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逬発 1

 帝國図書館研究棟2階、潜書準備室。
侵蝕現象対応の最前線である帝國図書館研究棟に休みはない。潜書業務が
中止され、研究が中断されても、蔵書の侵蝕現象は中止も中断もされない。新たに発生さえもする。ゆえに潜書以外の業務は通常通り行われている。
侵蝕の程度が軽く術式で進行を抑えている有碍書の監視や新たな侵蝕の有無の巡警、補修で使った資材の補充、報告書のまとめなど、術者アルケミストがやることは多い。
 生前作家としての名を成さなかった魂が転生するという今回のイレギュラー事象は、転生者に転生解除を施して、その魂を作家として有魂書に定着させるという方法で一応の結着がついた。今のところその有魂書に侵蝕現象が発生していないことが確認され、研究棟の全術者アルケミスト召集の命は解かれた。補修室付きの術者アルケミストも緊急呼び出しに備えた待機を命ぜられてはいるが、昨日まで程の緊張感はない。今潜書準備室にいるのは、特務司書に次ぐ実力者といわれている筆頭術者アルケミスト一人である。
 筆頭術者アルケミストは森鷗外に連れ出された特務司書の帰りを待っていた。転生者の魂の定着の施術を終えたのは3時間ほど前、食堂で夕餉の提供が始まるころ。遅い、と彼は思い始めていた。改めて本日の当直を確認する。特務司書から指示のあった通り、彼と彼に次ぐ実力の筆頭補の術者アルケミスト三名のうちの一名、補修室付きが二名の合計四名。もし特務司書の懸念する事態が発生したら。対処方法の指示は出ていたが、この四名で対応できるだろうか。研究職の術者アルケミスト何名かが今夜のうちにも研究を再開すると言っていたから、研究棟に術者アルケミストが四名だけということはないだろう。が、研究職の術者アルケミストは補修室付きの術者アルケミストよりも実力が劣る。彼は待機中の補修室付きの術者アルケミストを指折り数え始めた。
 筆頭術者アルケミストが一人緊張感を高めている時、潜書準備室の扉がノックされ、ゲーテが入室してきた。彼の緊張感が別の意味で高まった。彼はゲーテが苦手である。いや、警戒している。
「ゲーテさん、何かありましたか」
 先手を取って、ゲーテの入室意図を探った。ゲーテはにこやかに答えた。
「いえ、中断していた研究を再開しようと思いまして、当直の責任者である貴方に一言お断りをしに参りました」
 あくまでゲーテの物腰は柔らかであるが、唇にうっすらと皮肉な笑いが浮かんでいることを筆頭術者アルケミストは気づいた。が、悟られないように言葉少なに返す。
「わかりました。イレギュラー事象も収まりましたので、ご自由に」
「ありがとうございます。それと」
 言いかけてゲーテは口を噤む。うっすらとした笑いが冷笑に変わる。
「司書さんですが、森先生とお散歩をされた後、山本さんの介助を受けながらご自宅に戻られました」
 ゲーテは直ぐにいつものにこやかな表情に戻る。筆頭術者アルケミスト返事を待たずに、それでは、と退室した。彼はゲーテが去った後もじっと扉を見つめた。その後補修室付きの術者アルケミストに補修室に集合するよう命じるために席を立った。

※※※ ※※※ ※※※

 同じ頃、1階の談話室。休暇を取って旅行に出ていた内田百閒が帝國図書館に戻っていた。故郷に寄って買い求めた名物の饅頭を文豪達に渡しながら、休暇中に起こったことを聞いていた。
「へぇ、そんなに可愛らしいお嬢さんなら、僕も逢ってみたかったねぇ」
 呑気に松岡譲の淹れた煎茶を飲みながら内田は言う。目の前の芥川龍之介は風呂上がりの着流しだ。
「それより、龍之介が風呂上がりとは珍しいこともあるね」
「芥川君、彼女の原稿を見つけたことに気をよくして未整理資料庫に入り浸ってるんですよ」
 饅頭を頬張る芥川に代わって久米正雄が答える。
「埃だらけになるので、寛に毎日風呂に放り込まれてるんです」
 ふふ、と笑って松岡が内田と芥川の茶を注ぎ足した。そういえば、と内田が周りを見回す。
「菊池君の姿が見えないようだけど」
「山本を探してます。本館ロビーの展示が延長になったから、案内の当番を決め直すって」
 久米が答える。
「山本さんがどこにいるか、誰も知らないの」
 芥川が松岡に聞いた。松岡は久米と顔を合わせ答える。
「僕はお昼に食堂で会ったきりですね」
「今日のレファレンスサービスは寛と山本と国木田さんだったよね。僕と堀君が休みだった。芥川君、一緒に戻ってこなかったの」
 碗の煎茶を飲み干して芥川が答える。
「うん。山本さん、終業すぐに研究棟に戻ったって。僕を捕まえに来た寛が言ってたよ。風呂から上がるとすぐ探しに行った」
「では、寛は夕食は取ってないんですね」
 松岡が急須を差し出し芥川に聞く。芥川は左手で断って答えた。
「多分。山本さんも夕食は取ってないんじゃないかな」
 内田が空になった煎茶碗を右手で弄りながらそれを聞いていた。松岡が軽食を用意した方がいいですねと言い席を立とうとした時、菊池が談話室に入ってきた。立ち上がった松岡が菊池に声を掛けると、菊池は右手を上げてそれに応え、そのまま談話室から食堂に抜け、食堂を一巡りして、内田達のもとにやってきた。
「山本は見つかりましたか」
 松岡は声を掛けて煎茶を淹れた。
「見つからない。ここには来なかったか」
 菊池は答えながら、隣のテーブル脇のスツールを引き寄せ座る。内田は菊池の茶碗の傍に土産の饅頭を置きながら言った。
「山本君なら司書さんのご自宅にいるんじゃないかなぁ」
 ええ、と皆の視線が内田に集まる。
「ほら、山向こうの街で鉄道の試験運転があったろう。無人で動く列車の実験っていうのが。それに乗ろうと思って山向こうの街に寄り道したんだ。それでぐるっと回って帰るのが面倒で、山越えをして見晴らし台を通って帰ってきたんだよ。そしたら山本君が司書さんを抱えてご自宅に向かってるのが見えてね。司書さん、かなり具合が悪そうだったから、山本君が看病してるんじゃないか」
 煎茶に噎せた菊池の背中をさすりながら芥川が聞く。
「百閒さん、それ、先に言ってください」
 医務室に連絡しますね、と言って松岡が席を立った。僕も行く、と久米が後を追う。息を整えた菊池が内田に聞いた。
「何時ぐらいの話ですか」
 内田は談話室の掛け時計を見た。時刻は21時40分。
「3時間ぐらい前だね」
 菊池は周りを見渡した。潜書業務の中止と待機命令は続いている。正式な通達や連絡はないがほっとしたような淋しいような静かな空気が流れている。わっと食堂から声が上がって菊池はびくりとした。吞兵衛たちが飲み会を開いているらしい。それ以外で騒いでいる様子はない。
「司書室に行ってくる」
 寛、と呼び掛ける芥川に片手を振って菊池は談話室を出た。

※※※ ※※※ ※※※

 菊池は着流しの裾が割れるのも気にせず階段を駆け上がった。司書室は2階の奥にある。菊池は医務室を補修室を通り過ぎ司書室の扉を開ける。ノックももどかしく、勢い込んで部屋に入ったが、室内灯は点いておらず誰もいない。スイッチを入れ、明るくなった室内を確認したが、執務机に書類が整えて置いてあるだけで、人の気配はなかった。
「菊池先生」
 明かりを消し司書室を出た菊池に補修室の入り口から声が掛かった。当直らしい術者アルケミストが菊池を補修室に招き入れる。久米が補修室のベッドに寝かせられ、松岡が付き添っていた。
「寛」
 入ってきた菊池を見て、松岡が弱弱しい声を掛ける。松岡も真っ青な顔をしていた。
「松岡」
 ベッドの上の久米が声を掛ける。菊池が見ても久米が耗弱に落ちかけているのが分かった。
「司書さんは、僕たちを助けてくれたときのように……」
 ふいに松岡が右手で左胸を抑えながら蹲った。松岡の額に脂汗がひかり、表情が歪む。菊池は『新思潮』に潜書した時のことを思い出した。侵蝕者に落ちかけた松岡の姿、浄化完了後久米と松岡が特務司書の同時補修を受けていたこと。
 術者アルケミストの一人が松岡を支えて立ち上がらせ、隣のベッドに腰掛けさせる。久米の補修をしていたらしい術者アルケミストが立ち上がった。研究棟の術者アルケミスト達から筆頭と呼ばれている彼が補修室にいる術者アルケミスト達のひとりに指示を出した。
「私は司書の自宅へ向かうので、久米先生と松岡先生の補修をお願いします。集まった皆には司書の自宅へ向かうようにと伝えてください」
 術者アルケミスト達に緊張感が走る。指示を受けた術者アルケミストとは別の一人が筆頭術者アルケミストに声を掛けた。
「準備ができました」
 筆頭術者アルケミストは頷いて答えると菊池に向き直った。
「ご足労をかけますが菊池先生も同行をお願いします。山本先生が心配です」
 菊池が答えようとした時、医務室から森鷗外とゲーテがやってきた。筆頭術者アルケミストは森に声を掛けた。
「森先生にも同行をお願いします」
 森はそれに答えず、松岡が座るベッドに近づいた。ゲーテが口を挟んだ。
「森先生ではなく、私が参りましょう」
 術者アルケミスト達が一斉にゲーテに向き直りじっとゲーテを睨んだ。術者アルケミスト達の緊張感が高まったのを菊池は感じた。
「ゲーテさんは補修の手伝いをしてください」
 筆頭術者アルケミストが冷たく言い放った。久米が急に起き上がろうと藻掻き、菊池に向かって言った。
「僕も行く。寛、僕も連れて行ってくれ」
 起き上がろうとした久米に近寄ろうとした松岡がバランスを崩し森に抱き止められた。久米は補修を引き継いだ術者アルケミストに肩を抑えられてベッドに戻った。が、なおも菊池に呼び掛けた。
「お願いだ、寛。あの時も、あの時も、山本がいたんだ……」
 久米、僕も、と松岡も森の肩を掴み立ち上がろうとした。が、森に手首を掴まえられ、肩を押されてベッドに座らせられた。森は振り返ってゲーテに言った。
「ゲーテ殿。手伝ってくれないか」
 一瞬ゲーテが纏う空気に拒否の気配が流れた。が、すぐにいつもの穏やかな口調で森に応えた。
「私でよろしければ」
 言い終わるや久米の傍に近づいた。そのゲーテを補修をしている術者アルケミストが睨み上げた。
「森先生」
 筆頭術者アルケミストが声を掛けた。
「俺より、斎藤君を連れて行きたまえ。その方が役に立つ」
「…………わかりました」
 筆頭術者アルケミストは答えると、菊池を促して特務司書の自宅に向かった。

※※※ ※※※ ※※※

 国木田独歩は今回のイレギュラー事象について、取材メモを見ながらノートに纏めていた。出来事の当事者、経緯、結果、記事にした内容ー今回は記事ではなく『図書館通信』への寄稿と本館ロビーの展示内容。そして己の感想と考察。特務司書は本当は何がしたかったんだ。いや隠したかったことから考えてみるか。そう思った国木田は一旦ノートから目を上げた。菊池寛がせかせかと談話室に入ってくる。すぐに食堂に向かい戻ってきて芥川たちのテーブルに座る。あそこのテーブルは、内田、芥川、久米、松岡……。芥川と久米、あいつら一緒にいて大丈夫か。国木田は島崎藤村ほど芥川への執着はないが、何かの機会に取材しようとメモの片隅に「新思潮・関係・改善か」と書いて四角く囲った。
 それよりも早く纏めてしまおうとノートに向かった国木田の耳が「司書」という言葉を拾った。言葉の出所は菊池達だった。国木田が目を向けるとすぐに松岡が談話室を飛び出す。そのあとを久米が追う。一歩遅れて菊池も談話室を出ていった。事件だ、と国木田は思った。取材メモをノートに挟んで閉じ、白紙のメモとペンを掴んで、芥川達のもとへ向かう。
 席を立ち歩き始めた国木田の視界を赤いものが横切った。赤いものは酔っぱらったような足取りで食堂から談話室に入ってきた太宰治だった。そのまま菊池たちが出ていった談話室の入り口を出ていこうとしている。見慣れたはずの太宰の赤いマントが国木田の目を引いた。太宰の向かう方向には手洗い場がある。小用かとも思った国木田だが、太宰の様子を見てあれっと思い返した。太宰の芥川への尊敬の念は厚い。あれは一種の宗教だ、と坂口安吾が言うように、どちらかといえば熱い。なのでたとえ酔っぱらっていたとしても、太宰は芥川への挨拶は欠かさない。ほんの通りすがりでも。それがなかった。太宰は芥川なぞ眼中にない様子で談話室を出ていった。
 国木田は芥川たちの元へは向かわず太宰の後を追うことにした。

逬発  2へつづく




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