見出し画像

憂慮-夫婦剣再生譚 2

 不意に彼女の意識が焦点を結ぶ。自分の身体が何かに包まれている、いや何かの中にいることを彼女は感じた。自分が、身体が流されている、動いていることを感じたが、実感がない。この辺りに脚、この辺りに腕、ここは腹、これは頭ということは分かるのだが、肉感がない。腕を動かそうとしても動いたような気配を感じなかった。流されているなら自分は川の中だろうか、それにしても意識であたりを探ると、川よりも大きいと感じる。では海か、海流にのって運ばれているのか。目蓋が開くのなら開けてみようと思った。ゆっくりと視界が広がる。黒からごく淡い色の世界へ。ああ、見える、と彼女は思った。褥をともにする愛おしい人、その人がどうしているのか。なぜそんなことが分かるのかを彼女は問わなかった。ただ、自分のやったことで、苦しんでいるのだ、本の中で。
 助けに行きたい、いや助けに行かねば。
 そう決意したところで彼女の意識は四散した。

 知っている場所の知らないところを北原は引き回されていた。帝國図書館の敷地内、"ある施設"とされている侵蝕現象研究機関の地下3階に相当するフロアを、北原司書の後輩たるアルケミストの先導で歩き回らされている。
 北原司書が情報を収集し北原に伝えてから2日後、北原と北原司書は活動を開始した。というのも、北原司書に協力を申し出た後輩アルケミスト達の都合でこの日に動き出さざる得なかった。北原司書に噂の真偽とその現状を伝えたアルケミストー今、北原たちを先導する彼は特別補修室勤務で館長からの直接命令で芥川を担当をしているーは特別保管庫への入室は認められていない。ここへは館長直属のアルケミストしか出入りしていないことは北原と北原司書に告げていた。もう一人の北原司書の協力者は特別補修室勤務から、つい最近館長直属のアルケミストになった彼の同期であった。彼女が特別保管庫への入室の手引きをしてくれるという。芥川担当の彼の休日と彼女の特別保管庫業務のシフトがかち合うのが、この日という訳である。
 薄明りの廊下を何度か折れ曲がった後、廊下の先に人が立っているのが見えた。近づいてみると補修室の制服をきた少女で、左胸にALアルケミスト番号が書かれたワッペンが見えた。みなみちゃん、と先導する彼が声を掛けた。はやく、と彼女が答えると、開いている扉の中へ四人が飛び込んだ。奥に書棚が見えた。かなり広い部屋のようだった。みなみが素早く扉を閉める。自動的に施錠される音がした。みなみはほくとに後をつけられていないかを確認した。彼は黙って、頷いた。
 アルケミスト同士はニックネームで呼び合うことを北原は知っていた。公式にはALアルケミスト番号で呼び合うのだが、そうするのは交流がないか敵対しているかのどちらかであることを北原は見抜いていた。みなみは北原たちに向き合っていった。
「春先輩、北原先生。監視装置は切っておきました。私の入室記録があるので警戒されないとは思いますが、何を見ても騒がないでください」
ほくとは顔をそむけた。中に何になにがあるのかをほくとはみなみから聞いているようだった。
「騒げば警戒されると」
北原は確認した。みなみはゆっくと頷くと、部屋の奥を指さした。彼女の瞳から涙があふれた。ほくとがみなみの肩に手を置き言った。
「僕はみなみと一緒に入り口を警戒します。どうぞ、お願いします」
二人がそろって頭を下げた。北原は二人を見つめると、一呼吸おいて奥に向かった。北原司書が後を追った。

 奥に向かうとすぐに書棚が並んでいた。そこには夥しい本が赤い紐でしばられて並べられていた。薄墨で書名らしきものと著者名らしきものが掛かれていた。すべて読めなかった。
「すべて封印されていますね」
書棚をざっと眺めた北原司書が言った。
「こんなにも侵蝕途中の本があるというのかね」
北原が己の司書に問う。
「いいえ、聞いたことがありません。これは」
北原司書が一冊適当に引き抜いた。赤い紐で丁寧に封印されているが、封印の術式が違うことに北原司書は気づいた。
「これは、侵蝕を抑える封印ではありません。見たことがない封印だ」
北原は己の司書を振り返ってみた。彼の瞳に疑惑が浮かぶのを北原は見た。北原司書は本を書棚に戻して言った。
「ともかく、織田先生の本を探しましょう」
北原に異存はなかった。

 織田の有魂書はすぐに見つかった。一冊だけ書名と著者名がくっきりと記されていた。『夫婦善哉』織田作之助。北原司書が確認するまでもなく、侵蝕されていることは北原にもわかった。この中に織田作之助がいる。侵蝕者として。一緒に潜書した時の織田の働きぶりを北原は思い出した。志賀と並んで早期に転生を果たした織田は、生前同様、身体は薄弱であったが戦闘経験は十分だった。はたして自分一人で対処できるのか、と北原は思った。だが取り出した有碍書は封印されていてもじわじわと浸食がすすんでいた。躊躇している暇はない。北原と北原司書は潜書陣を展開させるためのスペースを手分けして探した。
 北原が探した方向には、書棚のみが並んでいた。ぎっしりと封印された本が納められているのは、見てきた書棚と一緒だった。ふと一冊の本が目に入った。ふと目に留まった背表紙は"月"とうっすらと読めた。"月"が、と思いもう一度背表紙を見たが今度は読めなかった。行きつくまで行きつき己の司書を分かれた書棚まで戻り、今度は己の司書が向かった方向へ歩き出した。同じように書棚が並んでいた。また一冊ふと目に留まった。その背表紙には"牧"とあった、ような気がした。もう一度見直したが、今度も読めなかった。どういうことだと思いながら、北原は誰かに呼ばれているような気もしていた。
 己の司書を探して、猶も進むと、彼が通路をふさいで突っ立っているのが見えた。「騒ぐな」と言われているのを思い出し、声を掛けずに小走りに近寄った。肩を掴んで、何をしていると声を掛けようとした瞬間、肩越しに彼の見ているものを見た。
 そこには、複雑な操作卓と思しきものから複数のコードが伸び、中央の透明な棺のような箱に繋がっていた。天井から下がる太い配管が箱の小さい面の一方に繋がり、反対側から同じような大きさの配管が床下へ伸びていた。何よりもその中には、全裸の織田司書が液体のようなものの中に沈んで横たわっていた。織田司書の身体には左耳の下から喉に掛けて斜めに深い傷があった。北原司書はそれを見つけて動けなくなっていた。
「澪」
ぽつりと北原司書が呟いた。みなみが涙を流した理由、ほくとが「お願いします」といった理由、二人が頭を下げた理由、そして織田司書の埋葬が行われなかった理由。これか、と北原は思い至った。その間も北原司書の持つ『夫婦善哉』はじわじわと浸食が進んでいた。北原は己の司書の肩を掴んで振り向かせた。
「あちら側にスペースはない。ここで潜書するしかないようだね」
北原司書が透明な棺を見る。そして手の中の『夫婦善哉』を見た。
「わかりました。準備します」
北原司書が『夫婦善哉』を透明な棺の上に置く。微かな呟きを北原は聞いた。
「『夫婦善哉』に潜書する。澪、手伝ってくれ」
入り口近くで、ほくととみなみが誰かと言い争うような音がした。春は急いで潜書陣を展開した。

 再び彼女の意識が焦点を結ぶ。何かに包まれている感覚は相変わらずだった。が、今度は揺れている。彼女は大きな容器の中に水と一緒に自分が入れられて、それを揺らされているように感じた。頭の上、水の上と思しき所から、しゃばしゃばという水の音が聞こえるような気がした。そして、その向こうに見知った誰かの気配があった。ああ、知ってる、この気配。水の上から見知った誰かがわたしを覗いている。そしてその気配より強い気配。恋しい人、愛おしい人。***。名前を呼んで右手を伸ばす。呼んで伸ばした、はず。なのに。名前は意識に像を結ばず、伸ばした右手に実感がない。ああ、そんな。そこに、そこにいるのに。助けます、必ず私が。
 そう思うとまた彼女の意識が四散した。

 本の中、作品世界へ潜る。水泳のダイビング競技のように。水しぶきを上げることなく、作品世界という水中に潜る。現実世界との空気感の差を抵抗と感じて、それをかき分けて作品世界の底へ降り立つ。
 降り立った先はごみごみとした町だった。兵隊が着るような茶褐色の服を着ている男や着物の上から裾を絞った袴のようなものを着ている女。皆、襤褸ではないが着古して洗濯がされていない服を着ていた。その中に混じって「MP」と書かれたヘルメットを被った黒人が大きな通りの四辻に立っていた。そんな中、するすると侵蝕者が集まってきた。"纏まらぬ洋墨"と"伝わらぬ洋墨"が群れを成して北原に襲い掛かってきた。一人で相手をするには多すぎる。早く織田を見つけなければ。侵蝕者の襲撃を交わしながら、北原は川沿いを走った。運が良いことにこの作品世界の"纏まらぬ洋墨"と"伝わらぬ洋墨"は足が速くなく、いくつかを二丁拳銃で撃破しながら群れを巻いて逃げ切ることができた。周りから更に侵蝕者が湧いて出てこないか北原は周りを眺めた。いつもなら聞こえる己の司書の声が聞こえない。こちらからも呼び掛けてみたが応答がなかった。潜書する前、特別保管書庫の入り口を警戒している二人のアルケミストが誰かと言い争うような音がしていた。現実世界でも何か起こっているのかもしれない。更に周辺に警戒する北原の眼に一人の男が映った。長く伸ばした三つ編み、紅玉の瞳ー織田作之助が北原を見ていた。織田は持たれていた橋の欄干から身を起こし、対岸へと橋を渡って言った。追いかけようとした北原の足元に"不調の獣"が纏わりついた。足蹴にして、織田の後を追う。通りを一本横切ると、すでに薄暗い。直前の色町めいた華やかさを背負いつつ、どこか色めいた裏通りを織田は先へ進む。軒がくずれ掛ったような古い薬局が角に見えたがその通りも越え、銀行のような作りの洋館が角に見えたがその通りも越え、銭湯の赤い暖簾が左に見えるその通りも越え、ただただ先に進む。行き先を思案するかのように一度立ち止まったがすぐに左へ折れた。北原は小走りに後を追い、織田がいったん立ち止まった四辻まで来て、織田が曲がった左を見た。が、織田の姿は掻き消えたように見えなかった。
 戸惑う北原の右肩を誰かが叩いた。飛び上がるほどに驚いた北原が本を銃に変え振り向いた。透明なエメラルドグリーンの瞳が北原と銃を見返した。
「おい、慌てるな」
志賀直哉がそこにいた。
「なぜ君がここにいるのだね」
驚かされた腹立たしさで北原は早口に聞いた。志賀は織田が曲がった左側の手前の角に北原を導いていった。
「アンタが潜ってすぐ後を追った。」
北原が眉をひそめた。あの部屋にたどり着くまでに先導してくれたほくとは何度も後をつけられていないか確認していた。
「僕たちの後をつけたのかね」
「そうだ」
志賀は悪びれずにいった。
「あの部屋に行くのは一本道だからな。外からの入り口は一つしかないらしい。鍵はある人が手引いてくれた。アルケミスト達が騒いだから、向こうはちょっとヤバいことになるかもしれねぇ。織田を助けてさっさと帰るぞ」
北原は先ほどまで見ていた織田の姿を思い返した。橋の上にいた織田は何の感情も持たず北原を見ていた。追いかける後ろ姿には侵蝕者と同じ青黒い靄が取り巻いていた。
「その肝心の織田君が消えてしまったのだけれどね。探し回る時間はあるのかい」
志賀は両手を広げて答えた。
「向こうがその猶予をくれるか、正直わからん。見ただろう。織田の司書も助けなきゃならねぇ。早ければ早いほど、ってとこだな」
ふうと息をつき北原は懐から煙草を出した。一本取りだして火をつける。
「おいおい、気を付けてくれよ」
北原は簡易灰皿を出していった。
「抜かりはないのだよ」
北原は建物の壁に凭れて煙を吐く。
「しかし、どこへ消えたのだろうね」
志賀も並んで壁に凭れた。
「なあ、北原。アンタ、織田の作品を読んだことがあるか」
北原はすこし考えた。
「いや、記憶にないね。彼が作品を発表し始めたころは、視力がほとんどなかったから、手元にあったとしても読んでいない可能性が高いね」
そうか、と今度は志賀が考え込んだ。北原が三本目の煙草に火をつける頃、志賀が言った。
「織田の有魂書は『夫婦善哉』だ。侵蝕も『夫婦善哉』が受けてる。だから俺たちは『夫婦善哉』に潜書した」
「そうだね」
「だが、ここは『夫婦善哉』の描写じゃねえんだ、俺の記憶が正しければ」
「どういうことだい」
「『夫婦善哉』の時代背景は大正から昭和にかわる時期だ。だが、この世界描写はそんな時代じゃない。町行く人間は国民服にもんぺだ。おまけに黒人が"MP"なんて書いたヘルメットを被っている。あれは多分GHQの憲兵だ。時代背景は敗戦後だ」
「作品が改変されているというのかね」
「いやこれは、戦後に発表された『世相』だ」
「どういうことだね」
北原は三本目の吸い殻を携帯灰皿に納めた。
「わからん。織田の魂はここに居ないんじゃないかと思う」
志賀が言い終わらないうちに、織田が消え去った方向でガタンを音がした。
志賀と北原が音がした方向を確認した。そこには織田の姿をした侵蝕者が立っていた。

 また不意に彼女の意識が焦点を結んだ。受ける感覚は変わらない。相変わらず何かに包まれている感覚。揺れている感覚はなくなった。そのかわり彼女の腹から背中に向けて身体を包んでいるものが流れている感覚がする。彼女が前に動いているのか、包んでいる者が動いているのか。その判断はつかない。見知った気配は増えていた。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ。恋しい気配は遠くになった。ああ、さっき掴まえられなかったから。恋しい気配は遠くで苦しんでいる。苦しんでいることははっきりとわかった。
 早く助けないと。早く、早く。
 そう思うと彼女の意識は四散した。

 意外だ、と北原は思った。志賀と二人であっけなく侵蝕者を討伐できた。
"伝わらぬ洋墨"も"纏まらぬ洋墨"も"不調の獣"も。織田の姿をした侵蝕者も。あっけないほどに簡単に浄化された。道行く人の服装は清潔な和服が主体となり、作品世界の描写は 関東大震災後の人も活気も満載の大大阪の時代となった。
 侵蝕者はあっけなく倒したが、肝心の織田作之助が見つからなかった。
「やっぱり織田はこの世界にはいねぇな」
『夫婦善哉』の作品世界が元に戻るのを見て志賀が言った。
「では、君の言う『世相』に居るというのかね」
人々が行き交う橋の上で欄干に凭れ煙草を吸いながら北原が確認する。
「あくまでも推測だ。『世相』は戦争中の織田の行動が題材になっている。戦争中に発売禁止処分を受けたその日の行動がな。発表する当てもないのに書き続ける絶望を、『世相』で織田は書いてる」
行き交う人を眺めながら志賀が続ける。
「織田が侵食された原因を知っているだろう。自分の司書の自死だ。織田と織田の司書が付き合っているのは知ってるか」
「君たちほどではないけれど、見ていればわかるよ」
行き交う人々に背を向け、川を覗き込みながら志賀は続けた。
「は、ありがとよ。織田は惚れた女に死に別れた。その絶望で侵蝕された」
「侵蝕された。侵蝕者になるのではなく」
「ああ、俺たちを手引いてくれた奴がそういっていた。織田作之助は侵蝕された。浄化しないと、ってな」
覗き込んでいた顔を上げて志賀は言った。
「ともかく、織田は絶望した。その絶望は織田の有魂書である『夫婦善哉』では受け止められなかった」
「受け止められなかった、とは」
「織田の絶望と『夫婦善哉』の世界がそぐわないんだ。『夫婦善哉』もハッピーエンドじゃねえけど、『世相』みたいな行き場がない絶望を書いた作品じゃねぇ」
「絶望した魂が有魂書を選び直したとでもいうのかね」
「そうとでも考えないとつじつまが合わねぇ。侵蝕された有魂書を浄化したのに作者が見つからねぇ。帰還のゲートは開いてるから侵蝕者が隠れてるっていうのも考えられねぇ。これは有碍書を浄化したのと同じだ。ならば織田は他の作品にいる。いるとすれば世界描写されていた『世相』だ」
北原と志賀は一旦現実世界に戻ることにした。

奪還>へつづく



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?