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Cat in the Flow

 雨の日だった。彼がそのぐしょ濡れた段ボールを見つけたのは、うらぶれた地下鉄駅の階段をのぼってすぐの、ぼうぼうの灌木の下だった。傘をさすと強い風に煽られて留め具がばたばた鳴った。冷たい雨と混ざった風が彼の長い前髪を凶暴に濡らした。
 その段ボールは微かに鳴いていた。いや、鳴いていたというのは多少恣意的な捉え方かもしれない。その段ボールからは何かが軋んだような微かな音が、キシキシと途切れ途切れに聞こえていた。彼は傘の柄を肩と首の間に引っ掛けると、そのぐしょ濡れのカタマリを持ち上げた。中の物体は確かに猫だった。しかし、そいつは猫というよりは、雑巾みたいに見えた。掃除当番の小学生が使っているような、薄汚れた雑巾。彼はブレザーのポケットからハンカチを取り出して、猫に被せた。猫は相変わらず音を立てていた。少年は傘を段ボールにかざして、最寄駅にしてはいくぶん長い帰路を辿った。
 彼の住居は、薄茶色の壁のアパートの3階だった。家族は母親ひとりだけ。けれども時々、彼女を世話をする彼氏が家に出入りしていた。彼氏は時々で変わった。彼とうまく折り合いをつけてやっていけたのもいるし、やっていけなかったのもいる。今の奴はまあうまくやっている方だと彼は考えている。けれども勿論、顔を合わせたいとは思っていなかった。彼は父親の顔をよく思い出せない。どこかで暮らしていて、毎月なけなしの養育費が送られてくるだけだ。
 彼は家の鍵を開けて、玄関に男ものの靴が並んでいないことを確認すると、少し安心した。母親の姿は見えなかった。彼はバスルームの方へ行って、2枚しかない彼のタオルのうち1枚を取ってきた。自分の部屋の隅にタオルを敷いて、その上に段ボールを乗せた。猫は高い声で呻き続けていた。彼はハンカチで猫の顔を拭った。その後でキッチンに向かい、汚れたフライパンやスープの残ったカップ麺の容器をシンクに押しやると、小鍋に水を温めた。適当なペットボトルを濯いでお湯を注ぎ、タオルで包んで猫の段ボールの中に入れた。
 ドアの開く音がした。リビングに母親が出てきたらしい。冷蔵庫を開く音が聞こえ、そしてプシュ、と缶を開ける音が聞こえた。彼はその音を聞くたびに、それについて何も感じていない風に装わなくてはならなかった。他でもない彼自身に対して、彼は装っていた。
 彼は、まだぐしゃぐしゃの毛の塊みたいな猫に指を触れた。それはさっきよりも大きな声で鳴いていた。けれどもリビングでは、その命の声を妨げるように、缶が開く投げやりな音がまた響いた。

 翌日、彼はまた地下鉄に乗って学校に行った。雨は降り続いていて、嫌に寒い日が続いていた。教室に入ると、つるんでいるグループの1人(彼はケイと呼ばれていた)に呼び出された。彼の表情から、どうやら面倒なことが持ち上がっているらしいことがわかった。
 退屈な古典の授業が始まった。老教師の低い声は、彼の脳みそに何の痕跡も残さずに通り過ぎていった。ケイによると、彼のガールフレンドが一昨日他の男と街を彷徨いていたらしい。しかも不幸なことに、その男はグループの1人と格好がよく似ていた。彼はケイに、どうせ見間違いだよと言って、休み時間が終わる前に教室に戻った。彼は意味もなく古文の単語帳をめくった。
 昼食の後、英語の小テストがあった。間違いに気づいて消しゴムをかけると、その小さな白い消しゴムは崩れてしまった。さっきまで消しゴムだったものは、消し滓と混ざってただのゴミになる。彼はばらばらになった消しゴムと、前を向いて座るクラスメイトを眺めた。クラスメイトたちは、みんな黒板か机に顔を向けていた。風雨が校舎に吹きつけ、がたがたと窓枠が揺れた。彼は、風が校舎をばらばらにしようと揺らしているのだと思った。でも、窓もクラスメイトも、壊れてはいない。
 彼はシャープペンシルを手に取ると、蓋を外し、芯を出した。ゴムを外して先っぽをクルクルと回し、それをすっかり分解してしまった。教室は、風に揺すられてがたがた震える音に包まれていた。
 
 朝起きると、風は止んでいた。そして母親が、養育費が振り込まれていないと喚いていた。「あの人、この世の道理というものが、何にもわかっていないのよ」。彼は買いだめの菓子パンを食べながらそれを聞いた。母親は彼と目を合わせなかった。もうずっと、思い出せないくらい昔からずっと、母親とは目が合わない。彼は母の話の切れ目を見計らってさっさと部屋に駆け込み、猫に被せた毛布をめくった。母親はこの子猫の存在に気がついているのだろうか?この雑巾だった猫はふわふわの毛並みを取り戻しつつある。「この世の道理というものが、何にもわかっていないのよ」。彼は小さい声でそう呟いた。猫が鳴いた。
 彼はまた地下鉄に乗って学校に行った。ケイが髪をピンク色に染めていた。ガールフレンドとはもうずっと連絡を取っていなかったし、もう二度と取ることはないだろう。彼はまた教室でつまらない授業を聞いた。けれどもその日は天気が良かった。教室を揺する手は、そらぞらしい青色の空に仕舞われていた。彼はその空を見ながら猫のことを考えた。そろそろ檻のようなものを作らないとリビングに逃げてしまうかもしれない。彼はスーパーに寄って、段ボールを沢山貰ってこようと考えた。

 段ボールを腕いっぱいに抱えて家に帰ると、彼氏が母親を殴っていた。髪の毛を掴まれて、彼女は赤子のように泣いていた。彼が家に入ってきても、2人は気にも留めなかった。ベージュのワンピースから覗いた脚は妙に蒼黒く見えた。シンクには家中の皿が溜まっていて、百均の食器の山から異臭が漂い始めていた。罵声は切れ目なく聞こえた。床にコンドームの袋が落ちていた。『俺が払うかよ、クソアマが』。彼は、養育費の問題は弁護士に相談するべきだと思った。けれどもそれは、この状況において最も愚かな考えであることも分かっていた。こんな家の中で、誰が正しい方法をもって母親を泣き止ませられるだろうか?部屋の隅で、子猫がにゃあ、と明瞭な声で鳴いた。部屋にあるものは全て拡散していた。彼自身も、母親もその彼氏も父親も、全てが離れる方向に動いていた。秩序は音も無く、致死的に崩れ落ちていた。そんなこの家の中で、健全な身体に回復していく子猫は場違いだった。彼は時間の概念をはっきり掴んだような気がした。一度混ざった色水は、二度と元には戻らない。正常な流れが自分の周りを支配しているのだと彼は思った。そして、彼は世界の側に立ちたいと思った。この家の中で逆流しているものを煩わしく思った。
 
 彼は部屋に戻ると、段ボールに被せていた毛布を剥ぎ取った。そして、猫の首をちょっと撫でた。猫はにゃあ、と口を開けて鳴いた。彼はもう一度猫を撫でた。猫は幸せそうに目を閉じた。そしてそのまま、喉元に手を添えて、思い切り力をかけた。ちょうど雑巾を絞るみたいに。猫は、きしい、ぎいい、と大きな音を立てていた。彼はそれを聞いた。猫の口からは血液みたいなものが溢れていた。軋んで、その赤い色も軋んでいた。彼はその音のことを死ぬまで忘れないだろうと思って、また同時にそのことが不思議だと思った。
「エントロピーの御名に於いて!」
彼はふざけて呟いた。彼の友だちはみんな神とか宗教の類いのことを馬鹿にしていた。だから彼は笑った。何かが軋んでいた。彼は、その天啓みたいな軋みももうじき止むんだろうと思った。けれどもその音は永遠みたいに続いた。その間じゅう彼は笑っていた。
 彼は笑っていたんだ、本当に。

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