由無し事

水槽の中で深く息を吸った彼女は、まさしく水を得た”魚”だった。朽ちた水族館で2人きり。持っていたライトだけが四角く閉ざされた水を青白く照らす。
「マーメイド・スクリーム」より

焦げた匂いがした。そうして思い出すのは、キッチンでの最後の記憶ではなく、幼いころの僕とその母親だった。かつての僕が、料理をすると意気込んで、近くで母に見守られながら焦がした鍋の中身は父親が美味しそうに平らげたんだ。
「スープ」より

タバコなんて吸わないつもりでいた。だけれど、ハタチになってすぐにこんな有様だ。なんでかと聞かれても大した答えはない。ただ、怒られたとか、振られたとか。言うなれば、重なったフラストレーションに火を付けたかったんだ。
「燻らし暮らし」より

喉から吐き出される湿った空気の音。慣れてしまえばどうってことないのだけれど、それでも耳に届く溜息は気持ちのいい物ではない。公園に誘っても彼女の腰には根が張っているようで、その誘いには応じてはくれない。
「二酸化炭素で満たして」より

人情なんていうのは、あってないようなものでございます。だってそうでしょう。彼がこんなところで独りぼっち。悲しさのあまり涙にくれ、あまつさえみすぼらしい身なりでこんなところにいることを、そうでなくてどうして説明できましょうか。
「情と金と」より

髭をそって着替えた後、コップに水を注いで一口だけ口に含んであとは捨てた。口に含んだ水も吐き出して、靴下を履いた。きっと今日も職場に溶ける悪意に僕は溺れることになる。
「不文律水溶液」より

久しく声を出していなかったような気がする。現代は家から出ずとも、人と会わずとも、生活することができる。AIに仕事がとられるだなんて騒がれたこともあったが、インターネットの奥にはまだ足りないニーズが沢山ある。ここで僕は満たされているはずだった。
「人口植物」より

心配されることに負い目を感じてからは努めて明るいフリをしていた。しかし心配されないために必要なことは休んでいるフリであると知ったのはつい最近のことだ。
「排斥」より

「事実は小説より奇なりって言葉もあるけど、そりゃあ出来過ぎた話しは面白くないよ。だから誰も書かない。偶然ばかりの話よりも嘘の方が面白いんだ。嘘つきってのはさ、エンターテイナーなんだよ。」
「サンタ」より

好きかどうかで言えば無論好きではあったけれど、それは恋心と呼ぶにはいささかの義務感は否めなかった。まるで家族のように、その関係であって然るべきであり感情との兼ね合いは相容れないような、そんなニュアンスがあった。
「恋、あるいは」より

うるさかったんだ。ずっとこうだったから気が付かなかった。掃除機の音が止んだような静けさがあって、その空白を埋めるみたいに不安が流れ込む。耳がフワフワする。耳を澄ますと風の音だけが聞こえてきた。
「耳芥」より

大きな湖の岸辺で一匹の鴨が子供が欲しいと悩んでいました。卵から孵化したことを思い出した鴨は、それはそれは綺麗な卵を産みました。
「可も無く不可も無く」より

天気予報は正しいことを言っていた。梅雨も来ていないのに気温がみるみる上がっていく。ジメジメした空気を纏い、拭いきれない不快感に嫌気がさす。隣の彼はもう夏だと言った。その言葉に思わず同意したが、しかし、植物も星空も本来の季節に準じていた。
「季節柄」より


#架空小説書き出し

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