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終章

 帝國図書館の敷地内にある自宅の玄関を出た特務司書-最高峰のアルケミスト-は、朝焼けの空を振り仰いだ。自宅の屋根越しに見える空は晴れ渡っている。空気は冬の訪れを告げている。此処に来た時と同じだった。
 視線を下げて自宅を見る。最愛の男-正確にはその抜け殻が眠り続ける自宅を。血色の良い唇が微笑みを浮かべると彼女は指先で自宅の扉に不可知の文字を描く。
―汝が精髄を集めよ。
 次の瞬間、自宅が消え右手の中指の爪先に洋墨-彼女が錬金術の媒介-が一滴現れる。洋墨を零さぬように左腕のラッパ袖をまくり上げ、左腕の肘から先に自宅の洋墨で何かを書きつける。ぱっと光の粒が広がると洋墨の文字は腕に吸い込まれる。
―これでいい。
 昨日斎藤茂吉を取り込んだ。もう戻れない時が流れ始めている。
 彼女はゆっくりと図書館に向かって歩き始めた。

※※※ ※※※ ※※※

 芥川龍之介は中庭の池の畔にいた。昨晩、匆々に眠りについた彼は、誰よりも早く目覚めた。常に酔い騒ぐ呑兵衛たちが珍しく皆自室に引き上げ-自室で吞んでいたかもしれないが-たので、昨夜の談話室が閑散としていたことを思い出す。皆は朝食に食堂に集まるかしら……そう思う今は朝の静寂が支配している。だが昨日と同じような一日はすぐに始まるのだろう。
 紫煙を燻らせ、芥川は待った。やがて彼の●●特務司書が現れた。
 普段は纏め結い上げている黒髪を下ろし、彼女の婚姻の際に転生文豪達が送った膝丈の薔薇色の洋装ワンピース-肩先は淡く、裾に向けて段々に濃く、肘から先のラッパ袖が優美に鬼百合の姿を模したドレープを描く-に身を包む。黒曜石より深い黒の瞳が芥川を認める。唇が僅かな微笑みを形造ると特務司書から声を掛けた。
「おはようございます。良いお目覚めですか」
 隣に並ぶや見上げる間を作らせず、芥川は特務司書に向かって跪き、右手を取った。中指の爪先に残る洋墨を着物の袖で拭うと彼女を見上げる。特務司書は芥川を見下ろし微笑んでいた。
「そうか……。君は……もう。ならば、僕も連れて行ってくれ」
 彼女の右手を額に押戴いて芥川が懇願した。
「勿論です。これは芥川先生にしか出来ませんもの」
 くすくすと笑った彼女は、右手を引いて芥川を立ち上がらせた。
 カサカサと下草が鳴り、二人が繋いだ手を解くころ、森鷗外が現れた。
「おはようございます、森先生。よい朝ですね」
 特務司書は穏やかに声を掛けた。

※※※ ※※※ ※※※

 どさりという音とともに白い軍服が倒れた。軍医の羽織った白衣が遅れてその姿に被さる。特務司書の隣の文豪は潜書外で有魂書自分自身を武器化できたことに驚く。彼女は有魂書芥川の本に再度不可視の文字を描く。彼女の想定では一撃で倒せるはず、芥川の練度であれば。上手くいかなかったことに眉を顰めた。次は上手くいくだろう……。
 彼女は森鷗外の傍に屈みこむと森の身体にまた不可視の文字を描く。
―汝が精髄を集めよ。
 森の姿が消えると-白衣も含めて-また特務司書の右手の中指の爪先に一滴の洋墨が現れる。また左のラッパ袖を捲ると左腕の内側に森の洋墨で書きつける。ぱっと光の粒が広がり洋墨の文字は腕に吸い込まれる。洋装ワンピース隠しポケットから手巾を取り出すと中指の爪先を拭う。
 武器を戻すことを忘れ、特務司書を呆然と見守る芥川に声が掛かった。
「龍之介君っ」
 振り返ると森鷗外と散策の約束をしていた夏目漱石がいた。

 芥川は特務司書を見た。彼女は変わらず微笑んでいた。
「おはようございます、夏目先生。良い朝ですね」
 特務司書は夏目にも同じように声を掛けた。愛弟子と特務司書の様子を見て、近寄りかけた夏目は歩みを止めた。潜書外では武器化できないはずなのに、芥川の右手は洋墨の滴る刃を握っている。特務司書は何事もなかったかのように微笑む。常よりも上機嫌で。
 特務司書が勇気づけるように彼の背に右手を添えると、芥川は自らを世に出した恩師に向き直った。空色の瞳は心の昂ぶりを映して潤んでいた。
「せん……せい」
 紅が目立つ脣が言葉を紡ごうとして閉じる。代わりに左の眦から雫が零れた。刃を握ったまま芥川は動かない。特務司書が促すように芥川の背をさする。零れる雫は止まらない。
「過ぎたお言葉でした。感謝をしても尽くせません。しかし……」
 刃の切っ先を地面に下ろし、引きずりながら芥川は夏目に近づく。空色の瞳孔が開く。
「同じぐらい、いえそれ以上に頂いた言葉を恨んでもいます」
 自分の言葉に怯えるように空色の瞳が震えていた。その言葉に夏目はその場に立ち尽くす。
「ごめんなさい、先生。僕は牛のように歩めない。昔も今も」
 どさりとストライプのスーツが倒れる。今度は一撃で倒せた。特務司書は満足げな笑みを浮かべる。芥川は恩師の傍に跪くと刃を投げ捨て洋墨まみれの手で顔を覆った。魂が引き裂かれたかのような低い呻き声が芥川の脣から洩れた。

 光の粒が芥川の視線を横切る。愛用のステッキ共々恩師の姿が消えたことを芥川は理解した。特務司書が濡らした手巾で芥川の顔と手を拭う。小児のようにされるがままの芥川の頭を特務司書は抱きかかえた。
「これで……。僕は……」
 腕の中で過呼吸発作を起こしかけている芥川の髪を撫で、頬を撫でると、特務司書は芥川の耳元で囁く。
「私はどこまでも先生とご一緒です。お連れしますよ、魂の底へ」
 感情を読み取らせぬ漆黒の瞳が空色を絡めとる。芥川の頬に口吻をひとつ落とすと両手を掴んで芥川を立ち上がらせた。
「先生は皆さまのところへ。私は司書室へまいります」
 そういうと特務司書は芥川の元を離れた。

※※※ ※※※ ※※※

 司書室には菊池寛がいた。特務司書が今日の助手に指定していた。
政府から回ってきた書類を菊池は至急とそれ以外とに分けていた。
「おはようございます、菊池先生。遅くなりました」
 かちりと鍵をかけると何事もなかったように特務司書は菊池に声を掛けた。菊池にはかぎのかかる音が聞こえなかった。
「おう、おはようさん」
 返事をして菊池は特務司書の姿をまじまじと見返した。
「どうした。……結婚記念日だったか、今日は」
 特務司書の今日の装いの意味を菊池は考えた。
 特務司書と夫君たる特務司書補との婚姻-アルケミスト同士は派手に行わないと言われたが-には、転生文豪全員で二人の婚礼衣装を設えた。和装も洋装も布地から誂えたとんでもない逸品が出来上がった。仕立てた呉服屋と洋装店が店の資料にしたいと言っきたが、それを断って徳田秋声が日常使いに出来るよう仕立て直した。
 今日の装いはそのうちの一つ。谷崎潤一郎が是非にと勧めたラッパ袖に德田が不平を漏らす一幕もあったが、色合いもデザインも特務司書の持つ不可思議で底の知れない魅力を引き出す。いや、今日はそれを底上げしている。白皙の顔に下ろした髪が縁取り、裾の濃い薔薇色が唇に写し取られたような様は、感情を読み取らせない漆黒の瞳と相俟って自動人形を思わせた。
「いえ…………。…………ええ、ある意味今日は二度目の婚礼かと」
 話す途中で一度考え込み、言い直した特務司書は執務机ではなく茶の支度に向かった。
 司書室に併設されたミニキッチンで茶の準備を終えると、特務司書は菊池をソファに招いた。二人分の紅茶を淹れ、菊池の前に座る。いつも●●●のように薔薇の精水エッセンスを垂らすと菊池に薦める。いつも●●●のように菊池が一口啜ると、特務司書が話し始めた。
「潜書をお休みにします」
 言葉を切って、特務司書は菊池の様子を伺う。菊池は先を促すように小さく頷いた。
「先生方もお疲れのようですし」
「俺達より、アンタだろう。疲れてるのは」
 83人の文豪を転生させ、現世に繋ぎ止めている特務司書に負担が集中していることを政府がやっと認め、侵蝕現象が落ち着いている今は以前ほどの潜書依頼はない。
 が、侵蝕が人の負の感情をエネルギーにしている以上、侵蝕現象がなくなることはない。広がる前に手を打つ、そのために一度侵蝕された作品の巡回潜書という業務が主になっている。
「そうですね……。…………私も、疲れました」
 親友芥川龍之介以上に心の内を見せない特務司書がほろりと気持ちを口にした。おや、と菊池は彼女を見つめ直す。淹れた紅茶に口をつけず、感情を載せない漆黒の瞳が菊池を見据えた。
「私も、休んでいいのかもしれない……」
 彼女は言い聞かすように吐き捨てると、席を立ち菊池の隣に座った。
「だから、休むことにしたんです。永遠に」
 廊下を走る音が扉越しに聞こえてくる。足音は司書室の扉の前で止まった。どんどんどんと乱暴に扉が叩かれる。
「司書、大変だ。芥川龍之介が……」
 この声は岩野泡鳴か島田清次郎か、芥川だって、龍が……と菊池はぼんやりと考えた。
「司書、開けてくれ」
 声と同時にぴしっという音が響く。
「大丈夫。私以外には開けられませんから」
 特務司書は扉を見つめてくすくすと笑う。菊池に向き直った顔は穏やかで落ち着いている。漆黒の瞳が菊池を凝視する。
 お前は……と言いかけた菊池の舌が縺れ、視界が霞み意識が朦朧とする。特務司書の両手が菊池の首に回る。藻掻こうとした菊池を鼻先が擦れ合う辺りまで引き寄せ、彼女は言った。
「大丈夫、と申し上げましたでしょう、菊池先生。貴方は傷つけないとお約束しましたもの、ご親友芥川先生と」
 ぱちんと音を立てて、彼女の指がアスコットタイの飾り止めを外す。
「これはお持ちしなければ」
 洋装ワンピース隠しポケットから手巾を取り出すと飾り止めを包んで仕舞う。
 だらしなくソファに凭れかかる菊池に身を預けると特務司書は恋人に甘えるように言った。
「お世話になりました、菊池先生。先生は最初にお呼びした佐藤先生よりも私にとっては頼りになる方でした。貴方のご親友芥川先生のことは私が凡ていたします。ご安心ください」
 言い終わると菊池の胸の上で特務司書は不可視の文字を描く。菊池の姿が特務司書の爪先の一滴の洋墨に変わった。

※※※ ※※※ ※※※

 図書館のエントランスで宮沢賢治と新美南吉を切った。宮沢の口が、どうして……と動く。それが終わらないうちに、小川未明と鈴木三重吉がやってきた。龍之介、と叫ぶ鈴木と誰かを呼びに行こうとした小川を切った。何も言わない、何も言い残させない。それが彼らには一番だと思った。
 それから先はよく覚えていない。
 久米正雄と松岡譲が庇い合って逝った。合い惚れの……と言われた昔のままに。
 山本有三と谷崎潤一郎と佐藤春夫に囲まれたようにも思った。堀辰雄もいただろうか。泣きそうな声が芥川さんと名を呼んだが振り切るように刃を一閃した。
 相も変わらず島崎藤村がメモを片手に近づいて来た。わざと何回か切り付けた。
 志賀直哉と有島武郎と里見弴には一瞬動きを封じられた。武者小路実篤が言葉を尽くして説得しようとしたのは覚えている。彼らも瞬殺した。
 ラヴクラフトの壺が向かってきたが、叩き落として割った。ポー共々主従を刺し貫いた。
 中野重治が立ちはだかった。傍には徳永直。辺りを警戒すると死角から小林多喜二が動きを止めに来た。彼らには……期待していたんだ。僕の筆では届かぬところまで、彼らのペンは伝えられると思っていた……。
 太宰治が廊下に座り込んで泣いていた。太宰を引きずって逃げようとする織田作之助と檀一雄を坂口安吾が庇い、目の前に立ちはだかった。四人とも震えていた。皮肉な嗤いしか出なかった。
 気がつくと宿舎の最上階に洋墨まみれで立ち尽くしていた。
 ああ、終わったんだ。さすがに気持ちが悪いので、自室に戻ってシャワーを浴びて洋墨を落とした。
 自室のソファに座ってぼんやりしている内に、寛に会っていないことに気づいた。特務司書は寛を今日の助手に指名しているといった。ならば寛は司書室で、彼女と一緒だ。なぜか不安になった。
 終わったら特別書庫に来てください、と言われていたのを思い出した。

※※※ ※※※ ※※※

「芥川先生、侵蝕が人の負の感情エネルギーから起こるってお話をしましたっけ」
 『惡の華』の浄化任務が終了して暫く後、久々の助手業務の中での世間話で特務司書は僕に言った。彼女は助手を一人に固定することはなかったけれど、大体は"始まりの文豪"の徳田秋声さんや最初の四人の織田くん、中野重治くん、辰ちゃんこに春夫、それに寛が持ち回りで務めていた。年度末の政府への提出書類が多い時期や、予算要求をするときは松岡や銀行勤めの経験がある小林多喜二くんが臨時で手伝ったりする。
 それ以外の文豪が助手になるときは最低限の潜書と事務作業か司書室の隣にある特務司書の研究室に籠って錬金術の研究や素材の錬成をする日なので、実質司書室のお留守番になる。
 僕が司書業務を務めた日も、潜書業務は特務司書補-結婚して彼女の夫君になった-が担当して、彼女は午前も午後も研究室で素材を錬成していた。
 実のところ彼女は余り研究をしない。全くしないというわけではないのだろうけれど、館長から「他のアルケミストでも理解できる研究をしてくれ」と怒られていたと寛が言っていた。特務司書補でもある夫君でも、彼女は最高峰のアルケミストだけれど、どういう発想で錬金術の研究をしようとするのかわからないと、惚気のような愚痴のような話をしているのを傍で聞いたことがある。
 最高峰と称えられても愛する人から理解できないと言われる特務司書を見ていると僕の心がちくちく痛んだ。

「へぇー、そうなんだ。館長からそんな話があったのかな」
 僕が聞き返すと、特務司書はかぶりを振った。
「いいえ。アルケミストへの連絡ではありましたが。先生方へは何も。重要なことなのでお知らせするようにと館長にせっついてはいるんですが……」
「えっ、そんなこと、言っちゃっていいの」
「大切なことでしょう。侵蝕の原因というのは」
 その時初めて僕は特務司書の瞳を見て話をしたように思う。
 吸い込まれそうな黒だ、と思った。

 それからちょくちょく、周りに誰もいないときに話をするようになった。こそこそと隠れてなんてことはなくて、たまたま、偶然に周りに誰もいなくなってしまった談話室や食堂で十数分話すだけなんだけれど、いつも、あの時の話なんだけど、という前振りだけで話の内容を思い出してくれて、会話の流れが途切れない。すぐに僕にとっては話をしやすい人のひとりに数えるほどになった。
 そんなふうに会話を続けるなかで、彼女がぽつりと言った言葉に僕は引っかかった。彼女は言った。
「何時までも終わらないって、苦しいですね」

 そして、昨日の朝、彼女は言った。
「終わらないものを、終わらせませんか」

※※※ ※※※ ※※※

 司書室の扉の封印を解く。ドアノブに手を伸ばそうとして思いとどまる。
 転生文豪の概念を四人分取り込んでいるのを忘れていた。
 扉の概念破壊をして、扉を消すと洋墨溜りが出来ている。注意して跨ぎ越し、誰がやってきたのか確認する。岩野泡鳴、島田清次郎、田山花袋と読み取れた。それそれの洋墨を掬い取って概念を取り込む。これで七人。潜書するには充分な転生文豪としての概念を取り込んだ。
 約束通り特別書庫に向かう。隠しポケットの中身を確認すると、これを見た時に芥川龍之介がどういう表情をするか、それを考えて特務司書は今日一番の笑顔になった。怒りだろうか、絶望だろうか。どんな負の感情が芥川龍之介を支配するだろう……。もしかしたら侵蝕現象の発生を観察できるかもしれない……。
 そう考えると鳥肌が立つ。
 図書館の異常事態は既に通報されているだろう。警戒システムを切るようなことはしなかったから、出張中の館長に既に連絡が入っているかもしれない。企みは未遂に終わるかもしれない。それでもかまわない。

 『惡の華』でメフィストフェレスが浄化された報告書の作成中に特務司書は這い上がれない絶望の底に叩き落された。
 人がいる限り負の感情はなくならない。浄化の為に転生文豪たちは使われ続ける。彼らを現世に縛り付けるアルケミストもまた使われ続ける。感情の制御など気にもかけない人間たちの為に……。知性、悟性、感性の紡ぎ合わされた先を夢見る志が折れる音を特務司書は聞いた。
 勝利と疑わない周囲とは裏腹に特務司書は敗北感に打ちのめられた。

 それからだった。
 企みの協力者を精神:不安定から探すことを始めたのは。

※※※ ※※※ ※※※

 特別書庫は無人だった。
 特務司書は芥川がやってくる前に、図書館内で洋墨溜りになっている転生文豪たちの概念を有魂書に戻す術式を始めた。特務司書のアルケミストとしての眼は、戻ってくる文豪たちの概念を数え上げる。
 文豪たちは図書館内で切ること、という特務司書の念押しを忠実に守っていた。最後にわが身に取り込んだ、斎藤茂吉、森鷗外、夏目漱石、菊池寛の概念を有魂書に戻す。術式の連続使用で精神力が持っていかれて、眩暈がする。あともう少し、と特務司書は歯を食いしばった。
「司書さん……」
 芥川の声が特別書庫の内に響く。
「こちらです。芥川先生」
 著者名:あ行の書棚へ、特務司書は芥川を導いた。丸机と椅子が二脚、準備されており、そのうちの一脚に彼女は座り込んでいた。顔色が悪い。
「座ったままで申し訳ありません。終わりましたか」
 穏やかな微笑みを崩さず特務司書は芥川に尋ねた。芥川は黙って頷いた。お茶の用意がなくてごめんなさい、といって芥川に着席を促す。が、芥川は立ち止まったまま動かない。視線で周囲を窺っている。
「寛は……」
 特務司書の片頬が釣りあがった。隠しポケットを探り手巾を取り出す。テーブルに置くと広げて、中身を芥川に見せた。
「それは……」
 にっこりと笑いかける特務司書の漆黒の瞳が一瞬紅に光った。
「まさか……」
 笑ったまま特務司書は左手で自分の喉の辺りを触った。
「傷つけはしませんよ。お約束ですから。洋墨に戻っていただいて、こちらまでお持ちしました」
 特務司書が椅子を立って芥川に近づく。芥川は二三歩身を引いたが、特務司書に左手を取られ椅子に座るよう導かれる。
「芥川先生、急ぎませんと。菊池先生が消えてしまいます」
 見ると手巾の上の菊池の飾り止めが透け初めている。芥川は慌てて右手を伸ばし掴みかけたが、右手指は空を切った。握った右手を芥川は恐々と開く。…………中には何もなかった。

 喉も、肺も、潰れてしまう勢いの悲鳴が芥川から洩れた。感情が降り切れた、途切れがちな金属音が、特務司書の鼓膜を殴った。椅子から崩れ落ち、両腕で机にしがみつき、叫びながら木製の小机に歯を立てた。悲鳴と涎がとめどなく口からあふれ出た。居ない、居ない、居ない、もう居ない。生前も転生してからも菊池寛が居ない、という状況にぶち当たるのは初めてだった。初めてでどうすればいいのか分からない。どうすればいいか相談しようとしても、彼らを皆自分が屠ったことをはっきりと思い出した。居ない、居ない、居ない。誰も居ない。久米も松岡も、春夫も谷崎くんも、辰ちゃんこも。誰も居ない、誰も居ない。僕はどうすればいい…………。
 ああ、やっぱりこの人は絶望なのだ、と特務司書は思った。
 叫ぶことのできる絶望が羨ましい、と特務司書は思った。
 しゅうしゅうと芥川の周りに青黒い靄が立ち始めた。ああ、これは……。これは侵蝕の始まり……。
「芥川先生……」
 最高の笑顔で特務司書は芥川に話しかけた。
 特務司書を見上げた芥川の右手が、芥川の有魂書に伸びた。

<了>

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