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噂-夫婦剣再生譚 1

 北原白秋は、人を待ちながら煙草をんでいた。帝國図書館の中庭にある来館者用の休憩スペースで。禁煙だの分煙だと煩わしいが、ここなら煙草をんでも咎められない。まあ、別なことで咎められはするが、そんなことを北原は気にしていない。

 転生しても生前の嗜好が引き継がれていて、北原は煙草が手放せない。図書館敷地内の"ある施設"が本来の居場所であるが、そこは喫煙・飲酒が一切認められていない。ならば、と喫煙者は居場所を抜け出して喫煙可能な場所に出かける。いつもなら少し離れたところに芥川龍之介がいるのだが、今日は見当たらない。
 なるほど、と北原は納得する。噂は本当のようだ。

 "ある施設"で流れている噂。その真偽を自分を転生させたアルケミストー北原司書と呼ばれる青年ーに調べさせている。出来る範囲で、と北原に実直な青年は言った。
「アルケミストに入室許可が下りている区域は、僕たち文豪より広いはずではなかったかね」
いいえ、と首を左右に振り青年が答えた。
「文豪を転生させたアルケミストは司書と呼ばれるようになります。私がAL-1102から北原司書と呼ばれるようになったように」
彼は、北原が転生時に聞かされたことを繰り返した。
「でも、司書になったことで行動制限がかかるのです。その範囲は文豪を同じです」
北原には初耳であった。
「司書は転生させた文豪と行動やそのほか生活を共にすること。転生させた文豪の傍を離れないこと。文豪のサポートをすること。ほかにもありますが、これは司書としての義務です」
誇らしげに苦しげに青年は言った。
「では、その義務に従ってもらっても構わないね」
唇だけに笑みを乗せて、北原は確認した。

 帝國図書館にある文学書は閲覧のみとなっている。貸し出しはされない。
作品毎に製本されている。その作品が持つ雰囲気にふさわしい装幀、紙質、活字で。二つと同じものはない、本自体が一つの芸術作品として造られている。それでも、作家ごとに分けられた書架に置かれると不思議に統一感がある。
 ある時、その帝國図書館の本が黒く染まっていた。開いて中を読もうとしても読めない。活字が頁の真ん中に集まり、墨溜りのようになっているのだ。やがて表紙、裏表紙、中身すべて黒く染まってしまうと、作品名も作者名も分からなくなった。読めなくなるというのではなくそれが何の本であったのかが分からなくなるのだ。感染するように同じ作家の他の作品も黒く染まり、書架に収蔵されている本が全て黒く染まってしまうと作家の名前すらわからなくなる。幸いなことに、補修のため別室に置いてあったその作家の本を職員が見つけ出し、作家の名前を思い出す事で恐るべき事態が進行中であることが判明した。
 それからの政府の行動は早かった。
 原因究明のため、特別予算を組み、施設・人員を整えた。
 そして回答を得た。
本の中、作品世界に"侵蝕者"なるものが出現し、本を黒く染めていることーこれを侵蝕現象と名付けられた。
"侵蝕者"を排除することができれば、作品も作者も守ることができるが、排除できずに本が全て黒く染まってしまうと、作品が最初からなかったように忘れられてしまうこと。
作品をすべて侵食されてしまうと、作家自体が最初からいなかったように忘れられてしまうこと。
 既に何人かの作家が忘れられてしまったいることが危惧され、対処方法が研究された。
 結果、帝國図書館敷地内に"ある施設"を設け、そこでアルケミストと呼ばれる特殊能力者の力で、過去数多の文学作品を生み出した"文豪"をよばれる作家の魂を呼び出し、"文豪"たちが侵食された本の作品世界に潜りー潜書と呼ばれるー、"文豪"のもつ文学の力で侵蝕者を排除する。
 以上の経緯を北原は説明され、自らの文学の力を武器に侵蝕者と戦えと言われた。奇妙なことだと思いながらも、北原はそれを受け入れここにいる。

 北原のほかに転生させられた"文豪"は、森鷗外、德田秋声、志賀直哉、菊池寛、久米正雄、芥川龍之介、佐藤春夫、室生犀星、堀辰雄、川端康成、そして織田作之助。彼らの名前を聞いた時、"文豪"と呼ばれる作家は、十指に少し余る程度なのかを北原は思った。もっと多くの作家が、もっと多くの文学作品を生み出していたようにも思えた。が、それを考えると頭の中に靄がかかったように思考が曖昧になった。それでも、疑問に思い自らの司書や"ある施設"の職員であるアルケミストに話してみたが、彼らの答えは一様であった。曰く、
「作品を生み出す力が侵蝕者に立ち向かう力になります。その力が桁違いに強い作家があなた方です。あなた方こそ"文豪"と呼ばれるにふさわしい作家です」
潜書後に必ず立ち寄る補修室で言葉通りの羨望と憧憬の眼差しを常に向けられる。北原を含めた12名のみが"文豪"と呼ばれるのは、施設職員の共通認識であるようだった。

 潜書し侵蝕者と戦い排除する。戻って補修室で無事を確認され、休む。再び潜書する。その生活に慣れた北原にもやもやした気持ちが生じている。違和感とも疑問とも不安とも取れる言い知れぬものに、国民詩人である自分が名付けられない。北原がそういう状態に気づき、苛立ちを覚え始めたのは一週間前だった。

 一週間前、任された潜書を終え、翌日は非番という午後、弟子の室生犀星が自身の司書を伴って北原の部屋にやってきた。扉をノックし来訪を告げた室生に部屋の主から入室許可が下りる。失礼します、と声を掛け扉を開けた室生と室生司書の目に映ったのは、正座している北原司書だった。
 この状況の原因はひとつ。
北原司書の不注意で潜書した文豪全員が耗弱、あるいは喪失という状態で帰還した。潜書したのは北原のほか、志賀直哉、川端康成、堀辰雄。なんとか侵蝕者を排除し本を浄化したが、堀が喪失してしまい、特別補修室で補修を受けている。
 今回の潜書会派は、北原以外は刃を武器としている。刃は侵蝕者を一刀両断することはできるが、大きさによっては回避と俊敏性に欠け、自分の間合いでの戦闘になる。会派筆頭の志賀からは、物陰から飛び出してくる侵蝕者と遠距離攻撃をしてくる侵蝕者への対処を頼まれていた。早い時期に転生させられた志賀は、文豪全員と一度以上の潜書経験があるが、転生が遅かった北原は川端と堀との潜書が初めてであった。彼らがどのように戦うのか、彼らの司書がどのような支援をしてくれるのかが分からなかった。
 一抹の不安を感じつつ、本の浄化は進められ、会敵した侵蝕者すべてを排除した。他に隠れ潜む侵蝕者がいないか、司書たちが索敵を始めた時、"不調の獣"と呼ばれる侵蝕者の集団が、皆の背後から襲い掛かった。咄嗟の対応ができず負傷した堀が集中攻撃を受け、耗弱を通り越して喪失に陥り、堀をかばいながら戦った三人も耗弱状態になった。後から分かったことだが、今回の潜書会派は、司書に索敵が得意なものが一人としていなかった。それを見越した志賀が、索敵に関して四人の司書に越権ともとれる内容で指示を出していた。が、その指示に北原司書が答えられなかったのだった。
「準備不足と連携不足だな」
補修を受ける北原、志賀、川端とそれぞれに付き添う司書たちに、筆頭司書と呼ばれる森鴎外の司書が言った。壮年の司書は自らが転生させた森鴎外と年恰好が近い。軍服姿の森と並んで立つとそれだけで若いアルケミスト達に威圧感を与える。川端司書が何かを言いかけたが、視線を送るだけでそれを飲み込ませた。
沈黙を破るように北原が問いかけた。
「割り振りでは芥川君と菊池君ではなかったかね。それに変更の連絡も潜書に向かう間際だったろう」
北原は森司書に尋ねたつもりだったが、森が答えた。
「芥川君と菊池君は体調不調だ。それに久米君と織田君も万全ではない」
眉をひそめて志賀が言った。
「それじゃあ、索敵を得意とする司書が一人もいねぇじゃねえか。北原は川端と堀との潜書は今回が初めてだ。その情報は北原に伝わってるのか」
北原は静かに首を左右に振った。森司書が森を咎めるように見た。志賀が問うた。
「明日からはどうするんだ」
志賀の問いには森が答えた。
「今日の午後と明日一日は潜書は中止だ。潜書計画を立て直すとの通達があった」
森司書の表情が険しくなる。森の発言に何か問題があるようだった。志賀が己の司書に目くばせをし、それに彼女が小さく頷いたのを北原司書は気づいた。何かが起こっている、と彼は感じた。

 森と森司書が特別補修室へと消えた。堀の状態を確認するのであろう。二人がいなくなると補修担当のアルケミスト達が深く息を吐いた。北原は自身の有魂書ー北原自身でもあり、侵蝕者に対するときは武器に変わる本ーを担当のアルケミストに預けた。北原は隣に立つ自身の司書へとも補修作業を始めたアルケミストへとも、どちらへも問いかけるように呟いた。
「森さんの司書、怒っていたね」
アルケミストは北原司書を目を合わせた。北原司書が苦い顔をして答えた。
「怒ってる、なんて優しいものではないですね」
後を受けてアルケミストが言った。
「相手が先生方なので何も言われませんでしたが、川端司書が言い訳をしてたらと思うとぞっとします。それでなくても筆頭司書はこのところずっとご機嫌が悪くて」
北原に代わって北原司書が答えた。
「それは・・・大変だ。ルーチンが進まないだろ」
北原司書と仲の良いアルケミストが声を潜めて話を続ける
「定期報告もルーチンで定型だろう。なのになってないってさ、突き返されることがある。特別補修室から戻ると輪をかけて機嫌がわるくな、あっ」
アルケミストの話途中で森司書が乱暴な足取りで特別補修室から戻ってきた。アルケミストは慌てて口を噤んで補修作業に集中しているふりをした。周りを見渡すとアルケミスト達がそれぞれの業務をこなしながら全身で森司書の気配を窺っていた。森司書はまっすぐ補修室の出口に向かったが、北原とその隣で補修を受けている志賀をちらりと一瞥していくのを忘れなかった。

 室生のとりなしで北原司書は床での正座から解放された。室生は、美味いカステラが手に入ったので一緒に食べましょうと言い、北原司書に紅茶をいれるように頼んだ。いつもなら手伝いを言い出す室生司書が室生の傍に棒立ちなのを見て、北原はおやと驚いた。北原司書も怪訝な顔をして室生司書の様子を見つめている。室生は北原司書に済まないという風に頷いた。
 北原司書が紅茶の準備をする間、北原は自分の弟子がその司書を甲斐甲斐しく世話をするのを見ていた。棒立ちのままの司書の手を引いて、三人掛けのソファに座らせる。クッションを宛がって姿勢を整え、部屋の隅の小物入れにひざ掛けを見つけると北原に了承を取って取り出し膝に掛けると隣に座った。心ここにあらずの室生司書も気になったが、室生の流れるような動きに微笑みが浮かぶ。ふふふ、犀星君ならお手の物だね、なにせ二魂の世話は彼がずっと。おや、二魂とは。何のことだろう。

 室生が差し入れたカステラは蜂蜜の甘さがしっとりと生地に絡みつき、北原司書が淹れた濃い目のアッサムとで互いを引き立て合う。室生司書以外がそれを堪能し終わったとき、室生が前置きなしに切り出した。
「白さん、芥川と織田君のことは聞いてますか」
「ふむ。二人とも体調が悪いと、先ほど森先生から聞いたね」
北原は森鷗外の先ほどの言葉を思い出した。北原は芥川と菊池の事を聞いたのだが、森は久米と織田の事も返してきた。同時に森司書の表情と森を見る視線を無視した森の無表情も。
「それです。それに関しての噂、なんですが……」
噂という言葉に室生司書がぴくりと反応する。室生が己の司書の様子を確認する。俯いた彼女の顔を覗き込み、話していいかと確認した。彼女が心ここにあらずなのは、室生が言う"噂"のせいであることを北原は確信した。
はい、と小さく答えると、彼女は室生の着物の袖を掴み目を閉じた。
「確認をしたわけではありません。あくまで噂です」
室生は自分に言い聞かせるように言って、舌先で唇を舐め話し始めた。
「まず、織田君です。織田君の司書が自殺したそうです」
ガタンと椅子が倒れる音がした。
「何ですって」
北原司書が室生に飛び掛からんばかりに聞き返した。室生は視線で彼を制し、もう一度唇を舐めると続けた。
「芥川の方は、……殺されたそうです。自分の司書に」
ううっともぐぐっとも聞こえる嗚咽を漏らして室生司書が泣き出した。室生は懐からハンカチを取り出し涙を拭いてやると、彼女は大声で泣き出した。
齎された情報の重大さに北原司書が動けないでいるのを横目に、北原はすっと席を立つ。そのまま中庭へ出るベランダ窓の施錠を確認した。誰もいない。返す歩みで扉に向かう。こちらも施錠はしてあり、外に人のいる気配はなかった。驚きで中腰のままの己の司書に座るように言い、座っていたソファに座りなおした。室生は自分の膝に突っ伏してなく司書の背中をさすっていた。
「その話は、どこから」
「この子が補修室で働いている同期に聞いたそうです」
室生は労わるように自分の司書を見た。北原は己の司書を振り返った。北原司書は首を左右に振った。北原は先ほど補修を受けたあの部屋全体の様子を思い出そうとした。
「菊池君と久米君がその話を聞いて影響を受けた可能性はあるかね」
「わかりません。俺も菊池に確認したくて探してるんですが、今朝から見つかりません。久米君もです」
「堀君は知ってるのかね」
室生は首を左右に振った。
「確認してません。一番ショックを受けるのは辰ちゃんこですから」
「そうだろうね」
北原は己の司書に紅茶を丁寧に淹れ直すように言った。新しい煙草に火をつけた。
 北原司書は紅茶を淹れ直す作業に集中した。湯を沸かし直し、ティーカップをソーサーごと引き取って中を濯ぎ、新しく紅茶を淹れる。北原は己の司書が現実に戻ってきたのを確認した。深く吸った煙を吐き出す。室生はずれ落ちたひざ掛けを取り上げて、膝の上で泣いている自分の司書の肩に掛けた。お待たせしました、と声を掛けて北原司書が三客のティーカップをテーブルの上に置いた。三人の視線がかち合った。北原司書は四つ目のティーカップをを室生司書の前に置いた。室生司書が彼を見上げた。
「落ち着いたかい」
室生が声を掛ける。
「はい、ご迷惑をおかけしました」
室生司書が北原に向かって小さく礼をした。
「申し訳ないけど、少し聞きたい。君が聞いた噂というのは補修室のアルケミストは全員知っているのかな」
室生司書は淹れ直した紅茶に少し口をつけてから言った。
「わかりません。ただ教えてくれた人は特別補修室のアルケミストから聞いたと言ってました」
「誰に聞いたんだい」
北原司書が聞いた。室生司書はアルケミスト同士のニックネームで答えた。北原司書は己の文豪に小さく頷いた。室生司書が紅茶を飲みきるまで、誰も何も話さなかった。やがて室生が自分の司書の肩にあるひざ掛けを取って言った。
「沢山泣いて疲れたろう。俺はもう少し白さんと話があるから、彼に部屋まで送ってもらって、先に休みなさい」
「そうだね、送ってやりたまえ」
北原司書が室生司書を手を差し出して立たせた。室生が部屋の鍵を北原司書に渡した。

 約束の時間に30分遅れて己の司書が北原のもとにやってきた。北原の前の灰皿にはこんもりと吸い殻の山ができていた。
「遅かったね」
新しい煙草の封を切り北原は言った。北原司書は周りに誰もいないことを確認すると口を開いた。
「最後の一人が長引いて。それと別に協力してくれる後輩が見つかりました」
「それはお手柄。で」
「結論から言うと、噂は本当です、どちらも」
北原は無言で先を促す。
「二人とも理由は同じ。転生させた文豪との繋がりを断ち切って、文豪の魂を有魂書に戻す」
「戻るのかい」
北原司書の顔色がみるみる青くなった。
「有魂書にある文豪の魂を転生させると、転生させたアルケミストの間に繋がりができます」
それは知っているという風に北原は無言で返す。
「実際は文豪の魂を器である転生体に結びつけるために、アルケミストが自分の魂を接着剤のように使う。文豪の魂とアルケミストの魂が噛み合うことで、アルケミストが作り出した転生体に文豪の魂が収まるのです。潜書の時に僕が先生のサポートができるのもこれが理由です」
北原は己の司書が自分の事を"僕"というのを初めて聞いた。
「繋がり、絆といってもいいお互いを絡め合う力は、能力の高いアルケミストなら転生直後に無効化して、文豪の魂を有魂書に戻ることができるのではないか、と予想されているそうです」
ふうと、苦しそうに北原司書は息をついた。
「予想されている、か。試したことはなかったのかい」
北原司書は更に顔色を悪くした。
「何度か実験をしたそうです。能力の低いアルケミストと発表作品が少ない作家とで。作家は転生体を解除されると、魂は本に戻りますが有碍書に変わります。作家自身が侵蝕者になって本を侵食するそうです。転生解除の術式があるようなのですが、それを行ったアルケミストは能力をすべて失い廃人同様になるそうです」
北原司書は遠くを見つめながら続ける。
「転生体を死傷する、物理的に壊す実験もあったそうです。補修せずに放置しておいても、通常の人間でいう"死"に相当することはないそうです。転生させたアルケミストが死んだ場合、作家は転生体のまま侵蝕者になる、ということです」
言い終わると北原司書は俯いた。泣いているらしい。風が周りの木々を二人の髪を揺らした。新しい煙草に火をつけようとして、北原は己の左手を見た。新しい煙を深く吸い吐き出す。
「知っていたかね」
北原は慰めるように己の司書に問うた。
「いいえ」
擦れた声で北原司書は答えた。正午を告げるチャイムが遠く図書館内に流れるのを聞いた。北原はつぶやく。
「二人の司書がやったことは無意味、か」
己の司書がぎりりと奥歯を噛み締める音が聞こえた。
「芥川先生は特別補修室に収容されているそうです。芥川司書は特別区とよばれる区域に監禁されているそうです」
北原司書が顔を上げて北原を見つめる。
「おかしいのは、織田先生で。織田先生の有魂書が一部浸食された状態で特別保管庫に封印されているそうです。そして、死亡したはずの織田司書の埋葬が行われた形跡がないそうです」
北原は己の司書を見つめ返した。先ほどの己の司書が語ったことが正しいとすれば……。北原が思案し始めたところに、足早に近づいてくる人影があった。

 昼時を迎えた図書館は来館者の行き来が増える時間帯に入った。昼食を取りに敷地外へ出かけようとする学習室利用者や、持参の弁当を広げよう中庭の空いたベンチを探す来館者、昼食休憩の時間を惜しんで足早に図書館玄関に向かう勤め人風の来館者。彼らが行き交う間を縫って、帝國図書館の制服を着た男が北原たちのもとに小走りに駆け寄ってきた。
「このようなところに、特別職員の方々が何の御用ですかな」
テーブルの灰皿と北原と北原司書を順番に睨みつけ、男は言った。
「専用の設備がご用意されているはずですが」
暗に戻れと言われているのだが、北原は気にせず新しい煙草に火をつけた。
「中庭の休憩スペースに灰皿は用意されてませんが」
男は咎めるように言った。ふう、と煙を吐いて北原が答えた。
「僕が持ってきたのだよ」
「なぜです」
「火事になるといけないからね」
「吸ってはいけないとは思わなかったのか」
「禁煙の表示はないようだし、屋外だしね」
北原は両手を広げて、いけしゃあしゃあと答えた。のらりくらりと対応する北原に男は焦れた。
「特別職員の行動区域は決まっているだろう。なぜ従わない」
 北原たち転生文豪とそれに従う司書たち、"ある施設"に関わるアルケミスト達は特別職員として遇されている。特別職員は決めらた施設で業務に従事ていると、図書館職員には認識されているらしい。"ある施設"の環境は生存するには万全に整えられているが生活するには物足りないと北原は思っている。特に喫煙。今まで何度も中庭のこの場所で灰皿持参で煙草をんでいたが、今日のように言われるのは北原は初めてであった。噂と関係あるのかと北原は思った。中庭を囲む歩道を行き交う来館者たちが北原と制服の男のやり取りに気づき始めた。立ち止まってこちらを見る者もあらわれた。それを見て制服の男は慌てて言った。
「早くもどれ。さもないと」
言いかけた男に声が掛かった。
「厄介者が申し訳ない」
男が振り返った先には、軍服姿の森鷗外と図書館正職員の制服を着た森司書がいた。男の腰が引けるのを北原は見逃さなかった。
「こちらで厳重に注意する」
「上への報告はこちらでやりましょう」
威厳をまとう二人から、穏やかに交互に持ちかけられ、男は及び腰のまま、後で始末書を届けてくださいと言い残して立ち去った。

「さて。何をしていたのかな」
男が図書館の職員通用口に消えるのを見届けて、森が北原に尋ねた。
「これですよ、森先生」
北原は灰皿を指さした。
僕たちの・・・・中庭ではめませんから」
「やれやれ、君も芥川君も、もうすこし健康に留意してくれないと医者として困る」
「気を付けますよ。健康にも火事にもね」
芥川と聞いた森司書の眉間に皺が寄るのも、北原は見逃さなかった。

「あいつら、何やってんだ」
図書館入り口の脇、中庭から一段高くなったところに並ぶ染井吉野の間にあるベンチに一組の男女が座っていた。整った容姿の二人は、図書館でのデートとみられているらしく、他の来館者は近づかなかった。彼らは、北原司書がやってきてからの一連の成り行きをすべて観察していた。森と森司書が立ち去ったあと、男は女の膝枕で昼寝を始めた。
「さあ、どうでしょう。直哉さんと同じことでしょうか」
答えながら、女は北原と北原司書を窺う。
「昼寝かよ」
男がぶっきらぼうに返す。
「そうだと、いいのですけどね」
女は北原と北原司書を見つめ続ける。男は己の項の位置を調整しながら女に尋ねた。
「白秋は動くと思うか」
女は北原と北原司書が席を立つのを確認して、男を見下ろした。
「多分。織田司書が絡むと彼は動くに決まってますし、北原先生はご自身の司書を見捨てるような方ではありませんから」
男のライトグリーンの瞳が女を見上げた。
「は。それはオマエも同じだろーが」
女は微笑みで答えた。
「しゃーねーな」
男は呟くと昼寝に落ちて言った。

憂慮>へつづく


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