見出し画像

【短編小説】黒猫会

 その建物は、人けのない青山の裏通りにあった。
 細い路地から見上げるそこは、地図の住所と同じ場所にあるものの、思い描いていた場所とはだいぶ違っていた。
 傾きかけた廃屋。窓ガラスにはひびが入り、テープで補強された跡がある。こんな都内の一等地にありながら何十年も放置されていたようなその建物の入口には小さく「蝉」という文字が掲げられていた。

 その前で歩みを止め、半信半疑でその建物を見上げる。
 蔦が絡まり、葉が枯れて落ちて、残された乾いた蔦だけが壁を雁字搦めにして支えているように見えた。三階の窓から光が漏れていることに気付き、廃墟に見えた建物に電気が通っているということに安堵する。
 時計を見れば指定された一時が近い。この扉を押し開けると、朝までの時間にどんなものが待っているのか全く予期していないことをふと思い出す。
 しかし仕事を引き受けて、ここまで来てしまったからには彼のことを信じるよりほかはないように思われた。ひとつ深く息を吐いて、体重を傾けるとその扉は難なく開いた。

 昼間は人通りも多いのかもしれない。
 表通りの左右にはガラス張りの高級な服を扱う店が並び、仕立ての良い服を着たマネキンが照明の落とされた暗闇の中でも見栄えのするポーズを緩めず、誰も通らない真夜中の路地を見守っている。
 どこかで目にしたことのあるようなブランドのロゴマークを見る度に、「電車の中で見かけるお姉さんの持っている鞄だ」とか「母親の持っているストールに描いてあるマークだ」とか、日常の片隅の記憶をひとつひとつ思い出しながら、僕は呼び出された場所へ地図を見ながら向かっていた。

 六本木へ通じるトンネルの手前の角を左折。

 青山学院の立派な建物の脇を入って幾つかの角を曲がる。閉店後の店のショーウィンドーには初夏らしい服が飾られている。
 初夏の光に似合うだろう明るい色のポロシャツ。軽い素材のスニーカー。柔らかい素材のスカーフと、メッシュに編まれたバッグ。そんなものたちが口を噤んで暗闇の中に並んでいるのは、劇場の舞台裏を覗き見ているような、本来見るべきではないようなものを見てしまっているような、そして本来ここが自分の居るべき場所ではないというような、そんな冷たい心細さが心を蝕んでいくのを感じながら僕は歩いたことのないよそよそしい街を携帯の地図を見ながら歩いている。

 ――本当に、こんな場所でこんな時間に、イベントが催されるんだろうか。

 時計を見ると深夜の十二時半を回ったところだった。
 通り過ぎていく車の音は聞こえることはあっても、道ですれ違う人は先ほどから殆ど居ない。

――もし、この仕事を頼んだ彼が、間違った住所を僕に伝えていたとしたら。

 終電はもう終わってしまったから、僕は自分が今夜どうやって過ごすかということを考えなければいけなくなる。
 最悪、渋谷まで歩けば漫画喫茶もカラオケもあるから始発までの時間をやりすごすことはできる。しかし情けのない話ながら財布の中には三千円程度の現金しか入っていないから、それで一晩しのげるのかというと不安になる。
 彼の話が嘘や冗談ではなく、自分が日付や場所を勘違いしておらず、目的地に辿り着いて、頼まれた仕事をして、一晩で三万円という破格のバイト代を貰って家に帰り、安心して眠るところまでが無事に終わることを祈るばかりだった。

手渡された小さなメモを財布から取り出す。
四月十八日 深夜一時より 青山「蝉」

 昨夜、彼から電話がかかってきたことを思い出す。
「明日の夜ですからね、宜しくお願いします」
「持って行くものとかは」
「特にありません。パーティーをするので、手伝いの人員が欲しいんです。来てもらえれば楽しんでもらえると思いますよ」

 日付は今日で間違いないということなのだろう。
「バイト代三万も貰えるんですか」
「ええ、パーティーが特別なものなので。この人に頼みたい、という人にしかお願いできなくて」
「どうして僕が」
「あなたは、このパーティーを楽しんで、秘密にしてくれると思ったからですよ」

 彼がどうして、僕をそこまで見込んだのかは分からない。
 大学の帰り道に渋谷駅を通り過ぎる時に「すみません」と声を掛けられただけの関係で、僕のことは何も知ってはいないだろう。

 最初は美容師のカットモデルの勧誘かなと思った。
「髪を切る予定ないんで」
「違うんです、大学生ですか?」
「……ええ、はい」
「もしよければですが、仕事を一つ頼みたくて。イベントの手伝いを頼みたいんです。バイト代は一晩で三万お渡しします」

 怪しい話以外には聞こえないこの誘いに乗ろうと思ったのは、今月末までの半月を一万円足らずで過ごさなければいけないという貧乏学生にとっての一晩で三万という金額も魅力的であったことも確かにあるけれども、それよりも好奇心が勝ったと言ってもいいだろう。
 どうして一晩で三万も出す仕事なのか。どうして「人を選ぶ」と言いながら彼は渋谷駅を通り過ぎただけの僕に目を留めて仕事を頼もうと思ったのか。夜中に催されるイベントとはどんなものなのか。

「危険なことがある仕事ですか、三万も頂けるとなると」
「いえ、ただ幾つかお願いしたいことがあって。危なくはないし、変なことではありません」

 彼は見たところ、僕と同じくらいの年の頃に見えた。ギンガムチェックのシャツを着て髪の毛をきちんと整えている二十歳そこそこの大学生に見える青年。
 目がくるりと丸く、頬は白く、背は僕よりも十センチ程度低く思われた。
 テレビや電車のつり広告で見かける芸能人に全く引けを取らないどころか、改めて落ち着いて見る程に、見たことのないレベルでのきれいな青年だと思われた。この見た目で同じ大学に居たとしたら女の子たちの格好の噂の的になっただろう。

「法律に触れるようなことには関わりたくないんですが」
 彼は丸い目を一段と丸くさせ、僕の顔を驚いたように見上げた。
「そんなことは全くないです、法律に触れるような悪いことはなにも」
「……それなら」
「催しの名前は『黒猫会』といいます。年に一度パーティーです」
 彼は無防備にはにかんで笑い、屈託なくこちらの目を真っ直ぐに見上げた。

「わかりました。宜しくお願いします」

 そう答えると、彼は小さな紙片に何かを書付けて僕に渡した。俯いてそこに書かれた時間と場所を確かめて顔を上げると、彼はもうどこかへ消え去ってしまっていた。

 押し開けた扉の奥は真っ暗闇だった。戸惑い辺りを見回すと、闇の奥から「よかった、来てくれたんですね」と声がした。

「すみません、今ちょっと準備をしていて、電気を切っているんです」
「まだ始まっていないんですね」
「そうですね、まだお客さんは誰も。定時にきっちり始まるというような堅苦しいものではなくて、ただ年に一度深夜に集まるという催しですから、気を楽にしてください」

 暗闇に少し目が慣れてきた。
 暗闇の中でうずくまり、電気のコードと戦っているらしい彼は先日僕に声を掛けて来た時と同じギンガムチェックのシャツを着ていた。

 突然強い光が横から一直線に闇を横切る。
「これでよし」

 青年が身を起こすと、強い光はちらちらと色を変えて、室内を柔らかく照らす光に変化した。
「忙しそうなところすみません、何の仕事をしたらいいんでしょう」
「ああ、」

 青年は簡単なことを思い出したかのように笑って、「そういえば、ちゃんと名乗ってもいませんでしたね」とこちらに向いた。

「今日の催し『黒猫会』の事務局代表をしています、大塚九郎と申します。ええと」
「田淵です」

「すみません、田淵さんには今日は僕の運営の手伝いをしてもらおうと思いまして。毎年やっている催しなんですが、事務局が当番制で今年は僕になってしまって。準備だけなら一人でもできるんですが、当日のお酒を出す仕事から音楽・映像の管理まで一人でやる自信がなくて」
「なるほど」

「なので今は、まだお願いすることは特にないんです。お客さんが来たら、話しかけられたり頼まれたりすることがあると思うのですが、その時は対応してあげてください。あ、あと」
「はい」

「……見かけない顔だ、と言われることもあると思うんですが、その時は九郎に頼まれて手伝いに来た遠方の者だと伝えて下さい。自分のこと、例えば学生であるとか久我山に住んでいるとか、名前だとか、そういったことは言わないように」
「……わかりました」
 ――僕は彼に、住所を教えただろうか。

そんな会話をしたかどうか思い出しているうちに、扉が押し開けられて一人目の客が訪れた。
「入って大丈夫?」

 黄色いクラシカルなノースリーブのワンピースを着た女の子だった。まだ夜には肌寒い季節だというのに、上着を持っている様子はない。眉上でそろえた前髪にポニーテールにした髪と相まってアメリカの昔の映画に出てくる女の子のようにも見える。

「あ、カノンちゃん。大丈夫、まだ準備してるけど気にしないで。何か飲む?」
 彼、大塚九郎の見知った人であるらしい。カノンちゃんと呼ばれたお客さんがこちらを見たので、会釈をする。
「この人は?」
「ああ、僕の友達。今日の手伝いに来てもらったんだ」
「ふうん」

 不器用な笑みを張り付けて会釈をした僕にあまり興味もない様子で僕から視線を外し、彼女は壁際に置かれたソファに腰を下ろした。九郎が僕に耳打ちをする。

「田淵さんのこと、今日一日タロウって呼ばせてもらいますね」
 予期せぬ言葉に驚いて九郎の顔を見返すと、彼は僕の返答を待つことなく踵を返して二人目の客を迎え入れに扉に走っていた。

 ――なんだよ、タロウって。
 当然ながら、僕の名前はタロウではない。田淵響という名前で今まで二十年ほどを生きて来たけれど、まさか自分がタロウと呼ばれる日が来るとは一度も考えたことがなかった。

 九郎は扉の近くで、二人連れの来客の上着を預かっていた。仕事を思い出し、彼への質問は後に回すことにして、彼らに「いらっしゃいませ」と言葉をかけて近付く。

「ん、君は」
「見かけない顔だね」
 顎鬚を立派に蓄えた恰幅の良い紳士二人はこちらに鋭く視線を送った。
「僕の友人のタロウといいます。今日の手伝いを頼んだんです」
「そうか、九郎くんの友達なら問題はあるまい」
 九郎は礼儀正しい様子で二人に小さく礼をした。慌ててそれを見て僕も倣う。

「運営も大変だろう、きみ、彼の手伝いを宜しく頼む。みんな今日を楽しみにしていたんだから」

 丸い頬をした紳士は身なりの良い縞のスーツ姿でこちらに柔らかく微笑みかけた。
 年はうちの父親よりも上かもしれない。九郎の催すパーティーというので僕は無意識のうちに同世代の人間の集まるものだと思っていたため、身なりのいい大人が来客として訪れることに少しばかり面食らっていた。

「若い人ばかりなのかと思ってた」

 紳士二人を上階の階段に見送った後に九郎に耳打ちすると「そうだね、身体が悪くない限り大人も来るよ。特別な日だから。でも普通にしてくれたら構わないよ」と答えた。
 一大学生の自分にしてみたら、大人と接する機会など大学の教授か親戚くらいのものだから、紳士たちのような社長然としている社会人と話すだけで緊張してしまうのを感じる。
 彼は、自分よりも大人と接する機会があるのかもしれないな、と少年のような屈託のない九郎の横顔を、尊敬のような気持ちで黙ったまま見下ろした。

 彼はするりと身を翻して戸棚の奥へと身を隠した。
 暫くして柔らかな音で音楽が室内に響き始める。真夜中のパーティーと聞いて連想するような耳を刺すダンスミュージックではない。弦をこするような音が入ったと思うとアクセントにピアノが差し挟まれるような奇妙で、しかし耳障りのしない柔らかい音楽だった。

「二時になると、上の階でダンスを始めるから、ここはラウンジになるんだ。飲み物を出すのはそこのカウンターにしようと思う。お酒の種類はこれとこれ、この緑の瓶が香草のお酒でシャトリューズ、茶色の瓶がリンゴのお酒でサザンカンフォート、これがヘネシー。マリブ、これはココナッツのお酒。ティフィン、これは紅茶のお酒だね。このへんはミルクで割ってと頼まれることが多いと思う。ミルクはそこの棚に多めに買っておいたけど、なくなりそうだったら教えて。お水もここに沢山あるから」

「ビールだとか、ジュースだとかは」
「そんなの飲む人いないから用意してないよ」
 何をそんな当たり前なことを、という表情の九郎は「それでね」と言葉を続けた。

「こちらの棚に入っているのがフード類、欲しいと言われたものを渡したらいいから」
「そういえばお金は」
「前もって参加費を貰ってるから大丈夫、気にしないで。……じゃあ僕は上の準備してくるから、一階を宜しくね」

 九郎が階段を上がるのを見送り、改めてカウンターの中を見渡してみる。青や緑にゆらゆらと照らされる灯りは不安定で、僕は身を屈めて用意された品物を確かめる必要があった。

 ツナ缶のような缶詰が箱で置かれている。その傍らの箱はコーンフレークのようなものらしい。ビニールの小袋に分けられているから、これはこのまま渡してしまってもいいものなのだろう。
 飲み物のためのグラスを探して前かがみの姿勢のままで周りを見回していると腰に鋭い痛みが走る。

「あいたた」
 腰に手を当てて一度立ち上がり、背中を伸ばしてふと傍らのソファを見ると口を開けてこちらを見上げている「カノンちゃん」と目が合った。

「……あんた、人間っぽいわね」
 会の名前が『黒猫会』というからと言って、手伝いの人間まで猫らしくしなければいけないという謂れでもあるのだろうか。その言葉がどういう意味なのか判断が付かないまま、僕は彼女から目を逸らして「そうっすね」と返事を濁した。

 九郎が僕に耳打ちしたことを思い出す。プライベートな情報、名前や住んでいる場所、大学生であることなどは、この場所では伏せておいた方が良いのだろう。それが何を意味するのかは分からないけれど、それが会の趣旨であるのならば従う他にはない。

「まあね、今日くらいはいいんじゃない」
 カノンちゃんも両手を上に高く伸ばして、一つ大きく人目をはばからない大欠伸をした。

「私も気を付けなくちゃ」
 彼女は首を傾けて、耳の下あたりを掻いた。 

 上の階で音楽が流れだしたのが漏れ聞こえてきた。来客が増え、僕はその度に挨拶をして荷物を預かり、飲み物を用意して彼らが笑いあってフロアを進んでいくのを見送った。

 上階から床を踏む足音が聞える。もう何人くらいの来客があっただろう。
 大きなサングラスをかけた外国人の夫婦。兄弟らしいそっくりな顔をした二人連れ。「歩いてきたら遠かった」と笑う同世代くらいの男。モデルのようなスタイルの身なりの良い女性。
 彼らはカウンターの内側の僕にきまって警戒心を帯びた一瞥を投げるけれど、九郎の手伝いをしに来た友人だと名乗ると安堵したかのような笑みを返してくれた。

 ――この集まりは一体何なんだろう。

 夜はゆるやかに深まっていく。訪れる人は増え、彼らはお互いに面識がある人も多いらしく、久しぶりの再会を祝うハグやキスを交わす人たちもいる。ハグまでならば女の子たちがしているところを大学で見かけることもあるので違和感はなかったけれど、さすがに頬とはいえ老若男女が躊躇なくキスを交わすところを見るのには戸惑った。外国にルーツのある集いなのかもしれない、と人並みの途切れたカウンターの内側でぼんやりと考える。

「さて、そろそろ行かなきゃ」
 ソファに座ったまま眠り込んでいたカノンちゃんは誰とも言葉を交わしている様子はなかった。

「帰るの」
「ううん、出番。これから上でファッションショーをやるからモデルで出るの」

 一つ大きく伸びをして「あんた、手伝いに来てるくせにそんなことも知らないの」と言われ、すいません、と首をすくめる。

 室内にゆるく漂う煙草の煙がライトに照らされて、ピンクや水色に変化していく。葉巻なのか甘い匂いが漂い、空気に酔っぱらっていく感覚がある。

「きみは、どこから来たの」
 白髪をきちんと整えた老紳士が、カウンターに寄りかかって、ぼんやりしていた僕を見上げていた。人が近付いて来た気配を一切感じなかったため、話しかけられて初めて僕は彼に気付いた。

「く、……いえ、遠くから来ました。今日の手伝いに呼ばれたので」
 住んでいる場所を明かすなと九郎に言われたことを思い出し、言葉を濁す。

「そうか、言いたくない事情もあるのだろうて。僕は色んな街に行っているから、知っている街の子かなと思っただけだよ。気を悪くしないでくれ」

 老紳士は伸びた眉毛の下で目を伏せて、遠い記憶を思い出すような顔をした。自分の不用意な返答が彼を傷つけたのではないかと案じたけれど、彼はカウンターに頬杖をついたままの姿勢で眠り込んでしまった様子だった。

「タロウ」
 一秒遅れて顔を上げると、階段上から九郎が顔を覗かせてこちら見ていた。

「ちょっと来てくれ」
 カウンターに視線を送ると近くに居た女の子たちが「見とくわよ」と声を掛けてくれたので頭を下げて階段を上がる。

「どうかしたの」
 開場は真ん中に一段高くなったランウェイが据え付けられて、左右からのライトが赤に緑に黄色に青に紫にと室内を染め続けていた。四つ打ちのテクノが大きすぎない音量で流されており、そこここに点在するソファには踊り疲れたらしい人たちが深く身を沈めていた。

「これからショーをやるんだけど、男性のモデルが一人来られなくなって、代わりに出て欲しいんだ」
「……そんなこと言われても」

「服も髪もこちらで何とかするからいいよ。ただタイミングを見て壇上に出て、ゆっくり歩いて折り返して戻ってくればいい」
「自分でやればいいじゃないか」

 モデルなんてことはお洒落に疎い人生を送ってきた男子大学生がやろうと思ってできるものではないだろう。それよりも小洒落て見栄えのいい九郎が代理をしたほうが、面識のある客たちも喜ぶように思われた。

「モデル用の服だぞ、僕では手足が余るに決まってる」
「……まあ、そう言われると、そうかもね」

 素直に答えると九郎は面食らったような顔をしたが、僕と目が合うと吹き出すように笑った。
「だから、頼む。服はこれだから適当に着替えて来てくれ。五分後に始まるんだ」
「髪は」

 ただのバイトだと思って寝癖も直さず、美容院も嫌いなため整っているとは言い難い伸びっぱなしの髪型を見て九郎は「少し屈んで」と言う。言われるままに屈みこんでみると、九郎は両手で僕の髪をふわと持ち上げ、一撫でした。

「よし、これでいいよ」
 壁に張り付けられている鏡に目をやると、パーマをあてたような巻き毛になり、一時間かけても自分では再現できなさそうなスタイルに整えられていた。

「なにこれ、どうやったの。今何をしたの」
「言ってなかったけど、僕は魔法が使えるんだ」

 冗談めかした笑みで、服を押し付けて九郎は傍らの小部屋に僕を押し込んだ。荷物や箱が雑多に積まれた倉庫らしいその小部屋の暗がりで渡された服を前か後か分からないままに身に付けて部屋を出る。規則正しくリズムを刻む音楽に合わせてモデルらしき女性が次々と現れ壇上を歩いてゆく。ショーはもう始まっているらしかった。

「よし、上出来」

いつのまにか背後に立っていた九郎が傍らから鏡を覗き込む。「目を瞑って」と言われるままに目を瞑ると瞼に幾らかの重さがかかるのが分かった。

「歩き終わるまでは触らないで。睫毛に鳥の羽を付けたから。……さあ、行って」

 背中を押されスポットの当たる場所に押し出される。衆目が集まっているのを感じて、一瞬怯む。思わず膝の力が抜けそうになるのを理性で抑え込んで背を伸ばす。一呼吸を置いてから、遠くを見る。正面の壁に視線を合わせて、規律正しく刻まれる音楽の四拍子に合わせて歩を進める。普通に歩けばいいんだ、普通に。もともと姿勢は悪くない。

 立ち止まり、折り返して、戻ってくる。緊張のために足が震えそうになるのを、奥歯を噛み締めて息を止めることでなんとか持ちこたえる。

「おつかれ、ありがと。上出来だったよ」
 肩を叩かれて、はあっと息を吐く。視界に色と音楽が戻ってくる。そうか、色と音楽というものが消えていたことに初めて気付く。

「ねえ、この人初めて見る」
 九郎の傍らに睫毛の長い柔らかい巻き毛の髪の女の子が立っている。薄黄緑色の瞳が差し込む一瞬の光をきらりと反射させる。

「さっき一階に居たよね」
「そう、友達。会員ではないけど、手伝いを頼んだ」
 九郎は女の子に目を合わせずに答え、僕の背を押して屋上へ上がる階段へ進む。振り返って見ると女の子は邪険にされたことを気にする様子もなく、痩せた男と手を繋いで酒のグラスを片手に笑いあっていた。

 時刻を見ると午前三時四十五分。夜明けまではまだしばらく夜が続く時間だ。

「喫う?」
 人のいない狭いバルコニーで、九郎は僕に見たことのない外国煙草の箱を差し出した。
「……じゃあ」

 普段は煙草を喫わないけれど、この夜には普段やらないことをやってみたい気持ちがあった。きっちりと並んだうちの紙巻き煙草を一本抜き、九郎の差し出すライターの炎で煙を吸い込む。廃墟みたいな場所で深夜にパーティーが行われていること、その屋上で会ったばかりなのに昔からの知り合いのような気のする男と二人で煙草を喫っているということが、今まで平和に生きてきた人生の中でとても特別なことの象徴に思われた。もしかしたら、これから十年・二十年が経った後にも、今ここでこうやって煙草を喫っていることを昨日のことのように思い出すようなこともあるのかもしれない。そんな予感がした。

「…………、」
 知っている煙草とは違う柔らかく鼻の奥を擽るような匂いがする。

「来てくれてありがとう」
 煙を一吹きし、ひんやり冷えた夜中の紺色に白さが溶けて消えていくのを眺めていると九郎が改まったような口調でそう言った。

「うん。頼まれたし、引き受けたし」

 背後の扉の隙間からショーが終わり、再度音楽が流れてフロアがダンスホールに戻った気配を感じた。音楽の中に散りばめられた笑い声。
 見上げると冷たい空気に高く白い月が見える。多くの人が集まって、みんな今日を楽しみにしていたのだと笑みをたたえて同じ夜を楽しんで過ごしている。それはすごく素敵なことに思われた。

 これまでの人生であまり人が集まる場所が得意ではなく、友達も多くはなくて、僕は大学では授業に出て、帰り道の喫茶店で本を読んで、家に帰って眠るような静かな暮らしをしていた。
 入学当初はサークルにも誘われたし飲み会にも顔を出したけれど、知らない人が多い場所は結果的にあまり居心地がいいとは思えず、自分の居場所には思えなくて、次第に意識的に他者とのかかわりを避けるようになっていたように思う。だから、最初にパーティーの手伝いと聞いた時は、苦手な部類の話だと思った。
 同世代の、もっと言えば大学に居るような派手好きで徒党を組む連中が酒を飲んで女の子をからかっているような、そんな品の悪い催しなのかとも思っていた。依頼を受けることに決めたのは、バイト代というのもあったけれども、何よりも声を掛けてきた九郎がそういう俗悪さとは無縁なように見えたからだということもある。

「それに、来ている人がみんな楽しそうにしていて、良い夜だね。こんな幸せな場所はなかなか見られないから、頼んでくれて、今日ここにお邪魔できていて、楽しい」

 こう言ったのは心からの言葉だった。日常から足を踏み出した知らない場所で、こんな夜を過ごす。九郎とも、あの呼び止められた日に一度会ったきりのお互いのことを知らない他人であるのに、もう何年も気心の知れている友人のような感覚があった。

「うん、今日が良い日になって良かった。それはタロウが手伝いに来てくれたからだよ」

「良いけど、おれの名前タロウじゃないんだけど」
「ああ、ごめん」

 九郎は視線を伏せたままはにかんで笑った。長い睫が柔らかく流された前髪の下で揺れる。
「前にさ、会ったことあるんだけど、憶えてない?」

「……え?」
「憶えてないか、そうだよね」

 視線を外したまま九郎は恥ずかしそうに笑った。

「……なんか、ごめん」
「いや、いいんだ。小さい頃の話だし」

「……小さい頃、だと人違いかもしれない。おれ中学生までは母方の実家の仙台に居たから東京に居なかったし」
「じゃなくて、僕が。タロウと会ったのは一昨年の夏だったかな。その時僕はまだほんの子猫だったから」

 九郎は緊張を帯びたような真顔で冗談のようなことを言う。
「言わない方が良いかなと思っていたんだけど、さすがに気付いてるかなと思って」

「え、ちょっと待って、何が。話が見えない」
「だから今日の会だよ。黒猫会は、黒猫の集まる会なんだよ。僕も客も、タロウ以外はここにいるのは全員猫なの」

 冗談にしか聞こえない話をする。
 しかし九郎が「ここにいるのは全員猫なの」と言った瞬間に体が総毛立った。それまで寒くはなかった冷たい空気が袖や裾やあらゆる隙間から侵入するのを感じる。
 と、同時に今日見聞きした腑に落ちないひっかかりが総て符合して彼の話を裏付けていく。

 身動きができないまま、鳥肌が体中の上を伝染して広がっていくのを、どうすることもできず感じながら、僕は目を泳がせることしかできなかった。
 空気が変わる。ロマンチックな甘い匂いを滲ませた緩やかな春の夜の空気は、いつしか白い月の下で時間が止まっているかのような冷たさになっていた。背後の室内からは変わらず音楽と、愉快そうな気配が漏れ聞こえてきている。

「冗談にしか聞こえないけど、それが本当だったとして」

 自分を落ち着かせるための深い呼吸をひとつ。そして大切なことを聞く時に、相手の反応を見逃さないための心積もりにもうひとつ。
「おれが猫ではないと彼らに知れたら、危険なのか」

「猫は人間の気配には敏感でないと、街の中では生きていけないからね。気付いてる猫もいるんじゃない。でも、そういうのには僕が直接友達だって、手伝いを頼んだ、って説明をしておいたから、それで気付かなかったことにして許してくれているんだと思うよ」

 建物に入ってきて初めて僕を一瞥した時の彼らの警戒心を帯びた視線を思い出す。そしてそれを遮るように間に入って僕を紹介して、彼らに黙認を促したのは確かに九郎だった。

「でも今日は、東京中の黒猫が集まる日だから。基本的に黒猫は親愛的で温和だって言われるけど、二・三百も集まれば、色んな猫が居るよ。人間にひどい目に遭わされて恨みを持ってる野良も珍しくはないし、ヒステリーなおばさんもいるし、悪口を言うばかりの嫌われ者もいる。今日話した中にもタロウの素性を暴こうと近寄ってくる奴は居たでしょう」

「住んでいる街は、よく聞かれた」

「だと思った。それぞれの住んでいる街の情報ネットワークがあるからね。でも、みんな悪意がある訳ではなくて、自分の知らない新入りを知ろうとしているだけの猫が多いと思う。でも秘密を暴いてやろうとする猫も居る。正義感に置き換えた攻撃欲求からか、もともとの疑い深さからか、恨みがある人間というものへの悪意からか、純然たる好奇心からかは知らないけど、確かに今日の集まりの中には居ると思う」

「そういう奴にばれたら、どうなるの」

「許さないだろうね。大声で騒ぎたてて、周りを煽り立てて、『許せない、殺せ』と喚くかもしれない。そうなってしまうと最悪の場合、タロウは家に帰ることが難しくなるかもしれないね」

 背筋を冷たい汗が流れて落ちる。
 こいつは一体何を言っているんだろうと、理解しようとしてみても、その実感が追い付かない。ただ、本能的に普通の話をするかのように平然と話す九郎に疑いの念が生まれるのを感じる。

「……危険なことはないって言ったじゃないか」
「ないよ。僕が守るもの。だから、大丈夫」

「どうやって」
「必要なことは、今までもしてきたと思うよ。だから今、タロウは室内の猫たちに好意的に迎えられてる。基本的にはね」

 指先で煙草はとうに燃え尽きてしまっている。

「だけど、もうすぐ夜が明ける。さっき僕が魔法を使えると言ったけど、それは今日の朝までの力なんだ。ここにいる猫はみんな猫の姿に戻る。そしてそれぞれのねぐらに帰る。家を抜け出してきた飼い猫も、公園で寝泊まりしている野良猫も、普段暮らしている街に帰る。遠方まで歩いて帰るのが嫌な猫は、人間の姿をしたまま夜明けが来る前の電車に乗って地元の駅まで帰る。だからそろそろ帰ろうとする客も増えてくるはずなんだ」

「……うん」
「夜が明けて、魔法が解けた時、みんな猫の姿に戻った時、タロウだけが人間のままだと僕は守ってあげることが出来ないかもしれない」

「……そうだね」
「だから、あらかじめ言っておこうと思ったんだ。そしてどうしようかタロウに決めてもらおうと思ったんだ」

「夜が明ける前にここを離れるということ以外に何かあるの」
「もちろん、それが一番安全な道だし、きっとタロウはそれを選ぶんだと思う。でもね」

「うん」
「そうしてしまうと、僕はタロウに本当にもう二度と会えないような気がするんだ」

 九郎は鼻をスン、と鳴らした。

「渋谷駅で見た時に、子供の頃に会った人だと思って、何も考えずに駆け寄ったんだ。こんなことも頼む気なんかなかったし、これを理由にもう一度会って話がしたかったんだ。そしてちゃんと伝わる人の言葉でお礼が言いたかったんだ。タロウは憶えてないかもしれないけれど、一昨年の夏に僕は、命を助けてもらったから」

 記憶を辿ろうとする。一昨年の夏の。九郎は言葉を続けた。

「だからね、僕は、本当は、タロウに猫になって欲しい。うちの御主人は優しいおばさんだから、一緒に帰れば喜んで迎えてくれると思う。だからタロウがそうしてくれると言うなら、タロウは人間であることをやめて、猫になって僕と遊んで暮らせるんだ。仕事も学校もなくて、朝も早起きしなくていい。ご飯は人間が食べるみたいなものは食べられなくなるけど、身体が変われば好みも変わるよ。だから、僕は、本当は、そうして欲しくて、ここに呼んだのかもしれない。僕と遊んで、毎日一緒に生きていくって言ってほしいって。夜明け前の時間なら、僕は魔法が使えるんだ。魔女のところで働いていた祖先が伝えてくれた人間を猫に変える魔法。それは僕が人間の姿をしている間でないと使えないんだ」

 九郎は俯いて、二本目の煙草に火を付ける。そして息を整えるように深く喫い込んで酩酊するような表情をしたのち、こちらにまっすぐに向き直った。

「これは、冗談でも何でもなくて、本当のことなんだ。もうあまり時間がない。タロウは、どうしたいのか、今決めて」

 突拍子もない話だった。
 しかし九郎の表情には固い決意があっての話なんだという覚悟が滲んで見えていた。冗談やめろよ、と笑ってしまうことは簡単で、それは自分の身を守る一番安全な選択肢であるように思われたけれど、九郎を間違いなく傷つける。
 九郎にしてみても、こんな突拍子のない話を初対面に近い「人間」にするよりも、最後まで秘密を明かさずに夜を終わらせてしまうほうがリスクは少ないはずだ。僕がもし、彼の信じてくれたような、こんな話を真に受けている呑気な人間でなかったら。
 彼の言葉を信じずに、彼の決死の提案を仲間に冗談めかしてばらして、結果として彼を追い詰めることになるのではないか。彼はそこまでを覚悟した上で、僕にこんな話をしているんだろうか。

「もちろん、すぐに信じてくれって言っても難しい話だってのは分かってる。タロウにも日常生活だとか、友達だとか、家族だとか、恋人だとか、大事なものがあるんだろうことも分かってる。だけどね」

 九郎はまるで今まで泣いていたかのような深い息を吐いた。

「僕は、ずっと助けてもらった日から、タロウに会いたかったんだ。それで、もしこれからもずっと一緒に遊んでいられたらいいなって思うんだ。こんな話をするのも、お願いをするのも、今しかできないことだから。急な話で悪いけど、でもこれはタロウに聞いて欲しかったし、決めて欲しいことなんだ」

 ベランダに居た僕と九郎の間には、暫くの沈黙が流れた。
 当然ながら、九郎の提案は簡単に乗ることのできる話ではなかったし、人間として大学に通い、就職をして、これから人生というものを何とかしないといけないという覚悟をしていた僕にとっては、今までそんな可能性を考えたこともなかった。しかし、僕は目の前に居る九郎を傷つけたくはなかったし、彼の話を冗談だと思うこともできなかった。

 結果として、暫く黙り込んでしまって、彼はそれを耐えるように待っていた。

 黙って何を考えていたのかというと、自分には捨てられないような大切なものは、最小限しかもっていないということだった。
 自分を今まで育ててくれて大学にも行かせてくれている親や家族は悲しませたくない。しかし、人との関わりを避けて、一人で居ることを守り続けてきた自分を、いなくなったとしても気付く人間は、家族以外には居ないのではないかとも思う。
 覚悟していた人間としての人生の何十年間の間に必ずやりたいことなどというものは特にないし、それなりの会社に就職して、それなりに結婚して、それなりに生きていくだろう予感はあるけれども、それは、彼の誠実さを蔑ろにして否定してまで守るべき将来なんだろうか。

 言ってしまえば、まともに言葉を交わしたのは今日の一日しかないと言える彼が、自分の身の危険を冒してまでも自分に「一緒に生きて」と申し出ているということ。
 そして自分自身も、他人にこれほど気安さと安心と信頼を覚えているということが初めてであるように思われていること。彼を傷つけたくないと思っていること。もっと言えば、可能であるならば、彼の提案に乗ってしまってもいいとすら思っていること。

 天気のいい日には日向で昼寝をして、飼い主が帰ってきたら喜んで甘え、毛づくろいをして、自分がここに居る理由や、生きるべき価値のある存在なのかを考えなくてもよい一生。稼ぎの金額や、外見や、モテるモテないというような話や、華やかな他人を煙たく思うような、そんなものから解放されて生きるということ。

『人間以外の動物の偉大なところは、自分の存在を迷うことなく肯定しているところだ』

 そんな言葉をどこかで読んだことを思い出す。そんなことが可能ならば。そして彼となら兄弟のように遊んで笑って、生きて行けるような気がした。

 考えたそれらのことを口に出してしまうと、目の前で沈黙に耐えながら待っている彼に期待をさせてしまうということも分かっていた。だから結論を最初に言うべきなんだ。話しながら考えて、彼を期待させること、また不用意に傷つけることはしたくはなかった。

 家族は僕が帰らなければ心配するだろう。捜索願を出すかもしれない。悲しむかもしれない。いや、悲しむと考えた方が自然なんだろうとは思う。
 だけど、家に居ても誰とも口を利くわけではない今の状況としては、僕が帰らなくても一週間くらいは誰も気にしないように思う。もしかしたら気付かないかもしれない。大学生だから彼女でも作って、その子の部屋に入り浸ってるんでしょう、くらいに思ってくれるかもしれない。そんな事態は今まで一度も起きていない訳だけど。

 それでも何か、これ以上の沈黙を続ける前に、彼に何か言葉を少しずつでも返さなければと思っていた時だった。
 店内で客の悲鳴が上がった。僕と九郎は顔を見合わせて、フロアで何が起きたのかを確かめるべく、室内へ走った。

 客が寄ってこぼした酒に、電気のコードがショートしたらしく室内の電気は全て消え、流れていた音楽も止まっていた。
 人々の、いや猫たちのざわめき。窓の外の外灯から差し込む光を頼りに床を確認し、それ以上のことが起きていないかを調べ、何事もなさそうだということを確かめた。

「みなさま、お騒がせして申し訳ありません。すぐに復旧いたします」

 九郎が人の姿をした猫たちにそう呼びかけ、僕の背を押して、先ほど着替えに使った小部屋へと押し込んで扉を閉めた。

「そこの電気配線を直せば元に戻るはずだから頼んだよ、タロウ」

 そう言われても、光も差し込まない真っ暗闇の小部屋の中で、何も見ることが出来ない。言葉を返そうとすると、ドアの隙間から九郎のささやき声が聞こえた。

「まもなく夜が明けるから、そこを出るな。そして暫く眠って、昼近くなってから帰れ。……僕は普段大塚に居る。名前はクロだ。ギンガムの首輪をしている。駅の北側の住宅街に住んでる。じゃあ、後はこちらで何とかするから。声を立てないで」

 暗闇に目が少し慣れるまで、僕は閉じ込められた小部屋で立ち尽くしていた。
 彼が僕を守ってくれたのだということ。
 時間切れは思ったよりも早く訪れたのだということ。
 結果として僕は彼を裏切ってしまうことになってしまったこと。
 そんなことが自分の手すら見えない真っ暗闇の中で、自分の頭の中をどうしようもなくぐるぐると回り続けていた。

 ――今となってはもう何も、彼に伝えることができないのだろうか。

 もし今。この扉を押し開けて外へ出たら、彼が一人待っているということはないだろうか。僕の本心を、彼の誘いに乗ってみてもいいと思ったことをせめて伝えることはできないだろうか。

 ――いや。

 客が一人残らずいなくなっていたら、彼はこの扉を開けているだろう。もしそれが人間の姿でなかったとしても。そうする奴だ、と思われた。しかしいくら待ってみても、彼はこの扉を開けて僕を外へは出そうとはしなかった。

 始めは聞こえていた扉の外のざわめきは次第に遠ざかり、それと比例するかのように、僕は近くの荷物に凭れて意識が遠のいていくのを感じた。

 この話はここで終わりだ。
 日が高くなり、光に溢れた往来で車の行き交う音やら休日の青山の買い物を楽しむような人々の声が遠く聞こえた頃に、僕は恐る恐る閉じられていた扉を押し開けた。

 そこは、昨晩青や緑や黄色や紫の光に照らされていたパーティー会場だとは到底思えないような人の気配のない廃墟だった。
 テーブルの上には厚く埃が溜まり、乱雑に物が積み上げられている室内に僕は全てが寝惚けた自分の夢だったのではないかとすら疑った。

 ただ、そんな廃墟の一室で目を覚ました自分自身と、埃だらけになっているバーカウンターの下に放置していた鞄の中の財布に所持金が三万円追加されていたことだけが、説明できなかった。

 ――僕は結局、無事に仕事を終えたのだ。頼まれた仕事は果たし、それに対する高すぎる対価も得た。結果として身に危険は及ばなかったし、一夜のアルバイトとしては上出来なのではないかと思う。

 そう自分に言い聞かせて、昨日のことを納得して忘れてしまおうとも思った。意識のある最後に聞いた彼の声が内耳に甦る。
 ベランダで見た彼の決意した横顔と、泣いているような震え声。そんなものがどうしてもちらついて、この記憶を一晩のアルバイトのものだったと整理して、片付けてしまうことができないということに気付く。

 ――大塚に行かないと。

 彼にもう一度会わなければいけないと思った。
 埃にまみれた鞄を持ち上げて、埃を払落して肩に背負う。会ってどうするなんてことは考えていなかったけど、彼は「もう二度と会えない気がする」と僕に言った。それを否定してやろう。猫だろうが人間だろうが、彼が彼で、僕が僕であることは何も変わらないのだから。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?