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共踔

 帝國図書館研究棟の補修室
 黒檀の本体に黒大理石の天板をはめ込んだ小机-文豪自身の有魂書への潜書の為に造られた潜書卓-に一冊の本が乗っている。潜書陣のなかでふわりと空中に浮かんだいるそれがいきなり左右にぶれ始める。と、右手の中の栞紐しおりひもをひっぱる感覚がする。SOSだ、と感じた特務司書は<見えない綱>を握ってくるりと手首を回すと、思い切り手前に引っ張る。本の中から栞紐しおりひもに引きずられるように光の粒が引っ張り出される。光の粒が集まり質量を持つとどさり、と音がして床には人が蹲っている。
 特務司書は栞紐しおりひもを引きちぎると蹲る人-耗弱状態の中野重治に近寄った。
「中野さん、立てますか」
 顔面蒼白の中野は返事をしない。傍に控えていた術者アルケミストの一人が医務室との内扉を開けて斎藤茂吉を呼びに行く。特務司書は中野の眼鏡を外し片手で目隠しをすると、もう一人の術者アルケミストを呼び、中野を補修室の医療用寝台に横たえた。革靴が床を蹴る音がし、斎藤が補修室に入ってくると、お願いしますと引継ぎ、特務司書は中野の有魂書の補修に取り掛かる。本の補修が始まると中野の呼吸は落ち着きを取り戻した。

 ※※※ ※※※ ※※※

「時期尚早ではないかね」
 斎藤とともに司書室にやってきた鷗外森林太郎は特務司書に問いかける。特務司書は返答をせずに森の次の言葉を待つ。
「中野君が耗弱状態で帰還するのはこれで二度目だ。昨日は小林君が潜書して、喪失に近い耗弱状態で帰還している。あの二人にとっては自身の有魂書への潜書は彼等に負担が大きすぎるのではないか」
 特務司書は黙ったまま向かいのソファに座る森と斎藤を見る。テーブルに置かれた茶の湯気が少しずつ細くなる。
「小林君に至ってはストレスの為か失語症のような症状を発症している。今の彼等に自身の魂の世界の浄化は過酷すぎるのではないか」
 中野の有魂書潜書が始まって一週間後、小林多喜二の有魂書潜書が始まった。覚醒ノ指環を生成するための有魂書潜書はその特性上、目を離すことが出来ない。そのため一日おきに中野と小林とで潜書を行なっている。
 先行して潜書した8人-芥川龍之介、太宰治、萩原朔太郎、織田作之助、徳田秋声、泉鏡花、佐藤春夫、堀辰雄-に比べると進捗が捗々しくない。太宰と織田は耗弱状態で帰還することはあったが、皆10日ほどで有魂書の中の侵蝕者の親玉を浄化している。
 だが、中野は2週間を過ぎても浄化の途上で足踏みをしている。小林は昨日の帰還の状態から斎藤から潜書の中断を言い渡されている。
 医師二人の言わんとすることを考えながら、特務司書は話し出す。
「皆様の有魂書は転生直後には作家としての業績や評価、ご自身の記憶や魂がひとまとめに記述されます。潜書中の戦闘や開花で、生前の記憶を取り戻したり、作家であるという自覚が深まったりすると、記述が付け加えられます。記述が溜まり、有魂書から溢れそうになった時、ご自身の記憶やあり方、信念といった概念が記憶の歯車となり、覚醒ノ指環を生成するための素材になる。そう我々術者アルケミストは考えています」
 特務司書は目の前の茶を一口啜り口内を潤すと話を続ける。
「生成された覚醒ノ指環は、皆様の魂や記憶の器となります。術者アルケミストが生成してお渡しする<指環>とは根本から違います」
「それでは、有魂書が覚醒ノ指環の生成を促しているというのか。文豪の状態の関わらず」
 斎藤が特務司書の言葉に割って入る。
「有魂書では収めきれなくなったから覚醒ノ指環を求めた、と言い換えた方がよいかもしれません。中野さんも小林さんも有魂書だけでは今の存在を支えきれなくなっているのです」
「彼らの気持ちが整うのを待つことは出来ないのかね」
 今度は森が特務司書に問うた。森にしては随分と曖昧な物言いだった。
「…………気持ちが整うのは、何時になるのでしょう。その間、記憶の歯車となったお二方の記憶や魂はどうなるのでしょう。もし、魂の世界の侵蝕者が記憶の歯車を侵食してしまえば、記憶は失われてしまうでしょう。失った記憶は取り戻せないのではありませんか」
 特務司書は森ではなく斎藤に向かって問うてみた。
「記憶喪失の患者は……診察したことがある。近親者によれば全く別人だそうだ」
 斎藤が生前の記憶を辿りながら答える。森の手が微かに震える。
 この時の話し合いはこうして終わった。

 ※※※ ※※※ ※※※ 

―――やっとここまで来た。
 中野は独り言ちると、本を武器フランベルジュに変えた。足元に集まってくる負の感情をそれで振り払う。煙草の煙のように消えたそれはまたふわふわと集まり雲のような塊になると流れて中野から離れて行った。それを見て中野の口元に笑みが浮かぶ。
―――司書さんには随分と迷惑を掛けてしまった。
 この潜書で中野は嫌というほど耗弱状態を経験した。今までこんな事があっただろうかと転生してこの方を思い返すほど。また、それが耗弱状態を長引かせた。途中から小林も自身の有魂書への潜書が始まったので隔日の潜書となったが、それも生前からこれまでの記憶を思い返す時間となった。
 記憶と、その時何を思ったのか、何を考えたのか、何を怒ったのか……。
 そして何を誓ったのか。
 平時にも増して特務司書に質問することが増えた。たとえばあの集まってくる負の感情とか。
「敵対しなければ、作家・中野重治に付随するものだと思われます」
「付随するものだと思われる、随分いい加減なことを言うね」
 昼下がりの司書室で、小林の潜書の立ち合いを終えた特務司書を掴まえて訊いた。事務処理の為に運び込まれている長机に自身と小林の全集や著作、評論などが置かれている。それを横目で見ながら。多分特務司書が読んでいるのだろう。特務司書はこういうことを隠すようなことはしない。
「ご自身の有魂書への潜書は読む●●ことが出来ないので、何が起こっているのかはお伺いするしかありません。以前に潜書された方々からはそういう報告は受けてませんので、中野さんのお話から考えられることと、今の中野さんを形作っている中野重治という作家が持つであろうモノを考えた末の答えです」
―――あの時は、ちょっと感情的になってしまったな。でもそんな僕の状態を見てもう一日休みをくれた。僕がいつもの状態になるのを待ってくれたんだ。辰と同じように……。何も言わないけれど僕が未来に進めるようにしてくれた。多喜二や直のように……。ここでならプロレタリア文学は瓦解しない。未来に進むことができる。
 魂の世界の闇に紛れるように<伝え得ぬ洋墨>が姿を現す。その大きさに中野が一歩後退りする。
―――大丈夫だ。これを倒して僕は区切りをつける
 中野は武器フランベルジュを握り直すと、自身の魂の世界に巣食う侵蝕者に向かって行った。

 ※※※ ※※※ ※※※

―――言葉が出ない
 自身の有魂書への潜書を特務司書に打診されて、直ぐにやらせて欲しいといった。中野が有魂書への潜書を始めているので隔日になります、といわれそれでも直ぐにやりたいといった。特務司書に無理を強いているのにこの体たらくは……。
 夜の本館閲覧室のメインホールを歩きながら小林は考える。いつもならこの時間は新館の社会情勢の書棚の前に居る。小林も中野ほどではないが帝國の現状に興味がある。社会からは秘匿されている存在だといえ、匿名で何かを世に問えるのではないかと考えてはいたが、今はそういう気持ちが消えてしまっている。
 ふと目についた本を手にとってぱらぱらと捲ってみたが内容が頭に入らない。本を書棚に戻した時、後ろから肩を叩かれ、反射的にフードを深くかぶり防御姿勢を取ってしまった。
「あっ、驚かせちまったか。すまん……」
 声は自分を弟子と認めてくれる志賀直哉だった。小林はフードを被ったまま頭を下げる。
「そうか、やっぱり声が……。……悪い」
 ああ、いつもの直哉サンだ、と小林は思う。生前一度しか会ったことはないが長年の文通の間に自分を作家として認め、今生は弟子と認め、公言してくれる。新作を持っていけば読んで助言を与えてくれる。それと同じように師は何でもいいから書いてみろと言い残し小林から離れた。

 師の助言に従いこの経験は特別に残そうと思って小林はノートを買いに街へ出た。特務司書は何も言わず外出許可証を出してくれた。
 帝國大学を中心とした帝都のこの地域は文教地区と呼ばれているらしく、学生の姿が多い。元々住宅街で居住環境が良く、大災害とも大災厄とも呼ばれている自然災害を乗り切った人たちが移住してきたせいもあって、帝都では人口が多い方だと聞いている。が、小林が覚えている街-小樽と東京-に比べて圧倒的に人が少ない。
 文房具店でノートを物色しページ数の一番多いものを選ぶ。ノートの棚から目を移した小林は筆記具のコーナーを見た。残り少なくなっていたインクもついでにと手に取りかけたが、インクの棚の上に並べられたボールペンが目を引いた。何となく予感がしてボールペンを三本手に取る。特務司書から渡されたカード-俸給が振り込まれた銀行口座に紐づいていて、図書館外で買い物や飲み食いした支払はその都度銀行口座から引き落としされる-を使って買い物をした。一言もしゃべらなくても疑われることがなかった。
 昼時になったので、何か食事をして戻ろうと手近にあったカフェに小林は入る。ここでもメニューを指さして注文すると事もなげに終わった。やがて注文した珈琲とサンドイッチのセットが運ばれてくる。スペシャルコーヒーーとあったので馥郁とした香りと芳醇な苦みを備えているのであろうが、今の小林にはどこにでもある珈琲の香りと味しかしない。サンドイッチも普段の小林であれば全く足りない量であったが何故が満腹した。
 小林が案内された窓際の席からは街を行く人々が見える。明るいとも暗いとも言えない表情で皆目的地へ向かっている。小林は中野と一緒に特務司書の輔筆に話を聞いた時の事を思い出した。
 彼女の来歴、それを作り出した政府の政策、彼女自身がそれをどう思っているか……。中野が詰問調で彼女を問いただした時の顔は街を行く人々と同じであった。その顔で彼女はこう言った。
「毎年のように自然災害で國のどこかが被害を負っています。それに対して今の帝國では何の対策も出来ていないのが事実なのです。事実を受け入れなければ前に進めません」
 事実を受け入れなければ、と小林は心の中で独り言ちた。

 ※※※ ※※※ ※※※

―――ようやくここまで来た
 小林は心の中で確認する。ここが、自分の魂の世界の最奥だ、と。
 ここに来るまでの潜書は遅々として進まなかった。その間買ったばかりのノートのページは見る見る埋まっていった。小林はボールペンでそこに考えた事、思いついた事を、文章にならなくても、言葉の一片でも書きなぐった。インクを補充しなくてはいけない万年筆でなくてよかったと思った。書きなぐるうちに片句が短文になり、短文が文章になっていった。
―――まるで言葉を取り戻しているようだ
 同時に今まで心の底に蓋をして見ないふりをしていたことが、すらすらと文章になって表れてきた。生き残って言葉を残すことを選んだ同志たちから向けられた言葉も。
 小林はベルトの本を武器に変える。見慣れたそれが一層輝いて見える。そういえば特務司書は昨日時間を掛けて補修してくれた。
 改めて構え直すと、魂の世界の闇に紛れて、小林に似た人影が現れた。
―――見つけた
「アンタは地獄から戻て来た亡霊だ。俺の心の底に眠っているもう一人の俺、過去の俺だ。侵蝕者が取り憑いた事で目覚めたんだ。生前の事はほとんど覚えていない俺に色々教えてくれた。それは感謝する。でも未来に進むために眠りについてもらう」
 小林は声を出してその人影に語りかけていた。人影は小林の言葉ににやりと笑うと<伝え得ぬ洋墨>に姿を変えた。
「絶対に、倒してやる……」

 ※※※ ※※※ ※※※

 黒檀の本体に黒大理石の天板をはめ込んだ小机に展開された潜書陣の中で本が浮いている。ぼんやりとした光に包まれたそれがひと際明るく輝いたと思うと静かに小机の上に落ちる。光は小机の傍の床に固まって蹲った人に変わる。
「多喜二」
 途中から小林の潜書に立ち会っていた中野が蹲った小林の傍による。覚醒ノ指環を装備している中野は以前の自他の境界をかっちりと切り分けていた印象から柔らかくより多くを受け入れている様に見える。ただし瞳の光は論客のそれに変わりはないが。中野に肘を取られ立ち上がった青年はフードを跳ね上げその端正な顔立ちを惜しげもなくさらす。
―――よく似ている。彼等が主義主張を同じくする者であることは一目見ればわかる。
 そんな感慨を抱く森の隣で特務司書が大きく息を吐く。ちらりと横目で確認した特務司書の眼の下に薄く隈が出来ている。安堵の息だろうか。これから小林の補修に入るのだろうが、無理をせぬように見張らねば、と小林を言祝ぐ特務司書の背中を森は見つめた。

<了>

 


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