ドミノ倒し

果てしなく白い部屋。この部屋の白さを俺は知らない。木の音が少しずつ響く。小さな板を沢山、等間隔に並べて、最初か最後の一枚を倒す。すると倒れた先にある次の一枚がバランスを保てずに次の一枚に向かって倒れる。こんなふうに最後の一枚まで繰り返す、なんてひどく単純なルールを全うすることだけがここにはある。

初めはなんてことない作業だった。暇つぶしだとか、安心だとか、あるいは解放だとか。コップになみなみ注がれた水を運ぶときみたいな緊張感で指が強張る。指の温度が嫌に冷たく、熱い感覚。焦燥、嫌気、興奮。体にかかる負荷が感情に起因していることを俺は分かっていた。一度腰を挙げて、深く息を吸う。一触即発の最前線を果てしなく凌ぐ。あとどれくらいこれを続けたらいいのか、俺には分からない。

どこからか、幽かな風が吹いた。咄嗟に止めた呼吸とは裏腹に小さな板が静かに揺れる。ゆったりとしたやわらかい風は、俺を馬鹿にするみたいに肌を滑って、それから何処かへ行く。やがて小さな板の揺れは止まり、無機質さを主張するような沈黙を取り戻す。何気ない風の一つがこれまでの全てを奪い去ってしまう。そんなイメージが頭に浮かぶ。少しの風で揺れてしまう小さな板を前にして、呼吸に気を遣う。どんなふうに息を吐いたらいいのか、迷ってしまった。ゆっくりと吐いた息は吸う息よりも重い。

やわらかく流れる時間は強かさを秘めていて、それにはどうしたって関与できない。目を離した隙に全て消えてなくなってしまうかもしれない、なんて、疑う余地のないことを疑わないでいられることが怖くなった。並べた一列に目をやる。いつしか募った疲労感が理性に差し障る。一度感じてしまえば、二酸化炭素が逃げ出す炭酸飲料みたいに溢れてくる。俺は機械みたいな正確さを望んだ。指先は次第に木の感触に慣れてバランス感覚をも覚える。その繊細さは神経を逆撫でる。

木の断面に指先が降れた。直前に置いた一枚がバランスを崩した。意図していない指先の動作に瞳孔が開く。一枚目がバランスを崩して一つ隣の板に凭れる。重さを受け取った次の板はまたその隣へ重さを渡す。止めなければ、と咄嗟に立ち上がりその連鎖の先へ急ぐが連鎖の先頭は疾うに手の届く範囲の先にある。その光景はまるで不可逆みたいに思えた。勢いを増した小さな板同士のぶつかる音が響く。連続する音に共鳴するみたいに鼓動が速くなる。それは俺を追いかけてくるようにも聞こえる。立ち上がって上から見る、こうも秩序だった長蛇の列は次第に乱れて、遠ざかっていく。

ほんの小さな衝撃で今までが烏有に帰す。だけれど、これは倒すことを目的としていたはずだった。自らの手でその最後を見届けることは義務であって、その最後はきっと俺には決められないとどこか思っていた。だから正しい。その瞬間に思考が追い付かなかっただけだ。必要なのは惰性を打ち切る決断だけだった。この時間に意味がなくて本当に良かった。そのことを足元の光景が雄弁に語る。

白い部屋には乱れた一列があった。薄く小さな板は重力を奪い合うように寝そべっている。二枚目の板の下敷きになった始めの一枚を引き抜いてもう一度立てた。この行為の終わりが時間によって決まることがどうしても残念だと思った。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?