見出し画像

尋菓

 ぱた、と目が開いた。瞳が映す情景は真っ暗で所々に光の眼が散る。
 光の眼……違う。
 自室の寝台の上であることを思い出した彼女-特務司書の輔筆-は目を閉じる。眠りへ引き込まれる感覚はない。手探りで寝台脇の小机の時計を確認する。とうに夜半は過ぎていたが夜明けにはまだ遠い。伏寝を仰向きに変えてみたが眠りが訪れる気配はない。身体を動かしたせいか余計に目が冴えてしまった。仕方がない……。上掛けを剥いで寝台に起き上がった彼女の身体が冷気に震える。日中はまだ汗ばむこともあるが夜は季節なりの相貌を見せつけてくる。
 なにか暖かいものを、と思い部屋に備え付けの簡易な給湯設備に向かう。
ここまで目が覚めてしまうと、再び眠りに入るのは無理だと彼女には分かっている。珈琲を入れたマグカップを片手に毛足の長い絨毯の上に座り込む。傍の座卓には読みかけの本と思いついたアイディアを書き留めた研究ノートが置きっぱなしになっている。
 マグカップを置いて本を手に取る。本館の閉架書庫にある本を自室で読めるのは研究所職員の特権である。貸出期間は無期限に近い。申請書が無くとも職員証の提示-貸出システムにIDを通す-だけで手元に置けるのは研究者としてこれ以上ない待遇であった。もし、あのまま……
 彼女は首を振り思い浮かんだ事を振り解いた。この本には期待した考察はなかった。返して別の本を探そう。マグカップの珈琲を飲み干して着替えると彼女は本と職員証を持ち部屋を出た。

※※※ ※※※ ※※※

 本を返却函-研究棟職員が夜間に本を返却するための-に入れ、他に参考文献になりそうな本を探したが見当たらず、適当な本を借りる気にもなれなかったので輔筆は手ぶらで研究棟に戻ってきた。通用口から研究棟の中に入ると、左手の食堂から灯りが洩れていた。研究棟を出るときには消えていたので、今日は宿直の術者アルケミストは居ないのだと思っていたが。念のためにと思った輔筆が食堂を覗き込む。
「こんばんは。どなたかいらっしゃいますか」
 小声で中に問いかけると、厨房に動く人影がいた。
「おう……。って、なんだあんたか」
 輔筆の声に応えてたのはエプロン姿の志賀直哉だった。
「志賀先生。こんな時間に何を」
「有魂書の潜書が終わったからな、気になってた文をいじくってたんだ。寝そびれて、ケーキを焼いてた」
「そうですか。では、火の元だけ気を付けてくださいね」
 では、と部屋に戻りかけた輔筆の背に志賀は声を掛けた。
「待て待て、もうちょっとで焼きあがる。味見していけよ」
 振り返るとタオルで手を拭きながら志賀が笑いかけていた。こんな時間に……、二人だけで……、と思考が回る輔筆に志賀は更に声を掛ける。
「チーズケーキだ。ちょっとレシピを変えてみた。感想が聞きたい」
 厨房の奥から甘く香しい匂いが漂る。きゅうと胃が鳴り、唾液が湧いてくる。そそられる香りに逡巡している輔筆に志賀はまた声を掛ける。
「なんか食って、暖かいもんでも飲みゃあ、眠れるってもんだぜ」
 さあ、と促されて輔筆は食堂に入った。

 ※※※ ※※※ ※※※

 コツコツと靴音が聞こえた時はまた眠れないでいる文豪ども-芥川龍之介か、川端康成か、腹を空かせた小林多喜二か-か実験か研究の途中で休憩に降りてきた三階の術者アルケミスト-彼等もよく徹夜で実験だの研究だのやっている-かと思ったが、声を掛け顔を覗かせたのが特務司書の輔筆だったのは志賀には意外だった。志賀の頭の中で輔筆は生活習慣のきちんとした、多くの文豪達とは正反対の人間に数えていたから。それがきちんと着替え-そのまま業務に向えそうないで立ち-ているのが気になった。輔筆の普段着がそうなのかもしれないが。夜中に男女が一室にいるというのはよろしくない状況であることは分かっていたが、志賀は輔筆を引き留めずにはいられなかった。迷子の仔猫のようだったから。
「焼きたてなのか香りから感じるより甘くて……チーズの味が濃いのに後味が残らなくて……。とても美味しいです。これだったらドイル先生もキャロル先生も珈琲を選んでしまうかもしれません。先生から初めていただいたチーズケーキも冷めていても美味しかったですけど。これは…………冷めてから……半日ぐらい置いてから食べてみたいです」
 怒らねぇから思ったことを言ってみろ聞き出した感想がこれだった。意外と臆さずにしゃべるなと思いながら、志賀は輔筆の顔をじっと見た。
 輔筆が研究棟にやってきてもうすぐ一年になる。侵蝕者の親玉を討伐して暫くたった頃、特務司書の体調不良が問題になり始めた。特務司書に転生文豪の助手以外にもう一人付けると聞いて、志賀はてっきりゲーテが所属する<結社>から特務司書を守るためかと思っていた。が、やってきたのが本館の事務職を務めていた人間と知ってがっかりした。
 志賀とて明治生まれの文士である。文豪のヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテには一定の敬意を持つ。だが、転生してきたゲーテはアルケミストであることを隠そうとせず、特務司書を始めとする術者アルケミストを研究材料のように見ている、と志賀は見ている。ゲーテの弟子を自称する<結社>のアルケミスト・ファウストが事あるごとに特務司書を<結社>に引き渡せと圧力を掛けてくるのも気に入らなかった。後から知ったことだが-有島武郎経由の国木田独歩情報で-特務司書の体調不良をダシにして形ふり構わず<結社>へ連れ帰ろうとしたことは、ファウストの独断であったとしても、ゲーテの意を汲んでのことではなかったかと思っている。

 ※※※ ※※※ ※※※

 カチンと音がして、志賀が我に返ると、輔筆はケーキを食べ終えていた。ケーキフォークを皿に戻した音が意外に大きく志賀の耳に届いた。輔筆はそのまま呆けたように皿を見ている。本当に迷子の仔猫だな、と志賀は思った。腹がくちくなったが、ここはどこか、これからどうしようか、見当つかず迷っている。なあ、を掛けた声に返す視線には意外と力があった。
「アンタには前から訊きたいことがある。まどろっこしいのは嫌いだから直球で訊くが、アンタなんでここにいるんだ。俺達の正体は分かってるだろ」
 ぴくりと身体が震え、ぱちぱちを瞬きをした瞳の焦点がすうっと志賀に合っていく。自分が志賀の若草色の瞳を見つめているのに気がつくと、頬を染めてさっと視線を皿に戻す。特務司書ほどではないが輔筆も真っ黒な瞳をしているのを志賀は充分に見た。
「なぜ、ですか。なぜ、ここにいるか……」
 志賀の問いの意図を図りかねたのか輔筆が口ごもる。輔筆が着任した後、館長から潜書・浄化業務の詳細は輔筆には秘匿するようにと周知があったことを志賀は思い出す。それも志賀ががっかりした要因の一つだった。
「ええと、一言でいうなら、私には行き場がないから、ですね」
 皿から視線をあげた輔筆はすこし微笑んでいた。
「死人に囲まれて恐くないかとか、労働条件の良いところに移れるように口添えするとか、いろいろ言っていただけたのですが、私の経歴では行く所がないんです。実際に」
 輔筆の微笑みの意味を図りかねて、志賀が輔筆から視線を外した。
「なんでだ。アンタ、大学を卒業してるだろう、なら……」
 志賀の常識では大学卒業というと超エリートになる。
「大学を卒業しているから、どこにも行き場所がないんですよ」
 輔筆は落ち着いた声で続ける。
「大学を卒業すると皆、政府機関や地方自治体に奉職しますから民間では働きません。民間で働く人たちは義務教育が終わると職業訓練校に行きます。そこで必要な技能を習得して働き始めるんです。尤も職業訓練校に行かずに働き始める人の方が多いですが。万が一私のような状況の人間を雇うことがあっても、私は雇ってはもらえませんよ。政府から首輪を嵌められている人間は……」
 声とは裏腹な穏やかではない言葉が輔筆の口から洩れる。
「私は災害孤児で、必要最低限の保障は政府からありました。それ以上は支援してくれる政府組織や地方公共団体に学業で価値を示さなければ奪い取れません。私はそうやってきたんです。私も政府組織の、ある研究機関に奉職する予定でした。でも……」
 途中まで滑らかだった言葉が止まった。黙り込んだ輔筆を待って志賀は食堂のあちこちに目をやる。食堂の柱時計や飾られている絵画を数え、見える範囲を一周してきた志賀の視線が輔筆に戻る。微笑みに変わって皮肉めいた笑いが輔筆の顔に張り付いていた。輔筆の内に流れる言葉が更に輔筆の口角を釣り上げているようだった。志賀の視線に気づいて輔筆は続けた。
「なので、私にはここを辞める理由はないんです」
 黒い瞳が閉じることなく、広がることなく、窄まることなく志賀の若草色の瞳を見つめている。
 ふぅ、と志賀と輔筆はほぼ同時に息を吐いた。くすっと笑うと彼女は冷めた紅茶に口をつけた。
「そうか……」
 アンタ、強いなと続けかけて、思い直すと志賀は別の事を話し出した。
「そんな話、中野が聞いたら怒りだすだろうな」
 思い出し笑いをしたのかくすくすと輔筆は笑うと言った。
「そうやって生き残って来たので、今ここで働いているとご説明したら中野先生は分かったっておっしゃってました」
 ああ、やっぱり……。だが輔筆は否定するだろうと思い志賀は言うのをあきらめた。輔筆の勁さは他の誰かが伝える、きっと輔筆が言われたいときに言われたい奴から。
「あ……、こんな話、志賀先生には……。…………聴いていただいてありがとうございました」
 ごちそうさまです、といい食器を片付けようとする輔筆を留める。
「そのままにしとけよ。後は任せて休みな」
 それよりも、と言葉を繋ぐ。
「特務司書のこと、よく見てやってくれないか。アイツはアイツでいろいろ抱えてるみたいだし」
「え……そ、それは、契約、事項ですし、業務の一環ですから……もちろん」
 早口で答えた輔筆は娘らしく頬を染めて、おやすみなさい、と言い残すと食堂を出て行った。

<了>

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?