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奪還-夫婦剣再生譚 3

 また彼女の意識が焦点を結んだ。今度はとても鮮明に。水より濃い油よりも緩い、とろとろと身体を撫でる液体。それが自分を守るものだと彼女は理解した。何かを通って声が聞こえる。いや直接頭の中に響く。見知った気配が話す声。瞼を開けなくても周りが見える。彼女に寄り添う頼もしい気配。彼女を見守る暖かい気配。素っ気ないのに彼女の働きを見逃さない気配。どこまでも真っすぐでゆるぎない気配。そして何よりも大切な愛おしい恋しい気配。助ける、助けるの、今度こそ。
 そう思いながら彼女は意識を拡げた。

 潜書から戻るやいなや、北原と志賀は腕を引っ張られ床に伏せさせられた。そのまま書棚の影に引きずり込まれる。身体を起こして周りを窺えば、志賀は通路を挟んで向こう側の書棚の影に引っ張り込まれている。志賀の言っていた"ヤバいこと"はこのことらしい、と北原は思った。
「跳ねっかえりが戻って来たか」
 北原と志賀は声の主を確認した。織田司書が眠る透明ケースの傍に図書館正職員の制服を着た森司書がいた。透明ケースに凭れるようにして北原司書が座り込んでいた。その頭には森司書の持つ銃が狙いを定めていた。こちらとその間に本が一冊落ちていた。織田の『夫婦善哉』だった。
 北原はもう一度志賀を見た。白ジャケットの肩越しに入り口を警戒していた二人のアルケミストが見えた。では、こちらは。北原は振り返って後ろにいる人物を見た。志賀司書が北原の右腕を掴んでいた。
「何があった」
 北原は尋ねた。
「先生方が帰還される直前に襲われました。春君がとっさに本に潜書陣をくっつけて私たちのほうへ投げてよこして」
 みなみが向こう側の書棚を盾にして、そろりと織田の本に近づく。森司書の隙をついて織田の本を指先に引っ掛ける。気づいた森司書が発砲する。その間にほくとが織田の本を回収する。
「それで、あの体たらくかい」
 よく見ると北原司書は足を打ち抜かれていた。さらに森司書の右足を両手で掴んでいた。床に真新しい小さい焼け焦げがいくつかあった。
「師匠は、何をしようとしているのですか」
 北原司書が森司書に尋ねる。北原は森司書が施設のアルケミストの指導者であることを思い出す。
「あるべき文学を作る」
「あるべき文学、ですか」
「人々に有益な文学のみを必要なあるべき文学として流通させる。それ以外の不要なものは侵蝕現象を使って消えてもらう。あるべき文学が侵食されたときは、君たち"文豪"を使って浄化する」
 志賀司書が勢い込んで声を上げる。
「”文豪”を使って……」
 森司書はふん、と鼻を鳴らして答える。
「仮初の身体に魂を縛り付けたもの。アルケミストを犠牲にしてな。他人の力で動いて他人に使われるもの。道具と変わりはない」
 道具、と聞いて志賀がぎりと奥歯を噛み締める。北原は森司書を睨み言う。
「道具、とは心外だね。確かにアルケミストの力でここにはいるが、文学を作ってきた記憶も守る意思も確かに持っている」
 志賀が北原の言葉に同意するように森司書を睨む。森司書は北原を哀れなものを見るような目で見た。続いて志賀も。
「記憶と意思か。では、”文豪”二人に聞く。君たちはどういう経緯で文学者になった。文壇に出たきっかけはなんだ」
 きっかけ、と問われて北原は考え込んだ。僕は、北原白秋。国民詩人と呼ばれた。ではそう呼ばれるまでは……。思い出せない。志賀が噛み締めるように言った。
「きっかけか。そうだな。俺は志賀直哉、小説の神様。代表作は 『暗夜行路』『和解』『小僧の神様』『城崎にて』。俺に関してよく言われることだ。俺の記憶もこれだけしかねぇ。俺がどうして小説を書くようになったか全く分からなねぇ。ただ俺はひとりで文学を始めたわけじゃねぇ、誰かと一緒にいたんだ。それにただ祭り上げられてたんじゃねぇ、織田のように向かってくる奴は他にいた」
「ほお。『夫婦善哉』に潜書して織田作之助の世界に触れたことで思い出しかけていることがあるようだな」
 北原も室生と話している時に感じた違和感を思い出した。自分を慕って煩わしいほどに関わってくる誰かがいた。そういえば小説家である室生が詩人の自分を師と慕ってくるのはなぜだろう。森司書は北原の思案に関係なく続けた。
「まあ、それも、今後の研究課題だな。そろそろ、北原白秋と志賀直哉には有魂書に戻ってもらおうとしようか」
「文豪を無理やり有魂書に戻すと、侵蝕者になるのではないかね。アルケミストも能力を失うと聞いたが」
「ご心配には及ばないよ。侵蝕者になるのではなく、侵蝕されるだけだし、ある条件さえクリアすれば侵蝕されることなく有魂書に戻すことができる」
「それが、龍が何度も転生させられている理由か」
「なぜそれを知っている」
 志賀は森司書を見てニヤリと笑う。
「いろいろ聞いてる。アンタのことも、アンタがやってきたことも」
「ふん、まあいい。芥川龍之介はアルケミストとの相性が悪くてね。申し訳ないとは思うけれど。それに」
 森司書は透明ケースを指さして続けた。
「アルケミストも彼女のように生きながらえることが可能になった。もし文豪が侵蝕されても有魂書の中で侵蝕を抑えることができる」
 森司書は操作卓の上から赤い紐に縛られた本を取り上げた。
「織田作之助の有魂書『世相』だ。彼女がこの状態でまた織田作之助を転生させられるかは実験しないと分からないが、この状態だとアルケミストの力を十二分に引き出すことができる。不可能ではない。その前に浄化は必要だがね」
 背中からひっ、という声を北原は聞いた。北原司書が掴んだ手に力を込めたが、森司書が右足を上げて振りほどいた。己の司書の状態を見て北原は武器になるようなものを探した。潜書中ではないので本は武器に変わらない。
「『夫婦善哉』の浄化は失敗。北原白秋と志賀直哉は絶筆。AL-1102と1021は殉職だ。なに書類上だ。文豪二人は有魂書に戻り、アルケミスト二人は彼女の後を追うことになる。同期三人だ。淋しくないだろう。それで、そちらの二人も殉職だ。こちらは文字通りだが」
 森司書は改めて銃を構え直した。ごくりと志賀司書が唾をのむ音が聞こえた。志賀が小声で顔色をなくしたアルケミスト二人に確認した。
「潜書陣を広げるのにどれぐらい時間がかかる」
 二人のアルケミストが顔を見合わせる。代わりに志賀司書が答える。
「最速で1分ほどです」
 二人のアルケミストが顔色を変える。
「30秒。いや40秒に縮まらないか」
 そんな、とみなみが声を漏らす。ふふ、と笑って志賀司書が答える。
「春君と澪が手伝ってくれればできるかもしれません」
「何をする気だね、志賀」
「潜書して、アイツを引きずり込む。ついでに織田を浄化する」
「無茶を言う」
「得物がねぇと戦いにならねぇだろ」
 森司書は余裕の表情で北原たちの出方を待っている。透明ケースに凭れていた北原司書が何かに気づいたように部屋の奥に顔を向けた。そちら側は機械類が並んでいる。北原司書の様子に気づいた志賀司書が機械類の奥を窺う。奥から現れたのは医療キットを携えた森鷗外だった。
「遅かったな」
 森司書は森鷗外に声を掛ける。その口調に二人の司書と二人のアルケミストが眉をひそめた。森は何も言わず北原司書の傍に跪く。
「傷を見せてくれ」
 それだけ言うと、医療キットからハサミを取り出して、北原司書の傷口のまわりの布地を切り取り始めた。森司書が森の頭上から命令する。
「そいつは後でもいい。それより奴らを拘束する」
 森は手を止めることなく言い返した。
「ごめん被る。怪我人が先だ」
 思わぬ返答に森司書は息を詰まらせる。森が追い打ちをかけるように言い放った。
「それに貴方は俺の本当の司書ではないだろう」
 ええ、とその場にいる全員から驚きが漏れた。更に奥から声が掛かった。
「森林太郎は医師です。医師が怪我人を優先するのは当然です。それに拘束されるのは貴方だ」
 全員の視線が一斉に機械の奥に集中した。
「まさか……」
 と、森司書は顔色を悪くする。現れたのは森司書と同じ容姿のアルケミストの制服を着た男だった。銃を握ったまま立ち尽くす森司書に男は告げた。
「森先生の記憶は全て戻しました。貴方の指示でやっていたことも含めて」
 森司書は男に銃口を向けた。
「貴様、なぜここにいる」
 男が正対して答えた。
「私を監禁した場所が悪かったですね。特別補修室は愛弟子しかおりませんよ」
「志賀直哉にしゃべったのは貴様か」
 男は志賀を見てほほ笑んだ。
「ええ。このような正体不明の怪しい人間の言うことを信じていただけて、感謝しています」
 がたんと入り口の扉が開く音がした。男は続けた。
「これまでのことは館長に報告済みです。観念してください」
 森司書は男に向かって引き金を引いた。が、直前に森に右腕を取られた。銃弾が天井を貫く。その音を聞いて入り口から警備員が数名走りこんできた。応急処置を受けた北原司書が森司書の腰にしがみ付く。有魂書を、という森の声に応えて志賀司書が操作卓の上の『世相』を確保する。『世相』を奪い返されるのを防ごうと志賀と北原が志賀司書を背中に庇う。森司書は左手の拳で森を乱打する。森と北原司書が警備員がいる方向に森司書を引きずろうとする。抵抗を続ける森司書の足が透明ケースを何度も蹴った。その度にがたんがたんと音がし、ゆらりゆらりと織田司書の身体が揺れた。操作卓からアラームが鳴り響く。いけない、と男が叫び操作卓に走り寄った。森司書はまだ抵抗を続け、透明ケースと北原司書と男を蹴る。引き金に指がかかった状態で何度か発砲する。銃弾が天井に床にと穴をあける。引き金を引く音がカチッ、カチッと軽いものに変わって、警備員が森司書の拘束に動き出す。操作卓のアラームは消えない。警備員に連れさられる森司書に入れ替わるように、志賀と北原と志賀司書が透明ケースに近づく。澪、と呟いて志賀司書が透明ケースの脇に座り込んだ。警備員に森司書を預けた森と北原司書が戻る。失礼します、といって北原司書は志賀司書の隣に座り込んだ。
「大丈夫かね」
 北原は自らの司書を労った。一服したいところだが、北原は自重した。操作卓のアラームは鳴り続けている。志賀が焦れたように言った。
「どうにかならないのか」
 煩くてたまらないと言ったところだろう。操作卓のディスプレイを見ながら男が言った。
「彼女のアルケミストの力が暴走しかけている」
 ほくととみなみの二人のアルケミストもこわごわ近づいて来た。男が皆に向き直って言う。
「このままでは、彼女は自分の力に飲み込まれて破滅してしまう」
 破滅、と志賀司書が繰り返した。
「彼女は生きているんですよね」
 北原司書が怒りのこもった声で男に尋ねた。男は北原司書を見下ろして柔らかく言った。
「生きているよ。それは保証する。けれど深く眠っていて冬眠状態だ。自分の力の制御ができない」
 男は傍にいる全員を順に眺めた。そして志賀司書が抱きしめている『世相』を指さして言った。
「『世相』に潜書してくれ」
 しかし、と志賀司書が反論する。
「志賀先生と北原先生の補修がまだです。それに北原司書が怪我をして」
 男はおや、という顔をして、二人の司書と二人のアルケミストの顔を見比べた。すぐに何か得心したような表情をして言った。
「大丈夫、森先生もいるからね。潜書は三人になるけれど。彼女と僕も含めて司書は四人だ、問題はない。僕が本当の森鷗外の司書だから」
 二人の司書と二人のアルケミストは驚いて男の顔を見る。森と男は顔を見合わせて笑った。それに、と森司書を名乗る男は付け加える。
「織田作之助は彼女がきっと見つけてくれるはずだから」

 潜書してすぐ、北原は『夫婦善哉』で潜書した場面と同じことに気づいた。ごみごみした町、茶褐色の国民服を着た男たち、着物にもんぺを履いた女たち、「MP」のヘルメットを被った黒人。だが、『夫婦善哉』より行き交う数が多いし、何かに諦めきった明るさというような雰囲気であった。周りに志賀も森もいた。
「皆さん同じ場面に潜書できたようですね」
 森司書と名乗った男が通信を通して話しかけてきた。どういう原理なのかわからないが、潜書の前に片耳に引っ掛けるマッチ棒のようなものが付いたイヤホンを渡された。耳穴に挿入するとマッチ棒が頬骨にあたる。男が言うにこれで現実世界との通信が可能だという。早速男が使ってきたらしい。北原たちは顔を見合わせた。全員に同じ声が聞こえているようだった。
「なるほど。これが一斉連絡か」
 森が話す。目の前の声とイヤホンからの音が二重に聞こえた。
「今まではご自身の司書のみとの会話でしたが、これを着けると一緒に潜書している他の文豪の司書とも会話ができます。こちらからの連絡も一斉にお伝えできます」
「自分の司書と内緒の話はできないのか」
「それは、文豪と司書との関係が密であれは可能かと」
 男は笑って答えた。先生、と志賀司書が何か言いかけたように聞こえた。では、と一言置いて男は口調を変えた。
「今のところ、周囲に侵蝕者は見当たりません。そのまま織田先生の捜索に入っていただいて大丈夫です」
「そちらでも敵の動きは感知できるのかね」
「索敵に関しての技術は進んでます。残念ながら現場に反映されてなかったようですね」
「俺と北原は同じような場面を歩かされた」
「『夫婦善哉』で、ですね」
「あれは織田の何かのメッセージかもしれねぇ。憶えてる限りになるが同じような描写があったらそれを追いかけていいか」
「一つの方法だと思いますがその前に。後ろから侵蝕者が接近しています。対応をお願いします」
 言われた振り向くと、”伝わらぬ洋墨”と”纏まらぬ洋墨”が群れをなしてこちらへやってくるところだった。

 侵蝕者を撃退した後、志賀の提案で『夫婦善哉』の中で織田の姿をした侵蝕者を追った道を辿ることにした。場面は日暮れ時になっていた。
「司書、『世相』について教えてくれないか」
 森が森司書を名乗る男に尋ねた。
「はい。1946年に雑誌『人間』に掲載された短編小説です。織田先生を思わせる作家が戦争中の出来事や風景を回想し、小説に纏めようとするが失敗する、というお話です。主人公である作家は「この材料でこんな話」と考えるのですが、どの話も書き出せずにストーリーが終わります。実際に織田先生が戦争中に受けた発売禁止処分やその後執筆された『妖女』の構想などが描かれているので「私」小説と思って読み進める読者も多いようですよ。同じ年に発表された志賀先生の『灰色の月』を意識して書かれたともいわれています」
「1946年というと織田君が亡くなる1年前か」
「盛んに執筆されていた時期ですね」
 森司書と名乗る男が、北原司書や志賀司書に指示を出す声が混じる。
「俺が「きたならしい」と一刀両断したそうだ」
 ぽつりと志賀が言った。
「記憶があるのかい」
「いや、あの・・森司書が言ってたのさ。転生した俺を見て織田が顔色を変えた。理由が分からねぇから本人に直接聞いてみたが答えねぇ。そのやり取りを聞いてたあの野郎がそう言った」
「本当かどうか、分からないわけだな」
「これに関してはな。けど、織田は俺についての記憶を持っている。俺には覚えがない。アイツも一作二作で終わってる作家じゃねぇ。何かあれば俺も覚えてるはずだ。おかしいと思って調べ始めた」
 イヤホンの向こう側が騒がしくなった。
「先生方、前方に多分織田先生です」
 行き交う人並みの中、一人だけ照明が当たるように三人の眼が集まる。
長髪を三つ編みに結い、茶色の革ジャンパー、黒の細身のパンツ、白黒コンビのブーツ……織田作之助が目前の十字路を左から右に通り過ぎようとしていた。ふとなにか思案するように立ち止まり、首を傾けて北原たちを見た。暫くそのまま北原たちを凝視する。改めて向き直ると、こちらに一歩踏み出した。場面の通行人がが侵蝕者に姿を変えた。織田を証する飄々とした雰囲気はなかった。真っすぐに北原たちを見据えた瞳は、紅玉に織田が見据える闇の黒を同居させていた。全てを見諦めたという表情は夕日の逆行も受けて、自賛する美貌に煉獄の凄みを添えている。いつの間にか北原たちは周囲360度を侵蝕者に囲まれていた。
「司書、侵蝕者の数はどのぐらいかわかるか。囲まれているのだが」
 森が森司書と名乗る男に聞いた。
「囲まれて……。こちらでは侵食されている織田先生しか確認できません」
「どういうことかね」
「………… 想像でしかないですが、織田先生の侵蝕は織田先生が絶望したことで引き起こされてます。皆さんの周りの侵蝕者の数は織田先生の絶望の数ではないでしょうか」
「こんなに絶望していたというのかね」
 北原も志賀も、森でさえ、絶句した。森司書を名乗る男が言う通りならば、織田の絶望は数えきれないほどある。

 織田司書が横たわる透明ケースを中心にしてもう一度潜書陣を展開する。『世相』を陣の中心に置くと型通りに文豪たちが潜書した。森司書を名乗る男は潜書前に文豪たちに渡したインカムで連絡を取っている。三人とも無事に潜書できたらしい。北原司書はふっと息を吐いた。怪我をしている状態でどれだけ集中力を保てるか自信がなかった。インカムからは文豪たちが話しながら『世相』の作品世界を進んでいるのが聞き取れた。
「春君」
 志賀司書が北原司書の顔を覗き込んだ。大丈夫か、と聞いてくる彼女に右手を上げて答えた。森司書を名乗る男が二人に声を掛けた。
「大丈夫だ。陣を触ってごらん」
 二人の司書はおそるおそる陣を指先でなぞり、顔を見合わせた。どうしてこんな強力な陣が張れるのか。
「僕ではないよ、彼女だ」
 男は透明ケースを指さした。見つけた時よりも幾分人間らしくなっている、と北原司書は思った。男も透明ケースを覗き込みながら言った。
「彼女は全力で織田作之助を助けようとしている」
 操作卓からピピピと音が聞こえた。男は操作卓のディスプレイを覗き込んだ。確認してインカムに向かって伝える。
「先生方、前方に多分織田先生です」
 潜書陣が燃え上がるように紅に染まった。時を置かず、森鷗外から「囲まれている」という連絡が入る。男が文豪たちと対応を話し合っているなか、印を組んで文豪の状態を確認する。同時に支援の体制に入った。確かに文豪たちの目の前に侵蝕された織田がいた。が、侵蝕者ではなく織田の何かが文豪たちを取り囲んでいた。男は操作卓のディスプレイに流れる数字を読み取っている。もう一度透明ケースの織田司書を見ると、そばにいる二人のアルケミストに言った。
「奥の扉の傍にクローゼットがある。中にリネンや入院着があるから一揃い用意してくれるかな。彼女も目を覚ますかもしれない」
 その言葉に一瞬北原司書の注意が男に向いた。男は大丈夫というように頷いた。インカムの向こうから戦う北原たちの怒号が聞こえた。

 取り囲む侵蝕者の数は限りないかと思われた。撃ち抜き、切り裂いた侵蝕者は泡のように消えていった。襲い来ることなく、侵蝕者はただその場に在った。織田が発売禁止処分を受けたようにただそこに在った。拒もうと受け入れようと関係なく、ただ在る。そういうものに織田は侵蝕されていた。侵蝕された織田は戦いには参加せずじっと北原たちを眺めていた。
 陽はとうに沈んでいた。北原は振り仰いだ空の星を見て気づいた。志賀は足元を確認した。明るい。その明るさは街灯や建物からこぼれる灯などではなく、地面自体が光っていた。森が最後の侵蝕者を切り伏せた。織田は三人の文豪に囲まれた。地面にある光の輪がすぅと狭まって四人を囲んだ。光の輪が四人を下から照らした。
「織田」
 志賀が声を掛けた。織田の視線は誰とも交わらなかった。三人は織田が三人を見ているようで何も見ていないことに気づいた。
「こんなとこまで、何しにぃはったんや」
 織田が誰に尋ねるともなしに言った。
「君を迎えに来たよ。さあ、帰るんだ」
 北原が答えた。森は周囲を警戒した。イヤホンからの警告はないが、織田の様子からまだ侵蝕者が湧き出るような気がしていた。
「織田君、君の司書は生きているよ。だから帰るんだ」
 北原が諭すように言った。織田がぼんやりと答えた。
「なんで、こないなもん、気にしますんや、センセイ方。碌に小説も書けへん、書かしてもらわれへんモンが、文豪なんてお偉いもんやおまへんやん。こんなんやから、女房死なしてしもたり、女に死なれてしもたりするんや。
ワシなんて、せいぜいそんなもんやねん。もうこのまま、さしてくれまへんやろか」
 ぞわり、と侵蝕者が湧いてくる気配があった。北原はイヤホンの奥から己の司書が次の戦闘に備えて息を整えるのが聞こえてきた。森が武器を構え直す。織田がうつろな声で続けた。
「書いても書いても認められへん。それでもアイツは支えてくれてん。いきなり客は連れてくる、遊びに出たらそならんと帰ってこん、帰ったら帰ったで夜中に仕事始めよる。そんな男の傍で、辞書引いたり、原稿とじたり。挙句身体壊して、痛い痛い、言いながら死んでもてん」
 じわりと這いよる侵蝕者を森が切り裂く。猶も織田は続けた。
「今度は、今度は大事にしよおもてん。そやのに、ごめんうて死んでもた。こないな身体で転生させてしもてごめんて。そんなんあのコのせいちゃうやん。ワシがもともと身体弱いねん。それやのに」
 織田の隣でぼうと立ち上がった侵蝕者を北原が撃ち抜く。ゆらゆら彷徨う織田の視線が志賀で止まった。
「なあ、もう、ええやん。よろしやろ。こんなしょうもないやつ、終わりにしたいねん」
 甘えるように志賀に言い放つ。ざわざわと侵蝕者が増え、織田と志賀たちの間を埋めた。志賀は織田をねめつけた。右手の刃を本に戻すと、侵蝕者を踏みつぶしながら織田に近づき、右の拳で織田の顔面を殴りつけた。抵抗する間もなく殴り倒された織田の右襟首をアンダーシャツごと掴むと織田の顔を目の高さまで引きずり上げる。志賀の若草色が刺殺すように織田の紅玉を覗き込んだ。紅玉の中の闇が揺れた。
「しょうもないだと、終わりにするだと」
 怒りのあまり声の続かない志賀が、はっと息を吐いた。
「織田、オマエ、誰に言ってんだ。はっきり言う。オマエが今言ったことは全部俺たちには関係ない。オマエが小説を書こうが書けまいが、女に死に別れようがな」
 引っ張り上げた織田を突き飛ばすようにして、志賀は織田を放す。そのまま織田は尻もちをついてへたり込んだ。
「ただ、思い出せ。そんな中でも書く意思は砕けなかったろう。この本をみてみろよ。何度も何度も、材料を拾っては話を組み立てて、人物の絡みを考えたろう。書けない間も、書けるようになってからも」
 志賀は織田の眼の位置まで屈んで続けた。
「女だってそうだ。北原が言うようにあのコは生きてる。それが証拠に潜書してるオマエにあのコの声が聞こえてるはずだ。耳ん穴かっぽじいてよく聞きやがれ」
 光の輪が織田を囲んで照らし出す。幻燈のように織田を中心にして光の華が開く。光の花弁が織田を包む。青黒い影が藻掻きながら光の花弁から這い出した。
「おっしょはん……」
 織田の両手には夫婦剣があった。

 事件のあと侵蝕現象対策が根本から見直された。これまですべてが森司書と名乗っていた男の独断専行であったことが明るみにされた。帝國図書館館長の監督不行き届きが追及されたが専門外であることを理由に不問に付された。その変わり侵蝕現象対策に関しては政府直属の機関とされその責任者に本物の森司書と名乗る男(彼は加古と名乗った)が就いた。森鷗外は医務室兼補修室の責任者として配置された。加古と森鷗外は、文豪とその司書、アルケミスト達の記憶の回復を最優先に取り組んだ。その他にも改善にとりくむことが一人一人に説明された。
 そして一か月後。新しく整備された医務室兼補修室に志賀直哉と志賀司書がいた。芥川龍之介の魂を有魂書に戻すと聞いてやってきたのだ。志賀たちが『世相』の浄化を終え、織田作之助を伴って帰還、その際に織田司書も目覚めることができたが、監禁されていた芥川の司書は治療の甲斐なく衰弱死した。その影響で芥川龍之介の転生体も存在が希薄となり消滅するのは時間の問題だとされた。ならばと加古が芥川の記憶を復活させ(本人にはかなりつらいことであったが)、小説家・芥川龍之介としての自覚を持たせてから転生解除を行うと通達があった。友人の菊池寛と久米正雄が付き添うという。侵蝕者になってしまったら自分たちの手で浄化させるつもりらしい。補修室の一角に二人が待機していた。
 真新しい煙草の匂いがした。志賀が振り向くと北原と北原司書がいた。
「やあ、志賀。珍しいじゃないか」
 紫苑の瞳をきらめかせて、北原が志賀に言った。視線を菊池たちへと戻して志賀が答えた。
「龍を返すらしい」
 加古が芥川のベッドにやってきた。北原が志賀を促して芥川のベッドに近づいた。二人に気づいた菊池と久米が目礼した。加古は芥川とニ、三言葉を交わすと印を結び、錬成陣を展開させた。そこに室生と室生司書がやってきた。
「白さん」
「ん。始まっているよ」
 室生が北原の横に並んだ。北原司書が一歩後ろに下がる。隣りに並んだ北原司書の袖を室生司書が掴んだ。芥川の身体が光始め、アルケミスト達に緊張が走った。菊池と久米が自分たちの有魂書に手を伸ばした。芥川を包む光が一瞬大きく光った。目がくらむ瞬間が過ぎると、芥川の眠っていたベッドの上に一冊の本が落ちていた。菊池と久米がベッドに崩れ落ちるのを見届けると北原が出口に向かった。志賀と室生も後を追う。それぞれの司書を連れて医務室兼補修室を出た。居並ぶ病室をちらりと見て北原は言った。
「そういえば織田君と彼の司書はどうしてるんだい」
室生が答える。
「順調に回復してるようです。あの二人、前にもまして仲が良くて。見舞いに行くと中てられちゃいますよ」
 憮然とした表情になった北原司書を見てくすくすと室生司書が笑う。六人はそのまま図書館の中庭に向かった。
「付き合うかい」
 北原が煙草を見せて志賀を誘った。
「いや俺達には俺達の特等席があるんでね」
 ふふん、と北原が笑った。
「お楽しみはこれからかね」
 志賀司書の頬が赤く染まった。

<了>

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