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逢半身 1

 正午のチャイムが鳴ると早々に事務室を出た。職員専用口から閲覧室に出る。自然光を取り入れた閲覧室の明るさに目を瞬かせる。本が居並ぶ独特の匂いが彼女を誘導する。
 ー今日はあちらの棚を見てみよう。
彼女はそう思うと閲覧室の奥を目指した。がその途中にレファレンスサービス担当の司書を見かけた。司書は彼女を見つけるや否や睨みつけてきた。いつものことなので気にせずに彼女は進む。事務室職員が閲覧室に出ることは特に禁じられていない。が、司書達はあまり良い顔はしない。彼女に対しては特に……。
 司書が周りを確認する。利用者は居ない。今は昼餉時なので、利用者も食事を優先しているのであろう。それを確認すると、司書はずかずかと彼女に近づいてくる。
「ちょっと、貴方」
 司書に呼び止められて彼女は渋々振り返る。配架途中であったのか、所蔵書籍が積まれたカートを引っ張っている。その量から、開館準備中に配架が間に合わなかったのだろうと彼女は考えた。
「いったい、何度言ったら分かるの。勤務中に閲覧室に降りてこないで」
 司書のこの言い草も彼女は聞き飽きていた。
「貴方みたいな図書館運営の知識のない人がここにいたら利用者が迷惑なの。本の事聞かれても対応できるの。答えられないでしょ、何も」
 図書館の司書は技術職に分けられる。彼等彼女等は職業専門学校でそれらを学ぶ。
「大学を卒業してお偉いのかもしれないけど、ここでは素人なんだから制服姿でウロウロしないで。利用者が私達と勘違いするでしょ」
 ちらりと人影が見えた。それに気づくと司書は小声で、早くもどりなさい、と言い残しカートを引いて去っていった。 
 ふうとため息をつくと彼女は司書が見えなくなるのを確認した。振り返って目的の書棚に向かう。向かう先には二人連れの姿が見えた。
 一人は白に近い銀に処々金が混じる長髪で細身の黒のスラックスと長袖の白シャツに黒のジレを着、柔らかそうなモカシンを履いて滑るように歩いている。もう一人はその少し後ろをついて歩いている。こちらは蒼色の短髪で抑えた紺地に白のストライプのスーツ姿だ。ちらりと見えた横顔に一人は確かに見覚えがある。銀髪の方は研究棟の職員だ。では、もう一人は……。
 珍しい髪色だと思った彼女がもう一人を見直せば、蒼味が強い黒に見える。もう一人は恐らく新しい研究棟の職員だろう。銀髪の彼がスーツ姿の彼-後ろ姿で判断するに男性であろう-に小声で何か話しながら彼女の先を歩いている。この先は、医学系の専門書が並ぶ。彼等は医学書の総論の棚で足を止めた。彼女の用はその先の薬学の棚だ。
「失礼します」
 無言で通り過ぎのを憚って彼女は小さく声を掛けた。首だけ振り向いた銀髪の彼が彼女の制服を認め、身体を向けた。
「お疲れ様です。開館時間中にお邪魔しています」
 穏やかな声が彼女に届いた。相変わらず人形のような人物だと思った瞬間、凛とした花の花弁を降りかけられたような幻視が彼女を見舞った。
「こちらは新任された方で、医学に造詣が深い方なので、たびたびこちらにお邪魔することになるかもしれません」
「いえ、ご遠慮なく……」
 では、と本館職員の研究棟職員に対する型通りの答えをすると彼女は目的の棚に向かう。やはり、研究棟の……。本当にどちらも美しい……。人間離れしてる……。銀髪の……特務司書って呼ばれてたっけ、さっきの司書のお気に入りだけど……彼が閲覧室にいることをあの司書は見咎めるかしら……。
 貴重な休憩時間に足止めを喰らい、本の物色に時間をかけることが出来なくなった-閲覧室の端から事務室に戻るには時間が掛かる-彼女はそんな意地の悪い気持ちを鼻歌を歌うように心の中に流した。

 ※※※ ※※※ ※※※

 研究棟の職員は皆美形である-これは本館職員一同の総意だ、今も昔も。
事務室の古株職員ー十五歳で奉職し間もなく定年を迎える男性職員も、十八歳で奉職し十年以上-多分それ以上務める女性職員も口を揃えて言う。前から研究棟職員は美しいと。
 そのレベルがここの処急上昇している。あまりの美しさに殆どの利用者は二度見する。そして道を譲るように後ずさる。彼女は総合案内の司書達が研究所職員に見惚れて仕事の手を止め、彼等に関心のない、もしくは利用が頻繁である程度見慣れたごく一部の利用者から、貸出手続きをせっつかれクレームを受けた処を見た事がある。
 髪色が奇抜-蒼色というのは大人しい方でピンクや紫もいる-で、瞳が人にあらざる色-赤や緑、そういえば新任として紹介された男も黄色だったような-に見えたり、物言いが大仰-時代劇で見聞きすような文語体-で、ピント外れな言動-検索システムが使えず紙の目録を捲ろうとする-をしても、均整の取れた姿態で美しく端正であるのは何物にも代えがたい。彼らの子供であろうか研究棟の周りで戯れている幾人かもとても可愛らしくて見ているこちらが癒される。悪戯をして叱られる姿まで愛らしい。
 時折本館に現れ、研究棟職員特権で蔵書を借りていく彼等を待ち望んで、貸出カウンターの担当の奪い合いが司書達の間では日常の風景になっている。が、貸出カウンター以外の業務も担当する者-レファレンスサービス担当の司書や事務室の職員-は銀髪の彼、特務司書のファンが多い。実はこちらの方が多い。研究棟職員の中では、特務司書が一番本館職員と接触機会が多い。週末には必ず業務終了前に館長に書類-主に活動報告書-を届けに来るし、レファレンスサービスで蔵書の問い合わせをするのも彼が一番多い。
 彼とお近づきになろうとしたレファレンスサービス担当の司書の一人が検索結果を書き留めたメモとは一緒に自分の名前と連絡先を記したメモを渡そうとしたが、怪訝な顔をして彼が検索結果のメモだけを持って研究棟に戻った。その司書は諦めきれず、今度は手紙も一緒に渡したようだが微笑とも苦笑ともとれる表情の彼がカウンターの上の手紙をを滑らせるように司書に返したこともあった。
 彼女がこういったことを知っているのは、事務室での勤務中、業務に飽いた職員たちが話すのを傍で聞いているからだ。時には休憩中の司書達がお八つを片手に駄弁りに来た。そしていろいろな噂話を置いていく。司書達の噂話も大抵は研究棟の美しい職員達の事だった。
 手隙の時間には彼女は進みたかった研究分野の本を読んで過ごしているから職員達の話の輪には入らない。いや、入らせてもらえない。
 なぜなら、彼等は義務教育修了者もしくは職業専門校修了者であるが、彼女は大学卒業者だからだ。

 ※※※ ※※※ ※※※

 物心ついた時には彼女は施設にいた。事故や災害で親を亡くした子供がいれられる施設。最初は住んでいた地域の自治体が開設運営していた施設だったようだが、最後に入所したのは政府管掌の施設であった。
 彼女は台風災害の土砂崩れで生き残った、と最初の施設の職員から聞いた。そういうこともあったのかと今でも彼女は思う。朧げに天井の低いどこかにだれかと一緒に居たような気がするが、それが災害に会う前の自宅であったのかは彼女にはわからない。なので、突然大勢の子供達の中へ放り込まれ五、六人の大人と一緒に暮らしている記憶が彼女の一番古い記憶になる。
「泣きもしないし、暴れもしない、何もせずぼんやりしている子供だったわ」
 大学入学が決まった時、挨拶に行った最初の施設の職員が懐かしそうに言った。
「それでも、本を読むときは熱心だったわね。食事の時間も本を離さないんですもの。あの頃からなのね、今みたいになるのは」
 職員は彼女が大学に入学することを自分のように喜んだ。多分、この件で特別ボーナスでも貰っているんだろう。この施設の子供達はこれまで皆義務教育終了で働きに出たからだ。大学に入学する、そして卒業して政府機関や組織で働く子供は彼女が最初だった。が、彼女はこの職員が彼女から本を取り上げて自治体から請け負った軽作業を皆の倍以上押し付けたのを覚えている。孤児なのに本を読むなんて生意気な、と職員同士で話していたことも。
「いえ、まだこれからですよ……」
 当たり障りのない言葉を残してさっさと立ち去った。続いてその施設を出て移った施設にも行ってみた。近かったからである。が、外から眺めただけで立ち去った。そこは最初の施設のような所から学力でふるいに掛けられた子供達が集められていた。自治体依頼の軽作業はない代わりに、子供同士の壮絶ないじめ合いがあった。学力と職員達の心証で子供達の先々が分けられるため、少しでも自分の心証を良くしようという告げ口合戦が二十四時間三百六十五日果てなく繰り広げられる戦場だった。そこでも彼女は告げ口の標的となった-誰とも話さず誰にも弱みを見せないから-が、学力で其等を黙らせた。一年待たずに彼女は政府管掌の施設に移った。そこも戦場ではあったが、誰もが自分の学力を実力を伸ばす事だけに集中していた。彼女にとっては極楽だった。

 政府管掌の施設に移る時に自分の体験した制度がなにに由来するのか調べた事がある。
 約百年前、欧州で戦争勃発の懸念が世界を駆け巡った頃、この国に未曾有の災害が襲った。異常気象はその前から言われ続けていた。恵みを齎す雨はすでに日常の平穏を脅かす脅威と変わっていたが、人々はそれを認めていなかった。
 二つの大型台風がこの国を襲った。大昔の偏西風に乗って通り過ぎるものではなく、熱帯低気圧から台風に変わった激しい勢いの嵐が二つこの国の南側沿岸に停滞した。二つの台風はこの国の全土を覆い、この国のそこかしこに豪雨を降らせた。警報や避難勧告が間に合わない中、さらにこの国を災害が見舞った。南海トラフを震源とする巨大地震がこの国を見舞った。
 人知の及ばない災害に人知の範囲内の予防措置は効果を示さなかった。二つの台風が去った後、現れたのは主要都市や経済基盤の壊滅と人口の大幅な減少だった。この時の人口減少はとの程度なのか実数は百年後の今も分かっていない。学者によって数値の幅が大きすぎるのだ。人々も時の政府もなすすべもなく立ち止まった。が、この国で一人前に進もうとする人物がいた。
 皇室-今は帝室と改められたが-のご一人、天皇が前例を覆す如くこの国に檄を飛ばした。皇太子がその手足となって率先して働いた。それに応えた人々がこの国のあらゆることを作り替えた。
 彼等が新しい政府となりこの国を帝國として作り直した。檄を飛ばし人々を奮い立たせた天皇を帝と仰ぐ国として。
 その時、最初に着手したのが災害孤児を含めて子供を有効人材に育成する今に続く教育制度とこれからも起こり続ける災害を見越しての被災援助制度だった。

 皮肉な嗤いしか浮かばなかった。確かに自治体に保護された孤児は衣食住は保障される。一日三食きちんと食事は出るし、相部屋とはいえ個室も与えられる。衣服は成長や季節に応じて整えられるし、希望する物はある程度買ってもらえる。一定の年齢を超えればアルバイトは自由だ。最初の施設はアルバイトを奨励していた。
 義務教育の同窓生の中には、両親が揃っていても親が職に就けず満足に食事も出来ていないような者もいた。継の当たった服を着ている者もいたし、親兄弟のぶかぶかのお古を着ている者もいた。義務教育も後半になると彼等は学校に来なくなった。たぶん働いているのだろう。修了証をそんな彼等に郵送する職員の手助けをしたことがある。
 だが、彼等は皆親や家族の話をするときは幸せそうに笑っていた。

 政府管掌の施設に移って初日の夜、相部屋の生徒-ここでは彼女達をこのように呼ぶ-が寝入るのを待って、調べた事をまとめたノートを見直す。読み直していくつか書き足してから、彼女はふん、と鼻を鳴らし考えた。
 全国に政府管掌の施設は五カ所、そこにいる生徒達は皆大学に入学する。帝都になるか旧都になるか山都になるか分からないけれど、皆三つの帝國大学のどれかに入る。そのための援助を国から受けている。大学を卒業すると政府機関や組織に奉職する。働き口も決まっている。そのかわり政府からは逃げられない。
 彼女はそう結論付けると、ノートにその旨を書こうとして止めた。顔合わせの時にも大人がするような型通りの挨拶で終わった。食事も皆黙って淡々と食べ、終わると部屋に戻っていた。相部屋の彼女も職員のヒアリングが終わって彼女が部屋に戻ると机に向かっていた。が……。前にいた施設の事もあって彼女は何も書き加えずノートを閉じた。
 翌朝、目覚めた彼女は同室の生徒からお早うの挨拶の後意外な言葉を貰った。
「ねえ、夜にノートを開いてたでしょ。勉強してたんだ。一日目からすごいなあ。もしかし、帝都の大学を狙ってるの……。だったら同じだね。一緒に勉強しようよ。ていうか、怠けそうになったら活を入れてほしいんだよね、アタシ」
 ああ、ノートに感想を書くのを止めてよかったという気持ちと何故こんなことを言ってくるのか訝しむ気持ちが綯い交ぜになったまま彼女は朝の挨拶を繰り返した。

 同室の生徒とは何度か衝突をした。彼女の目指すところも生徒が目指すところも同じで、拙いなりに其々の意見を持っているゆえだった。この政府管掌の施設で彼女等と同じ分野に進もうとする生徒は他にいなかったせいもある。意見を交わし衝突し、意見を交わし衝突する。その繰り返しの中、彼女と生徒とは親友となった。彼女にとっては初めて自分以外に自由にものが言える人間に出会ったのだ。
 が……。

「残念ながら、貴方は採用されません」
 大学の卒業審査で彼女は職員から否の回答を受けた。
「それに貴方の論文には剽窃の疑いがある。XXさんの論文と非常に似ているが微妙に違う、限りなく黒に近い灰色だ、と論文審査をされた先生方の意見です」
 職員は親友の名前を出した。そんな……と彼女は言葉を疑う。
「先に提出され審査を通過したXXさんの論文に極めて近いのです」
 そんなはずは……と言いかけた彼女の言葉を遮って職員は続けた。
「XXさんからも一応の聴取はしたのですが、担当教授の部屋で教授も交えて議論した結果がXXさんの論文だそうです。担当教授も証言されました」
 それは私の結論です、と言いかけたが、彼女の口はぱくぱくを動くだけで声を発しなかった。
「残念です、非常に。これからのことはこちらの職員とご相談ください」
 指示された先に初老の女性職員が手招きしていた。動き出せずにいる彼女に目の前の職員はどうぞと促す。それでも椅子に張り付いたままの彼女を見て職員達は舌打ちをする。焦れた女性職員が近づいてきて彼女の腕を取り立ち上がらせた。そのまま彼女は別の部屋に連れていかれた。

 彼女を別室に押し込めた女性職員と何を話したのか朧げにも覚えていない。ただ一言、働き口があればどこでもいい、と言ったような気がする。女性職員はそれではと事務的に紹介状を書き、帝國図書館の連絡先をメモし彼女に渡した。黙ってそれを受け取ると彼女は政府管掌の施設に戻った。施設の敷地内にトラックが止まっていて、そこに荷物を運び込む親友と担当教授がいた。呆然と見守る彼女に親友は余裕の笑みを残しトラックと共に去っていった。

 ※※※ ※※※ ※※※

 図書館全体が浮ついている、と彼女は感じた。原因は一つ。
 学生達の夏休みが終わるころ、館長から職員全体へ周知があった。研究棟の特務司書の事務方を募集する、というものだった。希望者は館長代理も務める主任司書へ申し出る事となっていた。
 日頃から研究棟職員の噂話を交換している司書達や職員達はこぞってそれに応募した。その中にはあのレファレンスサービス担当の司書もいたし、特務司書に手紙を渡そうとした司書もいた。事務室の古株の女性職員もいた。ルックスに自信のある男性司書が、俺も応募しようかと呟くのを周知された張り紙の前で見た。誰も彼も浮足立っている。この二、三カ月、特務司書しか本館に姿を見せず見目好い職員達は一人として姿を現さないでいるのは彼女でも知っていた。好奇心はそそられたが、文学を研究しているとしか知らされていない施設にはどこか不穏なものも感じていた。
 応募者は館長と主任司書の面接を受けると周知文にはあったが、面接を受けた者が増えるにつれ、浮足立った空気が急速に冷えて行った。
「あんな条件はないわよ」
 面接を受け帰って来るなり古株の女性職員は事務室中に響き渡る大声を上げた。いつものように手隙になったので本を読んでいた彼女も顔を上げ女性職員を見た。彼女はさらに叫ぶように続けた。
「信じられないわ。家族と縁を切れっているのよ。それに研究棟に住んで敷地から出るな。研究棟のことは何もしゃべるなって」
 ほかにも条件はあるらしいけど、と女性職員は興味を惹かれて集まってきた職員達に話し続ける。
「ええ、そんなの……。私も応募したけど、辞退します」
「何だか奇妙だね。箝口令を敷くなんて……。よくないことでも……」
「ここ政府組織ですよ。末端だけど」
 何時になくぼんやりと職員達を見ていた彼女を見つけて、女性職員は口元を歪めて言った。
「あら、貴方。興味があるなら面接を受けてみれば。貴方ならぴったりだわ。家族もいないし、その訳の分からない研究もやり放題でしょう」
 若手の職員がそれを聞いてクスクスと笑う。彼女は曖昧に答えて本に目を戻した。

 彼女が館長室に呼び出されたのは、その三日後だった。
 業務終了時間を過ぎるだろうから私服に着替えて来て、といって呼びに来た主任司書は事務室で彼女を待った。コソコソを職員同士で話すのを主任司書は密かに確認した。
 館長室に入ると、館長と日頃中庭をうろついている猫がいた。この猫は館長のペットだったのかと思う彼女を主任司書はソファへと促した。館長は入ってきた彼女をちらと見たが何も言わず執務を続けた。猫だけが彼女をじっと見ていた。
 彼女と自分のお茶を淹れた主任司書は彼女から少し斜め前に座った。彼女は顎を引いて主任司書を見た。話というのは、と主任司書は切り出した。
「話というのは、研究棟の事務方のことなんだ」
 ひとつ頷いて彼女は答えた。
「私は応募していません」
 うん、と応えて主任司書は続ける。
「分かっているよ。実はこの件については、僕から研究棟へ君を推薦しようと思っている」
 はい、とだけ答えた彼女を見て主任司書は一枚の紙を取り出した。ローテーブルに乗せると彼女の方に押しやる。そこにはこう書いてあった。

  一、研究棟内の居住区画で生活すること。
    図書館敷地外からの通勤は一切認めない。
  一、研究棟内で見聞きしたことは一切口外しない事。
    本館職員にも口外してはならない。
  一、採用された場合、これまでの交友関係の一切を禁じる。
    家族関係もここに含める。

 一瞥した彼女は、女性事務職員が言っていた勤務条件を思い出した。なるほど、結婚して子供もいる女性職員には受け入れがたいだろう。
「募集してきた者全員に見せている最低限の勤務条件だ。君自身のこれからの状況を考慮しても検討に値しないかい」
 これからの状況と言われて、彼女の瞳が鋭くなる。主任司書は明らかに彼女に向けられている政府の援助が終了することを言っているのだ。現在の生活は図書館勤務の俸給と政府援助で何とか賄っている。研究職への道は諦めてはいないが論文一つ作成するにも時間も参考文献も足りない。事務方は閉架書庫への入室権限は持たない。司書資格を取って司書に異動することも考えたが、彼女の価値観ではそれは時間の無駄だと結論付けている。
 考えるほどに彼女の瞳は鋭くなっていく。その時主任司書が座るソファにぴょんと飛び上がるものがあった。館長の執務机の上にいた猫がソファに上がってきたのだ。前脚を踏みソファの堅さを確かめるとくるりと香箱を組んだ。彼女は鋭くなってしまった目でちらりと猫を見るとまたローテーブルの紙を見た。
「君の状況は調べさせてもらった。ここに奉職することになった原因も含めてね。申し訳ない。それと君の勤務状況や勤務態度も含めて……。いやこちらが先か。君の勤務状況や勤務態度、事務方のリーダの意見を聞いて君が適任だと僕は思ったんだ。そのあと確認の為に君の事を調べた」
 彼女は黙って視線を上げ主任司書の言葉を待った。主任司書はちらりと館長を見た。
「噂が流れているから知っているだろうが、研究棟は一つの大きな秘密を抱えている。帝國図書館はその秘密の為に造られた組織だと言っていいほどのね。その秘密に携わる職員とその職員を補佐する研究職とその二つを統括するのが特務司書と呼ばれている人物だ。募集している事務方はその特務司書を直接補佐する。特務司書もいろいろと秘密を抱えている人物だ。研究棟は秘密だらけなんだよ。そこに勤務する者には何も話さず胸の内に収めておけるような人物がいい。君はそれができる人だと僕は思うよ」
 彼女は茶器に手を伸ばし口をつけた。煎茶の香りが鼻をくすぐる。一つ瞬きをすると主任司書を見て言った。
「それは私が日頃から職員の誰とも交流せず誰とも話そうとしない事への評価でしょうか」
 主任司書は茶を啜りながら興味深そうに微笑んだ。
「そう受け取ってもらって構わないよ。それに研究棟に異動になると俸給は上がる。業務内容が事務職でも立場は研究職になるからね。そもう一つ、閉架書庫への入室も自由になる。二十四時間ね」
 二十四時間も、と彼女の瞳は驚愕に広がった。

 彼女が館長室から退出したのを確認したのか、ネコは香箱座りを解いて主任司書に向き直った。
「面白い娘ではニャイか。隠そうとしているが感情が駄々洩れだ」
「ええ、今の特務司書にはぴったりかと」
 二人分の茶器を仕舞ながら、主任司書はネコと館長に言った。
「至急異動の手配したいが、急速に侵蝕が進んでいる本がある。それが済み次第になるな」
「わかりました。その心づもりで私も動きます」
 頷いた主任司書は館長室を出て行った。

 ※※※ ※※※ ※※※

 館長の部屋に呼び出されてから約一週間後、研究棟への異動は十一月初日からと主任司書から口頭で伝えられた。辞令はもう少し後になりますが、できれば今から私物をまとめておいてください、といって主任司書は事務室を後にした。
 事務職員の仕事の手が止まった。多くの職員は興味深げに彼女を見たが、古株の女性職員の顔が蒼白になっていた。くるりと事務室を見渡す彼女の視線を逃れようと皆そそくさと顔を伏せ手元の書類などをみた。
 彼女が研究棟に異動になる旨が本館職員にすぐに周知された。それ以降、本館の職員や司書が物陰に彼女を呼び出して囁いた。
「研究棟にはいかない方がいい」
「研究棟は危険だ」
「勤務条件がおかしい、何かあるに違いない」
「近づかない方がいい」
 勤務条件を聞いた者達の憶測から研究棟についての噂は広まっていたが、それを危惧しての忠告なのだろう。中には彼女が帝國図書館に勤務し始めてから一度も会話したことない者達もいた。
「あの人にはお似合いなんじゃない」
「家族もいないし、友達もいなさそうだし、勤務条件もぴったりよね」
「訳の分からないことを研究してたんでしょ。それを続けるにもちょうどいいんじゃない」
 ひそひそともしくはおおっぴらに嘯く声を彼女は聞いた。どちらの声もいつものように彼女は曖昧にやり過ごした。

 <逢半身 2>へつづく







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