伴わなかった。きっと想像するような時間は訪れない。春が来れば、僕はここを去らなければいけないのかもしれない。
――紅は。紅は、どうするのだろう。
ふと、紅の発した言葉が耳の中に再生される。
「ううん、今だけ」
「あたしも、いつまでここに居るかは、分かんない。決めてないから」
紅は分かっていたんだ、と冷水を浴びて目が覚めたように、寝惚けていた頭が冴える。
――……そうだ、カレンダーがあった。
足早に近付いてカレンダーを見ると、前に見た時は一月だったものが知らないうちに捲られて、二月になっていることを知った。
一枚捲る。以前に見た時の通り、三月の二十日に赤く丸が付けられている。きっとこの日は、紅にとっての特別な日なのだろう。紅が社会の中での生活を離れて、雪に閉ざされたこんな山の中に一人で暮らすことを選ぶほど、大切な何か。……それが何かは、紅が口に出さない限り僕の知るところではないし、気にはなったけれど、調べたりしてまで知りたいとは思わなかった。
だいたい僕は、社会の中で、紅がどんな暮らしをしていたのかすら知らないのだ。そして紅も僕のことを知らない。どんな街で、どんな人に囲まれて、どんなことを考えて、どんな時間を過ごして、どんな日常を暮らしていたか。
――この場所を離れると、僕と紅は、二度と会うことはないんだろう。
自然とそんな覚悟をしなければいけないのだ、ということが理解できた。
――ここで紅と過ごす時間は、あまり残されていないのかもしれない。
僕は、それ以上のことは考えないように努めた。考えたところでどうにもならないし、まして考えてどうにかなるものなら、考えるばかりで残された時間を塗り潰してしまいそうな予感がした。
――今日は、何日なんだろう。
今の日時を知るために、東京での生活を離れて以来、電源を切ったままにしていた携帯電話の電源を入れる。液晶画面には『二月十六日』という日付が示されていた。
胸の中に生じたざわめきに気付かぬ演技をしながら、携帯電話を二つに折り畳み、鞄に戻した。冷たい空気の中に吐き出す息が白く濁る。目を瞑り、自分に「何も変わらない」と言い聞かせる。
*
その夜、夜中に喉の渇きを覚えて目を醒まし、ランプに火を入れた時、少し離れている場所で眠っている紅の眦に、涙の跡が残っているのに気が付いた。
近寄って見下ろしたまま「悲しいの」と問いかけてみる。紅は目を醒まさない。
――悲しい夢を見ているんだろうか。それとも、悲しいことを思い出したまま眠ったんだろうか。
――紅は、悲しいんだろうか。
微動だにせず眠る紅の長い髪が、周囲に広がっている。それを指先でなぞってみる。
「悲しいの」
紅は薄く目を開けた。
「悲しいの」
紅は見下ろされていたことと、投げかけられた言葉に戸惑ったらしく、「えっ」と言葉を詰まらせた後、笑顔を作って「悲しくないよ」と答え、少し考えてから「……わかんない」と言った。
「……そう。……僕も、分からないんだ。うん、そう。分からない」
*
その時を境に、それまで穏やかに流れていた時間の色は、少し変わってしまったのかもしれなかった。
表面上は、いつも通り珈琲を淹れ、静かに話をして少し笑い、本を読んだり、僕はギターを触ったり、紅は踊ったりしていたのだけれど、その時折で、紅は何かを言いだそうとしていたような気がした。
「どうかした?」
「ううん、何でもない」
それに気付いて、逆に問いかけようとすると、紅は目を逸らして急いで笑顔を作る。僕はそんな紅の言動の裏に潜むものの存在に気付いていない演技をする。
その日は気温が上がり、天気が良かった。
雪を降らせる灰色の雲が強い風に押しやられ、空は久しぶりに青さを覗かせて、暖かい光を積もった雪の上に降らせていた。
光を受け止めた雪は白い結晶を氷のように透明に透かせ始め、ぱたぱたと音を立てて軒先から滴を垂らしていた。前の夜にコップにいけた花の水が、翌朝には丸い筒状の氷になってしまうこの場所で、春の気配の証拠のような日差しと雪解けの音は、ここがまるで昨日までとは違う場所のように思わせた。
春の訪れが目に見える形で近寄ってくると、この場所には時間が流れず、雪も解けず、永遠の雪の景色の中で、静かに暮らしていられるような、その時には現実的だったはずの幻が、いかに容易く消えてしまうものなのか、示されてしまったようだった。
*
突然、聞きなれない機械音が部屋の中に響く。この場所では、聞くことのなかった音だった。
ピルルル、ピルルル、ピルルル、ピルルル、ピルルル
音は鳴りやまず、僕と紅は顔を見合わせて、音の鳴る理由を考えた。
――携帯電話だ。
先日、日付を知るために電源を入れた携帯電話が、鞄の中で音を出しているらしい。電源を落とすのを忘れてしまってしまったのだ、と思い当たる。
急いで壁際に放ってあった鞄に駆け寄り、荷物の奥から携帯電話を取り出してみる。
ピルルル、ピルルル、ピルルル
音の元はやはりこれだった。開いて見ると、電話を着信していて、僕は焦る気持ちに急かされ、その場で電話を取った。
「はい」
「ようやく出たな、ひさしぶり」
電話の向こうで僕を迎えたのは、聞いたことのある男の声だった。
「……あ」
「電話、つながって良かったよ。お前、今どこにいるの」
声の主は、音楽の仕事でお世話になっている事務所の高島さんだった。
「今は、……ちょっと、旅先で」
「そうなの。まあいいや、いつ帰ってくる? ちょっと頼みたい仕事があるんだけど」
聞き覚えのある高島さんの声は、電話に接している僕の耳だけを、東京での日常の景色へ連れ戻した。
電話をしながら、背中に紅の視線を感じる。嫌悪や怯えを滲ませたと言っては言い過ぎなんだろうか。視線を感じるだけで、自分が彼女の作る秩序を乱し、彼女が怒りを感じている、ということがありありと伝わってくるようだった。
「え、いつですか」
最小限の言葉で会話を続けながら、紅の視線に気づかぬふりをして、場所を変えるべく足早に部屋を出る。
「来週の金曜日。ライブのイベントがあるんだけど、サポートのギターを弾く奴がダメになってさ。それまでには戻るでしょ? 戻ったら一回打合せしよう。また電話する」
「あ、……はい。……じゃあ」
「はい、じゃあね。戻ったら教えろよ」
電話を切ると、心臓がざわめいているのを感じた。息が詰まる。それを掻き消してしまうように、一つ大きく息を吸い、深く息を吐く。冷たい空気が喉から肺を冷やすのが分かる。
――異物感だ。
電話を受けた瞬間に、自分がこの場所にとっての、紅の暮らすこの場所の秩序にとっての異物になってしまったことを知る。
紅の、信じられないものを見るような視線。まともに目を合わせるのを躊躇われるような、異物を見る視線。先ほどよりも寒く感じられるこの場所の空気が、息苦しく思われるのも、そんな理由なのかもしれない。
何もなかったように、何も気付いていないように振る舞えるよう心を整えて、部屋に戻るため引き戸を引く。
紅は、さきほどの姿勢のまま、こちらに背を向けて本を読んでいた。
「……ごめん」
耐えきれなくなり、謝罪の言葉が口を突いた。この場所を、紅の暮らす世界の秩序を乱してしまったことは、口先で謝ったことくらいでは取り消されないだろうということは、うすうす感じていたけれど、それでもせめて謝らずには、紅に顔を合わせることはできなかった。
「ごめん」
背を向けたままの紅の背後から、もう一度謝罪の言葉をかける。自分の吐いた言葉を噛み締めるように俯いて居場所を探す。先ほどまで寛いでいたのが嘘のように、この場所は僕の存在を拒んでいる、と感じられた。そのことに面食らう。
紅が顔を上げてこちらを見た。笑みを作る。その笑みが作られたものだということを知りながら、僕は許されたように安堵を覚えた。
「出かけましょう」
紅は読んでいた本を閉じて、傍らに置いた。
*
歩きながら、僕と紅は殆ど言葉を交わさなかった。散歩や買出しで歩く道を外れ、歩いたことのない道へと、紅はどんどん足早に歩を進めていった。僕はそれを追うようにして、見慣れない景色の中を見回しながら付いて行く。
――どこへ。
問いかける隙も与えず、紅は脇目も振らないで、まっすぐに歩き続けていた。荷物は持たず、身軽な両手で、肩にかけた大判の毛糸のケープを飛ばないように押さえながら、午後の光に溶け始めている雪を踏み分けて歩いていると、見晴らしの良い開けた場所へ出た。
流れる大きな川の傍らに広がる平野に積もった雪はところどころ日の当たる場所が溶け始めていて、その下に春を待つ緑色の草が覗いていた。見上げると遠く地平線を高い山が稜線で縁取っている。
紅は立ち止まり、一つ大きく深呼吸して小さく「着いた」と言い、こちらを振り向いた。
「雪が溶けたら、この景色を見せてあげようと思ってたの」
目の前の景色と、紅の言葉を消化しきれないまま呆然としていると、紅は笑い声をあげて、雪の残る平原へ駈け出した。まっすぐ走り、雪の上に転がる。溶けてしまう前に、精一杯一緒に遊ぼうとする小さな犬のように。まだ積もった雪に足を取られながら、雪の塊を空へ放り上げて笑う。
「あたし、今年の冬、すごい楽しかった! ありがとう!」
こちらに向かって、そう叫んだかと思うと、紅は雪の塊を、こちらに投げつけてきた。雪の塊は僕の肩に命中し、ぶつかったはずみで僕も糸が切れたかのように笑ってしまった。
紅のように体全体を使って、気持ちを表すことができたらいいのに、と思う。はじけるように笑い、くるくる回って雪を舞い上げる紅の姿を見る僕は、せめてこの景色を覚えていようと思った。
今年の冬の、終わりに見た景色。紅と過ごした冬の終わり。紅が僕に与えてくれたもの。紅の世界であるあの建物中の景色。雪に閉じられた永遠にも思われた暮らし。
僕は、生きていけるのだ、と思った。逃げることしかできなかった生活にも戻れると、気負わずに思うことができた。
雪と戯れている紅が、視線が合うと、こちらに大きく手を振った。それが紅の別れの挨拶なんだと、僕は手を振りかえしながら感じた。
*
纏める荷物はほとんどなく、するべき準備も特になかったので、覚悟ができてしまえば、いつでもこの場所を立ち去ることはできた、とその夜に鞄の中身を整理しながら思った。
雪で埋まった平原の下、ひとしきり転げ回った後、紅は気が済んだとでも言うように「晩御飯、何にしよっか」と笑いかけた。
ガスも電気も通らない環境で、カセットコンロでの晩餐もこれが最後なのだ、とぼんやり考える。紅はいつになくよく喋った。子供の頃の記憶や、海外に旅をして美術館で見た絵の話、踊る時にいつも頭に浮かぶ歌の曲名が思い出せないこと。
その中に、現在の紅の生活に直結する情報は一つもなかった。社会の中での生活を切り離したいというよりも、この場所では社会の中での生活の話はしたくないというだけのことのようだった。
日常を伏せるからこそ、この場所で切り離した日常を築くことができていたのかもしれない、と思う。僕も紅に、自分の過ごしていた時間や生活の話をするのは構わないと思っていたけれど、それをしたくないと思わせる場所の力が存在したように思う。
「この建物、夏には取り壊されちゃうんだって」
「嘘」
「本当。だから、明日帰っちゃったら、もうこの場所には来れないんだよ」
「そうなんだ」
「うん。悲しい?」
「悲しい、というか、……信じられない」
「そうだよね。でも窓ガラスも割れてるままだし」
「そうだね、そっか」
口をつぐんだ僕に紅はお茶のお代わりを寄越しながら
「でもさ、最後の冬の季節に、あたしたちが大切に過ごして、嬉しかったんじゃないかな」
「……そうだね」
ランプが照らす暗闇に、挨拶をするように視線を投げる。
「そうだったら、いいね」
「うん」
消えてなくなってしまうのは雪だけではなかったのだ、と思う。目に見えるこの場所そのものが、失われてしまうとは、呆気なさ過ぎて、すぐに信じることができなかった。
この場所は、この冬の間、今までで一番悲しくて苦しい時間だったこの冬の間、僕のことを守ってくれた。この場所での時間は、僕の人生に必要だったのだろう。この場所がなければ、僕はあの日に雪の中で行き倒れて死んでしまっていたのかもしれない。
「お礼を言わなきゃね」
「うん」
ストーブの火が燃やす暖色の光と熱が、冷たい教室を照らして霧消してゆく。僕たちは取りとめのない話をして、いつものように眠った。
灯りを消した暗闇のガラス窓の奥の空で、月がいやに高く白い。
*
翌日、僕は東京に戻った。
買い出しに行ってくる、とでもいうような簡素な別れを思い起こす間もなく、一か月以上放置していた生活にまつわる諸々の事情を片付けることに追われていると、気が付くと三月になり、四月になり、上着すら着なくても夜の散歩に出られるほどに暖かくなった。
駅前からの道を歩くと、近くにある公園で花見をしている大学生らしい青年たちが、赤らめた頬で笑いあいながら道を歩いているのに遭遇する。
――そうだ、今、桜が咲いている。
コンビニに煙草を買いに出たついでの散歩だったが、満開に咲く桜を見に、公園へ足を延ばそうと思い立つ。
久しぶりに訪れた公園は、足の踏み場もないほどに花見の場所取りのためのブルーシートが敷かれていて、その上で多くの人が歓談していた。見上げると池のふちを縁取るように植えられた桜が見事に満開で、紺色の空を見えなくするほどに両手を広げて白く見える花弁を舞い上げていた。
言葉を失って、歩道の脇にある丸太に腰を下ろし、煙草に火を付ける。行き交う人々の屈託のない表情が僕の存在を異物にしてくれたせいで、人の多さは気にならずに、僕は黙って静かな気持ちで、月と桜の咲く空を見上げていることができた。
この冬の中で見た景色を一つずつ思い出してみようとする。今は手の届かなくなってしまった嘘のような幻のような記憶を思う。
――僕はあの日、あの場所を去る前に、ずっと上着のポケットに入れていたギターのピックを一つ、物陰に置いてきた。
使い込みすぎて印刷されていたロゴのマークは剥がれてしまっているような古ぼけた安物のピックだったけれど、僕にとっては必要な、あれさえあればギターを自分の手指のように従えられる特別なピックだった。
紅はもうあの場所には居ないのだろう。主を失ったあの場所は、取り壊される夏までの時間を一人きりで過ごす。寂しくないように、僕は何かを置いて来なければ、と思ったのだ。使い慣れたピックを失うことよりも、大切なものを何か一つ置いてくることのほうが、優先するべきだと思われた。
女々しさだとか、センチメンタルだとか、そんな理由で構わない。あの場所に感謝を示すため、というのは表向きの理由で、本当はあの場所を訪れた証拠になる記憶を、僕自身が何か残したかっただけなのかもしれない。
あのピックは、今もあの場所に静かに在るのだろう。誰にも知られず、取り壊されてしまったら、何の形跡も残らないままになるのだろう。それでいい。
今になっては手の届かない記憶というのは、不思議なものだと思う。
目の前に黒く凪いでいる湖面が白く高い月を映している。僕はコンビニで煙草のついでにかったビールの缶を開けて一口飲んだ。その月を、雪の代わりに桜越しに見上げる夜を経て、あの冬の景色の記憶を、完全に過去にしてしまえたと思った。
*
「あれ、あんた」
新宿駅のホームで階段を降りようとした時に、ふとすれ違った男に声をかけられた。声に誘われるようにして振り向くと、いつかあの場所に訪れた旅行者の男だった。
「あ」
「なんだ、あんた東京の人だったの」
「……あ、はい」
「そうなんだ。あ、あの時あげた腕輪、持ってる?」
ピックケースの中に入れっぱなしにしていた腕輪を取り出すと、男は嬉しそうに目を細めた。
「これね、こないだ言い忘れたんだけど、ここ。ここに石が入っててね。お守りになるから。綺麗なもの作れると思うよ。大事にしなね」
思わず笑い、「はい」と言って顔を上げると、男は満足そうに笑った。
「あんた、こないだより、良い顔になったよ。じゃな、また会おう」
男は軽やかに手を振って、新宿駅の人混みへ紛れて消えた。
*
録音の打ち合わせで、高島さんに呼び出された喫茶店に着いたものの、時間を過ぎても高島さんは現れなかった。
携帯電話を開いて見ると『ごめん、遅れる』とだけメールが届いている。時間を潰すため、喫茶店の入り口脇に備えられた本棚に向かう。
本棚の脇には、大小色とりどりのチラシが乱雑に置かれたテーブルがあった。クラシックコンサートのもの、写真の展示の告知、美術展の告知、小劇団の舞台の告知などが積み重なっている。
何の興味も持たず、それらを選り分けて眺めていると、そのうちの一枚に見慣れた顔を見つけた。
ダンスの舞台の告知のようだった。期間は三月二十日から四月十六日まで。上演期間はもう過ぎてしまっている。
笑みを作った紅の顔写真に添えられた名前を読もうとして、止めた。
テーブルに置いた携帯電話が着信を知らせる音を発した。僕は慌ててテーブルに戻った。間もなく高島さんが訪れて、僕は一瞬目に焼き付いた紅の、公演の名前や場所を総て忘れてしまった。
*
人の入りはまずまずだった。久しぶりのライブで、僕はまず先日のライブを欠席したことを詫びた。
一つ息を飲み、三拍子のリフを刻む。月夜に踊る紅の姿に合わせて流れ始めた曲は、言葉を乗せて一つの歌になった。言葉を乗せると夜の景色は、昼の景色に移り変わる。
了
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