逬発 2
国木田独歩は談話室を出て太宰治の後を追う。ふらりふらりと歩く太宰は、手洗い場を通り越す。その向こうは通用口しかない。通用口に向かうのかと思った国木田は、手洗い場を見てふと考える。
文豪たちは全員男なのに、手洗い場は男女別に分かれている。術者に女がいるからなのか。見てる限りは使われたようには見えないが。それなのに風呂場は一つなんだよな。太宰の歩みが遅いので、追う国木田もゆっくりとした足取りになる。
そういや、藤村が俺達文豪が排泄するのはおかしいとかなんとか。たしか白鳥が来る前、アイツ飯時にそんな話をしやがって。花袋が大慌てで止めたっけ。あれで、ああ、こいつは島崎藤村だって思ったんだよな。国木田は視線を少し下げ、右手指を唇に添えて、ふふふと思い出し笑いをした。
目を上げると太宰がいない。慌てて太宰が向かった方へ走り寄る。がちゃがちゃと何かがぶつかる音となにやってんだ、お前という声が聞こえてくる。開けっ放しになった通用口を国木田が覗き込むと、太宰と外出から帰ったのか志賀直哉をはじめとするする白樺派の4人がいた。
太宰は特務司書の自宅の裏口の扉を開けようとしていた。施錠されているそれは太宰が引っ張ってもがちゃがちゃと音が鳴るだけだったが、太宰は構わずドアノブを引っ張って開けようとしている。そんな太宰の両肩を掴んで志賀が止めようとしている。おや、と国木田は思う。
生前の因縁にはじまる志賀と太宰の言い争いは研究棟の恒例行事となっている。太宰がわざわざ志賀に絡みに行っているそれは、志賀が大人の余裕を見せて躱すため太宰の一人相撲となることが多い。普段は親の仇のように睨みつけている志賀が至近距離にいて、なおかつ肩を掴まれている状況で太宰が志賀に嚙みつかないわけはない。あれ、やっぱり太宰の様子は、と改めて国木田は不審に思った。
武者小路実篤が、太宰君、どうしたの、としきりに声を掛けているが聞こえている様子はない。顔色を青くした有島武郎が、肩を貸してくれるかい、と里見弴に凭れかかると、里見弴が有島を見上げながら、武郎兄、医務室へ行こうと研究棟に入ってくる。業を煮やした志賀が太宰に当身を喰らわせ武者小路と一緒に太宰を引きずって同じく研究棟に入ってくる。国木田は彼らに道を開けようと後ずさって何かにぶつかった。振り向くと芥川龍之介が国木田と同じように志賀たちを見ていた。
「芥川……」
国木田の呼びかけにゆっくりと、こちらを向く。芥川の視線がぼんやりとして国木田を見ているようで見ていない。
「どうした。芥川……」
再度の呼びかけにも芥川の空色の瞳は国木田に向けられたまま焦点は会っていない。当の国木田も芥川の瞳を覗いたまま言葉が続かない。
「おい、オマエら、どうしたんだ」
廊下に突っ立ってお互いを見ている二人に、志賀が下から声を掛けた。
先に立ち上がった武者小路が芥川の顔の前で右手をひらひらさせて言う。
「どうかしたんですか、芥川君。ぼーっとして」
目の前の手の動きが芥川のはっとした表情と頬の赤みを呼び寄せた。恥じらうように顎を引いて左の足元を見る。その肩越しに声がした。
「おい、なにやってるんだ、あんた達」
菊池寛が声を掛ける。菊池の後から斎藤茂吉と術者達がこちらへ向かっている。床に横にされた太宰と顔色のない有島を見ると彼らは足を速めた。俯く芥川の肩を菊池が優しく叩く。
「どうした、龍」
菊池にの声に促されるように顔を上げた芥川が言った。
「…………いや、寛。…………気が付いたらここにいて」
菊池は通用口の周囲を見回した。床に横になっている太宰。里見に支えられた有島。自分の状況に戸惑う芥川。状況を見守るだけの国木田。芥川と国木田を訝しげにみる志賀と武者小路。懐の隠しから鍵を取り出した筆頭術者が菊池達を通り越して特務司書の自宅裏口にたどり着く。施錠の確認をしようとした手が止まった。彼は振り返って通用口から研究棟に戻ってきた。失礼します、と声を掛けて芥川の額に右手をかざす。ふわりと小さな紋様が浮かび上がる。続いて国木田、菊池、志賀、武者小路と同じように右手をかざした。
「なんだ」
志賀が詰問する。確認させていただいております、とだけ答えると、太宰、有島、里見にも同じことを繰り返した。終わると筆頭術者は何も言わず考え込んだ。
「太宰っ」
「太宰君っ」
太宰を探し来たのか、坂口安吾と織田作之助が走り寄ってきた。坂口がそばにいる志賀に詰め寄る。
「なにがあった。あんた、太宰になんかしたか」
「言うことを聞かないから当身を喰らわせた」
なんだと、と掴みかかる坂口を武者小路が止めようとして弾き飛ばされ、太宰の隣に尻もちをついた。とっさに菊池が間に入って国木田に聞いた。
「国木田さん、あんた、なにがあったか見てないか」
その声に、我に返ったように国木田は周りを見渡した。志賀に掴みかかろうとしている坂口。坂口を止めようとしている菊池。なんで、坂口と菊池がここにいるんだ。あ、いやそうだ、太宰が……
「あ、ああ。太宰が司書ん家の扉を開けようとしてがちゃがちゃやってって、それを志賀が止めようとしたんだ」
「なんで、太宰君、そんなことを」
「わからん。帰ってきたらここで太宰と鉢合わせした。いつもだったら噛みついてきやがるのに、真っすぐ司書の家に向かって扉を開けようとした。鍵が掛かってんのに開けようとするから、止めたんだ。けど止めねえ。だから当身を喰らわして扉から引きはがしたんだ」
騒ぎを聞きつけて食堂や談話室にいた文豪たちが集まってきた。国木田は島崎と田山から取材してないのか、と聞かれ、初めて自分がただ見ていただけだったのに気が付いた。内田が芥川の傍に来た。
「龍之介、何も言わずに席を立つなんてひどいじゃないか」
言いながらも芥川の顔色をじっと見る。芥川はまた呆けたように特務司書の家の方を見ていた。その間をすり抜けるように補修室の術者が筆頭術者の傍に集まった。斎藤が太宰は気を失っているが怪我はないことを坂口と織田に伝えた。有島は医務室で詳しく診察すると言われ、里見に付き添われて医務室に向かった。筆頭術者は集まった術者それぞれに指示を出した。ひとりが有島と里見の後を追って離れた。斎藤が通用口を出て特務司書の自宅裏口の前に立ち、菊池に来るように促す。菊池について島崎も通用口を出ようとして斎藤に止められた。
「病人がいるかもしれん。医師として取材は許可できない」
島崎が斎藤を見上げて聞く。
「病人。誰なの」
「守秘義務だ」
「駄目なの。皆知りたがってるよ」
「知らせる必要があれば知らせる」
術者が一人、斎藤と島崎の間に割り込んできた。
「菊池」
志賀が菊池に声を掛ける。
「何かあればお知らせします」
それだけ答えて通用口を出ると、割り込んだ一人ともう一人の術者が菊池の後に続く。さっと、その場にいた術者が通用口を塞いで菊池達と他の文豪たちを分けた。
怪我してないんやったら部屋につれていかへん、と太宰を指さして織田が坂口に言った。ああ、と織田に応えたが、坂口は菊池達の去った方、術者達の方を見ていた。取材を断られた島崎が振り返ると国木田が魅入られたように通用口の方を見ている。国木田、と呼び掛けるとやっと島崎の方を向く。ああ島崎、居たのかというとまた国木田は通用口の方を見る。ねぇ、国木田、と呼び掛けた島崎の視界に芥川が映った。自分を毛嫌いしている芥川が至近距離にいることに島崎は気づいた。芥川も呆けたように通用口の方を見ている。内田が芥川の肩を叩き声を掛けた。
「龍之介。談話室に戻るぞ。そこで菊池君を待とう」
そうですね、と答えたが芥川は動こうとしなかった。内田が芥川の手を取って強く握った。芥川は首をめぐらして、内田を眺めた。行くぞ、とだけ言って内田は手を引いた。内田と芥川を見送った島崎が国木田に声を掛けた。
「ねえ、国木田。なにがあったか教えてくれない。全部見てたんでしょ」
島崎の問いかけに、国木田はああともううとも聞こえる曖昧な声を上げた。また通用口の方を見ている。はぁ、とため息をついて島崎は国木田の腕を掴み、談話室の方に引っ張っていった。その様子をただ見ていた田山が慌てて後を追った。安吾、と声を掛けられた坂口が振り返り、太宰の上体を起こした織田を手伝って、太宰の左わきから身体を支えようとした時、太宰が目を覚ました。太宰君、大丈夫、と声を掛ける織田を振りほどいて、太宰は立ち上がろうと藻掻いた。腰が抜けているのか、ぺたりと尻をついて座ると腕を伸ばし四つん這いになった。おい、太宰、と坂口が声を掛けるが太宰は答えず通用口に向かって這って行く。またかよ、と志賀が言い、太宰の行く先を通せんぼした。太宰は志賀を回り込んで避け四つん這いで進み続けた。織田が太宰のマントを掴み止めようとするが、太宰はマントを脱いで先に進もうとする。坂口や織田からの呼びかけも聞こえないようにただ通用口に向かって進み続ける。
「坂口、このまんまじゃ止められねえ。抱えて部屋まで運んでくれ」
何度目かの通せんぼを回避された志賀が坂口に言った。ほんと、面倒くさい奴だよと坂口はいい、太宰の左腕を取って引き上げる。太宰は坂口を振りほどこうとするが体格の差もあって、後ろから羽交い絞めにされた。それでも振りほどこうと藻掻く太宰に手を焼いて織田に声を掛けた。
「オダサク、一発殴れ」
太宰君、ごめんやで、と言って織田は思い切り太宰に当身を喰らわした。
「ほんまに、どうしたん。太宰君」
「鉢合わせしたときからこうでした」
織田の疑問に武者小路が答えた。
「太宰君だけではありません。芥川君も、国木田さんも」
「とりあえず、太宰は連れていく。手間をかけた」
そう言い残して坂口は織田と一緒に太宰を連れて職員宿舎に向かった。
「志賀、有島のところへ行こう」
考え込む志賀に武者小路が声を掛けた。
「菊池君が何か知ってそうだけど、きっと彼なら教えてくれるよ」
そうだな、と答えて志賀は武者小路と共に医務室に向かった。
逬発 3へつづく