見出し画像

【小説】マズロウマンション

2024年8月4日に逝去した、愛すべき稀代の天才、故・久我新悟さん(LIPHLICH)に、哀悼の辞を捧げます。

この小説作品は、2013年にロックバンドLIPHLICHが発表した3曲入りCD『マズロウマンション』を原案として、犬尾春陽が構成・小説化を行い、文学フリマで発表した作品となります。

ライブで一聴して曲と世界にに惚れ込み「この曲の世界を文章化したい」という一心で一月足らずで書き上げたこの小説が、LIPHLICHをまだ知らない誰かのところへも届くことを、そして久我新悟さんの作品を知ってもらう一助となれば、心よりうれしく思います。


一、リリー


「幾分、変わった物件ではありますが、賃料は破格の安さになっておりますし、お客様の御希望には添えるのではないかと」

 くるくると渦を巻く髪を顔の前に垂らした仲介業者の男は、机の上の写真を見下ろしたままで私にそう告げた。

「……変わった?」
「いえ、変な意味ではないのですけど」

「どういう意味ですか?」
 仲介業者の男は唇の両端に力を込めた。私はその動作に滲む彼の動揺を黙ったまま見守った。

「……ええとですね、難しいな……。変な物件ではありませんよ。一度住んだら退去なさる方も少ないですし、住みやすい物件ではあるでしょうね」

「変わった、とは」
「そうですね。私も直接住人の方から伺ったわけではないので詳しいことは分かりかねるのですが」

「はい」

「……ベランダからの落下事故が多いとは、聞いています」

 今から部屋を仲介しようとする業者は、できればネガティブになる情報は客に与えたくはないのだろう。彼はそれ以上の言葉を続けようとはしていない素振りで、私の方を向き直った。

「落下事故、って、……自殺ですか?」
「あっ、いいえ。違います」

 自分の発した言葉が想像以上のネガティブな印象を与えていたらしいことに気付いた男はそこで初めて私の目を真っ直ぐに見た。

「些細な話ですよ。ベランダから植木鉢が落ちるような。恐らくベランダ外壁の仕様が多少傾いていることに気付かず、入居者が物を置いてしまうのでしょうね。ベランダ下の中庭に物を落とす方が多い、ということを管理人の方に聞いたことがあるというだけの話です」

「……なんだ」

 賃料が安く、私のような保証人も居ない女の子一人の入居を認めてくれる物件など、そう多くはない。鞄一つで汽車を降りて、その足で部屋を探しに来ている私が贅沢を言える立場ではないことは明解だった。ここで部屋が決まらなければ、私は今夜寝る場所すら決まっていないのだ。
 窓の外に音もなく傾き始めた午後の日差しは、私に時間が残されていないことを静かに示唆している。

「ご案内、致しましょうか」
「ええ、お願いします」

「お待ちください。車を呼びます」

 紹介された物件の名は『マズロウマンション』と言った。私が仲介業者の男に連れられそこへ到着したのは日が落ちる時間になってしまってからだった。

 マンション、という語感から私は簡易で無味な集合住宅を想像していたのだけれど、馬車が止められたのは、中世の貴族が建てたかとでもいうようなクラシックなお屋敷の外門の前だった。
 こんな建物の一室を、保証人もなくお金も余りない年若い女の子に貸してくれるのだということなのだろうか。

「驚きましたか」

「……ええ。ここ、ですか」

 仲介業者の男は後部の席に座る私に向きなおり
「このあたりは、街から多少外れていますからね。道も舗装されていませんから馬車しか入れませんし、不便を感じる方も多いので、破格の値段が付いているのです。でもお客様にはきっと気に入って頂けると思っていましたよ」
 と言って、長く垂れた前髪の下からチェシャ猫みたいに口を大きく引き伸ばして笑った。

 ――時刻は夜の七時を回ってしまった。この時間になってしまうと、街に戻ってから今夜の宿を探すのは難しいかもしれない。

 私は通された応接室のソファに仲介業者と並んで座りながら、壁に掛けられているアンティークの時計が一秒ごとに音を立てているのを、少しの緊張を帯びて見守った。
 この建物には電気が通っていないのかしら。古そうな建物だから、その可能性も十分にある。シャンデリアの上には小さな炎がゆらゆらと揺れており、張り巡らされた黒い壁紙と沈殿した闇の見分けがつかない。

 管理人のリリーと名乗る女の人は目深に黒いベールを被り、足元まである濃灰色のドレスを引きずった姿で現れた。

「リリーさん、御無沙汰しております」

 ソファから立ち上がって頭を下げる仲介業者の男に従い、私も急いでソファから立ち上がって頭を下げる。

「あなたが入居希望者の方?」

 部屋の明るさが足りないためか、ベールの影にかかったリリーさんの顔は正面に座ってみても見ることが出来なかった。

「はい。ウェンディと申します」
「宜しくね、ウェンディ。この建物は、お気に召したかしら」
 リリーさんはポットからカップに静かに紅茶を注ぎながら、私に訊いた。

「ええ、とても立派な……、こんな素敵なところに住んでもいいのかと思ってしまいました」
「そう、良かった」

 ベールの下でリリーさんが笑った気配がする。それを見て、私は自分の体を縛っていた緊張が少し解れるのを感じた。

「今夜から、入居なさる?」

 私の足元に置いている大きな旅行鞄を見て、リリーさんが訊いてくれたことに、却って私は驚いてしまった。

「いいんですか」
「勿論よ。丁度四階の部屋を掃除したところなの。家具は造り付けだし、ベッドもあるわ」

「助かります。今夜、泊まるところも決めていなくって」
「じゃあ、今夜からね。マツモトさん、お金に関しては後日預かって、私の方からお渡ししますから」

「宜しくお願いします」

 それまで私とリリーさんのやり取りを黙って聞いていたマツモトさん(名前を呼ばれて私は彼が東洋人であることに初めて気が付いた)は、長い前髪の下から再度チェシャ猫のように笑った。

「うちに来てくれて嬉しいわ、ウェンディ」

 マツモト氏を玄関先で見送った後、リリーさんはそう言って私に笑いかけた。
 笑いかけたと言っても、彼女の顔はやはり深いベールに覆われてしまっているので、その口元を見ることが出来た訳ではないのだけれど、彼女の穏やかな口調に私は十分な信頼を感じていた。

「宜しくお願いします」
 改めてリリーさんに頭を下げる。

「私はただの管理人よ。六階に管理人室があって、そこに居るからいつでも遊びにいらっしゃい」
「はい」

 電気が通っていないのではないか、という私の不安は、廊下の奥に造り付けられた旧式のエレベータの存在で払拭された。
 リリーさん曰く、調子が悪いから普段は降りる時にしか使わないようにと住人にはお願いしているのだということ。

「私が乗る時は問題なく動いてくれるのだけど、住人が一人で乗る時は上がる時に限って故障が起きるのよ。閉じ込められでもしたら大変だから、使うのは降りる時だけにしてね」
「はい」

 マズロウマンションの中は、外観の豪奢なお屋敷という印象以上に広いようだった。
 奥へ繋がる薄暗い廊下は真っ直ぐに伸びて、その両側に部屋が連なっている。燭台を手に案内してくれるリリーさんに従ってその廊下を歩きながら、私はいつか東洋の国を旅して古いホテルに泊まった時のことを思い出していた。

「この建物はね、昔マズロウさんという方が建てたお屋敷なのだけど、一家が途絶えて貸し出されるようになったの。
 マズロウさんが変わった人で、ここで暮らすためには幾つかの決まりを守って貰わなくちゃいけないのだけど、できるかしら。ウェンディ?」

「エレベータは降りる時だけ、とか?」
「そうよ。他愛ない決まりだけど」

 マツモトさんを見送ってしまった以上、私には入居を断って街に戻る手段は残されていないことを改めて思い出す。こんな身寄りのない私を即日で受け入れてくれたこんなお屋敷を断る理由も全くない。

「はい。守ります」
「良い子ね、ウェンディ。決まりさえ守ってくれれば、良い日々を送ってもらえると思うわ」

 *

 案内された部屋で真鍮製の小さな鍵を受け取り、リリーさんがひらひらと手を振って廊下の奥へと消えて行くのを見守った後、私は重い鞄を床に放り出して、靴も脱がないままベッドの白い毛布の上に仰向けに倒れ込んだ。

 ――今日は色んなことがありすぎたように思う。
 新しく訪れた街で、こんな風に部屋が決まることも予期してなかったし、それがこんな豪奢な古い貴族のお屋敷だとも思ってなかった。
 管理人さんが良い人で良かった。古い建物だから、決まり事もあるだろう。ここでの暮らしに早く馴染めるといいな。早く仕事も見つけなくちゃ。

 ――何より、ここに居る間は伯爵の目を凌ぐことができるわ。こんな街のこんなお屋敷に私が潜んでいるなんて、伯爵は及びも付かないだろうと思うもの。私が彼の元を逃げ出した日から、どのくらいの月日が流れただろう。

 

『上の住人には逆らわないこと』
『隣人とは付かず離れずに』
『下の住人に関わるな』

 リリーさんが一本ずつ指を立てて教えてくれた『マズロウマンションでの決まり』を忘れないように復唱してみる。

『上の階に住んでいる人は代々芸術家が多くて気難しいから、気をつけてねってことよ』
『隣人とは付かず離れずに、は普通のことでしょう? トラブルを起こさないために』
『下の住人は、そうね。関わるなは大袈裟だけど、深入りはしないほうがいいわ』
『できるわね、ウェンディ?』

「……はい」
 誰も居ない部屋の中で、誰にするとでもなく返事をする。

 天井から下がっているシャンデリアには電気ではなくガスが通っているらしく、日が翳る時間にはリリーさんが全室の部屋を制御して灯りをつけるそうだった。

「ガス灯って古い映画みたい」

 そんなことを口に出してみると、あの謎めいた古い映画の洋館を訪れているみたいでわくわくとした気持ちが胸の中で湧き上がるのを感じた。

 開け放した窓の外の闇のどこかからピアノの音が聞こえた。庭の向こうに広がる林からは遠く梟の声もする。

――高く上った月の下で、私はマズロウさんのお屋敷の四階に居る。

 

二、ラースカ

 

「お早う、ウェンディ。良く眠れた?」
「お早うございます、リリーさん。お蔭さまで」

 中庭の薔薇の手入れをするリリーさんは、昨日のように深く黒いベールを被っていた。

「そう、良かったわ」

 首を傾けてこちらに微笑んだ(らしい)リリーさんは、如雨露から水を地面に注ぐ。朝の光を受けた水の飛沫がキラキラと光を宿して乾いた薔薇の根元の地面を黒く濡らしていくのを、私も足を止めて見守った。

「どこかへお出かけ?」
「はい。私、この街に来てから間もないので、仕事を探しに」

「あら。言ってくれたら車を呼んだのに。街までは遠いわよ」
「結構です、今日は時間があるので歩こうかと思って」

「そう? でも、女の子一人で森の中を歩かせるのは心配だわ。あそこお昼でも暗いから」
「大丈夫ですよ」

 手を止めて心配してくれるリリーさんは、優しい人なんだなと思う。ベールを目深に被っていること、薔薇の手入れをする時にすら足元までのドレスを着ていることも、このお屋敷に似つかわしい中世の貴婦人のように自然なことに思われた。

「あ、そうだ。ねえ、ウェンディ、あなた色んな国を旅してきたのだったわね」

「……ええ」
「三階の女の子の家庭教師を、お母様が探していらっしゃったわ。外国語をやらせたいとか。あなた言葉はできる?」

 私が探そうと思っていた仕事が外国語の家庭教師であったことを見透かされたのだろうか。なければ皿洗いやウェイトレスや劇場受付みたいな仕事でも構わないと思っていたけれど、私にできる仕事の中で家庭教師が恐らく一番お給金が良い。
 それに毎日街まで働きに行かなくて済むのならば、それほど好都合なことはないだろう。道のりを覚悟していたとはいえ、昨日馬車で抜けてきた暗い森を一人で歩くことが物騒だと聞いてしまった以上、少しの躊躇を覚えてしまったのは事実だった。

「ええ。あの、……街で探そうと思っていた仕事が家庭教師なんです。言葉なら多少教えることが出来るので」

「あら、じゃあ好都合じゃない。お母様もこんなお嬢さんが家庭教師に来てくださると聞いたらきっと喜ぶわ」

 ――ヒュルルルルルル、ドサッ

 上階のベランダから何か白いものが、私とリリーさんが話している場所から少し離れた土の上に落下するのが見えた。

「あら」
 不意の一瞬の出来事に狼狽を覚えた私に、リリーさんは驚いたふうでもなく頷いて見せた。

 昨日『落下事故』とマツモト氏が言葉を濁しながら言っていたのはこのことだったのだろう。
 幸い、白いものが落下した先は芝生に包まれた柔らかそうな土で、その下に誰かが下敷きになるというような『事故』と呼ぶには大袈裟な事柄なのかもしれない。

「ラースカ!」

 年若い金切り声が響いたかと思ったら、集合階段から一人の女の子が芝生の上に横たわる白いものへ駆け寄るのが見えた。女の子は白いものの側へしゃがみ、愛おしそうにそれを撫でている。

「マリベル」

 リリーさんが近付いて声を掛けると、女の子は真赤に泣き腫らした目を上げた。リリーさんの傍らに居る私に気付いた彼女は、警戒するように幾分身を強張らせた様子だった。

「ラースカ、死んではいないみたいね」
「うん、良かった」

 彼女がベランダから落とした白いものは、覗き込んでみると白いウサギだった。

「ラースカを可愛がってあげてね、マリベル」
「うん。リリーさんに貰った子だもん。大事にする」

 女の子は力なくうなだれているウサギを抱き上げて、リリーさんと私に向かって頭を下げたと思ったら、身を翻して階段へ向かって駆けていった。
 私は彼女の翻すワンピースの裾と軽快に地面を蹴る白く細い棒のような脚をぼんやりと見送った。

「……今の子よ」
「えっ?」

「お母様が家庭教師を探している子」
「……ああ」

「後で、改めて紹介するわね。悪い子じゃないのだけど」
「でも、ウサギが落ちてしまったら、誰でも取り乱すと思います」

「……そうね」
 含ませるものがあるかのようにリリーさんは短く呟いた。

「あのウサギはリリーさんがあの子にあげたものなんですか」
 私が何気なくした質問に、リリーさんは一瞬の間を挟んで「そうよ。名前も私が付けてあげているの」と答えた。

「素敵な名前ですね」
「ラースカの前はリーフデ、リーフデの前はケーリクヘットだったわ」

 リリーさんは朝の光を受けて誇らしく咲いている薔薇の植え込みを見下ろしたまま、独り言のように呟いた。


三、アドリーヌ


 リリーさんに従って三階を訪れ、紫色に塗られたドアの前に立って呼び鈴を鳴らすと、品の良い中年女性が扉から顔を覗かせた。

「まあ、リリーさん。こんにちは。どうかなさって?」
「御機嫌よう。もう、マリベルの家庭教師はお決まりになった?」

「いいえ、まだなの。街からわざわざ通ってくださる先生がなかなか見付からなくって」

 そこまで言った中年女性と、背の高いリリーさんの後ろに隠れるように立っていた私は目が合ってしまった。
「こんにちは。今度四階に越して参りましたウェンディと申します」

 小さくお辞儀をすると、中年女性は「あら、ようこそ。宜しくね」と顔を綻ばせた。

「ウェンディがね、外国語ができるみたいなの。若いけど色んな国を旅してきたみたいで。もしマリベルの家庭教師が決まっていなかったらどうかと思って来たんだけれど、如何かしら」

 中年女性は「まあ」と私に注視した。
 私はまじまじと見られていることが恥ずかしく思われて、思わず笑みを頬に貼り付けたまま視線を床に移す。

「私でお役に立てるのでしたら。丁度仕事を探していたところなんです」
「あら、そうなの? ……うちの娘、我儘なんだけど、大丈夫かしら」

 先ほどのウサギを抱えた少女の姿を瞼の裏に描く。年の頃は十三というところだろう。
「私にも妹が居りましたから、年下の女の子とは仲良くなれると思います」

 妹が居るというのは嘘だった。
 私は家族と暮らした経験がない。幼い頃は施設で育ち、その内に猫目の伯爵が誘い出すままに施設を出奔して、数年前に猫目の伯爵の元を去ってからは一人きりだから、ある意味で天涯孤独とも言える身の上なのかもしれない。
 ただ、伯爵が貴族の流儀は一通り教えてくれたので、育ちの良いお嬢さんであるという振る舞いをするのは苦ではなかった。そうして、この女性のような恐らく常識的な暮らしをしている人にとって、育ちのいい身の上であると思われた方が信頼を得やすいということも、経験上で知っている。

「そうなの、じゃあお願いしてしまおうかしら。うちの娘は一人っ子でウサギとばかり遊んでいるから、きっと仲良くしてくれるお姉さんが出来たら喜ぶわ」

「良かったわね、ウェンディ」
 リリーさんが私を見下ろして静かに言った。

「有難うございました、リリーさん。何から何までお世話になってしまって」
「いいのよ。困ったことがあったらまた相談してね」

 中年女性が娘を呼びに行っている間に、リリーさんは部屋へ立ち入らず廊下をしずしずと歩いて姿を消した。その背中を見送りながら、マズロウマンションの廊下は、こんなお昼間であるにもかかわらず、薄暗い闇をそこここに帯びていることを私はぼんやりと眺めた。

 *

「先ほどお庭でお会いしましたね、マリベル」
 ウサギを抱いた少女ことマリベルは、私の前のソファに座り、母親が紅茶をポットから注いでいるのを、唇を固く噛んで見つめている。

「ごめんなさいね、ウェンディ。この子、人見知りで」
「あ、いいんです。これから仲良くなれたら」

 視線を上げたマリベルと目が合う。驚いたようにウサギを抱きしめてマリベルは急いで目を逸らした。

 仲良くなるまでに、少し時間がかかるかもしれないと感じつつ、顔には出さないように気を配った。
「……ピアノをお弾きになるんですか?」

 応接室の壁際に建て付けられたアップライトピアノを見て、私は昨夜の闇の中で聞こえたピアノの音を思い出した。

「娘が習いたいと言うので買ったんですけど、先生が見つからなくって。今は全然弾いていないからお恥ずかしいですわ」
「そうなんですか」

 母親との会話の途中、幾度かマリベルが言いたいことがあるとでもいうように口を開きかけたことに、私は気付いていないふりをした。マリベルは俯いたまま、ウサギを抱いて立ち上がり、小さく礼をしたかと思うと足早に部屋を出て行った。
 母親はそれを仕方がないとでもいうように見送って、ドアが閉じられるのを待ってから、私に「無作法な娘でご免なさい」と謝った。

「外国を旅してこられたと伺いましたけど」
「ええ、立派なものではないのですが、数年前から一人でずっと旅をしていまして。本が読めて日常会話に困らない程度でしたら、幾つか言葉は分かります。お役に立てますでしょうか」

「十分よ。……家庭教師を探していると言ったけれど、本当は一人きりで居るマリベルに話し相手をしてあげて欲しかったの。あなたが良ければ是非お願いしたいわ、ウェンディ。マリベルの話し相手になってあげて下さる?」

「私で良ければ喜んで。有難うございます」
「じゃあ決まり。宜しくね、ウェンディ」

 母親の名前はアドリーヌと言った。
 私は週に三度マリベルの元を訪れる約束を取り付けて、彼女たちの部屋を後にした。アドリーヌはマリベルと二人暮らしをしているのだろうか。彼女たちの部屋には、父親が暮らしている気配がなかった。お金に困っている風ではなかったからアドリーヌの夫はよその街で働いているという立場なのかもしれないとぼんやりと考えつつ、初対面の女性にそんな家庭の事情に立ち入ったことを訊ける訳もないと思い直す。
 この場所で暮らしているうちに、ゆくゆく今は分からないことも分かっていくのだろう。焦ることはないのだわ、と私は目まぐるしく移り変わっていく状況に少し疲れてしまっている自分に言い聞かせた。


四、マリベル

 

 傾いているのではないかという話だった真鍮製のベランダの柵は、傾くも何も物を乗せる余地のない奥行幅のないものだった。
 柵の間は十五センチ程度の隙間があり、うっかりベランダに出てしまったウサギはこの隙間から階下へ落ちてしまうということなんだろう。

 マツモトさんはこの建物の細部までを把握している訳ではなかったのだなと、入居して暫く経った現在になってから納得した。
 仲介業者なんていうものはそんなものなのだろう。日々変わっていく数百の物件の場所や間取りや条件を総て把握しているというだけでも、私のやっている家庭教師よりは大変な仕事だということが推し量れる。

「ウェンディ」
「なあに、マリベル」

「昨日ね、『あの人』の弾いてた曲のタイトル、分かる?」
「どれかしら」

「あのね、タンターンタタタタータターンってやつ」
「弾いてみて?」

「弾けないよー、歌うから当てて」
「無茶言わないでよ」 

 マリベルは私の返答に頬を膨らませた。あの日にあんな態度を取っていた彼女は、私と母親の心配をよそに、私を認めてくれていたらしい。二人で会う初めての授業の日に、彼女は私に色んなことを話してくれた。

 ウサギが大切で可愛いこと。
 一人で街までお出かけをしたいのにママが許してくれないこと。

「勉強しなさいっていう割に、ママは頭が悪いからあたしに教えられることなんて何にもないのよ」

「お母様をそんなふうに言うもんじゃないわ」
「だって本当のことだもん。莫迦なの、あの人」

 繰り返しマリベルの口ずさむメロディーの中、ふと思い当たる音階に気が付く。

「その曲って、これ?」
 壁のピアノの蓋を開け、鍵盤を覆う布を引いて、ド・ファ・ミファラド・ファファと白鍵を押さえると、マリベルは目を輝かせた。

「それ! 何ていう曲?」
「トロイメライよ。ドイツ語で『夢』」

「へえ……、昨日聴いてから耳を離れなかったの。綺麗な曲ね」
 マリベルは瞳をキラキラさせて頬を赤らめながら、私の押さえた通りにピアノの白鍵を押さえてみようとする。

「ママに聞いても分かんなかったの。良かった、ウェンディが居てくれて」
「お役に立ったら嬉しいわ」

 私がおどけてそう答えたところに、ドアを開けて母親のアドリーヌがお茶を持って現れた。

「昨日、ママに聞いても分からなかった曲をウェンディが教えてくれたの」
「そうなの、良かったわね」

 アドリーヌは必ずしも娘が勉強をしているふうでなくても、口を出したりはしない母親だった。家庭教師を付けたがっていたというのも、本当にマリベルの相手をしてくれる人を雇いたいという目的だったのかもしれないと思う。

 だけど、家庭教師として給金を頂くからには、私はマリベルに勉強をさせる義務があった。
 アドリーヌが望む、望まないに関係なく、外国語に限らないにしろ、私はマリベルの欲する知識を与えられるだけ提供しようと思っている。

「『トロイメライ』はドイツ語で夢、ね。覚えた」

「綴りはこう。Traumerei。Traumenが夢を見るという動詞ね。それが名詞になっている形」
「ふうん」

 そこまでの興味はないとでもいうように、マリベルは生返事を返した後、トロイメライの冒頭部の旋律を繰り返しピアノの白鍵の上でなぞっていた。

「ねえ、ウェンディは昨日のあの人のピアノを聴かなかったの? あんなに綺麗だったのに!」

 昨晩の記憶を辿ってみるけれど、トロイメライが流れていることを聴いた記憶は思い当たらなかった。

「昨日は早くに窓を閉めて本を読んでたから、気が付かなかったわ」

「勿体ない! あたしなんて曲を知らないのに、こんなに憶えているのに。とっても綺麗だったのよ。お月様が高く上って、森の上に白く光って、夜の風と一緒にあの曲が窓から吹き込んでくるの。綺麗な夜だった」

 うっとりと青く澄んだ眼を睫毛の影に揺らせて、マリベルは運ばれてきた紅茶に手を伸ばした。

「マリベルは詩人ね」

 素直に出した言葉だったけれど、私に茶化されたと感じたらしいマリベルはいつもよりも真剣な面持ちで私に言った。

「本当に綺麗だったの。あの人があの曲を弾く指先を見せてくれたらいいなってすごく思った。綺麗な夜が生まれる場所は、五階のあの人のピアノの前なのよ」

 真剣な顔を赤らめて私にそう言うマリベルは、五階に住むピアニストに心酔しているらしかった。

「会ったことってあるの?」
「ある。ピアノを買った時に、先生を頼んだけど断られちゃった」

「そうだったの」
「ピアノがあれば、あの人が遊びに来てくれると思ったんだけどな。あたしの部屋であの綺麗なピアノを弾いてくれると思って、ママにあんなに頼んで買ってもらったのに」

 マリベルは白鍵を一つ押して『ファ』の音を立てながら、顔を背けて唇を尖らせた。

「でもね、ウェンディが来てくれて、あたし本当に嬉しいのよ」
 白ウサギのラースカを撫でながらマリベルが言った。

「ウェンディが来てくれるまで、ラースカしか話し相手が居なかったもの。ラースカに一生懸命、あの人のピアノだよ、綺麗でしょ、って言っても聞いてるのかどうか分かんないんだもん。つまんない」

 ラースカはマリベルの膝の傍らでピンと誇るように立てた長い耳をひくつかせた。

「もう怪我はいいの」
「うん。足を引きずるけど、ぴょんぴょん飛べるようになったから大丈夫。ね、ラースカ」

「この子って、最初から左目濁ってた?」
「え? あ、本当だ。どうしたんだろう? 時々なるの。でも痛そうにしてないから大丈夫」

 マリベルはウサギを抱きしめて、柔らかそうな金髪を揺らして、青い瞳で私に笑いかけた。


五、グスタフ

 

 マリベルから会う度に話を聞く『あの人』こと、五階のピアニストはグスタフという名前だった。

 私が買い出しから帰ってきたある日の夕方、中庭に蹲っていた白いシャツの男性がマリベルの恋する『あの人』であり、夜毎にピアノを弾いている五階のピアノ弾きであることに私は暫く気付かなかった。

「いかがなさいました」

 芝生に蹲る白髪交じりのゲルマン系の顔をした男性は、私の掛けた声に驚いたように振り向いた。
「いえね、楽譜を風に飛ばしてしまって。かき集めたのですが、二枚足りないようなのですよ」

 痩せて長身の男性は白髪交じりの伸びた髪をわしわしと掻き、白さの交じる無精髭を生やした顔で照れたように笑った。

「探すの、お手伝いしましょうか」
「助かります。大切なものなので」

 年の頃は四十といったところだろうか。髪に白さが目立つ割に、目鼻立ちはそれほど年を取っているようには見えなかった。

 グスタフの探していた楽譜の最後の一枚は、中庭の奥、いつも雨戸が閉じられている一階の窓の傍らに落ちていた。

「困ったな」
 大人の男性が低木の植込みに踏み入ることを躊躇しているのかと不思議に思い

「私、行って取ってきましょうか。跨いでしまえばすぐですし」
 と声を掛けると、グスタフは顔色を変えて私を制止した。

「おやめなさい。僕が行きます。危険ですから」
「……危険?」

「ええ。もう日が暮れますし、あの一階に近付くのは危険です。しかし今はまだ辛うじて大丈夫でしょう。ちょっと僕が行ってきますから、あなたは楽譜の束を持っていてください」

 グスタフは私に言うというよりも、自分に言い聞かせるようにそう言うと私に掻き集めた手書きの楽譜の束を渡して、注意深く建物へと歩を進めた。 
 私は渡されるままに受け取った楽譜の束に視線を落とす。
 几帳面に万年筆で記されたと思しき楽譜の束の右上には流麗な筆記でグスタフ・フリーダーセンと記名されていた。

 ――これは、『あの人』が作曲した楽譜なのだわ。

 夜な夜なピアノを弾いている彼が、趣味で弾いているのではなく、作曲を行っているとマリベルが知ったら何て言うかしら。目を輝かせて聴いてみたいとはしゃぐ顔が目に見えて、私は一人笑いを噛み殺した。

「……逃げますよ! 走って!」

 不意にかけられた声に顔を上げる間もなく、私は駆け戻ってきたグスタフに腕を掴まれ、訳も分からないまま、彼に促されるままに中庭を駆け抜けた。
 腕に抱えた楽譜の代わりに芝生に置いたままにしていた買い出し帰りの紙袋に、私たちを追ってきた何者かが食らいついているのが闇の向こう、街灯の灯りの下に遠く見えた気がした。

 グスタフに連れられて階段を駆け上り、一室へ逃げ込んだ私たちは、大した距離を走った訳ではないのに息を切らせていた。

「すいませんね、巻き込んでしまって」
「いえ、……ここは?」

「ああ、あいつらは上階に上がって来れないので、夢中で自室に逃げ込んでしまいました」

 言われて窓の外を覗いてみると、言われる通り、私の部屋の窓から見える景色よりも高い位置であることが分かった。

「あの、さっきの、獣のような……」
「ご存じありませんでしたか。あいつらは、ここの一階の住人ですよ。人間として最低限の欲求も満たすことのできていない動物のような奴らです」

「欲求……」

 先ほど襲われた獣のような生き物が、私たちと同じ人間だったということが信じられず、グスタフの言う『人間として最低限の欲求も満たすことのできていない』という言葉を無意識に反芻していると、ガラスコップに水を汲んで戻ったグスタフに「もしかして、何もご存じないのですか」と声を掛けられた。

「何も、とは何のことでしょう」
「この建物が、どういった建物なのかということは」

「マズロウさんという方が建てられた屋敷ということは存じてますわ」
「失礼ですが、何階にお住まいですか」

「四階ですけど」

「決まり、については聞いておられますか」
「ええ。エレベータは下りの時にだけ使うということ。あ、あと上の住人には逆らうなということも聞きました」

「そうです。では下の住人に関わるなというものは」
「聞いてますわ。でも気にしなくていいとリリーが言っていましたので気にしてはいませんでした」

 グスタフは力が抜けたようにその場に座り込んだ。
 私は何か間違ったことを言ってしまったのか、それとも彼の気分を害すような失礼な振舞いをしてしまったのかと不安を感じ、黙ったまま彼の表情を見守った。
 彼は顔を左右に振り、「一から説明した方が、良さそうですね」と私に向いて床に座りなおした。


六、マズロウ 


「ええとですね。まず、最初に説明するべきは、この建物が通常の物件ではないということです。入居の際に何も、お聞きになっていませんか? 

 ……落下物が多い? 
 まあ、それはそうでしょう。それもこの屋敷を構成する決まり事の一つですから、それは必然であると言えるかもしれませんね。
 『物を投げても自分は落ちるな』、これは一つの鉄則であるには違いありませんからね。ご存知でしたか? 

 ……そうですか、御存じなかったですか。
 では覚えておいてもらいましょう。まあ覚えておかなくても、いざ、ベランダから身を投げたくなってみると分かりますが、決して自分の身を投げることは叶わないのですよ。無意識に、体が勝手に自分の代わりの何かを、空中へ放り投げてしまっているのですから。
 しかもそれが、自分にとって一番大事なものを選んでしまうというのだから性質が悪い。私は絶望してこの窓から身を投げてしまいたいという衝動に幾度か駆られたことがありますが、まだ一度も成功していません。一度はこの大きなピアノをいつの間にか窓の外へ放り出してしまっていましたからね。

 ……どうやったか? そんなこと、自分でだって憶えていやしません。我に返ると、部屋の中央に置いてあったピアノがなくなっているのです。その代りに、自分に対する自責の念というか強烈な自己嫌悪というか、平たく言っての自傷願望がきれいに消え失せてしまっているのですよ。
 お分かりになりますか、その時の静かな哀しみが。……まあ、いいでしょう。

 話が逸れましたが、この建物は、住人の欲求により、住む階層が決定しているのです。
 あなた、……失礼、ウェンディという名でしたね、ウェンディは四階にお住まいということだから、誰かに大事に思われているという部分の自覚はおありでしょう。愛してほしいと強烈に願う段階ではない。違いますか? ええ、そうでしょう。この部分でリリーが間違いをおかすはずがありません。そのための管理人と言ってもいいようなものだ。

 彼女はこの建物を管理するためだけに存在する管理人ですからね。それ以上でも、それ以下でもない。彼女自身には、それ以上の存在理由はないのです。その証拠に個人の欲求を超越しないと立ち入ることのできない六階に管理人室があるのですから。皮肉でしょう? この建物の住人である以上、管理人室に行くことは叶わないのですよ。

 ……ああ、また話が逸れましたね。
 とにかく、一から説明すると、この建物の構造を説明しないことには話が進みません。いいですか。先ほども言いましたが、この建物は各々の欲求に従って居住区画が決められている。
 あなたの願いは『人の役に立ちたい』ということ。違いますか? 

 ……ええ。それが四階に住む人の抱く欲求です。
 俗には『承認・尊重の欲求』と言われる段階ですね。欲求段階というものは、ピラミッド式に構成されているらしく、下の欲求を満たさなければ、その上の段階へ進むことは出来ない。
 これが先ほどの奴らが一階に住み、上階へ上がってくることが出来ない理由です。あいつらは、生き物として最低限の『生理的欲求』すら満たすことができず、日々、動物のように餓え、乾き、苦しんでいるのですから。
 あなたが先ほど芝生に置いてきてしまった食料品。失礼な話ですが、あれがあって良かった。わざわざ買出しをなさった荷物を無にしてしまったことは本当に失礼で申し訳ありませんが、あの紙袋の食糧がなければ、私どもも無傷で居られなかったかもしれない。それは知っておいてください。あの紙袋の食糧分の代金は私が支払います。それで納得してください、ウェンディ」

 そこまでを話すと、グスタフは思い出したかのようにグラスの水に手を伸ばし、一息にそれを飲んだ。

「納得しましたわ。晩御飯の材料がなくなったことを先ほどまで悲しんでいましたけど、私たちの命が危険に晒されていたことなんて、存じませんでしたもの。助けて下さって有難うございました」

 私の返答を聞いて、グスタフはゲルマン人らしく強張らせていた頬の緊張を幾分和らげた。

「分かって下さって良かった。……この建物の構造について、続きをお話しても?」

「結構ですわ。私も自分の住んでいる場所について、ちゃんと知っておきたいですもの」

「良かった。では、続けましょう」

 

「二階の住人は『安全・安心の欲求』の希求者です。
 命の危険に怯え、安全や安心を求める段階ですので、一階の住人が物理的に餓えているとしたら、二階の住人は精神的な圧迫的飢餓にある状態と言ってもいいのかもしれません。まあ、私も実際に二階の住人と行き来がある訳ではありませんので、本当のことを知っている訳ではありません。
 彼らは常にブラインドを閉じて、その隙間から自分に危害を加える存在の襲来に怯えている、もしくはその隙間から他人の物品を掠め取る隙を伺っているのですから。
 あなた、……ウェンディも、普通に暮らしている以上二階の住人と知り合うことはないと思っていいでしょう。まあ、金を稼ぐことしか考えていない類の人間も、二階に振り分けられるので、そういった意味では街の中で暮らす人々の何割かはここに振り分けられてしまうのかもしれませんけれどもね。

 三階の住人は『所属と愛の欲求』ですね。
 ここより上が、一般的な人間としての常識的な暮らしを営むことが可能となる段階だそうです。三階に住んでいる人は、他者からの愛情と所属を求めていると言われます」

 私は滔々と続くグスタフの声に耳を傾けながら、三階の母子のことを思っていた。
 マリベルが愛を希求しているのは他でもないこのグスタフであるということを、彼は知っているのだろうか。アドリーヌもマリベルと共に三階に住んでいるということは、彼女も誰かに対しての愛情を求めているということになる。それは娘に対してのものなのだろうか。それともマリベルのように誰か他者に対してのものなのだろうか。それは私の知るところではないけれども。

「四階は、先ほども言いましたね。
 ウェンディ、あなたの住んでいる階は『承認・尊重の欲求』です。人の役に立ちたい、裏返せば人に認められたい、尊敬されたいという自尊心を希求する段階です。

 そしてここ五階は、『自己実現欲求』の段階と言われます。
 私が住んでいる、まさにこの部屋は、自分の持つ能力や可能性を最大限に発揮し、何事かを成しえようとする段階に置かれます。
 私に関して言えば、私はピアノを弾くこと以外、全く無能な人間ですが、ピアノを弾くことに関してのみは、誰よりも美しい曲を奏で、美しい曲を書くことが自分のすべきことだと信じているので、この階に割り当てられたのだろうと思っています。
 別にそれが優れているとは思っていませんが、自分の生きている意味について正面から考えることが出来るという点で、ピアノと向き合っているということは、とてもシンプルで私に合った方法だということは納得しています。」

 グスタフの丁寧で静かな言葉は、自分より階層が下である私を見下したものではなく、穏やかに耳に届いた。

「お気を悪く、なさいましたか」
「いえ、大丈夫です」

「良かった」
 グスタフは頬を綻ばせて、素直に安堵を示した。

「ですのでね、先ほどの決まり『下の住人と関わるな』の下の住人とは、一階二階の住人のことを指していると考えてもらった方が良いでしょう。あいつらは人間ではありません。
 まともに関われるはずもないので、このようなオブラートに包んだ決まりという形で、示されているのだと考えた方が自然だと思います」

「『隣人とは付かず離れずに』というのは」

「ええ。同じ階層の人間は、一つの目的を同じくする時、距離が近すぎると小さな差異で優劣を付けあってしまうものですからね。
 同階での諍いを起こさないためのものでしょう。言い換えると『隣には花束を贈れ』、こういった決まりもまた、存在しているのです。
 イタリアのマフィアが仇敵を撃ち殺す前にも、花束を贈るという流儀がありますね。敵意などありませんとでもいうように。そこは敵意があってもなくても問題ではなく、花束を贈るという行為は敵意を見せるなという示唆であるのだと、私は解釈していますが」

 イタリアマフィアの流儀を私は知らなかったけれども、グスタフの言わんとすることは得心できるような気がして、私は頷いた。

「他にも小さな決まりとして
『上の飛び降りを受け止めろ』
『下の眼差しを忘れるな』
 というものもありますが、これは表裏のものであるというように私は感じています。
 上階の住人は、私も含めて時折衝動に負けてしまうように飛び降りたくなったり、その代わりに物を放り投げてしまったりすることがありますが、その時に、階下に誰かが居るということを想像することはありません。

 投げ捨ててしまったピアノで、私は一度マッチ売りの男に怪我を負わせてしまったことがありますが、謝罪する私を彼は物凄い目で睨んだ後に、謝罪よりも金を寄越せと言いました。
 彼にとっての怪我は、金を稼ぐための手段の一つに成り下がってしまっているのだということに私は戸惑いましたけれども、後になってみれば、同じ目線で分かり合うことが不可能なのですから、私は彼の憎しみを込めた眼差しを忘れないこと、彼は上からピアノが降ってきた悪運を呪わず受け入れることというところで、お互いに納得するための決まりというものが、このような形で成立しているのかと思ったものでした。

 彼に怪我を負わせたことを、私は長く気に病んでいました。しかし、数か月後に見かけたマッチ売りの男は、その友人にピアノが降って来たことで怪我をし、通常なら彼らが手にすることのない額の金を手に入れたと自慢げに話をしていたのです。
 それを見た時から、私は、二階より下の階層の人間と意志を通わせることは、諦めました。彼らにとっての倫理と私にとっての倫理、正しいとする物事は相容れないものですから。仕方のないことなのだと思います。
『ここじゃ叶えた欲の分、下で誰かが終わる』
 これは決まりではありませんが、この建物の住人に伝わる言葉ではあります。それぞれの立場で見えているものは違うのですから、我々は、自分の置かれた立場で信ずるものを希求することしかできないということなのです。残酷な話ですが」

 そこまで話すとグスタフは、深く息を吐いた。
「少々、一方的に話しすぎたでしょうか」

「……いいえ。とても……そうですね、色々と知ることが出来て、有難かったです」
「それは、良かった。私から伝えるべきことは、このくらいですが。ところで、あなたはこの建物の中での暮らしは、如何ですか。今の話で嫌になったりはしていませんか」

「私は、……まだ、よく分かりません。
 先ほど追いかけられたこともまだ、頭の中で整理できていませんし、今のお話も、完全に理解して納得できたという実感もまだ湧いていません。申し訳ないのですけど、……きっとこれからここで暮らしていく中で、教えて下さったことが実感として分かってくるのだと、思います」

「素直で誠実な感想だ。あなたは聡明な人ですね、ウェンディ」
 年長者らしく笑って見せるグスタフに、私は一つ、質問を投げかけて見たくなった。

「グスタフさん。あなたは、ここでの暮らしは如何お過ごしですか?」
「如何とは?」

「ここでの暮らしを楽しんでいらっしゃるか、それとも煩わしく感じていらっしゃるかを、お聞きしたいなと思って」
「ああ」

 何を聞くかと思えば、とでも言うようにグスタフは息と共に笑いを吐き、「失敬」
 と前置きをしたのちに、紙巻き煙草に火を付けて深く喫い込んだ。

「そうですね。ここでの暮らしは、悪くはありません。
 何よりも他人に煩わされずにピアノを弾くことができるので、私にとっては、ここより恵まれた場所はないのではないかと思っています」


七、ウェンディ


 ある朝、いつもより早く目が覚めたので、私は先日使い残していた小麦粉でスコーンを焼くことにした。
 子供の頃から家庭というものに親しみがなかったからか、自分で料理をすることは未だに得意だとは思えないけれど、スコーンに関しては必ず美味しく焼ける自信がある。イギリス育ちの伯爵の家で作り方を教えてもらってから、料理に自信のない私が唯一自信を持って他人に差し出せるお菓子が、伯爵家の厨房仕込みのスコーンだった。

 紅茶の缶を開けてみると、アールグレイの茶葉もある。マリベルがくれた外国製のチョコチップも戸棚の中にある。昨夜シチューを作った時に残った生クリームがあるし、中庭からリリーさんが株分けしてくれたミントの鉢も生命力に溢れた緑色をベランダから覗かせている。上等だ。

 コンロの下に作り付けられたオーブンは旧式で、薪をくべると煙突から煙が出る仕組みのものだった。この仕組みのオーブンは伯爵家の料理番から使い方を教わったことがある。ただ、薪を用意してこなくては。
 リリーさんに頼めば薪の置き場所を教えてもらえるだろうか。

『なるべく細かくサラサラになるように混ぜてしまうのがコツよ』
 伯爵の家の料理番だったスナイデルの声が耳朶に柔らかく思い出された。

 私があの家を出て、伯爵がそれを追うように家を空け、残された住込みの使用人たちは今、どんな風に暮らしているんだろう。
 暇を貰って郷里に帰っているのだろうか。それともあの屋敷で、あの頃と変わらずに庭の手入れをしたり掃除をしたりしながら、主の帰りを待っているのだろうか。

 梅雨の時期には甘く匂ったクチナシの花の植込み。
 時計草の叢。アザミの群生。ルピナス。ラベンダー。ガーデニア。マグノリア。
 小さく赤い花を誇らしく付ける蔦薔薇の絡まった門。煉瓦の壁に張った蔦。

 瞼の裏に思い浮かぶそれらの懐かしい景色を思うと、胸の奥が締め付けられるように甘く痛んだ。
 私が少女の時期を何年か過ごしたあの屋敷は、今もあのままの姿で存在しているだろうか。
 春先に咲き乱れた花たち、夏を迎えて色濃く茂った木々と叢の緑。噴水の冷たい飛沫の映す光。あの頃はただ目の前に存在しているだけの当然の光景だったものたちが、手が届かなくなった今、こんなに懐かしく思い出されるなんて。
 あの場所が損なわれていませんように。古くから伯爵の家に仕えている人たちが、今も皆、元気で変わらず働いていますように。

 伯爵が諸国を旅するのをやめて家に戻れば、というところまでを考えて、彼は私を連れ戻そうと旅をしているんだったというところへ思考が戻ってくる。

 ――そもそも私は、どうしてあの家を出たんだったかしら。

 その時は、そうしなくてはいけないと強く感じたことを憶えている。
 お金も持っていない世間知らずの女の子が、大切にしてくれる伯爵の家を出なければいけないほどの必然があったこと。
 それは確かに憶えているのだけど、肝心のその中身を、その理由を、その時の怒りを、決意を、私はどうしても思い出せずにいる。

 ――私はどうして、伯爵から逃げるように旅を続けているのかしら。

 伯爵は今も私のことを探しているのだろうか。前に会ったのは海辺の街だった。その前は猥雑な裏通りのバーで真夜中に行われていた仮面の夜会だった。

『お迎えにあがりましたよ、僕のウェンディ』
 耳慣れた伯爵の声がふいに蘇る。この場所が見つかってしまったのではないかと私は緊張を覚え、窓の外へと視線を送った。

 そこに、伯爵は居なかった。
 力が抜けるような安堵を覚え、私はキッチンの椅子に座りこんでしまう。私は何を恐れているのだろう。私は何故、伯爵から逃げるように旅を続けているのだろう?

 ――私は、別に伯爵を嫌っている訳ではないのに。
 それは事実だ。

――もし伯爵が私の行く先々に現れなくなったら。

――もし伯爵が私のことに興味も心配も抱かず、私のことなど忘れてしまって、屋敷に戻って暮らしているとしたら。

 それを知ったら、私はきっと、きっととても、悲しくなる。
 悲しくなるどころか、それこそ、ベランダの外へ身投げしてしまいたいと思うほどに取り乱すのかもしれない。

『誰かに大事に思われているという部分の自覚はおありでしょう。愛してほしいと強烈に願う段階ではない。違いますか?』

 先日のグスタフの言葉が不意に思い出される。
 あの時、グスタフの指摘した『大事に思われている』というのは、間違いなく伯爵のことを指している。

 私は伯爵に大事に思われ、過保護なほどに大切にされ、
『汚いものは見なくて良い。美しいものだけを見て育ちなさい』
 と言われる日々を送っていた。

――それが息苦しくて、そのまま何も知らない世間知らずのままで大人になってしまうのが怖くて、自分の目で本当の世界というものを見てみたくて……、ああ、そうだ。私が伯爵の家を逃げ出したのは、街を訪れたサーカスに連れて行ってもらった日の夜だった。
 スラップスティックじみて悪趣味ですらある『人間たちの社会』を見て、伯爵は揶揄を込めて拍手をし、指をさして私にその愚かさを学ばせようとしたけれど、私は一向に笑う気にはなれなかった。
 人々が真剣に生き、悩み苦しみもがく姿を、他人の事とは思えなかったということなのかもしれない。

『実に愚かしいね、人間というものは』
『何よりも品がない。上品な皮を着飾ってみても、中身は粗野で、野蛮で、獰猛な動物以下の生き物だ』

『お前は幸せだよ、ウェンディ。僕と一緒に来ていなかったら、お前もあの野蛮な世界で可哀想な娘として生きることになっていたんだから』

 ――今となっては、分かる。
 伯爵は人間の娘である私を冷やかしたり貶めたりしたくて、あんなことを言ったんじゃない。私のことが大事だから、あんな世界に居ちゃいけないと思ってくれての言葉だったんだと思う。

 ――だけど、私は、それがどうしても許せなかったんだ。

 出奔の理由を、今まで私は考えることを避けていたのかもしれない。
 私が逃げ出したことで伯爵が悲しむことを分かっていて、伯爵は私が一人で旅をすることを心配して連れ戻そうとすることも分かっていて、それでいて大事に思われていることだけは自覚して、彼が行く先々で現れてはうやうやしく頭を下げて迎えてくれることを嫌がるようなふりをして、見守られるままに我儘な一人旅を続けているというだけのことなのかもしれない。

 ――だけど、今はまだ、伯爵の元へ戻る時じゃない。

 この場所で、やっと見つけた久しぶりの私の部屋と呼べる場所を得て、私はやっと一人前の暮らしができる自信が持てるかもしれないの。
 伯爵が居なくても私が一人で生きていける自信をつけることを、伯爵は恐れるかもしれないけれど、私は大切に囲い込まれている世間知らずで幸せな女の子でいるよりは、自分の目でちゃんと世の中のことを見て、知っておきたいの。
 怖い目にあっても、厭なものを見ても、本で読んだお話ではなく、ちゃんと本当のことを自分の目で見て、大人になりたいの。

 ――それで、いつか一人前の素敵な女の人になったら、その時こそ私は、伯爵に会いに行くんだ。私が生きていることを肯定して、大切に愛してくれた伯爵に。

 伯爵はそれを見て、何て思うだろう。
 もう自分を必要としない一人前の女の人になった私に落胆するだろうか。それとも、伯爵と対等の素敵な大人として見てくれるだろうか。

『やあ、ウェンディ。久しぶりだね。素敵なレディに成長して。君の見てきた旅の話を聞かせてくれるかい』

 伯爵がもし、大人になった私に会って、そう言ってくれたなら、私はその時こそ、伯爵が眠り込んでしまうまで旅の話をしてあげようと思う。
 見てきた素敵な物や綺麗な景色、伯爵の知らない異国のことまで、色んなことを教えてあげよう。いつか伯爵が、私が眠るまで枕元で話してくれた遠い国の物語みたいに。


八、リリー

 

 ふと目を上げると、窓の外では雨粒が景色を白く曇らせ始めていた。

「あっ」

 思わず声を漏らし、私は急いでガラス窓の桟を下ろし、部屋に雨が吹き込んでいないことを確かめるために辺りを見回した。
 先ほどまであんなに明るく晴れていたのに、この地方の天気は変わりやすいと聞いたのは本当だったんだわ、と思わず呟く。

 私はキッチンに広げたままだったスコーンを焼くための道具を見下ろし、一息を吐いてから気を取り直して、スコーンを焼く作業に取り掛かった。

 粉をふるいにかけた後、常温のバターを加えて混ぜてサラサラにし、卵と牛乳を加えて混ぜる。もちもちの生地になったら丸く形成。

『丸める時にはコツがいるの。生地を内側に入れ込むみたいにして丸くするのよ』

 ――スナイデル、スコーンの作り方は完ぺきよ。心配しないで。

 生地を寝かせている間に、オーブンを暖めるための薪を貰いに行って来よう。
 いつもこの時間に庭の手入れをしているリリーさんはきっと、雨が降りだしたら部屋に戻っていると思う。

『エレベータは降りる時だけ』という決まりを、私は律儀に守っていた。
 上階に上がる時には階段を使わなければいけないので、グスタフの部屋に逃げ込んだ時以来上がったことのない上がり階段まで行かなければならない。

「……えっ」

 部屋を出て、左へ角を二つ曲がった向こう側に在ったはずの真鍮製の上階へ続く螺旋階段は消え失せていた。
 何度見回してみても、そこには廊下の突き当たりを示す壁が存在しているだけだった。

 つい先日、グスタフの部屋から戻る時にも、この壁の向こう側に在る真鍮の螺旋階段を使ったはずだった。先日は見ることも触ることも出来たそれが嘘のように消え失せてしまっているということ。思い違いをする余地もない記憶と目の前の現実の不一致に私は当惑してしまい、暫く壁を見つめたままその場へ立ち尽くしていた。

「……ウェンディ?」
 背後から掛けられた声に不意を突かれて振り向くと、そこには庭仕事を終えたらしいリリーさんが立っていた。

「どうしたの、そんなところで」
 薄暗い廊下に立つリリーさんはベールの影になった顔を傾げて私に訊いた。

「あっ、いいえ」

 その時私は何故か、初めてリリーさんに畏怖のようなものを感じたように思う。

――そういえば、私はこの人の顔を見たことがない。

「急に雨が降ってきて驚いたわ。ウェンディ、あなたのお部屋は大丈夫だった?」
「……はい、あの」

 思わず口籠る。先日ここに階段があったこと。
 それなのに今日はなくなってしまっていること。
 聞くほどのことでもない思い違いかもしれない。聞いてしまえばそれが明解になるのかもしれない。だけど。

『欲求段階というものは、ピラミッド式に構成されているらしく、下の欲求を満たさなければ、その上の段階へ進むことは出来ない。
 これが先ほどの奴らが一階に住み、上階へ上がってくることが出来ない理由です』

 いつかのグスタフの言葉が不意に思い浮かぶ。ああ、そうか。私は四階の住人だから自力で上階に上がることが出来ないということの意味を、そこで私は初めて現実のものとして認識した。

「……階段を探していたの? ウェンディ。私に御用かしら」

 訊かれてはいけないことに触れられたように、私は思わず身を竦ませた。廊下に面した窓の外では雨の音が一層強くなり、黒い雲から時折雷鳴が鳴っているのが聞えた。

「いえ、あの……」
「どうしたの、ウェンディ。震えているわ」

 手を伸ばしたリリーさんの灰色のドレスの袖の先から、老婆のように真っ白で皺だらけの乾いた指が私の頬に冷たく触れた。 

 雷が近くに落ちたようだった。大きな雷鳴に思わず悲鳴を上げ、耳を塞いでしゃがみこむ。
「大丈夫? ウェンディ、雷が怖いのね」

 私は自分の体を強く両腕で抱きしめて屈みこんだまま、がくがくと頭を振った。
「大丈夫よ。雷はすぐに止むわ」

 リリーさんの骨のような白い手が、俯いた私の髪を撫でているのを感じる。私は唇を強く噛んで、きつく瞼を瞑った。
 雷が怖いのではない。
 廊下の端々にこびりついたような暗闇や、時折森の奥から聞こえる獣のような唸り声や、消えてしまった階段や、それを内包するこの建物のこと。
 どこか他人事として聞いていたグスタフの言葉が現実のものとなって、私の前に現れること。
 姿を見たことのない隣人の足音や、いつ私を連れ戻しに来るか分からない伯爵の影や……、そういったものに対する、普段は理性で覆い隠している過敏すぎる神経が突然雷鳴とともに剥き出しにされたかのように、私の胸のどこかに潜んでいた恐れというようなものが急に溢れかえり、雷のせいという口実を得た途端に、私の体を縛りつけているのだと感じた。

「暖かいお茶を入れるわ。立てるかしら、ウェンディ」

 頭上から掛けられた声は、いつものように穏やかで優しいリリーさんの声だった。我に返って私は、優しく自分を案じてくれている彼女の指先をすら恐れていたことに恥じ入るような気持ちがした。

「ええ、ご免なさい。少し驚いてしまって」
 まだ少し震える膝に力を込めて、リリーさんの手を取り、私は立ち上がった。

 

九、612号室

 

 リリーさんの手を取って立ち上がった時、私は彼女のベールの下を図らずも一瞬覗く形になってしまった。ベールの下は見えなかったものの、なぜか私は反射的に見てはいけないと感じて、急いで目を伏せた。

 私は何も気付いていないウェンディの仮面を被ろうとした。
 雷に怯えていたウェンディは平静を取戻し、優しいリリーさんの淹れてくれるお茶を飲みに、彼女の部屋を訪れる。どこにも奇妙なことはない。大丈夫。そう自分に胸の中で言い聞かせる。

 リリーさんに連れられて角を曲がると、そこには先ほどはなかった真鍮製の上階へ続く階段が存在していた。

 ――もう、驚かない。

 私は四階の住人で、それは私の予期していた以上の決定的な事柄で、従って私は自力で上階へは上がれないのだということ。
 それは、この建物の中で物理的な階段の消失という事象に具現化するということ。
 ここがそういった場所であるというならば、私はそれを受け入れて暮らすしかない。魔法のような手品のような、そんな風に考えている限り、この建物へ住人として迎えられたことを現実として受け入れることはできないだろう。
 自分が居る場所を疑うということは猜疑心にまみれて身動きが取れなくなるということだ。今まで旅をしてきた中で、そうやって不幸になっていく人には何人も出会ったもの。

 私を迎え入れてくれた場所が多少奇妙な場所であったとしても、私はここで、本当のことを自分の目で確かめよう。
 そう、心の中で静かに決心をすると、それまで私の体を黒く靄がからせていた不安のようなものが霧消するように感じた。

 華奢な造りの真鍮の螺旋階段は、歩を進めるごとに細く高い軋みを立てた。

「五階より上に上がるのは初めて?」

 リリーさんの問いかけに、一瞬口籠ってしまいながらも、私は彼女には嘘を言っても見透かされてしまう予感がして、正直に答えようと決めた。

「いえ、一度だけ。中庭でピアニストのグスタフさんとお会いした時に、獣のような人たちに襲われたことがあって。その時にグスタフさんに連れられて五階の部屋へ逃げ込んだことがあります。……あの、獣のような人たちは、グスタフさんによると一階の住人ということだったのですが」

「ええ、彼らのことね。……説明していなくて、ご免なさいね。怖かったでしょう」
「……はい」

「彼らはね、日中は雨戸を閉じた部屋でじっとしていて。近寄って目を合わせたりしなければ襲ってきたりはしないの。注意しておくべきだったわ。
 怖がらせたらいけないと思って、あなたがもう少しここに慣れてから教えるつもりだったのよ」

 リリーさんは足を止めてこちらを向き、「あなたが怪我をしなくて、本当に良かったわ」と言った。

 

「リリーさんは、いつからここの管理人をしているんですか」
「もう、思い出せないくらい昔からよ」

「その頃から、この建物は、こんな、何て言うか」
「ええ、こんな、だったわ」

 昔を懐かしむ時の甘い滲みを帯びて、リリーさんの声はゆっくりと廊下の闇に響いて溶けた。
 住人が居る五階までのフロアと比べ、一段上のこの階は、それまでよりも古い建物特有の時間が積み重ねられた匂いがした。

「ここは、屋根裏ですか?」
「いいえ。ここは六階よ。私の部屋は612号室なの」

「私、この建物は五階建てなのだと思っていました」
「ええ。五階建てよ。だけど、私にしか入れない六階が存在するの。面白いでしょう? 私と、私の招いたお客様にしか入れない六階よ。
 ようこそ、ウェンディ。歓迎するわ」

 リリーさんに招き入れられた薄暗い部屋の床には、大きく立派な額入りの鏡が床に倒れて割れたままにされていた。
 部屋の奥には何も掛けられていない帽子掛けが空虚に立たずみ、何も乗せられていない古い木の卓が置かれ、手前には大きく古そうな別珍張りのソファがいくつも乱雑な方向を向いて置かれていた。
 壁にかかった誰かの古い肖像画。古いものがそのまま朽ちていくのを見守るような生活感のない部屋、そう、まるで空っぽであることを浮き彫るために物が放置されている部屋、とでもいうような場所だった。

「物置みたいでしょう。ソファに掛けていて。すぐにお茶を入れて戻るわ」

 リリーさんはそう言ってカーテンの奥へと姿を消した。私は言われるままに近くに会ったソファの端に腰を掛け、まじまじと室内を見回した。

 窓と思しき場所には重そうなカーテンが掛けられ、ぴったりと光が入らないように閉じきられている。
 肖像画は誰のものなのだろう。金髪の端正な青年が描かれている。

 質素なシャンデリアは、階下の部屋と同じくガスが通されているらしい。その上で弱く揺れる小さな炎だけが、この部屋が現実のものであることを示しているように見えた。

「この部屋に、お客様を迎えるのは、どのくらいぶりになるかしら。あの時からこの部屋も私も何も変わっていないのに、ずいぶん時間が流れたような気がするわ」

 紅茶のポットが乗せられた盆を両手で持ったリリーさんはいつのまにか私の傍らに佇み、嬉しさが滲むような、懐かしむような声でそう言った。

「以前、お客様が見えた時から、この部屋は変わっていないのですか」
「そうね。もうずっと、私がここの管理人になった頃から、この部屋は何一つ変わっていないと思うわ。
 この部屋だけじゃないの。この建物中に居る物は何も変わらないのよ。そのうちにこの意味が分かるから、憶えていて」

 そう言うとリリーさんは、言葉の意味を受け取りかねている私に向かって湯気の立つ紅茶のカップを音もなく差し出した。

「冷めないのよ。たとえば、この紅茶も」


十、手紙


 紅茶を頂いて、リリーさんに見送られた後、私は教えられた道順で階段を降り、中庭の奥にある納屋へ薪を貰いに行った。
 まだ日は高いから中庭を通ることに危険はないと理解はしているものの、やはり先日の一件があって以来、建物の一階の窓に近い場所を通る気にはなれない。一階の住人たちは太陽の光を避けているということをリリーさんに聞き、私は、なるべく光のあたる遊歩道を通って中庭を抜けた。
 先ほどまでの雷雨は嘘のように消え去り、中庭は浴びたばかりの水滴に濡れて、雲の間から差し込んでくる陽光に静かな光を宿している。

 薪の置かれているという納屋はすぐに見つけることができた。
 そこは平屋の簡素な建物で、庭の手入れに使う道具を保管しているらしかった。入口に付けられている錠に預かった小さな鍵を差し入れると、ぱち、と音をさせて掌に錠が落ちた。

 立てつけの悪い木の扉を、恐る恐る押しあける。
 納屋、という通り、そこは物置のために作り付けられたことが分かる構造をして、暗闇の中に様々なものが仕舞いこまれている気配がする。
 リリーさんに言われた通り、右手側の壁を手探りしてみると、埃に触れた時のザラザラとした触感の後、小さな燭台を見つけることができた。油の残りを確かめ、燐寸を擦って小さな灯をともす。
 橙の炎が揺れて灯り、真っ暗闇だった室内を柔らかく照らした。

 薪は左手の壁沿いに割られたものが積まれていた。燭台を傍らに置いて、積み上げられた薪の山を崩してしまわないように気をつけながら、乾いていて持ちやすい小ぶりのものを探す。
 スコーンを焼くだけなので、余り多くの薪は必要なかった。私は予備も含めて、積まれた薪の中から細く割られたもの六本を選び出した。

 ふと、その奥の棚に収められている古そうな手紙の束が目に留まった。

――誰のものなのだろう?

 普通、個人に宛てた手紙なら受け取った人が自室で取っておくだろう。色んなものが仕舞いこまれているとはいえ、個人宛の手紙の束が、こんな誰でも立ち入ることのできる場所に保存されていることは奇妙なことに思える。

 開封済みの封筒に収められているもの、未開封らしいもの、それぞれが全て一つの束に乱雑なまま紐で結わえられているようだった。

 躊躇の後、手を伸ばしてみる。
 付いてきた埃を注意深く払い、その一番上に置かれている封筒の表書きに目を落とす。古風で流暢な筆記体で描かれているため、すんなりとは読み取ることができなかったが、宛てられているのはここの住所らしい。『Maslow』、辛うじてその綴りは読み取ることができた。

 次に読み取ることができたのは、『Lillie』という文字だった。
 ……これはやはりリリーさんに宛てられた手紙だったのだと納得して元の場所へ戻そうとして、消印に目が止まる。 

そこに印字されていたのは、今よりも百年以上も昔の日付だった。

 印象として、リリーさんが百歳以上であるということは考えられなかった。顔こそは見たことがないけれども、彼女の声はしっかりと柔らかさを滲ませた大人の女性のもので、彼女がどんなに年を取っていたとしても六十代がせいぜいだろうと思う。
 一人で暮らし、毎日中庭の薔薇の世話をしている彼女が、百歳以上であるということは到底考えられることではなかった。流麗な筆記体で書かれていることもあり、この手紙は大人が子供に宛てて書いたものだということも考えにくい。
 大人が大人に宛てて書いた百年以上の手紙、私がリリーさんという人と出会っていなければ、これはどこにも不自然さを宿さない目の前の事実だった。

 棚に戻そうとした手紙の束を改めて手に取り、一枚下の封筒の表書きをめくって確かめる。先ほどと同じ字体のもの。これもやはりリリーさんに宛てたものらしかった。
 日付は先ほどのものよりも四カ月ほどこちらのほうが遅かった。

 同名の他人、いえ、例えば母親から、または祖母から名前を引き継ぐこともあったのかもしれない。
 リリーさんのお母様やお祖母様に宛てられた手紙、そう考えるのが最も自然なように思われる。

『そうね。もうずっと、私がここの管理人になった時から、この部屋は何一つ変わっていないと思うわ。この部屋だけじゃないの。この建物中に居る物は何も変わらないのよ。そのうちにこの意味が分かるから、憶えていて』

『冷めないのよ。たとえば、この紅茶も』

 つい先ほど部屋で聞いたばかりの彼女本人の言葉が、少し色を強く滲ませて、私の耳の中に蘇る。


十一、マリベル


 思ったよりも手間取ってしまったけれど、スコーンの焼き上がりは上々だった。バターが香り、軽い力を掛けるとホロッと上下に割れて、しっとりした内側が白く見える。
 アールグレイの茶葉を混ぜたものと、チョコチップを混ぜたものを籠に入れ、私は家庭教師の時間通りに三階のマリベルとアドリーヌの暮らす部屋の呼び鈴を鳴らした。

「いらっしゃい、ウェンディ。時間通りね」

 出迎えてくれたアドリーヌに挨拶をし、「これ、良かったら。さっき焼いたんです」と籠ごとスコーンを手渡すと、彼女は「まあ!」と目を輝かせて喜んだ。

「後でお茶と一緒に持って行くわね」
「有難うございます」

 すっかり私に懐いたマリベルは、子猫がじゃれつくように走ってきて私を迎えた。

「ウェンディ、あのね」
「なあに」

 教材に使おうと持ってきた本など眼中に入らぬかのように、マリベルは勉強机越しに身を乗り出し、私の耳元に唇を寄せた。

「来週ね、あたしの誕生日なの。それでね、『あの人』にね、『あたしの誕生日の前の日の夜に、ピアノを弾きに来てください』って頼んだら、『いいですよ』、だって!」

 人に煩わされるのが嫌だ、と言っていたグスタフの顔が浮かぶ。以前にもマリベルは彼にピアノの教師を頼んで断られているらしいということもあり、マリベルの頼みをグスタフが聞きいれたことを、私は意外に思った。

「すごいじゃない。良かったわね」
「うん! すっごく楽しみなの。お部屋もきれいにして、綺麗な服を着て、素敵なケーキも用意して、『おめでとう』って言ってもらうの。」
「どうして、当日じゃなくて、前の日の夜にしたの?」

 マリベルは目を伏せて、
「だって、当日よりも、前の日の夜の方が、緊張するんだもの。あの人にピアノを弾いて貰ってから、嬉しい気持で誕生日を迎えたいの」
 と答えた。

「何の曲を弾いてもらうかって、もう決めた?」
「ううん。あたし、曲の名前が分からないし、いつも弾いてる曲を弾いてもらいたいの。毎日うっとりして聴いてるから、目の前であの音楽が生まれるところを見てみたいの」

 マリベルはいささか早口になりながら、目をきらきらさせて私に『あの人の音楽がいかに素晴らしいか』ということを話して聞かせた。
 私は口を挟むこともできないまま「うん、うん」と頷くばかりで、彼女の話に耳を傾けながら、グスタフを『あの人』と呼び続けるマリベルは、もしかして彼の名を知らないのではないかと思った。

「気難しそうなのに、よく、引き受けてくれたわね」
 それは私の心からの感想だった。

「うん、断られるのを覚悟してお願いしたの。中庭でラースカと遊んでいる時に、あの人が通りかかったから。あたしは、上の階に行けないから、あの人を見かけた時にしかお話できないの。だから今しかないと思って、思い切って頼んでみたの」

 マリベルは頬杖をついて、うっとりと瞼を閉じて、『あの人』の弾いているだろう曲を鼻歌で歌った。

「トロイメライもお願いしないの?」
 先日のやり取りを思い出して聞いてみると、マリベルは「迷ってるの」と鼻歌を中断してこちらを見た。

「どうして?」
「どうせだったら、あの人が作った曲を弾いて欲しいもの。有名なピアニストで作曲家だから、探せば『あの人』の弾いてるトロイメライのレコードは手に入れることができるのかもしれないって考えたの」

 マリベルが彼を『あの人』と呼びながらも、私が知らなかったこと、彼が『有名なピアニストで作曲家』だということを知っていたことに驚いた。

「有名な人なの?」
「うん。そうみたい。昔は海外に演奏旅行をしていたり、オーケストラの前でピアノを弾いたりしていたんだって」

「そうだったの、全然知らなかった」
「すごい人なんだよ」

 マリベルはきらきらした瞳で私を見上げる。
 こんな瞳で金髪碧眼の美少女に見つめられたら、私が男だったらきっとうっとりと見つめ返してしまうことだろうと思う。

「ねえ」
 私の掛けた声に、マリベルはぱちくりと瞬きをした。

「どうして、その人のことを『あの人』って呼ぶの?」
 途端に彼女の顔が曇る。……私は何か、悪いことでも言ってしまったのだろうかと不安になり、俯いたマリベルの睫毛の影を見つめた。

「だって」
 マリベルは唇を噛む。きれいな血色がそのまま透けた少女特有の唇の色。

「……あたしは、あの人の名前を、知らないん、だもの」
 みるみるうちに笑顔が崩れ、泣き始めてしまったマリベルを前に、私は彼女の悲しみが腑に落ちず、黙って柔らかく渦を巻く彼女の髪を撫でた。

「演奏家としてすごく有名なんでしょう?」
「うん」

「海外公演に行ったり、レコードを出したり、オーケストラと演奏したり、してるんでしょう?」
「うん」

「名前を知ってて、わざと『あの人』って呼んでるんだと思ってた」
「……違うの。名前を教えてくれないの。何回も訊いたの。だけど、……教えてくれないの」

 マリベルの目からは不思議なくらいに次々と涙があふれて落ちた。繊細に陰を作る睫毛の下には湧水の泉が埋まっていたのかと思ってしまうほど。

「どうして、って訊いた?」
 ぐっ、と息を飲みこんだ後、マリベルは私の問いに深く首を振って答えた。

「『かつての名は過去の遺産でしかありませんから。僕はただ、五階でピアノを弾いているだけの男ですよ』って言われた」
「……そう」

 私は、再び泣き始めた彼女を緩やかに胸に抱いた。
『グスタフ・フリーダーセン』

 いつか見た、彼の散らばせた大切な楽譜に記された署名を思いながら、私の口から言うことではないと強く感じた。マリベルは私の腕に抱かれて一層激しく泣き、私は彼女に対して裏切りのような言葉にならない罪悪感を抱いた。

「ごめんなさいね、いつもこうなの」
 紅茶のポットと温めたスコーンを持って部屋に入ってきたアドリーヌは、赤く塗った唇を横に引いて笑った。

「ママは出てって」
 低くくぐもった声で私の腕に抱かれたままのマリベルが言う。

「出てって」
 肩をすくめて笑い、アドリーヌは後ろ手にドアを引いて閉めながら

「ごめんなさいね」
 と私に目配せをした。私は彼女に笑みを返しながら、その媚態にも似たアドリーヌの姿を汚らわしいものとして感じた。

 ふと、思い当たり、嗚咽を続けるマリベルに「ねえ」と問いかける。
「……なあに」

 私に対しては無防備な表情を示す彼女に、私は言いかけたことを飲みこもうとしてしまった。
 一瞬の沈黙が在った。
 ……今を逃しては訊けないと思い、私は一度飲みこんだ問いを苦々しくマリベルに向ける。

「前に、私が中庭に居た時、ラースカがベランダから落ちたことがあったでしょう?」
 マリベルは目を伏せた。

「あの時、駆け下りてきたあなたは、真赤に目を腫らしていたけど、泣いたのは、ラースカが落ちたからじゃないわね」

 

十二、ラースカ


「どうして、そんなこと、言うの……」

 マリベルは私の言葉の意図を正しく汲み取ったらしい。あの時のように真っ赤に腫らした瞳を見開いて、唇を震わせて私を見上げた。
 こんな姿を見ていると、私がとても残酷なことをしているような気持ちになる。

「他意はないわ。ただ、そう思っただけ」
 再びマリベルの柔らかい髪を掻き抱いて撫でてやろうとするも、彼女はそれを拒絶して身を離した。

「違うもん、ラースカが、あたしの大事なラースカが落ちたから、……だから」
「……そうね、うん。ご免」

 私が謝罪を口にすると、マリベルは素直に表情を和らげた。
「うん。……いいよ。あたしの方こそ、泣いちゃってご免なさい」

 目を伏せたまま、恥ずかしそうに小声で私に許しを請うマリベルの傍らに座るラースカと目が合う。

 ――良かったね。今日は窓の外へ放り投げられなかったよ。

 思うでもなしにそう内心でラースカに話しかけると、ラースカは鼻をひくつかせて、片目になったルビーのような赤さで私を見返した。その柘榴の果実の赤さを思わせる目の奥にキラッと光が宿るのを私は見た。

「ねえ、ウェンディは恋をしたことがあるの」
 紅茶を注いだカップを両手で顔の前に近付けながら、マリベルが訊いた。

「さあ、……どうだろう、分かんない」
 伯爵のことを思い浮かべてしまいながら、私は彼女を見返さずに答えた。

「誤魔化さないで」
「誤魔化してないよ。本当に分からないの。だけど、今、思い浮かべてる人は、居るよ」

 マリベルの瞳が少女らしい光を宿して、彼女は身を沈めていたソファから体を起こした。
「どんな人? 年上の人?」

 伯爵は、年上なんだろうか。私がマリベルくらいの年齢の頃から彼は紳士というに相応しい落ち着きを持った大人だったから、年上は年上なのだろうとは思うけれど。

「うん、年上、なんだろうね。私はいつか、その人にもう一回会う時に、素敵な大人になっていようと思って、旅をしてるの」

 ほう、と息を吐いてマリベルは「素敵」と呟いた。

「マリベルの方が素敵だと思うけど」
 彼女が表情を曇らせたので、私はまた彼女が泣き始めるのではないかと危ぶんだ。

「素敵じゃない。苦しいだけ。あたしが子供で、『あの人』は大人だから、誰も本気だと思ってくれない」

「私は、マリベルが本気なの、分かるよ」
「……本当?」

「うん。だって、私はマリベルみたいに、誰かを思って泣いたことはないもの」

 私とマリベルが言葉を交わしながら紅茶を飲み、スコーンに手を伸ばしてクリームを塗ったりしている様を、ラースカはウサギらしい無表情で、しかししっかりと見守っていた。ラースカの左目は紅さを失って、苺に牛乳をかけた時のような白濁を澱ませている。

 私はマリベルと言葉を交わしながら、ラースカの潰れた瞳を見ていた。全てのものを映す瞳と、何一つ写さない瞳を両目に持って、ラースカは何を思っているのだろう。
 少しひきずる後ろ足で絨毯を蹴って進み、ラースカは私の視界から消えた。

 その日の夜、私は夢を見た。

 ウサギのラースカが貴族のように着飾って片目に黒い眼帯をし、丸眼鏡を片目に付けた猫目の伯爵と円卓を囲んで、私のベランダで育つミントで淹れた紅茶を飲んでいる。

「ひさしぶりだね」
「まったくだね」

 テーブルの上には、私の焼いたスコーンが在る。
「ウェンディ、突っ立っていないでお掛けなさい」

 伯爵に促されるままに、私は彼らの居るテーブルについた。
「このスコーンは美味しい」

 ラースカが器用に両の前足でスコーンを抱え、その前歯でスコーンをかじる度に、ふわりと小麦粉とバターの暖かい匂いが周囲へ漂った。

「スナイデルの教えを守っているね、ウェンディ」
 伯爵に満足げに言われ、私は素直に頷いた。

「ところで、君は、あと何回の命なんだい。ラースカ」
 スコーンの粉を口の周りにいっぱい付けながら、ラースカは空中を見上げた。

「僕の目があと一つ残っているから、あと二回だね」
 伯爵はそれを聞いて大袈裟に頭を抱え、「君のような立派で優秀なウサギが」と嘆いてみせた。

「良いんだ、僕は」
 ラースカが言う。

「『あの人』の言いつけだからね」
 思わず私はラースカに問いかける。

「『あの人』って、グスタフのことでしょう?」
 彼らは顔を見合わせる。

「『あの人』は『あの人』だよ」
「おかしなことを訊くもんじゃないよ、ウェンディ」

 煙に巻かれたような気持ちになって、私は自分の前に置かれたティーカップを手に取った。

「今日の紅茶は実に美味しい」
「伯爵のお褒めに与かれるとは、光栄です」

 ポットから紅茶を注ぐラースカがうやうやしく答える。

 ふとした疑問が頭を過る。
「ねえ、あなたたちは知り合いだったの」

 彼らは顔を見あせて笑う。私の問いが、さも可笑しいことであるように。
「そうだよ」
「決まっているじゃないか」
「ところで君は、ラースカがただのウサギだと、思っているのかい」

「猫目の伯爵と一緒に暮らしていた君も、自分のことを人間だと思っているかもしれないけれど、もはやこちら側の生き物なんだよ」

「自分のことを人間だとでも思っているのかい」
「ラースカは君と言葉を交わすことだってできる。僕のように」

「ただそれをしないだけだけどね」
「人間の前ではね」
「世話無いね」

 伯爵は私の方へ向き直り、耳打ちをするように顔を近づけた。
「今度ラースカに会ったら、その耳に近寄って口に出さずに言葉を話して御覧」

 ラースカは飲んでいた紅茶の椀をテーブルに置き
「ラースカの前はリーフデ、リーフデの前は、ケーリクヘットだったわ」

 といつか聞いたような言葉を歌うように諳んじた。 

 暗い部屋の中、一人きりのベッドの上で目を開けた時、私は彼らに何かを訊きそびれたような気持ちがした。だけど、何が訊きたかったのかということを、それからどれだけ考えてみても、私は思い出すことが出来なかった。

 

十三、グスタフ

 

「御機嫌よう。少しはここに慣れましたか」

 洗ったシーツをベランダに干している時に頭の上から声がした。この場所で、私の頭上から声を掛けてくる男の人が居るとしたらグスタフしかいない。

「ええ、御機嫌よう」

 グスタフは機嫌が良いらしく、白髪交じりの無精髭を生やした顔で上階のベランダからこちらを覗き込んで人懐こく笑った。

「今日は天気が良いですね」
「そう思って洗濯物をしたんです。最近、雨が多かったから」

「それは良い考えだ」

 私は彼の背後に光る太陽が眩しいという身振りをして、かごに入ったままの洗濯物に視線を戻した。ハンカチ、布巾、テーブル掛け。一枚布のものを掌で叩き、ロープに被せてクリップで留めていく。

「今日の午後はお暇ですか」

 掛けられた声につられるようにグスタフの方を見上げると、彼はベランダの外、外壁の向こう側に視線を投げて

「後ほど散歩に行こうと思うのですが、良ければご一緒にいかがです」

 思いがけぬ誘いに、私は内心驚いていた。不自然なほどのグスタフの明るい表情に、何か小さな引っかかりを感じる。

「ええ。今日の午後は、特に予定がないですけど」
「良かった。じゃあ午後二時に迎えに行きましょう」 

 グスタフはちょうど二時に私の部屋の呼び鈴を鳴らした。扉を開けると、グスタフは予期していた先ほどの明るい表情とは違う鋭いまなざしで左右を伺い、私の耳元に小声で囁いた。

「お付き合い有難う、ウェンディ。……この建物の中ではできない話があったので、お付き合い頂けて良かった」

 私はグスタフの顔を見返す。
「出かけましょうか、ウェンディ」

 うって変わって先ほどの明るい表情に戻り、グスタフはおどけた風にうやうやしい態度で頭を下げてみせる。そのお辞儀をする姿を見て、いつも伯爵が私を迎えに現れた時にする一礼を思い出した。

「ええ」

 これほどまで神経質に衆目を欺いてまでするべき話とは、何だろう。
 グスタフの意図するところは分からない。しかし、恐らく意味がないということはない。恐らく私は何でもない顔をして散歩に同行してこの場所を離れ、彼の意図する話に耳を傾けたほうがよいということを感じた。外出用の日除けの帽子を被って、私はグスタフに演技的な笑みを返した。

 考えてみれば、こうやって男の人に誘われて二人で歩くことなんて、私は伯爵以外に経験がない。
 伯爵がどこかから男の人と並んで歩く私を見ていたとしたら、彼は嫉妬するだろうか。伯爵が嫉妬するところなんて見たことはないけれど、想像してみるといささか愉快な気分がした。彼は素直に不機嫌になるだろうか。それとも不機嫌を顔に出さず、柔らかい表情で私に声を掛けてくるだろうか。

「笑っていますよ」
 並んで歩いていたグスタフに指摘されて、思わず指先で口を覆う。

「何か楽しいことを考えたのですか」
「ええ、ちょっと」

「結構です」

 階段を下る途中、三階に差し掛かった時と、ベランダから見下ろせる中庭を通り抜ける時に、私はマリベルの視線がないかを慎重に見まわした。
 グスタフと知人であり、話があると呼び出されている状況だとはいえ、恐らくマリベルは、私とグスタフが並んで歩くところを見たとしたら、目を赤くして悲しみ、ヒステリーを起こして怒るだろう。
 もしかしたら私に裏切られたと感じるのかもしれない。彼女の恋の話を聞き、「分かる」と言って抱きしめたのに、彼女の想い人と二人きりで並んで歩いているのだから、そう思われてしまっても仕方がない状況には違いない。
 仮にもし、その状況に陥ってしまったとしたら、私も上手にマリベルを納得させる弁解ができるような自信もなかった。

 太陽は十分に高く、明るく暖かい光を世界に注いで、中庭の木々の隙間から光を漏らしている。もう一つの懸念だった一階の窓はぴったりと雨戸を閉め切られており、音も気配も感じられない。先日のような目には遭わずに済みそうだった。

 幸い、門を出るところまで誰かの視線を感じることはなかった。私はそのことに何より安堵を感じ、ひとつ深く息を吐く。

「中庭を歩く時、緊張していましたね」
「……ええ。あの時、本当に怖かったですから」

 私は少し迷った後、マリベルのことには触れないことにした。

「日中は大丈夫ですよ。彼らは自分たちが悪い行いをしている自覚があるのか、太陽の下へは出てこようとしません。そんな暮らしを長年続けているものですから、太陽の光そのものが苦手になってしまっているようですね。日中は怖がることはありません」

 グスタフは街へ続く森を抜ける道を選ばず、建物の外壁に沿って裏手の丘へ続く小道を進んだ。初めて歩く道をグスタフについて歩きながら、舗装されていない道の傍らに、野草が赤く実を付けているのを見て、こんなに無防備な気持ちでいるのが久しぶりであることを感じた。

 丘を取り巻く緩やかな坂を上がりきると、その向こうは崖になっていて、その下には遠いと思っていた森の向こうの街を広く見下ろす景色が開けていた。

「本当は、森を抜けなくても、街へ出ることはできるんです。ご存知でしたか」

『ここは街から離れているから』

 それが、この建物に暮らす人たちに共通する言い訳だった。崖になっているとはいえ、全く人の手が加えられていない訳ではなく、階段を含んだ歩道も作り付けられている。車や馬車に乗って進むことは適わないとはいえ、物騒だと言われている森を抜けることに比べてこの距離なら歩いて下ることは十分に可能だ。

「いえ、……知りませんでした」

「大人の足なら三十分もあれば街へ出ることはできるのです。それを何故、あそこの人たちはしないのか。……お分かりになりますか」

 黙ったまま首を左右に振る。
 街に出なければ必要な買い出しもできないし、生活が不便であるに違いないのに、言われてみればマズロウマンションの住人達は、本当に必要な時にしか街へ赴こうとはしていない。それどころか、その必要がない限りは、街へ行くこと自体を避けたがっているようにも感じられた。

「……分かりません」
 私の反応を、黙って見ていたグスタフは「そうでしょう」と頷いた。

「では、あなたはやはり、あの建物の秘密をまだ、ご存じではないということだ」

 私はグスタフの顔を見返した。逆光になってしまって、その表情は見えなかったけれど、彼はまっすぐに私を見下ろしている様子だった。

「秘密、ですか」

「ええ。あなたには、選択の余地がある。少なくとも私はそう感じた。だからなるべく早くに、あなたには本当のことを教えておくべきだ。そう感じたのです」

 崖の上に立っているためか、砂交じりの風が強い。私は帽子を飛ばされてしまわないように片手で押さえながら、グスタフの言葉の続きを待った。

「あなたは、どうです」
「……何がですか」

「マズロウマンションの、真実の姿を、知りたいと思いますか」

 

十四、マズロウマンション

 

 グスタフは、私をまっすぐに見下ろした。
 長身である彼は、私と比べて、優に頭一つの身長差がある。帽子を押さえたまま、私は数秒間の逡巡を覚えた。

「それは、私が知った方が良いこと、なのだと、お思いなのですね」

「まあ、それは私の意見です。あなたは知る権利がある。そして同時に、知らないままで居る権利もある」

「教えてください」
 私の発した言葉は、彼の言葉の語尾を掻き消した。

「あの建物を、出たいと思うようになるかもしれませんよ」
「構いません」

 マズロウマンション。
 あの建物を初めて訪れた日から、ずっと言葉にならないまま感じていた『何か』の正体。
 どんな環境でも住んでいるうちに日常に埋没されていくだろうという予想を裏切って、ざらざらとした違和感は、住んで暫く経ち、あそこでの暮らしになれたと言ってもいい現在も私の胸中に引っかかり続けている。

「よろしい」

 グスタフは俯いて、白いシャツの胸ポケットから煙草を取り出して咥え、手で囲いを作りながら器用に燐寸を擦った。小さな炎が上がる。
 彼は目を細めながら愛おしそうにその炎に煙草の先を寄せ、丁寧に息を吸いこんで、吐いた。

「私がかつて――自分で言うのはみっともない話なので、ただの一例として聞いてほしいのですが――、名の知れたピアニストとして活躍していたという話を、あの娘からお聞きになりましたか」

 あの娘、とはマリベルのことだろう。私がマリベルと交流があることをグスタフが知っていたことに静かに驚く。

「ええ。あの子はあなたのことを本当に敬愛しているわ。会う度にあなたの話をしているもの」

「そんなことは、どうでもいいんです」
 グスタフはぴしゃりと吐き捨てた。私は続けようとした言葉を飲みこみ、この場にマリベルが居ないことを神様に感謝した。

「……ごめんなさい。聞いていますわ」
「それならば話が早い。私がね、演奏家・作曲家として名を馳せ、各地を飛び回っていたのは、もう五十年も昔の話になるんです。……この、意味するところがお分かりになりますか」

 ふざけて煙に巻こうとしているかのような話だが、見上げたグスタフの横顔には笑顔の欠片すらも存在しなかった。崖の向こうの街に目をやり、伏せた視線のうえに褐色の長い睫が庇のような影を作る。

「……いいえ」
「私は、現役を退いたつもりはないのです。ただ、作曲に集中するべく静かな場所に部屋を探していたある日、破格の値段で見つけたのが、現在の部屋でした」

 グスタフの言葉と共に吐き出される白い煙は、風にあおられて空中に昇る一瞬で存在しなかったかのように掻き消されていく。

「あの日、あの部屋に荷物を運び込んだ日から、私の時間は止まった」
 目を細め、言葉と共に煙を吐く彼を、私は黙ったままで見つめている。

「一年やそこらでは、そんなことには気が付かないものです。
 三年たっても気付かない。身軽な暮らしをしているから若い見た目を保っているのだと思うだけです。
 五年たっても。十年たっても、気付かない人は気付かない。特に、街に出て時間の流れを感じていない人はそうだ。世間一般に時間が流れていることを次第に忘れていく。
 世界は移り変わり、人々も時代にそって変わっていく。そういったことを、別の世界の出来事だと思い始める。そう思っていると、自分の時間が止まっていることにも気付かない。若者は若者のまま、少女は少女のまま、女は女のまま、姿かたちすら変わらぬままで、マズロウマンションの中で繰り返される目の前の日々を、永遠に続けることになる」

 彼の言葉は煙草の煙になって、唇を離れるごとに霧散していくようだった。私はその輪郭を必死に追うけれども、その輪郭を確かめる前に、言葉は輪郭を失って、私の前から消えてしまうように思われた。

「あの部屋に居る限り、私は何も失いません。
 逆に言うと、何かを得ることもない。ただ、生かされているのです。あの建物の一部として飲みこまれ、あの外では生きていけなくなってしまってから、その事実に気付く。気付いた時には、あの建物の一部として同化して、離れることが出来なくなっている。私がそれに気付いたのは、演奏旅行で出かけた外国の宿でした。演奏会を翌日に控え、ホテルで眠ると、次の朝にはマズロウマンションの自室で目が覚めたのです」

 それまで目を伏せたまま遠くに視線をやっていたグスタフはこちらを一瞥した。

「最初は、自分の頭がおかしくなったのかと思いました。夢を見ていたのか、日付を間違えたのか、とも思いました。しかし、違うのです。演奏会の日付は間違いなく今日であり、外国の街を訪れて宿で眠ったはずの私は、なぜかマズロウマンションの自室で目が覚めている。これは紛れもない現実でした。

 それが現実だと気付いたところで、私に何が出来たというのでしょう。急いで行ったところで、演奏会が行われるのは長旅の末やっと着いた外国の街なのです。夜の演奏会には到底間に合いません。
 私はただ、目の前に横たわる現実が信じられず、ただ闇雲に怯えて、それを悪い夢だと信じ込もうとして部屋で毛布を被り、震えながらその日の夜を迎え、そして眠れないまま次の朝を迎えました。

 次の日の朝の新聞の見出しを見た時のことを、今も憶えていますよ。

『ピアニスト死去!』

そう書かれた見出しの下には、私の顔写真と名前、それに昨夜の演奏会が中止となったこと。心臓発作で倒れ、病院に運ばれて亡くなったという詳細までもが丁寧に添えられていました」

 あの日以来、私は世間で死んだことになりました。
 それがもう五十年前の話です。私はそれ以来、あの部屋で一人きり、ピアノと向かい合うだけの暮らしをしているのです。ピアノを弾き、曲を作り、それを譜面にして、かつてとは違った名前で譜面を売るという形で何とか自我を保って生きているのです。受け入れてしまえば悪い暮らしではありません。

 以前にも言いましたが、私はあの部屋での暮らしを気に入っていない訳ではないのです。余計な邪魔が入らず、ただピアノを弾いていることができる。そんな、今となっては当たり前に思う環境は、私にとって一番恵まれている環境であると言っても差支えがないと思います」

「これが、私の見てきたマズロウマンションの真実です。唐突で、信じがたい話かもしれません。信じる、信じないは、あなたの自由ですよ。ウェンディ。
 ただ、あなたには、この事実を知る権利がある。そして、あの建物にすっかり取り込まれてしまう前に、逃げ出す余地も、今ならばまだあるでしょう」

「……俄かには信じがたい話ですけど、それが本当だとすると、謎が解ける、と思いました」
「……謎?」

「ええ。先日、薪を貰いに行った納屋で、古い手紙を見つけたのです。リリーさんに宛てたもので、消印は百年以上も昔の日付でした」

「ああ」
 息を吐くようにグスタフは笑った。

「君は聡明ですね、ウェンディ。お察しの通り、リリーは、私が初めてマズロウマンションを訪れた日から、現在の姿のままなのです」

「この建物は秘密を知る住人たちから『欲望だらけ、マズロウマンション』と揶揄されることがありますが、ここの住人の本当に欲しいものというのは、案外手に入っているものなのです。
 一階の奴らは常に餓えてはいるが、餓え死にするほどではないし、事実一階の住人は死んではいない。餓えさえしなければ、空腹すら感じない筈なのです。この建物に居る限りは。あとはそれに気付くだけなのだということを知らず、餓え続ける人々を、リリーはもう何十年も、見守り続けているのです」

 私は先ほどからマリベルのことを思い浮かべていた。
 彼女はグスタフを敬愛し、彼に自分のためにピアノを弾いて貰うということを渇望している。それが叶わぬ時にはヒステリーを起こし、身投げが出来ないルールの上で、一番大切な筈のウサギをベランダの外へ放り投げる。そして無意識にした自分の加虐に心から涙を流す。ウサギはその度に放り投げられようとするマリベルの命を代替しているということにも恐らくマリベルは気付いていない。

「あの娘を、可愛がっているようですね」

 内心を読まれてしまった気まずさに怯む。
 そして、一瞬の決意の後に、彼が嫌な顔をすることを予期した上で、彼女についてのことを訊いてみようと思った。

「あなたはマリベルを好意的に思っていないようですが、でしたら、どうして彼女の誕生日のピアノ演奏を引き受けたのです。……残酷ではありませんか」

 グスタフは口角を左右に引いて笑みを浮かべた。

「残酷かもしれませんね。私は彼女の欲するものを正面から与えてみることで、彼女がこの建物から居なくならないかと望んでいるのですから。
 欲が失われた時、もしくは完全に充足された時にはリリーが迎えに来るのです。この建物の住人は彼らの抱く欲望ありきで存在しているものですから、欲が失われた時こそが、その本人がこの建物から居なくなる時なのです」

「……どうして、それほどまでに、彼女のことを嫌うのです? 彼女は本当に純粋な気持ちで、あなたの部屋の窓から漏れ聴こえるピアノの音を愛していますわ」

「どうしてでしょうね。彼女の命の代替が、無実のウサギであるということと、それを分かっている上で、彼女が嘆く度に、結局無実のウサギたちの命ばかりが失われているということが許せないのかもしれませんね」

「この建物の中では何も失われないとおっしゃったのに、ウサギの命は失われていくものなのですか?」

「ええ」
 グスタフは視線を上げずに言う。

「リリーの雇い主である支配人が、消耗品としてあの娘に与えた命の代替が、ウサギだということですから。
 日常的な消耗品は、当然消費されていく。あなたも暮らしの中でご存知の通りです。ウェンディ」

 私は暫し、口を噤んで考えた。

「でもそれは。マリベルが悪いんじゃありませんわ。
 彼女にはどうしようもないことのはずです。誰が悪いのかというと、マリベルの命の代償にウサギをあてがった支配人が悪いのだと思います。そんな理由で、純粋な気持ちで憧れているあなたに嫌われてしまうマリベルが、余りにも不憫です」

「きみの言うことも分かりますよ。
 だから私も彼女がこの建物に現れてからというもの、彼女のせいで命を失う、いや命を失うに至らないにしろ、三階のベランダから放られて瀕死の重傷を負い、苦しそうに痛みにあえぐウサギを、何匹見送ってきたか、もう思い出せません。

 私はずっと、これはあの娘に向けても仕方のない感情だと思い、黙って耐えてきました。ですが、そのうちに、あの娘はウサギを放り投げた直後は嘆き悲しむけれど、何一つ学ぼうとせず、躊躇なく同じことを繰り返していることに気付き、
『この娘は、その時は嘆き悲しむにしろ、ウサギの命に対して何とも思っていないのだ』
 と思われるようになってきたのです。まあ、頭では『一番大切なものを無意識に選んで投げてしまう』ということは、私自身痛いほど分かっているのですが、そして彼女はウサギを大切にしているからこそではあるということも分かっているのですが、なにぶん、痛ましくて見ていられないのです。
 それが、私個人の我儘でしかないということを承知している上でも、どうしようもなく殺され続けているウサギを見ることが、耐えられないのです」

「……だからマリベルを、退去させる、のですね」

「ええ。幸い彼女はまだ若い。ここに来た時の現在の姿を、十五と見積もって、ここに来てからの三十数年の時間を加えても、まだ寿命が尽きる年ではないでしょう。止まっていた分の時を取り戻してすぐに死ぬということは、恐らくない」

 彼の言葉に戸惑い顔を曇らせた私に、グスタフは追い打ちをかけるように言葉を重ねた。

「あの娘は、私の知る限り、もう三十年以上は現在の姿のままですよ。ウェンディ、あなたよりはよっぽど年上なはずだ」

 冷ややかに言い捨てるグスタフの横顔には、一切の感情が宿っていなかった。

十五、『あの人』

 

「まあ、信じるも信じないも、あなたの自由です。
 私だって、総てを知り尽くしている訳ではないし、お話した中の推測や解釈が間違っていることもあるでしょう。ただ、今日、お話した中に、故意の嘘は含まれていません」

 グスタフはこちらを振り向いて言った。私は、それの視線を頬に感じながら、彼に視線を返せないでいた。

――私は、何を言えばいいんだろう。

いや、違う。今、彼に何と言葉を返すべきか考えるのではなく。

――彼の話は、本当なのだろうか。

 真実とまでは言い切らなかったにしても、故意的な嘘は含まないと、つい今釘を刺されたではないか。
 恐らく、グスタフは彼の見てきた真実を、私に伝えてくれたのだろう。それは疑う余地がない。

「すいません、ちょっと。……戸惑ってしまって」

「……ええ、そうでしょう。すぐに信じられるというほうが可笑しい。
 私だって、こんな話を他人から聞いたとしたら、頭がおかしいか自分を騙そうとしているのではないかと勘繰ったでしょうから。信じられないことは信じないままで、ただ知っておけばいいのです。
 そして、あなたの中で、色んなことが腑に落ちて納得がいって、この建物を出る決心をしたならば、その時は少しでも早く、動きなさい。
 あなたの命そのものが、この建物に飲みこまれてしまう前に」

 私は深く息を吸って、目を瞑った。燐寸を擦る音が聞こえた。目を開ける。

「これが、あの建物の中ではできない話、だったのですね」
「……ええ」

「立ち話ではできないのは分かります。ですが、例えばお互いの部屋でも、できない話ということなのですよね」

「勘が宜しいですね」
「……それは、どうしてです?」

 グスタフは頬の緊張を緩ませた。無精髭の下に、柔らかな笑みが滲む。

「お気付きかもしれませんが、あの建物、マズロウマンション自身が生きているから、とでも言ったら分かりやすいでしょうかね。……いや、違うな」

 唇に煙草を当てて視線を泳がせた後、

「言い直しましょう。あの建物はただの建築物という無機物ではなく、それ自身に意志があるのです。魂が宿っていると言った方が良いかもしれません」

「なるほど……」

 筋は通る、ように思う。
 私は話を聞いている当初、あの奇妙な建物を支配しているのはリリー一人によるものではないかと見ていた。
 何らかの意図で、何らかを目的とし、あのような仕組みの場所を作ったのは、そもそも建築したマズロウという人だったかもしれない。
 だけどそれを引き継いでいるリリーこそが、現在の形を仕立てあげ、それを管理人という立場で統治しているのだと思っていた。

「リリーさんは、では、どのような立場なのでしょう」

「名目上は、管理人で間違いないでしょう。あなたもご存知の通りだ」
「名目上、以上の意味をご存知ですか」

「まあ、推測でしかありませんが」

 そう前置きして、グスタフは胸から絞るようにひとつ溜息を吐く。
「あなたはマズロウマンションの数ある決まりのうち、『退去する時は管理人に会いに行け』というものを聞いたことがありますか」

 私は黙って首を振る。

「まあ、そうでしょうね。来て間もないあなたに退去の話がされていないのも無理はない。リリーばかりではなく、あの建物は気に入った人物しか入居させない代わりに、一度入ると退去することは容易ではありません。お察しの通り」

 こちらに視線を送ったグスタフに、視線を返して頷く。
「……ええ」

「リリーは、それを管理する立場でもあるのです。
 『欲』というものを基準として統べられているこの閉鎖的な場所の中で、例えば誰かの欲が完全に充足し、もうこれ以上何も望まない、といった具合になった場合。
 その場合、その当人はこの建物にとって不要な住人として見做されます。このように思ったということが、先ほど言った『三階の娘の希望を分かりやすい形で完全に叶えてやることで、彼女が一時的にでも完全に充足すれば、彼女はマズロウマンションに不要の住人として見做されるだろう』という考えの下敷きになっていると思ってください。

 欲が満ちていない人は、何らかの理由でいくら退去を望んだとしても、リリーに会うことが出来なくなります。
 どれだけ探し回ったとしても、中庭でも出会わなくなり、廊下で出くわすこともありません。自らの抱える欲を充足できていない人が管理人室のある六階へ自力で上がることも勿論できません。

 これは建物自身の意志なのか、支配人の意図なのか、初めからそういう仕組みになっているのか、リリーが意識して姿を消しているのか、それは私の知るところではありませんが、今まで半世紀もの間、私はあの場所で様々な人を見てきました。

 事情を抱えて退去を望み、リリーを探す人。
 自信の欲を完全に充足させ、ある日消えてしまう人。
 リリーに会うことを諦めて、夜逃げのようにこの建物を去ろうとする人もいましたが、成功するはずがありません。
 一度飲みこまれてしまうと、いくら遠くへ逃げたとしても、眠って起きたら自室に帰っているのですから。この私が、身を以て経験したように。

 そしてこの建物に不要だと見做された人。彼らは退去を望んでいなかったとしても、ある日リリーが迎えに行くようですね。
 ……もっとも私も、その現場に出くわしたことがある訳ではないので、自分の目で見てきたという訳ではありません。

 ――この建物は、誰かしらにとっての、人間の欲というものを縮図として閉じ込めて観察するためのサンプルを飼い殺すための場所という目的があるのではないかと、私は睨んでいます」

「誰かしらにとっての目的……」
「ええ」

「誰かしら、というのは」
「おそらくリリーの雇い主である支配人でしょうね」

「マリベルにウサギを与えたとおっしゃっていた方ですか」
「ええ、……そうです」

「あなたは、それは誰だと、お思いですか」

 グスタフは短くなった煙草を足元へ落とし、革靴の底で踏んだ。
 彼の細く長い指先から火を保ったままの煙草が音もなく離れ、ゆっくりと地面に吸い込まれるように落下し、彼の靴に踏み潰されるところまでを、私は何かの暗喩のように見た。

「それは、私もずっと考え続けてきた問題なのですが、私の個人的な結論として、それが何者であるかは分かりません。

……ただ」

 言葉の先を、黙って待つ。

「便宜上のものとして、住人は支配人を『あの人』と呼んでいるようですね。その正体は、俗にいう『神様』に近いものではあるのでしょうけれど」

 何かが繋がりそうな予感がした。
「……マリベルは、あなたのことを『あの人』と呼んでいますわ」

 グスタフは心から愉快そうに煙の香りの残る息を吐き出して、

「あの娘は、僕のことを支配人の正体と思っているのかもしれませんね。とんだお門違いだ」
 と言い、声を上げて笑った。

 

十六、暗闇


 気付かぬうちに雲が出ている。
 先ほどまで晴天に違いなかった空は、いつのまにか陽光を失い、平坦な曇天の下で視界を見下ろしていた。少し肌寒いことに気付く。

「なぜ、ですか」
「何が、でしょう」

 遠い山の稜線に雲がかかり、先ほどまでくっきりとした輪郭を見せていた世界は白い靄のような湿度に浸されているように思えた。

「なぜ、その話を。私にして下さっているんです」

「……なぜ、でしょうね。まあ、あなたにお分かり頂ける言葉を選ぼうとしたならば、閉鎖的な世界で生きることを、……まあ生きているのかどうかすら、最早分からない私にとって、これからずっと、想像も付かぬくらいの時間をこれからもこの閉ざされた場所でピアノを弾くことだけの暮らしを続けていく私にとって、あなたが、目新しかったのかもしれませんね。

……そして、それが、羨ましかったのかもしれない」

 彼の言う、言葉の意味は、分からなくもない。
 『分かる』と言いきってしまうほど、私は傲慢でも愚かでもないつもりではあるけれど、彼が言わんとしていることの意味を理解できる程度には、真摯に彼の言葉に向かい合ってはいる。

「あなたは、私から見たら、長い時代を生きて、色んなものを見て、多くの人に作品を愛されて、生きていることを認められて、……私には想像つかないほどの、豊かなものを、持っているように見えます」

「そうなのかもしれませんね。
 でも、持っているものに、人の興味は向かないものだ。これはマズロウの中に暮らす人々にとっての最高の皮肉かもしれません。私はね、ただ、あなたが、羨ましかったのですよ。そして、それを、失ってほしくなかった」

 グスタフはこちらを見ずに、自分に向かうように言った。

「自分のため、ですよ。あなたのためを思ってじゃない。
 ただ、ウェンディ。
 あなたは四階の住人なのだから、誰かに認められたいと、役に立ちたいと感じる部分に思い当たりはあるでしょう。それは、きっと恐らくあの建物の中には求められないものなのです。あの中に居る限りは、あなたは欲求を捧げるべきものを見失ったままで、それに気付いた時には逃げ出せなくなってしまっていることになる」

 私は黙って、グスタフを見ていた。言葉を挟むにも、彼の懺悔にも見える悲痛な誠実さに、私はかけるべき言葉も見つけられなかった。

「私の言葉の意味が、分かってからでも遅くはないかもしれません。
 考えなさい、ウェンディ。

 あなたのために、これは言います。
 考えて、確かめて、納得がいってからで構いません。
 ……この建物を離れなさい、ウェンディ」

グスタフとは、その場で別れて、私は部屋に戻った。

「私の言葉を聞くのも、信じるのも、忘れてしまうのも、あなたの自由です。それは、忘れないで。私は何かを強制する立場にはない。ただ、伝えたいことを、自分のために伝えたまでだ」

別れる前、念を押すように、私に向かってそう言ったグスタフは、頬に浮かべた笑いを私に示すように頷いて、

「三階の娘のことを気にしているんでしょう。私は暫くしてから帰ります。あなたは先にお戻りなさい。近いとは言え、道中には気を付けて」
 と微笑んだ。

 誰かに会うかもしれないと、危ぶんでいたけれど、私は誰にも会わずに自室に戻ることが出来た。日は傾きつつも、まだ暮れてはいない。

 ついさっき、出かけるまでは私の居場所として、違和感のなかった部屋の中を、思わず見回してしまう。

 いつもならば夕食を作る時間になっていたけれど、私は泥が詰まった麻袋のように重い体で、干したばかりのシーツを敷いたベッドに倒れ込む。
 部屋のガス灯が付く時刻にはなっていないのに、窓の外は雨の音が響き、差し込んでいたかすかな光が失われてしまった。

 暗闇が訪れる。

 いや、暗闇は、訪れたのではない。日中も、陽光が差し込みきらないこの建物の中、物陰のそこここに沈黙を保って潜んでいたものだ。
 夜が来ると、それらはじわじわ滲みだすように色を濃くして、周囲を侵食していって、気付かぬうちに全てのものを飲みこんでしまう。

 机の上のガラス製のランプに火を付けようかとも思ったけれど、差し伸べた右腕は重すぎる重力に抗えず、暫しの後に脱力し、ベッドの上に落ちた。

 ――ふと、私は泣きたいのかもしれない、と思いつく。

 泣きたくなるような悲しみが、あった訳ではない。なのに、私は今、泣きたい衝動に駆られている。

 グスタフに聞いた話が、この衝動的な悲しみの理由だろうか。
 彼の言葉は、誠実に、ひとつずつ選ばれたものであったことは、見ていて十分に分かった。彼の言った通り、故意の嘘は含まれていないのだろう。

 ――だけど、私には、その全ての内容を受け止めきれているとは、到底思えない。

 頭痛を感じる。こめかみから額にかけてが熱を持って、じわじわと痛み始める。自分の力で持ち上げることも叶わぬ重すぎる四肢を、柔らかく太陽の匂いのするシーツに投げ出したまま、私は闇の中で、声を上げずに泣いた。


十七、惨劇

 

 闇を劈く少女の叫び声が聞こえた。

 室内を柔らかく照らす暖色のガス灯の薄暗い灯りの中で、ベッドに横になったまま、壁に掛かる時計に目を凝らす。

 午前三時。

 毛布を引いて、身を起こす。
 体を支配していた重さは消えている。耳を澄ましてみても、闇は沈黙の中に在って、それは見慣れた深夜の景色に変わりがなかった。

 ――さっきの悲鳴は、夢だったのかしら。
 そう思った矢先、二度目の叫びがあがった。

 ――間違いない。あれは、マリベルの声だ。

 私はガス灯の火を大きくし、ベッドの傍らの椅子の背からガウンを取って羽織った。ランプに火を移し、室内履きのサンダルをはいて、三階へ向かって階段を下りる。

 ――少しでも早く、マリベルに会わなくてはいけない。

 そんな強い気持ちに、急かされるように、私は足を縺れさせないように気を配りながら、彼女たちの住む部屋に急いだ。

 ――アドリーヌでは、マリベルの感情を受けとめられないから、彼女の嘆きは全てウサギに向かってしまうのだ。そして、間もなくマリベルは、ウサギを窓から放り投げる。
 一階の『奴ら』が獰猛だろうこんな時間帯に。三階から落ちて、痛みに弱るウサギを彼らが見逃すはずがない。マリベルはこの間のように、急いで中庭に向かうのだろうか。

 その後のことは想像しないように、と自分に言い聞かせる。まだ何も、自分の目で確かめたわけではないのだから、と。

「……夜分遅くにすみません、ウェンディです」

 音が響かないように注意深く彼女たちの部屋の扉を叩いた後、扉に耳を付けて、中の様子を窺おうとした。

 足音が近づく気配はない。
 もう一度、扉を叩き、「ウェンディです。マリベル?」と声を掛ける。

 ――返答はない。ただ、内側から微かにマリベルの泣き声が聞こえた。
「マリベル? 入るわよ」

 厭な予感を肌に冷たく感じながら、私は彼女たちの部屋のドアを引いた。

 扉を開けると、異変にすぐ気が付いた。
 室内を照らすはずのガス灯は消されていて、闇に沈んだ部屋の奥から泣きじゃくるマリベルの声が細く聞こえる。

「……マリベル?」

 燭台の火を高く掲げて声を掛けると、闇の奥から慌てたようながさがさという音とともに
「消して!」
 というマリベルの叫びが聞こえた。

 ――この火を消してしまうと、この部屋の中は全くの暗闇になってしまう。

 そんな逡巡を覚えた後、私は小さな声で「ごめんね」と謝り、素直に、マリベルの声に従った。
 薄ぼんやりと暖色に照らされていた室内が、再び闇に沈む。

「……ウェンディ? ウェンディなの?」
「そうよ。マリベルが心配になって来たの」

 闇の奥から掛けられた声に、素直に、なるべく穏やかな声を作って応える。

「……ひとり?」
「そうよ。……大丈夫?」

 暗がりの奥から、しゃくりあげる嗚咽が聞こえる。
「……そっちに行ってもいい?」

 返答はなかった。私は少し待ってから、真暗闇の中を手探りでマリベルの気配を辿った。
「……ウェンディ!」

 マリベルの近くに近寄ったら彼女は私にしがみ付いて、一層激しく泣き始めた。私は彼女を抱きしめ返して、背中まで垂れた柔らかい髪を撫でた。

「心配したわ。……どうしたの? お母様は?」
 マリベルは私にしがみ付いたまま、激しく首を左右に振った。

「出かけてるの?」

 一瞬の間を置いて、マリベルは小さく首を振った。ゆっくりと私の服に埋めていた顔を離し、中庭から差し込んだ薄い灯りの中に私を導いて、彼女は泣き腫らした強張った顔で私を一瞬見上げ、ゆっくりと窓の外を指した。

――まさか、

 私はベランダに駆け寄る。中庭の薔薇の植込みに建てられた街灯が、柔らかい光でアドリーヌの死体を照らしていた。

 その周りに群がる黒い影。二十は居る。小さく黒い影が四つん這いのように体を屈めて、ありえない方向へ首の曲がったアドリーヌの体の周りをうろつき回っている。

 言葉を失って、その場にへたり込んだ私の傍らで、マリベルは一層強く泣き始めた。マリベルの嘆きは、彼女の母が肉塊として喰われゆく中庭の中空の闇の中へ溶け続けていた。


十八、朝

 

 その日の朝が訪れるのを、私は床に座ってマリベルを腕に抱いたまま、暗闇の中で静かに待った。
 数時間が経って、窓の外が白く明るみ始めた頃、私は救いの光が差したと感じて心から安堵した半面で、腕の中で泣き疲れて眠るマリベルを見下ろして、彼女の隠している罪や秘密が、彼女にとって残酷な総てが、明るみに出てしまうのだということが悪寒として感じられた。

 ――これが総て、私の夢だったらいいのに。
 こんな莫迦げた願いをこれほど切に祈ったのは、初めてのことだと思う。

 まだ、物事は明るみに出ていない。住人達はまだ起き出している気配はなく、朝の光の中で、世界はまだ、喧騒一歩手前の静寂の中に在った。

 あまり、時間は残されていない。そう、本能的に感じ、私は泣き疲れて眠っているマリベルの頬を叩いた。

「起きて、マリベル」
 彼女はうっすらと顔をしかめ、ゆっくりと瞼を開いた。

「すぐに荷物を作って。私と逃げよう。この建物を出てしまおう」

 どうしてそんなことを口走ったのか、私は自分でもよく分からなかった。昨夜、この部屋で何が起きたのか。そんなことすら確かめていないというのに、私は彼女を連れてここを離れなくてはいけないと強く感じていた。

 見当たらない片目の潰れた白兎。
 窓の外に落ち、首の骨を折って死んだ母親は、餓えた亡者に肉を食われている。そしてそれが、白日の下に晒されようとしている美しい朝。

 何があったのかは知らないけれど、私は彼女をこんなに残酷な場所へ置いておくなんてことはしたくないと感じた。
 ただ、それだけの理由だった。

「もうすぐしたら、人が起きて、騒ぎになるわ。そうなる前に、私とこの建物を出てしまいましょう。昨日から街へ買い物に出かけていたことにすればいいわ。私が証言してあげる。私、マリベルを守りたいの」

 何かを考える前に、すらすらと言葉が口を突いて出た。私の本音だとか、この状況を正しく謎を解くだとか、そんな事柄は時間の残されていない今、些末な問題でしかなかった。

「マリベル」

 呆然と目を見開いている彼女に、私は再度声を掛けた。私の声に反応するように視線を上げた彼女は、小さく左右に首を振る。

「……行かない、行けない」
 うわごとのように応えた彼女の言葉を遮って「いいから!」と促そうとすると、彼女は強い抵抗を示して、私の腕から離れた。

「行けない、……だって」
 彼女の唇から言葉がゆっくりとこぼれて落ちる。

「もう少ししたら、きっとママは、いつもみたいに、何もなかったみたいに、帰って来る。昨日のことは全部嘘なの」

 そんなことがあるものなのかと、思って私は言葉を飲みこむ。この建物の中では何が起きてもおかしいなんてことは、きっとない。

 私は両腕をついてゆっくりとベランダへ近付いた。身を乗り出して、中庭を見下ろす。

 そこには、先ほどよりも原型を留めない無残な死体が朝の光に照らされているだけだった。マリベルに向かって振り向く。

「今までも、こんな風になって、お母さんが帰ってきたことが、あるの」
 マリベルは唇を噛んで、視線を泳がせた。

「ラースカも、その前のリーフデも、みんな、こんなことじゃ死ななかったもの。あたしが迎えに行ったら、少し痛そうにするけど、すぐに元気になるもの。ウサギが死なないのに、ママがあんなに簡単に死ぬなんて思えない」 

「……マリベルが、やったのね?」
 マリベルは唇を噛んだまま、俯いた。そして細い声で言う。

「こんなに酷いことをしちゃったら、リリーさんに嫌われて、ここを追い出されるのかな」


十九、リリー

 

 結果から言うと、私が予感していた喧騒は訪れなかった。
 そして、マリベルの言うアドリーヌの蘇生も起こらなかった。

 この場所を離れた方が良いという私に、マリベルは部屋でアドリーヌの帰宅を待つと言って聞かなかった。
 私はマリベルを一人置いてこの部屋を去る気にはなれず、彼女が気持ちを落ち着けるのをここで待とうと思った。

「ねえ」

 淹れたお茶を差し出しながら、
「ラースカは、どこへ行ったの」
 と私が問うと、マリベルは「知らない」と小さく答えた。

 窓の外には見慣れた高い空が在って、今まで見てきた日々と何も変わらない陽光が部屋の中へ静かに差し込んでいた。
 例えば、一歩、私がこの部屋を出ると、私はこれまで過ごしてきた日常の中へ戻ることが出来るのだろうか。昨夜見たあのむごたらしい情景は見なかったことにできるのだろうか。
 マリベルが認めた彼女の罪について、知らなかったことにできるのだろうか。……そんなことをあてもなく思う。

 マリベルはソファの上で膝を抱え、顔を上げようとしなかった。
 ウサギは一度も姿を見せてはいなかったが、彼女が姿を見せないウサギを心配しないところを見ると、恐らく既にラースカが生きていないことをマリベル自身が承知しているということなのだろう。

 ――マズロウマンションの中では、自分を傷つけようとしても叶わないということ。その代りに我に返った時には一番大切なものを、窓の外へ投げ捨ててしまっているということ。

 アドリーヌの落下は、自殺とは考えにくい。
 アドリーヌ自身がこの建物の住人である以上、自分で飛び降りることは叶わないはずだからだ。そして、マリベルが認めるように、マリベルがアドリーヌを窓の外へ投じたというならば、それは既にウサギが失われてしまっている状態だということなのだろう。
 これまで、マリベルの鬱憤を一身に引き受けていたのはウサギの役割であったし、ウサギはそもそもそのために、この建物の中で彼女に『宛がわれていた』ものだとグスタフは言った。

 グスタフにとって一番大切で、いざという時に彼自身の身代わりになるのは彼の大切にしているグランドピアノだという。

 ――では、私は?

 このマズロウマンションの住人に違いない私は、自分の代償となるものを何か持っているだろうか?

 マリベルにとってのウサギ。グスタフにとってのピアノ。それらのように明確な愛を注ぐべき代償は、私にとって一体何だというのだろう?

 鞄一つでこの建物へ入居した私は、特に大切な持ち物というものに思い当たりがない。
 マリベル曰く、ウサギは『リリーに貰う』ものだという。そして、彼女は愛を注ぎながらも、グスタフ曰く『同じことを繰り返しても罪を感じていない』ということから、その一匹毎への特別な固執は存在しないのだろう。

 グスタフの言う話が本当だったとして。
 この建物の中で時間が止まっているとするならば、恐らくここで、人は一切の成長をしないということなのだ。三十年女の子として生き続けているマリベルも内面の成熟を伴わず、少女として日々を生き続けているということなのだろう。
 それがウサギの命を消費する罪を彼女が蓄積していない理由だとして。

『考えろ、ウェンディ』
 耳の奥で、言葉が不意に響いた気がした。

 誰の声だったかと、消えてしまった響きを追おうとしてみても、それは既に消えてしまっていて、私の脳裏にはその言葉だけが残った。

 愛を求める三階の住人マリベルが宛がわれているのがウサギで、自己実現を望む五階の住人グスタフを象徴するのが彼のピアノ。

――窓の外へ投げ捨てられるものは、彼らが希求しているもので、既に手に入っているということを気付けないでいるもの、なのかもしれない。

――じゃあ、私は?

――私は窓の外へ身を投げようとした時に、身代わりとなって窓の外へ落ちるものとは?

――四階に住む私が、望んでいるのは『承認』で、それを象徴するものは、恐らく伯爵への感情なのだと思う。

『あなたは聡明な人ですね、ウェンディ』

 つい最近、かけられた言葉が不意に蘇る。
 ……私はこの言葉を、知っている。ずっと昔から。
 頭の中が白く靄がかったように茫漠とした記憶の情景の向こうで、誰かが私の頭を撫でている。

 唐突に呼び鈴が鳴る。
 私たちは反射的に身を凍らせて、互いの顔を見合わせた。狼狽の色を浮かべて視線を泳がせるマリベルの不安そうな表情に、私がしっかりしなければ、と思う。
 幸いにも、私は当事者ではない。同席者ではあるにしても、マリベルよりも冷静に振る舞える自信はある。

「そこに居て。私が行ってくる」
 マリベルは安堵の表情を浮かべて、いっぱいに涙を溜めた目で縋るように私を見た。私は彼女に笑みを返して「大丈夫よ、きっと」と応えた。

「……はい」
 音を立てないようにドアにチェーンをかけた上で、私は薄く扉を押し開けた。

「あら、ウェンディ。御機嫌よう」

 そこに立っていたのは、リリーさんだった。
 いつもと変わらぬ優しく穏やかな声音に気を許してしまいそうになるも、彼女がこの建物の管理人で、管理人である以上、昨夜のアドリーヌの変死について知らない訳がないということを思い出す。

「こんにちは。……すいません、今、マリベルが……」
「知ってるわ。彼女に会いに来たの。入れて下さる?」

 リリーさんがベールに隠された顔を傾げると、私が注意深く左手で押さえていた扉は迎えるように自ら外側へ開いた。たった今、かけたチェーンは元からかかっていなかったように。

「……どうぞ」
 そう言うしかなかった。扉が己の意志で自らリリーさんの来訪を迎えてしまった以上、ただの立会人である私には、彼女を遮る手段を持たない。

「ウェンディ、安心して」
 リリーさんは、緊張に顔を強張らせていた私に、そう声を掛けて、大きな紙袋を抱えたまま部屋の奥へ歩を進めた。

「マリベル」
 ソファの上で怯えたように膝を抱え、リリーさんのベールから目を逸らすマリベルに向かって、リリーさんは穏やかな声で話しかけた。

「お母様のことは、残念だったわね」

 リリーさんは、どこまで正しく状況を知っているのだろうか。
 アドリーヌの無残な死を目にして、何が起きたかをどこまで知っているのだろうか。
 彼女は、何を目的にマリベルに会いに来たのだろう。

 マリベルは、触ったら溢れてしまいそうな涙をため、唇を噛んでいる。
 優しいことを言われてしまうと、一息に感情が決壊してしまうとでもいうような危うさで下を向くマリベル。
 それでも、この状況の下、迂闊に必要のないことは言うべきではないという意思は彼女の噛んだ唇に滲んでいるように見えた。

「私は、あなたを怒りに来たんではないわ。楽にして」

 恐らく、彼女の恐れていたこと。
 それはリリーさんに『嫌われ』、この建物を『追い出される』こと。
 年端の行かない少女のままでしか生きたことのないマリベルは、外の社会に裁かれることなど想定しているとは思えない。

 彼女にとって世界の全てはこの建物であり、この建物の中で、彼女の恋する五階のピアニストの窓から漏れ聴こえてくる演奏にうっとりすることが、彼女の求める生活の全てなはずだ。
 それが失われてしまうこと。その資格を失うこと。この場所に居られなくなること。それが、恐らく、この状況の下で、マリベルが膝を抱えて恐れていることだろう。

 夜明けから、朝を迎えて、日が高く上るまで。
 私は彼女とこの部屋で一緒に過ごしていたけれど、その口から母親を気遣う言葉や懺悔の言葉は一度も出なかった。ただ一度きり、『ここを追い出されるのかな』と言った以外には。

「ラースカも。せっかくずっと可愛がっていたのにね」

 マリベルが驚いたように顔を上げる。リリーさんはベールの下で小さく首肯いた。

「どうして……」
「知ってるわ、何もかも。あなたにはお話したことがなかったけれど、私は魔女なの」

 マリベルは目を見開いた。

『魔女』というのが、事実なのか、喩えなのか、それともリリーさんなりの冗談なのかは私には皆目見当も付かなかったけれど、どれも余り違いがないように思える。

「だから、何でも知ってるのよ」

 マリベルは、恐らく、言葉の通りの意味で受け取っている。
 それとも、リリーさんが『全てを知っている』と言ったことに恐怖を覚えているのだろうか。

 目を見開いたままの表情で凍りついたマリベルを見て、リリーさんが懐かしそうに笑い声を洩らす。

「彼もそんな目をよくしてたわ。何かを企むような時には、きまってそんな風に目をむくの。懐かしい」

 私は淹れて戻ったお茶を、リリーさんとマリベルの前に置いて、部屋を出ようとした。

「ここにいて! ウェンディ」
 それに気付き、マリベルが叫ぶ。

「ここにいて。ウェンディ」
 穏やかな口調でリリーさんが空いている椅子を促す。

 私は、強く不安を帯びて私を見るマリベルと、黒いベールに隠された下から私を見つめるリリーさんを相互に見て、「はい」と応え、椅子を引いた。


二十、ミーリ

 

「じゃあ、まず」

 リリーさんは、傍らに置いていた大きな紙袋を膝に抱え直し、その口を開けた。小さな白いウサギが顔を出す。

 ラースカを失ったばかりのマリベルは、新しいウサギの登場を素直に受け止めるのだろうかと彼女の横顔を伺うと、マリベルは先ほどまでの強張らせていた表情を嘘のように緩め、紙袋から顔を出したウサギに釘付けになっていた。

「可愛いでしょう? ミーリっていうのよ。女の子なの」

 鼻をひくひくと動かし、赤い瞳で部屋の中を見回しているウサギはラースカに酷似していた。

「マリベルが淋しがるといけないと思って、連れて来たの。マリベルのお友達にしてくれる?」

 マリベルは真赤に泣き腫らした目をしながらも頬一杯に嬉しさをたたえてリリーさんに頷いた。

「良かった。これで淋しくないわね、マリベル」

 穏やかな声で話すリリーさんを、私は畏怖のような気持ちで言葉無く見詰めた。
 彼女は私の疑いを含んだ視線を強く感じているだろう。しかし、それを噯にも出さず、リリーさんはテーブルに置かれた紅茶のカップに手を伸ばし、それを静かにベールの下へと運んだ。
 その動作は視線を感じて緊張する素振りはなく、滑らかで優美ですらあった。

「ウェンディ」
 急に名前を呼ばれて、私は身を固まらせる。

「昨夜からあなたも眠っていないのでしょう? マリベルのことを案じてくれて、ありがとう」

 そんな話は、していない。
 私はただ、さきほどリリーさんの来訪を玄関先で迎えただけだ。紅茶を入れに行った時に数分席を外しはしたけれど、その数分間の間に、マリベルがそんな話をする余裕はなかっただろう。
 つい先ほどまで、マリベルは身を凍らせて、リリーさんに何を言われるかということに恐々と怯えていたのだから。

 私は、思わず視線を泳がせる。

――なぜ、リリーさんは、昨夜からの私たちのことを知っているんだろう。

 考えるまでもなく、可能性はいくつもあった。
 昨夜のマリベルの叫びをリリーさんも聞いていたこと。そしてそれを聞いた私がこの部屋へ向かうのを偶然に見ていただとか。今朝の惨劇を階下で見て、この部屋を訪れた時に私が居ることからの推測だとか。

 ――先日、グスタフの言っていた言葉が脳裏に再生される。

『あの建物はただの建築物という無機物ではなく、それ自身に意志があるのです。魂が宿っていると言った方が良いかもしれません』

 それが、グスタフの言った通り、現実にこの場所での事実だったとして――というか最早、それ以外の可能性は現実味を帯びていないように思われたけれど――、この建物の中の出来事は、この建物の中の全てがリリーさんに筒抜けになっているということの証明が目の前でなされてしまったということ、なのだろうか。

『知ってるわ、何もかも。あなたにはお話したことがなかったけれど、私は魔女なの』

 思わず顔をこわばらせた私を無視して、リリーさんはウサギと戯れるマリベルを静かに見つめていた。
 マリベルはウサギを抱きしめ、たった今会ったばかりというよりも以前から飼っていたラースカにしていたように愛おしそうに頬を寄せた。

 ――この場面はきっと初めてのものではない。そう思う。

『ラースカの前はリーフデ、リーフデの前はケーリクヘット』

 ――名前しか知らないラースカの前のウサギたちも、きっとこうやって迎えられたものだ。この情景は繰り返されている。マリベルがこの建物の中で暮らしている限り、恐らく無限に。

 きっと今なら、
『ミーリの前はラースカ』

 このような部分があの歌に差し挟まれるのだろう。 

『……察しが良いね、伯爵に聞いていた通りのお嬢さんだ』

 耳慣れない声に目を上げる。
 そこには、マリベルの腕の中に抱かれた真赤な目のウサギが居た。私は『ミーリ』と名付けられた白く小さなウサギと見つめ合った。

『あら、聞こえちゃったかな』

 再度、先ほどの声が聞こえた。ミーリは私を見上げたままだ。マリベルとリリーさんは耳慣れない第三者の声に気付かぬ様子で驚いた様子も見せない。

 ――『ミーリ』?

『そうだよ、お姉さん。この間は、ラースカとして夢の中でお会いしたけど、憶えている?』

 目の前が渦を巻いて視界が急に白くなり、私はその場に倒れ込んでしまった。

「ウェンディ!」
 驚いて立ち上がるマリベルの声が遠く聞こえた。

 

二十一、マズロウ

 

 重い瞼をゆっくりと持ち上げると、そこは見慣れない、薄暗い屋根裏のような部屋だった。
 壁際には足元から天井に届くほどの大きな本棚が一面に造り付けられていて、その中には古そうで立派な本がぎっしりと詰め込まれている。そこ傍らには、誰かが書き物をしていたような大きな机。上には積み上げられた本と傍らに立派な孔雀の羽根の付けペンが立てられている。

 私は、ゆっくりと身を起こした。柔らかなソファの上に寝かせられていたことに気付く。身体はどこも痛まない。

 ――ここは、どこだろう。

 まだ、薄ぼんやりと紗がかかったような意識の中で、私は周りを見回してみた。見覚えのない場所。見覚えのない誰かの書斎。しかし、ここはマズロウマンションの一室に違いない。そんな気がした。

「気が付いたかしら」

 閉じられていた扉が静かに押し開けられて、水の入ったトレイを持ったリリーさんが部屋に入ってくる。

 先ほどのことを、一度に思い出す。
 再度、強い眩暈に襲われて、私は思わず額を押さえる。

「疲れたのよ、ゆっくり休んでいきなさい。怖がることはないわ、何も」

 そう言いながら、リリーさんはソファ脇のテーブルに、水の入ったグラスを置いた。

 ――リリーさんは、総てを知っている。

 訊いてみたいことは、沢山ある。
 この建物についての本当のことも知りたいし、グスタフに聞いたこと、マリベルのこと。ウサギのこと。納屋に在った手紙のこと。リリーさんのこと。そして、ラースカと伯爵のこと。

 でもそれは。総て、私の個人的な興味や好奇心でしかないのかもしれない。自分の住んでいる建物だからといって、住人の一人でしかない私が、その核になる部分を、知りたいからという理由で、今まで伏せられていた事実を遠慮なくあばいてしまうことは、恐らくリリーさんの歓迎するところではないだろう。

 ――退去させられた住人は、一体どこへ行くのだろう。

 リリーさんが、総てを知っているとして。私が色んなところで、この建物――マズロウマンション――へ不信を募らせているということを知っているとして。管理人であるリリーさんは、私のことを風紀を乱す異物として、この建物から排除しようとするだろうか。

「……知りたいという気持ちも、欲望の一つなのよ。ウェンディ。ここは欲望を肯定する場所なのだから、あなたが知りたいことは、私が全て答えるわ」

 リリーさんは静かに椅子に座って、こちらを向いた。

「……ここは」
「ここは、昔、マズロウが使っていた書斎よ」

「この建物を建てた人、ですよね」
「ええ」

「『あの人』というのは、その人のこと、ですか」
「……そうよ」

「マズロウさんは、もう亡くなってしまった人なんだと思っていました」
「そうよ、もうずっと昔にね」

 リリーさんは机の上に在った煙管を取って懐かしそうに眺めた。

「住人達の呼ぶ『あの人』っていうのは、まだ生きている人のことなんだと思っていました」
「……そうね」

 リリーさんは煙管を手にしたままで視線を、遠くを仰ぎ見るように上げた。

「マズロウ、もとい、この建物を建てた男は、ずっと昔に死んだわ。本当にずっと昔の話よ。私がまだ、あなたくらいの年齢の女の子だった」

 いつも穏やかで優しく、感情を滲ませたことのないリリーさんの声が、いつになく少しくぐもっていることに気付く。私はその、見ることのできない表情を思いながら、言葉を飲んだ。

「でもまだ、生きていると言ってもいいのかもしれないわね。
 彼の建てた建物は、彼の望んだ通りの建物になったもの。そして私がここを管理人として守っている限り、彼はこの建物に宿っているような気がするわ」

「マズロウさんは、この建物に何を望んだのですか。
 人の欲望を閉じ込めて、この場所に何を作りたかったんですか。リリーさんは、ここで何を守っているんですか」

 リリーさんは「ふっ」と小さく息を漏らして笑って応えた。
「彼がね、築きたかったのは、この世の楽園よ」

「楽園?」

「そう。彼は老いることを恐れた。死ぬことを恐れた。そして老いる前に死んだ。マズロウは綺麗な人だったわ。私の部屋に飾っていた肖像画を憶えているかしら」

「あの……金髪の」
「ええ。彼は私の恋人だったの。今となっては、笑ってしまうくらい昔の話でしかないけどね」

 初めて会った時から老女という印象であったリリーが、かつては私と同じくらいの女の子であったことを、現実のものとして改めて思う。
 当たり前のことだ。だけど、私は今まで想像もしたことがなかったことだ。

「マズロウは、老いるのを恐れ、死ぬのを恐れ、欲求を肯定できる場所を作りたかったの。
 マズロウにとっての楽園よね。老いることも死ぬこともなく、自分の欲求のためだけに生きることが許される場所。
 ……それのために、総てのものを注ぎ込んだと言ってもいいと思うわ」

「それが、ここの本来の姿、ですか」
「ええ」

 遠い昔を思い出しているかのように深く呼吸をする気配がした。
「リリーさんは、マズロウさんのことを愛してらっしゃったのですね」

「ええ、そうね。
 ……だから、この建物が売りに出されると聞いた時、私がそれを引き取ろうと思ったんだわ。何も知らない人の手に、彼の人生が注ぎ込まれたこの建物を渡す訳にはいかないと思ったの」

「恋人だったマズロウさんが亡くなった後、リリーさんは」
「私は、マズロウの家の下女だったから、そのまま家に残ったわ。
 この建物を手入れして、庭に水を撒き、ご家族の生活のお世話をしていたの。そうして時間が経って、ある日、彼らが旅行中に一度に亡くなったの。遠い国での汽車の事故だと聞かされた」

「親類も遠縁も、先の内戦のクーデターで散り散りになってしまっていた彼らは、もし何かあった時には、使用人たちで財産を分けなさいと書き残してくれていたの。私は、お金は要らないと言って、この建物に残ることを選んだのよ」

「その頃から、この建物は、こんな」

「いいえ、ご家族が住んでいる時は、普通の建物だったわ。
 少なくとも時間は流れたし、私もこんなに老いてしまった。昔愛した人が建てたという郷愁でこの家に残って、この場所の異変を感じたのは、ここで私が一人で暮らし始めてから暫くしてのことだったわ」

「異変……」

「ええ。私の部屋に掛けていた若い時のマズロウの肖像画、あなたも見たものよ、あれが、ある日、笑っていたの。
 当時、私によくして見せていた目を見開いた得意げな顔をして。そして、部屋の中が、荒らされたみたいに散らばっていて。額に入った鏡は割れて床に散らばり、ソファはでたらめな配置に置かれて、コート掛けは倒れていたの。
 ……そう、ウェンディ。あなたが私の部屋に来た時に見たものと同じ景色よ。あの部屋はあの日から、時間が止まったの」

 リリーさんは、一つ大きく息を吐いて、ベールの下で顔を押さえた。

「私は、マズロウが来たんだと思ったわ。
 そうとしか思えなかった。もう死んでしまって何十年も経つというのに、そうとしか思えなかったの。いたずら好きだった恋人が一人きりになってしまった私のところへ会いに来たのだと思うと、不思議な出来事が怖くはなくて、むしろ嬉しかった。
 だから、その日のままの、マズロウが訪れた時のまま、私は部屋を片付けられないで居るの。愚かな話だと自分でも思うけれど」

 管理人としての表情しか知らないリリーさんが、死んでしまった恋人を愛し続けていたのだということ。
 そしてそれを語る彼女の姿は、管理人としてではなく一人の女性として生きている彼女の側面を見せているものだったということ。

 私は、自分のデリカシーのなさを恥じて唇を噛んだ。
 これほどまで素直に生きている一人の女性に、私は何て失礼な思いを抱いていたのだろうと胸が詰まる思いがしてくる。


二十二、ミーリ

 

「そうしているうちに、この建物に部屋が空いているなら住みたいという人が現れて。それで私は住人を受け入れることにしたの。
 住人が入居する日は、分かるの。マズロウの肖像画が笑うから。

 私は管理人としての役目を果たそうと思うようになった。彼の選んだ住人が、この建物の中での暮らしを気に入ってくれるように。この建物自体が彼の意識を継いでいるものだと気付いたのもその頃よ。

 結果、私は人間ではなくなったけれど、この建物を守ることで、私と同じく人間ではなくなったマズロウと共にいる日々を送ることが出来るようになったの。
 私がこの場所で管理人の役割を果たして、この場所を守ることで、私は今まで生きてきた長い時間の中で、一番幸せな日々を送れることになったのだと言ってもいいわ。
 子供の頃から下働きとしてマズロウ家で働き、人目を忍んだ初めての身分違いの恋をして、恋人を失って、私はもう何も望んでいなかったの。望むことすら、自分には不相応なんだと諦めていた部分もあったと思うわ。

 だから、ここで祈りや、願いや、欲を、無邪気に欲する人々を見ていると、住人一人一人がとても愛おしく思えるの」

 リリーさんは穏やかな、本当に満ち足りている人にしか出せないだろう声色で言う。

「長い間、ここで人の暮らしを見ていると、色んな人が居たわ。
 欲望と一言で言っても、その人の願うことは、人によって違うの。当たり前なことだけど、人の数だけ、欲望にも形が在るのよ。そしてそれを満たす人。がんじがらめになって気が狂ってしまう人。入居の時に抱いていた欲を忘れる人も居たわ。もちろん、この場所を気に入って、潔く本来の欲を満たすことのために生きる人も」

 グスタフのことが自然と思い出された。
 彼はピアノを弾くことだけを求めて、この場所を自分に合っていると言っていた。しかし逆に言うと、彼はそれ以外のものを総て、世の中で幸福の象徴とされるだろうものの可能性の総てを、潔く切り捨てている。

 ピアノを弾くこと以外を求めることを諦めていると言えるのかもしれない。時間の経過の伴う人生の、家族や、愛や、平穏な暮らしや、そういったものを必要とすらしない潔さが、この場所で第一義の欲を満たすためには必要とされるということなのだろうか。
 人にとっての幸せの定義がそれぞれだということを分かっていたとしても、彼は何のためにピアノを弾き続けているのだろうと思う。ピアノを弾くことで、彼は結果として己自身ではなく、作品を偽名ででも世に出して残していくことを、自分の代わりに作品を人々の心に残すことだけを望んでいるということになるのだろうか。

 ――確かに、一般的に、人々が不安なく幸せに生きていくために必要とされていると共同体や責任は、時間の経過の老いや死が見えているから必要とされる類のものだ。
 その心配がないとすれば、身軽なまま己の表現欲求のみに日々を過ごすことは合理的で潔いのかもしれない。だけど、私はグスタフの気持ちが分からない、と思った。

 素晴らしいものを作ったとしたら、私は誰かに認めてもらいたいし褒めてもらいたい。身近な人でも、自分が尊敬する人にでも認めてもらうことが出来たら、自分がここにいることを確かめられるような気がする。

 ……これは、私が四階の住人だから、というところに帰結してしまう問題なんだろうか。

『そうだよ』

 驚いて顔を上げると、開いたドアの隙間から、白いウサギが顔を出している。
「あら、ミーリ。戻ってきちゃあダメじゃない。マリベルが心配するでしょう」

 立ち上がってウサギを迎えるリリーさんには、ミーリの声は聞こえていない様子だった。

『リリーさんには聞こえてないよ。ウェンディ、あなたが驚いて顔を上げたから、リリーさんはわたしに気が付いたの』
 リリーさんの腕に抱かれたウサギは、その赤い目を細めて鼻をスンスンと鳴らした。

「この子は、一人でここまで来たんでしょうか」
「そうみたいね。でもウサギは皆そうよ。この建物の中を一番自由に歩けるわ」

 リリーさんは愛おしむようにミーリにベール越しの頬を寄せた。

「ラースカに、似てますね」

「そうね。マリベルがウサギを失うと、マズロウが笑って、私の部屋にこの子が現れるの。私はそれを彼女に届ける役目をしているのだけど。現れるのは、決まっていつも白いウサギね」

 ――あなたは、ラースカなの?

 リリーさんの腕に抱かれた白いウサギの赤い目を見て、私は意識して念じてみた。

『そうだよ。前の名前はそうだった』

 ――ラースカは死んだんじゃないの?

『死んだよ。だけど死んだのは容れ物としてのウサギだから。わたしは新しい名前と体を貰って、またマリベルのところへ行って、彼女が泣かないように祈る役目を果たすの』

 ――前に言ってた『あの人の言いつけ』だから?

『そうだよ。よく憶えていたね』

 ――『あの人』って?

『もう分かっているでしょう? マズロウさんだよ』

 今まで、嵌っていなかったパズルの欠片が、一時に音を立てて然るべき場所に収まった瞬間を見た時のように、私は目を見張るばかりで暫く動くことが出来なかった。

「……どうしたの、ウェンディ? まだ気分が悪い?」
 リリーさんが、私の顔を覗きこむ。

「あ、いいえ。……ちょっとぼんやりしてしまって」

 無理に取り繕うよりも、先ほどの余韻のせいだと振る舞った方が私にとっても楽だと思った。

「そう。無理もないわ。昨夜から、マリベルと一緒に居たなら、ウェンディも疲れているでしょうから。
 あの子も、あれほど取り乱すことは珍しいのだけど、何かあったのかしら。知っている? ウェンディ」

「……いいえ。私が悲鳴を聞いて、彼女の部屋へ着いた時にはあの状況で……、何が起きたのかは分かりません」

 リリーさんから視線を外してそう答えながら、私はグスタフのことを思い出していた。
 マリベルを退去させる彼の企み。何も知らず、それを心から楽しみにしている彼女の純心。昨夜のアドリーヌの死すらも、その一件と無関係ではないだろう。

 だけど、それを口に出す訳にはいかないと思い直す。私は第三者でしかないし、この状況は彼らにとって大切なものを選んだ結果の必然なのだということも分かる。

 ――それに、昨夜、あの部屋で何が起きたのか、私は正しく知っている訳ではない。推測で話をすることはできないもの。

『一つ、良いことを教えてあげようか』

 視線を動かすと、赤い瞳は私のことをまっすぐに射抜くように見ていた。

『マリベルは、グスタフを殺すよ。近いうち、彼がピアノを弾きに来た時にね』


二十三、邂逅

 

 驚いた私を尻目に、ミーリはリリーさんの腕をすり抜けて、床へぴょんと飛び降りた。そしてそのまま振り返ることなくドアの隙間へ向かっていく。

 私が思わず「あっ」と声をあげ、その後を追おうとすると、リリーさんが
「ミーリが、ちゃんとマリベルの部屋へ戻るように連れて行ってくれる? ウェンディ」
 と声を掛けた。

「はい」

 私は振り向いて、リリーさんの方を向き、胸いっぱいの感謝を込めて小さく礼をした。リリーさんは椅子に座ったままで、
「じゃあね。御機嫌よう、ウェンディ」
 と言って、ひらひらと手を振った。 

 ミーリの小さな白い体は、陽が傾き暗闇が色を濃くしていくマズロウマンションの廊下を、すごい速さで駆け抜けていく。
 私は、ミーリを見失わないようにするのが精一杯で、転びそうになりながら、必死にその小さな白い背中を追った。

 どこを、どう走ったのかもわからない。
 ミーリは三階のマリベルの部屋へ向かうのだと何となく思っていた私の予感を裏切って、彼女が立ち止まって私を振り向いたのは、私が訪れたことのない薄暗い部屋の前だった。

 闇は次第に濃くなっているけれど、まだガス灯が灯る時間ではないらしい。薄暗い廊下で私はミーリに追いついた後、しゃがみこんで切れた息を整えなければいけなかった。

「……マリベルの部屋へ、戻らないの」
『その前に、用があるんだ。ウェンディにも関係があるよ。だから連れて来たの』

 ミーリはその小さな白い体を、薄く開いているドアの隙間に滑り込ませる。私は少しの躊躇の後、その重そうなドアの隙間を引き開けた。

「……やあ」

 暗がりの中に人影がある。消えそうになる西日を背にして逆光になったその輪郭は、私が何年もの間、一日も忘れることがなく、そして思い続け、逃げ続けている人のものだった。

 私は驚いてその場に立ち尽くす。伯爵が、こんなところに、居るはずがない。

「ウェンディ、こんなところに居たのかい。奇遇だね」

 ミーリは伯爵へ駆け寄る。そして伯爵の前に立つと、器用に後ろ足で立ち上がり、うやうやしいお辞儀をした。

「伯爵、御無沙汰しております」
「ミーリ。暫くだね。ラースカから代替わりしたのかい」

「ええ。以前にお会いしたのは、大分前になりますね」
「僕は先日、ラースカとお茶を飲んだから、そんな気はしないけどね」

 私は呆気にとられて、ドアを入ったところで彼らのやり取りを呆然と眺めた。

「ウェンディ。扉を閉めてくれないか」

 伯爵はこちらを見ると、まるであのサーカスに行った日、出かける前に私に『羽根付き帽子を取ってくれないか』と言ったのと同じ調子で、私に言った。

 あれはもう何年も前の話になる。
 でも全くあの日と変わらない姿の伯爵に、全く同じ口調で声を掛けられると、私が出奔を決めたあの日が、つい先週のことだったかのような気がしてくる。

 私は慌てて、自分の背後で開けっ放しになっていた木製の扉を閉じた。
 住人の居る部屋とは違い、この部屋はあまり手入れがされていないらしく、扉は軋み声をあげて重々しくその隙間を閉じた。

「――よろしい」

 伯爵は満足げに目を細め、白い手袋を付けた指先でその誇らしげな髭の先を撫でた。あの日と変わらぬ黒い羽根が誇らしく揺れる羽根付き帽子。あれは、伯爵が出かける日にしか被らない盛装用の特別なものだった。

 ――伯爵は、私がここに居ることを見越していたのだろうか。
 ――いつから? 

「本日はこちらにどんなご用向きでいらしたんです」
「リリーに呼ばれたんだ」

 部屋の中央にある円卓に私とミーリと伯爵は、いつのまにか淹れられていた紅茶の器を囲んで座っていた。
 私は目の前の状況に半信半疑のまま、彼らのやりとりを見守っている。ついこの間、見た夢のように。

「リリーに呼ばれて来てみたら、ウェンディ。君が居るから驚いた。こんなところに居るとは思わなかったよ。君は何階で暮らしているんだい」

 伯爵の視線を避けるように、私は目を伏せた。
 彼の問いに素直に答えるのが嫌だ、と強く思う。私の欲しているものが彼からの承認だということを、知られたくない。
 知られてしまったら、私はそれこそ伯爵と二度と会わないと心に決めるかもしれない。

「ウェンディはご機嫌斜めだね。折角会えたっていうのに残念だ」
 伯爵は紅茶の器をすい、とつまみ、丸眼鏡を片側に掛けたその鼻先へと持ち上げる。

「ラプサンスーチョンだね」
「ええ」
「パイプで喫うオリエンタル煙草の味だ」

 伯爵は目を閉じて紅色の立ち上らせる湯気を嗅いだ。私は自分の前に置かれた紅茶の器に目を落とす。両手で器を包むとじわりと熱が掌に伝わった。

「リリーは何て」
「まだ、会っていないんだけれども、僕を呼び出すくらいだから何か困っているのかもしれないね」

 伯爵とミーリの会話を、紅色の水面に視線を落としたままで聞く。

 ――リリーさんは、私が伯爵から逃げていることを、知っていたのだろうか。

 ――そして、私を引き渡すために、伯爵を呼んだのだろうか。

 そうとしか思えなかった。この建物が伯爵と所縁のあるものだったと知っていたら、私はこの建物に入居はしなかっただろう。

 ――リリーさんは、私を疎ましく思っていたんだろうか。

 ぼんやりとした頭で、手にしていた紅茶の器を唇に付けて、一口飲んだ。
 予想していた紅茶のものと異なる味と香りに、私は思わず小さく咳く。

「君の好みではないでしょう」

 涙目になってナフキンで口元を押さえる私に、伯爵はそう言った。
 こんなやりとりは、何十回だって覚えがある。伯爵の家で暮らしていた頃と何も変わらない。こんな時、伯爵は私のことを、穏やかで優しい目で見守っている。その他の時には見せることのない表情で。そんなことすら、私は分かっているのだ。

 咳きこむのが収まると、私は頭がすっきりとしていることに気が付いた。

 ――そうだ、これは現実なんだ。

 驚きすぎて、無意識のうちに、私はこの目の前の状況を自分の夢だと思い込もうとしていたのかもしれない。
 だけど、これは先日のような夢ではないのだと、器を通して感じる熱を掌に確かめる。いかに唐突に不自然に思えても、今、自分の目の前に在るこの状況は、私の過ごしている今日の現在であるということが、不意にまざまざと実感される。

 ――こんなことを、している場合ではない。

 急に頭が明瞭さを取り戻す。そうだ、こんなことをしている場合ではない。

「……ミーリ。さっきの話は、本当なの」

 急に話しかけられたことにミーリは驚いたらしかった。真赤な瞳をくるくると光らせ、私を見る。

「本当だよ。マリベルはグスタフを殺す。そのために邪魔になるアドリーヌを落としたんだ」

「あなたはそれを、阻止したいと思ってる? だから私にその話をしたの?」

 ミーリは考え込むように中空を眺めた。

「阻止、したいのかは、分からないけど。……あの子が、これ以上悲しまないといいなと、思ってる。
 グスタフを殺してもあの子の欲しいものは手に入らないし、マリベルは後になって必ず悲しむから、そうならないと、良いなと思ってる」

 言葉を選んで、慎重に口にしたのが分かる。ミーリは赤い瞳に宿った光で、私のことをまっすぐに見た。

「わたしは、今は元気だけど、三度しか落ちることができないから」
「三度?」

「一度、落ちるごとに、目が潰れるの。ラースカの目が潰れているのをウェンディも見たでしょう」
 私は頷く。

「マリベルに三階から落とされる度に、命を失わない代わりに目を失うの。そして三度目で命を失う。これはずっと引き継がれてきた『決まり』なんだよ」

 ミーリはスンスンと鼻を鳴らした。

「一回ごとに瀕死の傷は受けるわけだから、わたしたちはその度に生命力を失うの。一度落ちたら健康体ではいられないし、二回落ちて両目を失うと前も見えないし、まともに走ることもできなくなる。こうやって、わたしがウェンディをここに連れてこられたのも、まだ一度も落とされてないからなんだよ」

 黙ってミーリの話を聞いていた伯爵は、幾分不機嫌そうな表情で
「全く納得がいかないね」
 と口を挟む。

「本当に理不尽だ。どうして君のような、いや、失礼。
 君たちのような賢明なウサギたちが人間の小娘一人の癇癪のごとに死ななくてはいけないんだ」

 伯爵は横を向いたまま、紅茶のカップを持ち上げて、すいと一口飲みこんだ。

「いいの、それは。『あの人』に命じられたことなんだから、わたしたちはそれがわたしたちに課せられたものなんだって納得してる」

 ミーリがその横顔へ声を掛ける。

「いくら命じられたからって!」
 柄にもなく伯爵が声を荒げた。

「そいつはもうずっと昔に死んだ亡霊だろう? いつまでこの悲劇的な仕組みを続けていくつもりなんだ」

 ミーリは赤い目を伏せた。白い毛が瞼に掛かり、長い睫毛のように見える。

「そんなことを言われたって、そのためだけに、わたしはここに存在してるんだもの」
 ミーリは悲しそうに言った。

 

二十四、真実

 

「実際のところ」
 伯爵は、先ほどの激昂を冗談であったかのように一瞬で消し去り、平静な声で言った。

「きみの言う『あの人』っていうのは、実体がないじゃないか」

 伏せた視線で私たちの顔を一瞥し、その白い手袋の指先でつまんだ葉巻煙草に火を付けた。ジリ、と葉の焼ける匂いが西日の差し込む室内に広がる。

 ミーリを見る。ミーリは下を向いて、テーブルに両手を付いて小さく震えている。

「待って。確かにマズロウさんに会った人は居ないかもしれない。
 だけど、リリーさん曰く、マズロウさんはこの建物自体に宿っているっていうことなんでしょう? 私、この建物の中でそれを信じるに十分な不可思議な出来事は幾つも見たわ。だから、私もマズロウさんがこの建物自体に宿っている主だっていうことを信じる。ミーリを怒らないで」

 思わず口を挟んだ私に、伯爵は驚くような顔をした。
「……ウェンディ」

 私は伯爵の顔を見返すのが怖くて目を逸らした。下を向いたままのミーリの白く小さな背中に手を当てる。震える暖かい体が存在している。

 伯爵の驚いた顔を見て、その面食らった表情を見るのは、私が出奔したあの日、伯爵に向かって初めて逆らった日以来だということに気付く。
 その後、私がどんな場所で伯爵に出くわした時だって、驚くのはいつも私のほうばかりだった。彼はいつも平然と笑みを浮かべ、黒いマントをふわりと揺らして私にうやうやしく礼をして言う。『お迎えに参りましたよ、ウェンディ』と。

 ――そういえば、今回は伯爵にその言葉を言われていない。

「悪かった。君を責めるつもりは毛頭なかったんだ。ミーリ、驚かせてしまったなら謝る」

 ミーリは顔を上げて赤い瞳で伯爵の顔を見て、首を左右に振った。

「違うの。そう言ってくれるのは、嬉しいのだけど。マリベルに与えられているわたしたちウサギの命は、恐らく、マリベルに与えるためだけに用意された消耗品でしかない、ってことなの」

「……どういうことだい」

「マズロウマンションに魔法みたいな力があるとして、不思議な出来事が存在するとして、わたしも、これまでのウサギも、全てその一環でしかないということ。
 マリベルのために用意されて、マリベルが嘆き続ける限り、この場所で彼女の涙を受けとめて、彼女の命が失われないための身代わりになって輪廻していくだけの役割なの。
 一匹につき、三回まで。致命傷を負ってもわたしたちは死なないの。殺されたって死なないと思う。殺されたことはないけど、三階のベランダからは、もう数え切れないほど落ちてるわ。
 だからこれは今に始まったことではないし、マリベルがここに居る限り、これからも終わることのないこの建物の中の必然で、仕方のないことなの。わたしたちはそれを理解していて、わたしも、ラースカもリーフデもケーリクヘットも、マリベルを愛してるからこそ、身代わりを引き受けてるの」

 赤い目をした白いウサギは、今まで一度も口に出したことのないだろう彼らにとっての真実を、慎重に言葉にした。数えきれないほどの回数、瀕死の重傷を負い続けながらも、彼らが身を賭してマリベルを守ることに迷いを持っていないことは明解だった。

 それは彼らの存在意義とでもいうような動かしがたい事実である以上に、彼らがマリベルを愛しているからこそ継続されていく仕組みなのだということを、私と伯爵は初めて意識したように思う。

「……すまない」
 ミーリは頭を振った。

「だから、いいの。わたしたちのことは。わたしたちはマリベルが笑っていればそれでいいの。何も知らないマリベルが、幸せであれば、それでいいの。わたしたちの命や痛みなんて、そのために存在しているものなんだから」

「……では。君たちの言う『あの人』、マズロウ氏は、なぜ身代わりに君たちを用意してまで、マリベルを生かそうとしているのだろうね」

 伯爵は誰に言うともなく、頬杖をついて呟いた。

「この建物の『決まり』で自殺を認めていないということなのだと思ってたわ」
 私が口を挟むと、伯爵は唇の端を引いて薄く笑った。

「それもあるだろう。だけど彼は、そういう人ではなかった。決まりという線を引くことで、本心で願う部分を隠そうとする男だったよ。僕の知るマズロウ氏は」

「マズロウさんのことを知ってるの」
「ああ、昔の知り合いだ。彼がまだ生きている頃のね」

 ――伯爵は、一体いつから生きてるんだろう。
 そう思ってしまうけれど、口には出さないでおく。

 伯爵は紅茶のカップを口に寄せ、髭が濡れないように注意を払いながら、目を伏せてラプサンスーチョンを啜った。もう冷めているだろうと思った紅茶は、注いでから暫くの時間が経っているにも関わらずまだ白い湯気を帯びている。

「……ここに来ると、いつも舌を火傷する」
 伯爵は苦々しく言った。 

「ミーリ。……グスタフがピアノを弾きにマリベルのところに来るのはいつなの」
「明後日の夜だよ」

「ミーリは、マリベルの計画を、一人でも阻止しようと思う?」
「……したいのはやまやまだけど」

 ミーリは鼻を持ち上げてスンスンと鳴らした。

「わたしは何もできないもの。グスタフが死んでしまったら、マリベルが悲しむのは分かってるから何とかしたいけど、どうしたらいいのかは分からない」

 私は黙って伯爵を見た。

「グスタフに、気を付けろと言うのでは駄目なのかい」
「そんなこと言ったら、グスタフはピアノを弾きに行く約束自体を反故にしかねないわ」

「それでいいじゃないか。それで彼の命は救われるんだろう?」
「マリベルは、彼に会う日のために、母親まで殺したんだよ」

 ふむ、と伯爵は鼻を鳴らした。

「マズロウが、なぜマリベルを守っているのかを知るのが先だな」
「どうして?」

「あの男が、命を費やしてまで守っている娘が無意味であるとは思えない。この建物の時間を止めて、保とうとしているのも、自らこの建物に宿っているのも、それら総ての理由はマリベルなのではないかと思えて来たよ。僕にはね」

 伯爵は上着の内ポケットから鎖の付いた懐中時計を取り出した。瑪瑙の細工が施された私も見覚えのあるものだった。

「リリーとの約束の時間だ」
 立てかけていたステッキを取り、伯爵は椅子から立った。

「折角会えて残念だけど、ウェンディ。また会うこともあるでしょう、御機嫌よう」

 そう言うと、伯爵は踵を返して部屋を出た。ゆらゆらと揺れる長い尻尾を、私とミーリは黙って見送った。

二十五、雨音

  

 その日の夜、部屋に帰った私は、ランプを消してベッドに横になっても、全く眠ることが出来なかった。

 頭の中では色んなことが浮かんでは消えていく。

 ――マリベルの計画。
 ――その前に横たわっていたグスタフの企み。

 ――命を賭すことは惜しくないと言うミーリたちの覚悟とマリベルへの愛情。

 ――マズロウ氏がマリベルを守る?
 ――この建物自体がマリベルのために存在する?

 ――この建物と同義と言ってもいいリリーさんの人生。 

 そして、一日も忘れたことのない伯爵が、現れたこと。
 だけど彼は、いつものように私を迎えに来たとは、言わなかったこと。

 そして、『また会うこともあるでしょう』なんて言って、あっさりといなくなってしまったこと。

 伯爵は、私がここに居ることを知ったら、きっと強引にでも連れ戻そうとすると思っていたのだわ。
 思いあがった自惚れと勘違いと恥ずかしさに、じわりと涙が出た。

 うやうやしい挨拶と、気取った立ち振る舞いは全く何も変わっていなかった。だけど、私が子供じみた逃げ回り方をしているうちに、かつては目の色を変えて大切にしてくれた彼の中で私の存在は軽くなってしまっていたということなのだろう。

 そう思うと、肋骨の内側で息が凍るような痛みが鋭く走る。

 ――こんなことを考えている場合じゃない。明後日の夜に迫ったマリベルの計画を、何とかすることを考えないと。

 そう思ってみても、一度生まれた息苦しさは消えない。
 私は眉間に熱と痛みを感じて、暗闇の中で横たわったまま、両の掌で顔を押さえた。瞼を押すと、熱を持った涙で指先が濡れた。

 ――私は、いったいここで、何をしているんだろう。何のためにここにいるんだったかも、何がしたかったのかも、もう思い出せない。

 ――伯爵に、あんな風に身を翻される日が来るなんて、想像だってしたことなかった。

 それは私が、彼に甘えきっていたということなのかもしれないと思う。そしてそう思うほどに、自分の中身のなさを思い知る気がして、恥ずかしく情けなく思えて、私は唇を噛んで泣いた。

 一度、泣いていることを認めてしまうと少し気持ちが楽になる。
 熱を持った涙が頬を伝うのを感じながら、私は唇を噛んで暗闇の中の秒針の音を聞いた。

 ――私は、マリベルをどうしたいのだろう。

 彼女が、グスタフを殺すなんてことなく、私の知っている屈託のない無邪気さで、ここで幸せに日々を過ごしていけたらいいのにと思っている。

 ――グスタフの計画は、

 成功するかどうかは知らないけれど、それでマリベルが満足してこの建物を去るのなら、それでもいい。

 でも、時間を止めているのがマリベルのためだとするならば、マズロウ氏はこの建物の中にマリベルを囲い込んで、手放したくないということなのだろう。
 彼女が順当に年を取って少女ではなくなり、一人前の大人になって老いて死ぬことを良しとしていないからこそ、そんな仕組みを作ったのだと思うと、一本の筋が通るように思う。

 『楽園』は、マズロウ氏がマリベルを見守ることのできる場所という意味、なのかもしれないと思い至る。
 彼とマリベルが、どのような関係性であるのかは分からない。だけどもし、それが正しい可能性があるとするならば、彼とマリベルの間に何か必然的な理由があるに違いないと思う。

 ――リリーさんは、どうして伯爵をここへ呼んだのかしら。

 私を退去させたくて迎えに来させたかもしれない、という考えが頭を過ぎる。

 窓の外では轟き始めた雷鳴と、いつのまにか降り始めた雨が、耳鳴りのような音で世界を埋めている。心臓を直接震わせるような雷鳴は、一閃の光を帯びて、森に囲まれたマズロウマンションの暗闇を照らす。私はそれを、毛布を被って息をひそめて見守った。

 耳鳴りのような雨音は、どんどんと強さを増して、総てを塗り潰していくようだった。軒先から滴る水音は、いつのまにか滝に似た音に代わる。

 私は、頬に伝う涙を掌で拭った。

――泣いている場合じゃない。

 誰かにそんな耳打ちをされたような気がした。

 ――そう、泣いてる場合じゃない。私が今、ここでできることは何かを考えなきゃ。何かが起こってからじゃ遅いのだから。今、ここで何かできること。どんな小さなことでもいいから、それで、マリベルもグスタフもミーリも、その他のウサギたちも、悲しまないで苦しまないで済む道を見つけること。

 伯爵のことを思うのも泣くのも、それが全て何とかなった後でいい。
 もう伯爵は私の前から居なくなってしまったのだから。次に会えるのは、いや、彼は私のことを追うのは諦めたのかもしれない。
 そうだったとしたら、伯爵は私の前にもう二度と現れない可能性だってあるし、そのことも私は理解しておいた方が良いのかもしれない。いざその事実に直面した時に、傷つかなくて済むように。
 その覚悟がすぐにできるとは思わないけど、そのことを事実だと理解しておくことはできる。

 深くひとつ息を吐いて、私はベッドから身を起こした。ランプに火を入れ、ガウンを羽織る。

 窓の外は夜明けにはまだ遠い。雷鳴は身を潜めたものの、耳鳴りのように続く雨音は朝まで止みそうにもなかった。

 ――時間が止まっていようが、関係ない。どんな仕組みがあって、私の知らない誰の思惑が在ったって、関係ない。
 私が今、居るのはここなのだから。ここで、私は、自分のすべきことをするべきなのだわ。

 ――後のことも、今までのことも関係ない。
 私は、私が知る人が不幸な目に遭わないために、きっと今、最善を尽くさなくちゃいけないと思ってる。それでいいんだと思う。

 自分のことを可哀想がる時間なんて、後でいくらでもあるだろう。明後日の夜、グスタフがマリベルの部屋を訪れるまでに、私ができることを探す。それは、今、この状況の下で、私にしかできないことなのかもしれないから。


二十六、願い事

 

 ――マリベルに会おう。

 私が何をするべきか考えた時に、一番に浮かんだのはそこだった。
 ミーリが言う計画を彼女が腹の底に据えているかどうかを、私は自分の目で確かめないと、何もできないと思ったからだ。ミーリの言葉は嘘ではないだろう。だけど、その間に齟齬や誤解がある可能性だってある。
 マリベルの癇癪や気紛れで放った言葉をミーリが真に受けている可能性だってある。

 ――マリベルが、私の知るマリベルでありますように。
 願うともなしに、そんな願いを祈りのように抱いている。

 ――グスタフのピアノの音に目を輝かせる天真爛漫な少女の姿で、私に無邪気に彼のピアノの美しさを教えようとする姿こそが、私の信じたい彼女の姿だった。

 彼女の背景には、何らかの事情があるのかもしれない。
 いや、恐らくあるのだろう。それは伯爵の言うように、この建物、いや、この場所自体の存在の理由に関わるものなのかもしれない。けれど、それは、この際関係のないことだろう。

 私はただ、マリベルが、私の知る愛すべき彼女のまま在ることを信じたい一心だった。

 私は、先日の一件以外では、従来の週に三度の訪問の約束を律儀に守っていた。逆に言ってしまうと、それ以外の時間に、私が彼女に会いに行くことは却って不自然になってしまう状況ではある。

 次の約束は三日後だから、それを待つわけにはいかない。グスタフがマリベルを訪れる前に、私は彼女に会わなくてはいけないのだから。

 まだ暗い窓の外は、夜明けまでの幾分かの時間を示唆していた。何かを行動に移すには半端なこの時間に、私は手土産を作ることを思いつく。

「マリベル?」

 私は籠に焼いたばかりのスコーンを入れ、三階の彼女の部屋の扉を叩いた。少し経って扉の内側でガタガタと音がして、ネグリジェのままのマリベルが扉の隙間から顔を出す。

「……ウェンディ? どうしたの」

「朝ごはんにスコーンを作ったんだけど、作りすぎちゃって。良かったら一緒にどうかしら。この間とは別の、木苺のジャムも持ってきたわ」

 眠そうな表情だったマリベルは、私の言葉に素直に喜びの表情を浮かべた。

「え、嬉しい! この間のスコーンとっても美味しかったし、あたし、木苺のジャム大好きなの。ちょっと待ってて、着替えてくる!」

 そう言ってマリベルは扉の奥へ姿を消した。
 彼女の表情が、変に思いつめたものではなく、私の知っている少女のものであったことに、とりあえず安堵する。

「『あの人』が来るのは?」

「明日! あたしの誕生日をお祝いに『あの人』がピアノを弾きに来てくれるなんて、未だに信じられないの。誕生日はその次の日なんだけど。当日よりも前の日が楽しみで、嬉しすぎて緊張しちゃう」

 私を部屋に招き入れたマリベルは、頬に赤みを浮かべてはにかみながら言った。

 私は、喉元まで出かかった言葉を、飲みこむ。
 彼女に確かめたいことや聞きたいことは幾つも思いつくけれど、私が自ら彼女のこの幸せな表情に水を差すことが憚られるほどに、マリベルは幸せな少女そのものであるように思われた。

 ――数日前に母を失ったとは、とても思えないほどに。

 そう思い出し、背筋に冷たいものが一筋走るのを感じる。

 ふと、視線を逸らすと、その先には、まっすぐ射抜くようにこちらを見上げるミーリの姿が在った。赤い瞳。今日持ってきた木苺のジャムのような。

 マリベルはティーポットから紅茶を注ぐ。最後の一滴までが落ちるのを待ち、静かな表情でその香りを嗅ぐ。幸せに満ち満ちた少女の表情で。数日前の惨劇など、初めから起こらなかったような幸せな少女の表情で。

 私はマリベルにかけるべき言葉を見失っていた。内心での葛藤はあるけれど、彼女の幸せな表情が本心にしろ演技のものであるにしろ、私にはそれを崩せない、という実感が私の胸の中を占めていたと言った方が良いのかもしれない。

「どうしたの、ウェンディ。ぼーっとしてる」
 かけられた声に我に返る。

「……最近、よく眠れないの」
「可哀想」

 籠から出したスコーンは、まだ温かかった。粉が指に着くのを感じながら、私はそれを上下二つに割り、持参した木苺のジャムと、マリベルの用意した生クリームをスプーンに掬ってたっぷりと乗せる。

 スコーンを食べるという、こんなにもありふれた朝食の情景が、私にとって、マリベルの最後の幸せな記憶になるのかもしれないという思いが胸を過ぎる。

 ――本当の妹みたいな、可愛いマリベル。

 例えば、何年かたって、私たちが年を取った後にでも、こんな朝食を笑いあいながら摂れる他愛のない未来が在ったらいいのに。

 そんなことを他意なく思うけれど、そんな簡単な未来すら、この場所では叶わないものなのかもしれない。色んな人が口を合わせて認めるこの場所の魔法というものが、本当に実在するのだとしたら。

『あの娘は、私の知る限り、もう三十年以上は現在の姿のままですよ。ウェンディ』

『あの日、あの部屋に荷物を運び込んだ日から、私の時間は止まった』

『あの部屋はあの日から、時間が止まったの』

 私はそれらの声に耳を塞いだ。彼らが口を揃えて言う魔法なんて、私が気にしなければ気付かないでいられたかもしれないものだ。

 ――愚かでもいいから、私は、自分の目で見たものを信じよう。

青い瞳を揺らして嬉しそうに笑うマリベルを前にして、私はそう静かに心に決めた。

『マリベルは、彼に会う日のために、母親まで殺したんだよ』

『本当だよ。マリベルはグスタフを殺す。そのために邪魔になるアドリーヌを落としたんだ』

 頭の中で耳を塞いでも、最後まで消えない声が一つ残った。

――ミーリは、私にマリベルを、止めて欲しいのね。

 赤い瞳を輝かせるようにこちらを見上げているウサギに私は目を合わせた。

『多分、そうなんだろうね』

――どうやって殺す、とまでは知らないのね。

『うん』

 紅茶を飲みながら、マリベルに視線を送る。マリベルは私の視線に気付いて頬笑みを返した。

 

「良かった、マリベルが元気で。お母様が亡くなったから、悲しんでいるんじゃないかと思って心配してたの」

 これは、私の本心だった。不自然にすら見える彼女の明るい笑顔に対する皮肉も、少し含んでしまったかもしれない。

「あたしは、大丈夫。優しいのね、ウェンディ」
「優しくなんかないわよ。マリベルが悲しんだら悲しいだけよ」

 私の返答に、マリベルは満足した様子だった。頬にはにかみ笑いを滲ませたまま、照れたように横を向く。

 アドリーヌのことに触れたら、マリベルは動揺するのじゃないかと思ったけれど、私の狙いは空振りに終わった。マリベルは幸せな少女の仮面を容易には外そうとはしなかった。

 ――もしかしたら、彼女の幸せな少女の仮面は、彼女自身が仮面だと思っていないのかもしれない。

 

「『あの人』は、ピアノを弾いたら、すぐに帰ってしまうと思う?」
 マリベルに問いかけられて、私はスコーンにジャムを塗る手を止めた。

「お祝いにピアノの演奏をしに来てくれたのだから、そんなことないと思うわよ」
「だったらいいけど。あたし、『あの人』にお願いをしようと思ってるの」

「どんな?」
「……内緒」

 マリベルは目を逸らし、きらきらと輝かせたまま頬に笑いを含んだ。

 

 ふと、五階のピアノ弾きであるグスタフを『あの人』としか呼ばないマリベルは、この建物を建てたマズロウ氏の正体をグスタフと重ねているだろうことを思い出す。

 ――ということは、ミーリの言う『マリベルが殺そうと思っている想い人』とは、グスタフという一人のピアノ弾きの存在ではなく、この建物の中で恒常的に『あの人』と呼ばれ、閉鎖的なこの場を構築し、リリーを従えた建物の主であるマズロウ氏のことを指すのではないかしら。

『あの男が、命を費やしてまで守っている娘が無意味であるとは思えない。この建物の時間を止めて、保とうとしているのも、自らこの建物に宿っているのも、それら総ての理由はマリベルなのではないかと思えてきたよ。僕にはね』

 そうだったとしたら、なんという皮肉だろうと思う。マズロウ氏がマリベルを愛する理由は分からないまでも、この建物がマリベルを守るために存在している、というのは間違いがないと私にも感じられる。

――守られていることに気付かないマリベル。愛されていることに気付かないマリベル。

 これだけものに囲まれていながらも、自分を見てくれないグスタフに執着して、その挙句に母親までを殺し、グスタフ本人までもを殺すのかもしれないマリベル。

 ――でも、それは、私にはどうにもしてあげられない問題だわ。

 私がいかに彼女を大切に思い、愛を注いでも、彼女がそれを受け止めなければ、彼女自身の存在は変わることのないものだろう。
 例えば、私が今、彼女の企みを阻止しようとして、グスタフのことや、この建物の、マズロウ氏やリリーやウサギの秘密を真剣に言って聞かせたって、彼女はそれを話半分に聞き流すだろうと確信する。
 彼女にとっての重大な関心事は、『あの人』と重ねたグスタフが、自分のために時間を取って部屋を訪れる明日の夜に備えること一点だけなのだろうから。

 ――この建物自体が、本当にマズロウさんの魂の宿るものなのだとしたら、彼はこの中で実行に移されるかもしれないマリベルの企みを黙って見守るつもりなのだろうか。

 泣いているマリベルをリリーさんが訪れた時に自動的に外れた扉のチェーンの魔法のような力が、あれがマズロウさんの宿る建物の力なのだとしたら。
 明日の夜にも彼は無言で何かの力を及ぼすのかもしれないと思う。
 あの日のチェーンが外れた時のように、誰にも気付けないほどのさりげなさで、結末を悪くない方へ導いてくれないかと、今、私はこの建物に対して、マズロウさんという会ったこともない人に対して、念じている。それが届くのかどうかは分からないけれど。

「そうだ。あのね、聞いてくれる? ウェンディ」
「なあに?」

「あのね、あたしね、明日の夜に『あの人』に弾いて貰う曲をね、決めたの」
 マリベルは上目遣いのきらきらと澄んだ瞳で私を見上げた。

「色々考えたの。だけど、あたしが名前を知ってる曲って、全然なくって。それで、やっぱり、ウェンディが教えてくれたトロイメライにしようと思ったの。
 ウェンディが居なかったら、あたしが名前を知ることはなかったし、『あの人』に弾いて欲しいって、お願いすることも出来なかった曲だから、特別だって思ったの」

 そう言ってマリベルは、頬に喜びを溢れさせたまま、うっとりと私を見る。

「月夜の空気に甘く溶けていくトロイメライを、あの人が目の前で弾いてくれるとしたら、あの甘い匂いのする月夜の空気が生まれる場所を、自分の目の前で見ることが出来たとしたら、あたし、本当に死んでもいいって思ってるの」


二十七、マリベルの誕生日前夜

 

 呆気ないほど簡単に、その日は訪れた。
 廊下で出会ったグスタフに、私は今夜の件を忠告するかどうかを迷った。

「何が起こるか分からないから、十分に気を付けて」
 不確かなことしか言えない私が彼に伝えることが出来たのは、その一言だけだった。

 彼は闊達に笑って、
「大丈夫ですよ」
 と答えた。

 その日のグスタフは、いつものよれた白いシャツではなく、アイロンの当てられたシャツに黒いベストを重ねていた。
 髪もきちんと整えられ、サンダルではなく磨かれた革靴を履き、銀縁の眼鏡をかけている様は、まるでオーケストラを前に胸を張るピアニストのものであるかのように立派に見えた。

 ――彼はかつて、このような姿で人前に立つ芸術家だったんだな。

 今まで知識として知っていたことが、その姿に裏付けられたような気持ちがして、私は新鮮な気持ちで彼の姿を眺めた。

「今日は、なんだか立派ですね」
 グスタフは照れたように俯いて笑う。

「女の子一人にとはいえ、演奏を頼まれた日は、ちゃんとしないとと思いましてね。リボンタイなんて、何十年ぶりに結びましたよ」

 そう言ってグスタフは、彼の胸元に結ばれた細い蝶々結びを摘まんで見せた。

 グスタフの背中を廊下に見送り、私は結局、何もできなかったのだということを噛み締めながら、この会話が彼との最後のものにならないことを祈った。

 離れた場所で、今日これから起きることを、いくら案じてみたって、私が無力なことには違いがなかった。
 一刻ずつ切り刻む秒針の音に急かされるように、だけど何をしていいのか全く分からず、途方に暮れた私が自室で狼狽えていた夕刻に、外では雷鳴の響きがくぐもり始めた。今夜は雨になるのかもしれない。マリベルの夢見たような素晴らしい月夜は訪れなかったということだ。

 ――そのことをマリベルが悲観しませんように。

 窓の外が月夜でなかったとしても。
 豪雨の夜でも、雷雨の下でも、マリベルが夢見たグスタフのピアノは、きっと美しい音色を奏でるだろう。
 それをマリベルが心の底までの幸せを持って受け止められますように。彼女の内心に殺意がもし潜んでいたとしても、それが嘘のように消えてしまいますように。

――グスタフの企みは失敗するのかもしれない。

 これは、私が以前から薄々感じていたことだった。
 マリベルは目の前でいかにグスタフが思い通りの夢を叶えてくれたとしても、心から充足することは恐らくないだろう。
 グスタフに必要とされ、愛されている実感が得られない限り、一日限りの我儘が叶ったところで、彼女の何十年もの重積した執着にも近い一方通行の憧れや愛情は消えるとは到底思えない。

――今夜が無事に、マリベルが美しく幸せな誕生日を迎える夜として、終わりますように。

 私が今、心から願っていることはその一つだけだった。

 窓の外の雨音は、夕方の闇が色を濃くするにつれて強まっていった。
 耳鳴りに似たさざめきは移り変わり、世界を支配し、この場所を隔絶させる暗闇に加えたもう一つの重すぎるカーテンになる。
 多少の物音は全てこの雨音の中に閉じ込められ、掻き消されてしまうだろう。そんなことを、覚悟を決めるような気持ちで思う。

 私はただ、見守ることしかできない。グスタフの無事を、マリベルの幸せを、今夜が穏やかに終わることを祈って、ここで待つことしかできない。無関係な傍観者というものはそういうものだ。

 ――もし、今夜が何事もなく終わり、マリベルが彼女の誕生日を幸せに迎えることが出来たら、私は明日の朝、可愛いケーキを焼いて、マリベルの誕生日をお祝いしにいってあげよう。

 マリベルが生まれた日。
 時間が止まっていようが、彼女が何年生きていようが、私はマリベルを可愛く愛おしい妹のように思っているし、この場所で出会えたことを嬉しく思っているのだから、それを愛情いっぱいに伝えてあげよう。

 彼女の求める愛情は、私からのものではないのは承知しているけれど、それでも嬉しく思ってくれるはずだと信じたい。
 マリベルが存在していることを大事に思って愛しているということを、――それは私だけに限った話ではないのだろうけれど、マリベルが知って、彼女の渇望が癒える一片の理由になればいいと思う。

 私がケーキを焼く準備をしている時、いつの間にか開いていた扉の隙間からミーリが顔を出した。

「ミーリ」

 ミーリの瞳は赤く光を宿して輝いていた。まだミーリが一度も落下していないことを知り、私は内心で安堵する。

「どうしてここに居るの」
『時間がないんだ、ウェンディ』

 そう言うとミーリは、その場から身を翻し、一度こちらを振り向いたかと思うと、薄暗い廊下へ向かって駆け出した。

 壁に掛けられた時計を見る。夜の八時。
――グスタフはもうマリベルの部屋を訪れている時間だ。

 何かが起こったのかもしれないという、ただならぬ不安が暗雲のようにどす黒く胸を染めるのを感じた。

 

二十八、退去

 

 ガス灯の光が音もなく揺れている三階の廊下は、不自然なほどに静まり返っていた。
 人の気配もなく、もう何十年も誰も訪れていない廃墟であるかのように、暗闇を滲ませている。

 ミーリはマリベルの部屋の扉の前で、力なく蹲っていた。
「ミーリ?」

 先ほどまで、全力で廊下を駆け抜けたウサギとは思えないその身動き一つしない背中に、私は恐る恐る手を伸ばす。

 返事はなかった。

 手を伸ばして触った毛皮は柔らかかったけれども、その体に反応はない。私はその脱力した体を持ち上げて腕に抱いた。

 扉の前に立ち、耳を澄ませてみたけれど、室内からはピアノの音も話し声も聞こえてこなかった。抱き上げたミーリは、力なくその体を私の腕にぶら下げている。

私はひとつ息を飲んで、その扉を引き開けた。

室内は明るかった。部屋の真ん中には、男性が一人、力なく佇んでいる。

「……グスタフ」
 私が背後から声を掛けると、その後ろ姿はこちらへ振り向いた。

「ウェンディ、……どうしてここへ」
「ミーリに呼ばれたの」

 腕に抱いている白いウサギに視線を落として言うと、グスタフは力なく息を吐いた。それは何かを観念した時の仕草のように見えた。

 私はこの部屋で、何かが既に起きたことを悟った。しかし、グスタフは生きている。怪我もしていないらしい。

 姿が見えないマリベルのことが気になった。

「……マリベルは?」

 グスタフへ視線を戻すと、彼は俯いて右手で顔を覆い、力なく首を左右に振った。掌の下で、歯を食いしばるのが見える。

 その仕草が、何を意味するものなのかは、いくら鈍感な私にも分かった。だけど、予想もしていなかったその事実を受け止めたくない気持ちで、私はその意味が理解できなかった。

 食いしばった口から嗚咽が漏れる。背の高いグスタフが、大人の男性が声を殺して泣いている。

 大人の男性が声を殺して泣いているところを、私は初めて目にした。その姿に戸惑いを覚えながらも、私は彼に訊かなければいけないと思った。

「……マリベルは?」

 グスタフは大きく息を吐いた。瞼を乱暴に指先で拭い、私に視線を返すと、彼は静かな声で言った。

「マリベルは死んだよ。……僕が殺したんだ」

 彼の指差した先には、雨に沈められた中庭の中空があった。私はベランダへ駆け寄った。暗くて何も見えないけれど、間違いないと確信する。アドリーヌが落ちた夜。あの日の記憶がまざまざと蘇り、私は両の腕から首に冷たい寒気が駆け上がるのを感じた。

 

「嘘でしょう」

 駆け寄ってベランダ越しに見下ろした先には、マリベルと思われる白いワンピースを着た少女が倒れている。

「……嘘じゃないさ」

 私はグスタフの言葉に返答しなかった。一刻も早くマリベルの元へ行かなくては。まだ息があるかもしれない。

 アドリーヌの時のように、一階の住人に、マリベルの体を食い荒らされることは絶対にさせてはいけないと思った。

 グスタフから伸ばされた手をちぎるように振り払い、胸に抱いていたミーリの体を抱えたままで、私は一階へ続く階段を目指して走った。

 私が息を切らせて階段を駆け下りた時には、まだマリベルの体は一階の住人の餌食にはなっていなかった。
 でも、一刻の猶予もない。私は彼女の白いワンピースを着て俯せに横たわったままの体がまだ命を宿していることを祈りながら、彼女の元へ駆け寄った。

「マリベル!」

 ミーリを中庭の土の上に静かに下ろし、マリベルの体を抱き抱える。真っ白なワンピースは雨を吸った泥と、彼女が頭から流した血で汚れていた。

「マリベル、マリベル」
 名前を呼びながら、頬を叩く。力なく横たえられた体はまだ温かい。

「マリベル」
 微かに睫毛が揺れた。うっすらと顔を顰める彼女に、私は安堵と喜びを込めて再度名前を呼んだ。

「マリベル、……良かった」
「……ウェンディ」

 マリベルの声を聴くと、安堵のために涙が出た。
「……リリーさん」

 続けて呟かれたマリベルの声に驚いて視線を上げると、気付かぬうちに、私たちを見下ろすようにリリーさんが立っていた。

 リリーさんはマリベルの声に反応しない。いつも身にまとっている濃灰色のワンピースは叩き付ける雨に濡れて真黒に染まり、彼女が被ったベールの色と同じ色に滲んでいる。

 ――何か、恐ろしさのようなものを感じた。恐怖に囚われた時の身を凍らせる冷たさが、音もなく、確実に私の内部を侵食している。

「リリーさん、あたしを殺して」

 マリベルは私を通り越した先に居るリリーさんに視線を送り、力ない声でそう言った。

「……何を、言ってるの。マリベル」

 私の膝に抱えられたままのマリベルは、何かを言おうと唇を微かに動かした。声にならない声。掻き消されてしまう豪雨の下で、私は彼女の体をもう一度強く抱きしめた。

「それが、あなたの願いなのね、マリベル」

 聞いたことのないほど冷たい声が、雨音と共に上から降ってきた。それがリリーさんのものだと、私は信じたくなかった。

 うっすらと開けた瞼の奥の青く潤んだ瞳で、マリベルはその声に応えた。

「いいわ、マリベル。あなたの願いを叶えましょう」

 その時、一階の窓の奥で複数の気配が動いた。黒い獣。餓えて獰猛な、死肉すら食い荒らす獣の存在を、私は思い出して身を凍らせる。このままではマリベルもリリーさんも一緒に奴らに襲われてしまう。

 私はマリベルの体を抱き上げて逃げようと身を起こした。リリーさんが右手を、蠢きだした黒い影に向かって掲げる。

 ぐっ、と苦痛に呻く声がした。中庭に広がり始めた黒い影は、そのうちの一つがのた打ち回る様を取り囲んで見ていた。

 私はマリベルを胸に抱いて立ち上がろうとしたままの姿勢でそれを見た。一匹が苦しみ始めて倒れ、また一匹が苦しみに悶えて倒れ……、それを取り巻いて見ていた黒い影は恐怖に怯えた様子で彼らの住居へ逃げ込んでいく。

 リリーさんは彼らに向けていた指先をゆっくりと下ろした。その向こう側には、苦しみに倒れた複数の黒い影の残骸が転がっていた。死んだように動かないそれらを見て、私は彼らが命を失っていることを悟った。

 私は言葉を失って、リリーさんを見上げた。何をしたの、と問いたい気持ちはあったけれど、リリーさんが何をしたのかということは、私が今見ていた通りのことであるには間違いない。

「……邪魔が入ったわね」
 ベールの下から、リリーさんの声が冷たく響く。

 

「……グスタフに、頼んだのね」
 雨音の中で、静寂を取り戻した中庭に、リリーさんの声が静かに存在した。

 マリベルは小さく頷く。

 私は信じられない気持ちで、しかし、目の前に横たわるマリベルを見て、それが否定できない現実なのだということを知った。

「どうして」

「……グスタフに放り投げられるピアノが、羨ましかったの。その気持ちを知りたくて、何度もウサギを放り投げたけど、放り投げるものはやっぱり一番大事なものなんだって、投げる度に後悔した。放り投げられる瞬間だけでいいから、あたしはグスタフの一番大事なものに、なりたかったの」

「何を、莫迦な……」
 思わず言葉を遮った私を、リリーさんは右手で制止した。

「人の願うものなんてそんなものよ。そして、この場所では、それがどんなに愚かに見えるものでも、何よりも尊重されるわ」

「……三階から投げたって、ウサギたちは死ななかったから、こんなに痛いんだって知らなかったの。……ごめんね」

 ゆっくりと指を伸ばして、マリベルは地面に横たわるミーリに触れる。
「その子はもう死んでるわ。あなたの代わりになったのよ」

 マリベルは小さく息を飲んでから、「そうだったの、……今までも?」と口の中で呟いた。

「あなたが死を願うなら、私はそれを聞き届けるわ。『あの人』が築き、その中であなたを大事に見守っていたのが、このマズロウマンションの存在だけど、マリベル、あなた自身の願いを蔑ろにする訳にはいかないもの。管理人として、退去を受け入れましょう」

 息を飲んで黒に身を包んだリリーさんの姿を見上げる。
 ――これでは、まるで、リリーさんは、死神みたいじゃない。

「だけどね、マリベル。最後に聞いて。苦しいだろうけど」
 私の膝の上で、マリベルが視線を浮かすのを感じた。

「あなたはね、何十年も愛を求めていたでしょう。本当に手に入らなかったの」

 マリベルが息と共に声にならない言葉を吐く。
「……じゃあね、マリベル。左様なら。御機嫌よう」

 リリーさんは腕を掲げたと思うと、マリベルの瞼を上から下へと撫でた。私の膝に掛かる重さが、だらりと脱力する。

 

二十九、理由

 

 雨の音に閉じ込められた中庭に、言葉を失った私と、リリーさんと、マリベルの遺体が残された。

 リリーさんがマリベルの命を吸い取るところを、私は、今、目の前で見ていた。

「怖がらなくていいわ、ウェンディ」

 リリーさんは、先ほどまでとは違う穏やかな、私の知るリリーさんの声で、私に声を掛けた。

「マリベルの体を運ぶのを、手伝ってくれるかしら」
 私は呆気にとられたまま、頷く。

 力なく垂れ下がるままのマリベルの体をエレベータに乗せ、リリーさんは白く乾いた指で六階へのボタンを押した。

「馬鹿な娘ね。誰に愛されているか、誰を悲しませるのかなんて、考えたこともなかったのね」

 私は返す言葉を見つけられず、俯いて床を眺めた。ずぶ濡れだった私たちの足元の床は濡れも汚れもしていないことに気付く。

 不意にグスタフのことが思い出された。
「あの、グスタフは」

「彼は不運だったわね」
「……不運」

「この娘に慕われたことも、こんな役回りを押し付けられたことも。
 マリベルに願い事をされた時も、彼はやりたくてやったんじゃないわ。ただ、願いというものが何より強く意味を持つ、この場所の力に踊らされてしまっただけなの。可哀想な人だわ。今、一人で自責に苦しんでいることもね」

 リリーさんは、本当にこの建物の中のことは全て見通しているのだということを、改めて知る。

「一つ忠告しておくわ、ウェンディ。この建物が崩れるのは時間の問題よ。部屋を出る準備をなさいね」

 キンコーンと到着を知らせるベルが鳴り、エレベータはボタンを押していなかった四階へと軋む音を立てて到着した。

 四階の廊下に降りた私の背後で、マリベルとリリーさんを乗せたエレベータが閉まる音がした。それに続いて、ぐいいいんと機械の動く音を私は背中越しに聞いた。

 すっかりと闇に沈んだ四階の廊下に、静寂が訪れる。

 ガス灯の炎が揺れる。

 

 先ほどまでの、一部始終が信じられないままに、私は自室の扉を引いた。ガス灯の明かりに照らされて、猫目の伯爵がこちらに向かって顔を上げるのが見えた。

 

「やあ、ウェンディ」
 入り口に立ち尽くす私に向かって、伯爵は座っていた椅子から立ち上がり、見覚えのある仰々しさで優雅にお辞儀をした。

「何を驚いているんだい? また会うこともある、と先日言ったばかりでしょう」

 耳慣れた声と、皮肉っぽい口調を、私は確かめるように聞いた。
 聞き間違いをしようもない懐かしい声と、何度思ったかしれない存在と、そしてもう私に興味を失ったのだと思って泣いた伯爵が、私の部屋に居るということ。

 驚きながらも、私はそれを信じてもいい現実なのだと、確かめたかったのだと思う。
 伯爵の姿を見て、声を聴いて、私の頭が作り出した幻ではないと、信じる自信がなかったのかもしれない。

「どうしたんだい、不思議なものを見るような顔をして」

 伯爵は静かな足取りでこちらへ向かって歩んでくる。そして白い手袋の手を伸ばし、私の頬へと触れた。

 頬に触る感触と、久しぶりに嗅ぐその香水の匂いを確かめると、一度に力が抜けてしまい、私は床へと崩れるように座り込んでしまった。

 その腕を伯爵が手慣れた様子で引く。
「疲れたんだね、ウェンディ」

 私はその声を白い靄がかった視界の中で遠くに聞いた。

「……ええ、そうですの……伯爵には御足労願って」

「いいえ、構いませんよ。丁度良かった」

「あんなことになるとは……私めも油断しておりましたわ」

「人間を一所で飼い慣らすというものは業が深いものですから」

「……そうですわね」

「で、マズロウは……」

「あの娘が居なくなってしまったからには、この建物に宿る理由もなくなりましたもの。……早晩、この場所は主を失って崩れることになるかと」

「……それは穏やかじゃないな。リリー、君が一人でこの場所を守るのはどうだい」

「私にとっての理由も、もうありませんわ。あの娘も、マズロウも居ないこの場所で、これ以上、時を止めている所業は私には荷が重すぎます」

「そうかもしれないね。君はよくやったよ。マズロウに良く尽くしてくれた。友人として礼を言おう」

「……結局私は、人間として生きた時代に、産めなかった娘や、叶えられなかったマズロウと共に生きる未来のようなものを、この場所で守りたかったんだと思いますの。あの娘が死んで、やっと自分が願ってきたものが分かったように思います」

「あの時代では仕方がないさ。あの男も君を愛していたけれど、身分という足枷は絶対的なものであったからね」

「このような結末になってしまったけれど、これで正しかったんだと思います。私たちが愛した娘が、願ったことに違いはありませんから」

「あの娘は、不幸な娘だったね。自分が満たされない理由を他人にばかり求めることに気付かなかったばかりに」

「……ええ、本当に。でもそれは他人に教えられて知ることではありませんから」

「まあ、そうだね。……ウサギたちも本望だったのかもしれないな」

 

 私がベッドから身を起こすと、テーブルで差向かっていた伯爵とリリーさんの会話が止まった。

「お目覚めかな、ウェンディ」

 ぼんやりしたままの頭で頷くと、リリーさんが「お邪魔してしまってごめんなさいね」と言った。

 お構いなく、と言うつもりで視線を上げると、リリーさんは既に席を立ち、「ウェンディ、それじゃあ元気でね」と私に手を振って部屋を出て行ってしまった。

 リリーさんに軽やかなお辞儀をして、その姿を見送った伯爵は、こちらへ向き直って言った。

「さあ、ウェンディ。荷造りをなさい。三時には迎えの馬車が来る」

 急かされるままに、私は身の回りのものを旅行鞄へと詰め始めた。
 もともと鞄一つでこの部屋に越してきたのだから、纏めるべき荷物もそれほどは多くない。

 目につく荷物を鞄に纏めてしまうと、あっという間に私の部屋だった四階の一室は、私を迎えた時の空室と変わらぬ様子になってしまった。私が自分の居場所だと信じたこの場所も、こんなに簡単に、私の居るべき場所ではなくなってしまうものなのだと、他人事のように驚いてしまう。

 恒例の『お迎えにあがりましたよ、ウェンディ』という儀式は結局なかった。けれど、私は伯爵が当然のものとして、私を連れて家へ帰ろうとしているという振舞いが嬉しくて、伯爵の促しに素直に従ってみてもいいと思った。

もし、何か言おうとしたとしても、却って不自然さに鼻白んでしまうだろう。一緒に居るということを当然のものとして扱ってもらえることが、ひどく懐かしく、胸の中で暖かく思われて、それを私は大切にしたかった。

 日光が、咲き誇る薔薇の上に明るく降り注いで輝いている中庭を横切る時に、上階から軽快で優美なピアノの音が漏れ聞こえてきた。

「ワルツ・ブリランテとは、このような天気の日に相応しい曲だね」
 足を止めた私に、数歩先で立ち止まって振り返った伯爵が言う。

 ――グスタフだわ。

 昨夜の、顔面を蒼白にした彼の横顔を思い出す。あの人は、いい人だった。腕を振り払ったままの別れではなく、ちゃんと挨拶をして別れを言いたい。けれど、私は五階に上ることは叶わないんだということを改めて思い出す。

 ――彼は、この場所が崩れていくということを聞いたとしても、この場所を出る気はないのだろう。その最後の一瞬まで、こうやってピアノを弾いているだろう人だった。

 白髪交じりの髪の毛と、よれた白いシャツの長身のピアニスト、グスタフ。彼は、私の友人だったと言ってもいいのかもしれない。

「どうかしたかい」
 伯爵に声を掛けられて、我に返る。

「なんでもないの」
 私が一人で頬に笑いを浮かべていると、伯爵は不思議な顔をしてこちらを見た。

『一、    上の飛び降りを受け止めろ』

『二、    隣には花束を贈れ』

『三、    下の眼差しを忘れるな』

『四、    良き日々を』

 

 汽車が駅を発車して、向かい合わせの席に座って窓の外を眺めている時、不意に伯爵が思い出すように小声で歌った。

「……なあに、それ」
「マズロウがよく歌っていた古い歌だよ」

「ふうん」
「あの男は、変わった奴だったな。人間のくせに僕と友達になったなんて」

「その頃から、伯爵は今の姿なの」

「そうだね、僕は何も変わらない。……ウェンディ、君は少し表情が柔らかくなった。暫く見ない間に」

 伯爵にそんなことを言われるとは思っていなかった。私は恥ずかしくなって横を向く。

 

 時間が止まったあの場所で、マリベルは何十年も少女を続けていた。その同じ場所に居たはずなのに、私は口に出して指摘したくなるほどに、印象が変わったのだろうか。

 それが事実であっても、事実でなかったとしても、私の中に変化があったことは、間違いないのかもしれない。

 あの場所で出会った人たち。見た情景。思ったこと。感じたこと。信じたこと。祈ったこと。
 全てが過去になってしまった今になって考えれば、私があの場所で過ごした時間はほんの数カ月の間だったけれど、マズロウマンションの四階で暮らした日々を、私はずっと憶えているような気がした。

 

「ねえ。伯爵は、リリーさんにどうして呼ばれたの」
「……ウェンディを迎えに行ったに決まっているじゃないか」

「嘘。私が居て驚いていたもの」
「……マズロウの、彼の書斎の本を整理したいからと呼ばれたんだよ。貸した本を返してもらう約束もしたままになっていたから、丁度いいと思ってね」

 伯爵は窓に頬杖をついたまま独り言のように言った。
「じゃあ、リリーさんのことも昔から知っていたの」
「ああ、うん」

「どうして、リリーさんは黒いベールを被っているの。私、一度も外したところを見なかったわ」

 伯爵は驚いたような顔をして頬杖を解き、こちらを見る。

「どうしてって。……君はあの建物に住んでいたのに、リリーが首なしだということを知らなかったというのかい?」

 


■原曲歌詞

◇マズロウマンション

https://rocklyric.jp/lyric.php?sid=145730

◇Room612

https://rocklyric.jp/lyric.php?sid=145731

◇愛は死なずに3度落ちる

https://rocklyric.jp/lyric.php?sid=145983

◇猫目の伯爵ウェンディに恋をする

https://rocklyric.jp/lyric.php?sid=152957


◇各言語での「愛」

デンマーク語: kærlighed(ケーリクヘット)
オランダ語: liefde(リーフデ)
チェコ語: láska(ラースカ)
プロシア語: mīli(ミーリ)
引用元

◇シューマン トロイメライ

◇ショパン ワルツ・ブリランテ


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?