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己案

 ぱらぱら、と谷崎潤一郎の足元に花弁が落ちる。地植えの茉莉花の傍を通った時に名残のいくつかが谷崎の纏うストールに攫われてきたようだ。雨上がりの空気の中、ふわりと独特な香りが立ち昇る。屈みこんで足元の花を拾うと、そのまま鼻先へ持ってくる。花の香りは時折、特務司書がまき散らすものに似ていた。
 百合と茉莉花と梔子が交じり合った-神経が不安定な文豪達が忽ち魅了されてしまう-特徴のある香りを特務司書がまき散らすのは、相当な負担を強いられた時で、その時の特務司書は姿が女性に変わっている。谷崎はちらりとしか見た事はない。が、山本有三が特務司書のその秘密を以前から知っており、香りが及ぼす困った作用を文豪達から隠すために画策していたらしい。一度その画策が失敗してとんでもないことになったが……。谷崎にはその画策の本当のところも大体は見当がついている。でなければ、冗談交じりといえ、後輩の頬を打ったりはしない。
 谷崎は鼻先に持ってきた花をぽいと生垣に投げ捨てる。まったく、新思潮の後輩達ときたら皆が皆一人で何かを抱えこもうとする……。だが、そうしがちだからこそ……。

 午前の潜書業務が終わったら、輔筆と一緒に三階の文書庫の整理する予定です、と堀辰雄と交代で今月の助手業務に当たっている松岡譲から朝食の時間に訊きだした。午後は特務司書は司書室で一人で雑務処理をするらしい。傍に島崎藤村がいたので、取材チャンスと先を越されるかもしれないが、谷崎には内密の相談と言い張って先達を追い払う胆力の持ち合わせはある。今日の企みは必ず特務司書と一対一で果たさねばならない。そう思うと谷崎の心臓は鼓動を早くする。
 特務司書に対する谷崎の第一印象は人形のよう、であった。それもよく出来た自動人形、話もするし、食事もするが、自ら何かを成そうとはしない。予め決められたことを決められたとおりにこなす道具。その印象は今も変わらない。
 肌理の細かい白磁の面、漆黒の瞳を飾る睫毛は長く頬に影を作る。均等に引かれた眉は理知を表し、白銀に金の混じる頭髪が額縁のように囲う。鷗外森林太郎ほどの上背がありながら、圧迫感は無く、黒ボトム白シャツ黒のローファーのいで立ちで滑るように動く。見目好い転生文豪達に混じっても遜色がない。美しいか醜いかと問われれば、間断なく美しいと答えるが、興味を引くかと問われれば谷崎はつまらないので興味はないと以前なら答えたはずだ。
 以前なら……。

 ※※※ ※※※ ※※※

 三階へ上る前に、念のために松岡は司書室に立ち寄った。
 何事がなくても、午前中に特務司書が決裁した書類を提出先毎に仕分けることは出来る。三階の文書庫に保管するファイルがあればそれを持って上がってもいい。
 そんなことを思いながら司書室の扉を開けた松岡は意外な光景を目にした。谷崎が研究棟あての郵便物の仕分けをしながら特務司書の輔筆を話している。司書室に入った松岡に谷崎は言った。
こいさんが郵便物を抱えて本館からいらっしゃったので。お手伝いついでに分けておりました」
 嫣然と微笑む谷崎の口調に淀みはないが、執務机の前のソファセットのローテーブルには午前中にはなかった風呂敷包みがあった。松岡は今朝、朝食の席で谷崎から今日の予定を訊かれた。ああ、そういうことか……。
 こいさん、と呼ばれた輔筆が谷崎の言を訂正する。
「谷崎先生、こいさんって、私はそんなご立派な出自ではありませんよ」
「おやおや、私達を作品から呼び出して扱き使ってくださる特務司書が旦那様ならその膝下にあるといえる貴女はこいさんですよ」
 谷崎にとっては孫娘にも思える輔筆にやんわりと返す。
「先生方を扱き使うなど……」
 谷崎の言を更に否定しようと、輔筆の声のトーンが一段上がったところで特務司書が戻ってきた。谷崎の雄黄の瞳がキラリと光ったのを松岡は見逃さなかったが、これ以上谷崎が輔筆を揶揄うのにも耐えられなかった。もちろん谷崎の通常営業だと分かっていたが。
「ああ、戻られましたか。では、予定通り輔筆と一緒に三階の文書庫へ」
 松岡が特務司書に告げると、特務司書は壁に掛けてある研究棟の鍵の一つを手に取ると松岡に渡した。
「はい、お願いします。輔筆、こちらは私が引き継ぎます」
 ふわりと微笑む特務司書にぴょこんと一礼して、輔筆は司書室を出ようとする松岡の後に続いた。

「相変わらず、こいさんはお可愛らしい」
 松岡と輔筆を見送った谷崎は、郵便物から逃れて司書室の給湯設備に向かう、茶器の準備をし出てくると、ローテーブルの上の風呂敷包みをとり、整理された輔筆の机に二人分の茶器と風呂敷包みを置いた。長机で郵便物の仕分けを引きついた司書は、視線は動かさず谷崎の気配を追う。仕分けを終えた特務司書は司書室宛以外の郵便物を抱えて補修室の扉を叩く。音もなくスライド扉が開き、補修室付きの術者アルケミストが顔を覗かせると、持っていた郵便物を預けた。
「おや、お届けにいかれないのですか」
 その様子を谷崎は揶揄するように言う。振り返った特務司書が返した。
「この場を留守にすると、谷崎さんがお困りでしょう」
 扉から執務机に戻り、着席した特務司書が谷崎に言う。
「お伺いしましょう」
 ふん、と谷崎から鼻息が洩れかけた。
 やはり、ただのお人形ではない。
 普段司書室に近寄ろうともしない-司書室に用がない-谷崎が助手も輔筆も居なくなる時間を狙ってやって来たことを特務司書は見抜いている。それをさも当然の事と受け入れている特務司書に少し苛ついたがそんなことは露も感じさせず、谷崎は風呂敷包みを解いて菓子を茶器に添え、執務机に置いた。
「いただきます」
 躊躇なく茶を口にする特務司書に谷崎に不意に悪戯心が湧き上がる。
「まあ、随分と遠慮なく口にされること。もし私が毒物を入れていたらどうなさるおつもりですか」
 茶托に茶器を戻した特務司書が首をかしげて谷崎を見る。おや、という戸惑いを谷崎は見たような気がした。
「谷崎さんは、いえ他の皆様もそういうことはされないでしょう。それとも、この世に繋ぎ止められるのを飽いて私共々果てようとされたい、とか」
 特務司書の答えに谷崎は笑い出した。表情そのままに特務司書は続ける。
「館長とネコならそういうこともあり得ますが、私の力で転生された皆様は私の行く末がどの様なものであれ、転生解除されるまでは今のさまでいらっしゃいますよ」
 谷崎はまだ笑い続けた。特務司書の表情が困惑に移る。
「それで、ご用件は何でしょう」
 谷崎は笑いを収めると口元を押さえていた袂をもどし、輔筆の椅子に座り直した。
「ええ、ええ。実は直哉さんの指環のことです」
 谷崎は特務司書の漆黒の瞳を見つめて話し出した。

 ※※※ ※※※ ※※※

「そんなことが、あったのですか……」
 谷崎の話を聞き終えた、特務司書の第一声はこれだった。
 有魂書潜書を終えた翌日の朝の食堂での志賀直哉の言動-広津和郎の姿を見て言葉を失い涙を流したこと-を聞いて特務司書は、志賀さんに何が起こったのかをお疑いですか、と訊いて来た。谷崎は黙って頷いた。それを受けて特務司書は考え込でいる。
 芥川龍之介と太宰治が指名されて秘密任務についている、という報は国木田独歩ら自然主義の取材組から密やかにかつ速やかに転生文豪達の齎された。後に筆頭術者アルケミストから任務内容は己の有魂書への潜書だと告げられたが、何のためにという所までは説明はされなかった。準備が出来次第、順次お一方ずつ潜書をお願いすることになります。とだけ告げられて、太宰以降呼ばれたのは、萩原朔太郎、織田作之助、徳田秋声、泉鏡花、佐藤春夫、堀辰雄、中野重治、小林多喜二、武者小路実篤。そして先月の志賀である。
 潜書を終えた佐藤が、以前にもまして永井荷風を意識しているのを揶揄うついでに潜書の事を尋ねたが、最初は照れて口を濁していた。宥めすかし、とうとう酔い潰すという方法で引き出したのが、盛大な谷崎への感謝の言葉であった。酔っ払ったせいで要領を得なかったが、どうやら潜書中に永井と谷崎に出会ったらしいことは分かった。
 それがあって、谷崎は潜書をした面々の言動を注意深く見た。
 芥川と太宰はそれまでとは変わらないみたいだが他の面々は違った。談話室にいる北原白秋と室生犀星が雑談に花を咲かせているときでも、萩原は少し離れた席で詩作に耽っている姿を見かける。坂口安吾が有碍書潜書で織田が無茶をすることが少なくなったと江戸川乱歩に話しているのを聞いた。徳田秋声が最初の四人-織田、佐藤、堀、中野-を呼んで廊下の隅で打ち合わせているのをよく見かける。泉鏡花が手袋を変える頻度が上がったような気がする。堀の文豪達に対する態度が腰が引けたものではなくなったような気がする。驚いたのは中野と小林で、中野は耗弱状態で戻ってきたところを見たし、小林は潜書を繰り返すうちに失語症を発症してしまった。武者小路は潜書を途中で自主的に中止して文豪達-おもに自分が影響を受けたトルストイ-と時間を掛けて話し込んでいた。
 そして、志賀である。
「谷崎さん……」
 頭の中で潜書済み文豪達の言動を数えていた谷崎は現実に戻った。特務司書が漆黒の瞳で谷崎の意識がいまここに戻るのを待っていた。
「谷崎さんは、有碍書潜書中に我々術者アルケミストが有碍書を読んで●●●いるのをご存じですか」
 漆黒の瞳に谷崎は答えを返す
「ええ。緊急の場合に強制帰還させるため、と聞いています」
 特務司書は椅子に凭れて腹の上で掌を組み話し始めた。
「覚醒ノ指環を得るための潜書では、それが出来ないのです」
 瞬時、苦悶と呼んでいい表情が特務司書の顔を覆いすぐに消えた。
「潜書先は皆さんがお持ちの有魂書。侵蝕者と対峙するときに武器になる本です。皆様の文豪としての概念と人としての記憶と魂を宿す、皆様そのものと言っていい本。そこに潜って自らの記憶を集めて覚醒ノ指環とする。覚醒ノ指環は人としての記憶と魂の器になります」
 谷崎の理解を待って、特務司書は続ける。
「人としての記憶を辿るのは極めて個人的な行為になります。そこに第三者の介入は許されない。最初の芥川さんと太宰さんで何とか読めない●●●●かと工夫しましたが無駄でした。何が起こっているのか、潜書した文豪がどんな精神状態でいるのかわからない。魂の奥には侵蝕者がいるというのに」
 伏せられていた視線が遠くを見るように引き上げられた。
「潜書後、持ち帰っていただいた覚醒ノ指環と有魂書を補修して有魂書の記述を確認します。有魂書を読んで●●●覚醒ノ指環に移っていない記憶を覚醒ノ指環に移します。志賀さんの場合、私の読み込み●●●●が甘かったので、志賀さんが中途半端な記憶に戸惑ったというわけです」 
 言い終わると、特務司書は温くなった茶に口をつけた。口角が皮肉めいた形で吊り上がらなかったか……。
 谷崎はついと立ち上がり特務司書の菓子を執務机の上の置いて茶器を引き取る。茶を淹れ直すと執務机に戻し、机の上の菓子を添えた。
「直哉さんのあれはそういう事でしたか。記憶というのは広津さんに関することなのですか」
 特務司書は椅子に凭れたまま答える。
「わかりません。志賀さんからは潜書報告書は頂いていませんから。この潜書に関しては、潜書報告書の作成はお願いしてますが提出は義務とはしていません。内容によっては生前言葉にできなかったことを報告させることにもなりかねませんから」
 また一瞬、特務司書の表情に苦悶が走った。谷崎は見逃さなかった。
「でも、司書さんはなにか対応されているのでしょう」
 特務司書は身体を起して執務机に両肘をついた。組んだ両手に顎を載せ呟くように言った。
「ええ、いくつかは。でも…………」
 珍しく特務司書が言い淀んだ。谷崎が促すと両の口角が思い出したかのように湛え吊り上がった。
「志賀さんに怒られました。不遜だと。俺達を信じろと」

 谷崎は風呂敷包みの菓子を半分司書室に残して退室した。騙し討ちのように今日の予定を引き出した松岡を宥める意味も含めて。
 志賀は長寿であったため、そして精神が安定であるため、記憶の取り残しがあったのではないかと考えていると最後に聞かされた。
 あら、それでは私も直哉さんと同じことが起こるかもしれませんね、そのときは涙を流すために膝を貸していただけませんか、と軽口を叩いてみた。
戸惑い慌てる特務司書の顔は人形というよりも幼子のように見えた。

<了>

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