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再戯

 帝國図書館研究棟の談話室
 金木犀の香りが風に乗り、窓から見える木々も色合いを濃くしてきた頃。
松岡譲は一人本を読んでいる。親の付けた名を改め、夏目家の娘と入り婿のような形で婚姻し、逃れたはずの実家の正業だが、手に取ってしまうのはそこに関連した本になってしまう。今読み進めるのは経典を量子力学の観点から解釈したもので、ここまで畑違いと思われる分野からの試みは却って心地よいものがあった。
 章の区切れに差し掛かって、本から目を上げふうと息を吐く。栞を挟み込むと本をローテーブルの上に置く。興味を惹かれ心地よく感じたとしても、著者が持っている量子力学の知識には追い付けない。
 顔を上げた松岡に談話室付きの術者アルケミストが近寄ってくる。紅茶のお代わりを、と声を掛けた術者アルケミストに、いえ自分でやりますと断って席を立つ。談話室には松岡の外に入り口近くに正宗白鳥、窓際に北原白秋と室生犀星、萩原朔太郎がいる。室生と萩原の話し声に北原の笑い声が混じるだけの午後の談話室は全くの平穏だ。松岡はくらりと視界がゆれるのを感じ、手に持ったティーカップをソーサーごと持ち直した。つうと正宗の視線が向けられるのを感じ、軽く会釈を返すと何事もなかったように厨房へ向かう。向かいながら、この感覚は久しぶりだと思い返す。

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 松岡が『第四次新思潮』から転生したのは丁度今の季節だった。本の世界で逃れたはずの実家の寺に引き籠り、身も心も侵蝕者に取り込まれ消滅しかかった松岡を救ったのは、不幸な経緯で道を違えた久米正雄であり、一高時代にその講演を聞き心を奮い立たせた徳冨蘆花だった。勿論、新思潮の仲間である芥川龍之介や山本有三も松岡の転生には力を尽くしてくれた。そのことは今の自分の状況を考えればいくら感謝しても足りない。
 ただ、同じく力を尽くしてくれたとはいえ、一高入学後に最初に仲良くなった菊池寛がほんの少し、松岡に対して引き気味なのが、転生当時の松岡には淋しかった。侵蝕されていたとはいえ『第四次新思潮』の世界に残ると言い張る松岡に対して、菊池は、見透かしたような目をしやがってと呟くだけで成り行きを見ていた。
 そのことが松岡の心を少し毛羽だたせてしまう。ほんの一呼吸で収まるものであっても、そういう心根であることが松岡を不安にさせた。
 それにこの夏……

 気がつくとティーカップを厨房に返して中庭に出ていた。吊り上げられるように高い空の隅に鱗雲が小さく収まっている。風はなく、落ち葉が散り始めている。微かに香る金木犀に引かれて中庭の池の新館側に回り込む。池の周りでこの一角、丁度池を挟んで茶室の向かい側には、築山というには雑然とした様子の樹木が茂っている。柳田國男が言うには、裏山は昔はこの辺りまであって、本館や研究棟、宿舎が立てられるときに開墾された名残だろうという見立てだ。裏庭から続く里山には、植林した桜の樹が多いが、枝垂桜が咲く見晴らし台より上は、似たような樹木があった。木陰になる位置にベンチが設えてある。松岡はそこに座って本館を眺める。研究棟や本館と繋ぐ渡り廊下は茶室が目隠しとなり見えない。それを確認すると松岡は肩を窄め大きく息を吐いた。

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 この夏芥川の『あの頃の自分の事』が侵蝕された。侵蝕は術者アルケミスト達も予測できなかったほど急激に始まり急速に進行していった。急遽潜書が行われたが誰も潜書できず、辛うじて夏目漱石が本の世界に入ることが出来たが直ぐに本から「押し出されるように」帰還した。その後も人を変えて潜書を試みたが潜書陣が消えてしまい、とうとう休暇中の松岡と菊池寛、久米正雄が呼ばれた。が、著者の芥川は呼ばれなかった。

 通常、有碍書の浄化には最初にその本の著者が呼ばれる。著者が一番その本の事を知っている●●●●●からだ。だが、この時は時期が悪かった。
 河童忌7月24日-作家・芥川龍之介の命日が近かったからだ。
 転生文豪達は此岸の疾病-風邪やら胃痛やら-とは縁が遠い。無論切れば血が出るし、何かにつかるとその場所は腫れる。身体が壊れれば人間でいう「死ぬ」ことにもなりかねない。一番の疾病は心の病、それも記憶からくる気鬱であった。
 そして転生文豪にとって命日は、確かに迎えたはずなのに記憶にない日●●●●●●●●●●●●●●●●●であった。それは生前の記憶を全て持って転生してきた谷崎潤一郎や井伏鱒二にとっても同じで、知らないを一日を知ることになる。影響は文豪毎に万別だが、芥川は特にこの影響を大きく受ける。
 転生してからこの月には芥川はほとんど皆の前に姿を現さない。最初の年は様子を見に芥川の部屋を訪れた菊池が、施錠されていることに訝しみ、特務司書を動かして合鍵マスターキーで中に入り、寝台で死んだように眠る芥川を見て恐慌状態になった。二年目からは幾分かは改善され、部屋の中でぼんやりしていることが多く、菊池や室生など、普段から芥川の身の回りに目を光らせている連中が食事を差し入れている。
 だが、今年はまた月の始めから芥川の姿を見ることがなくなっていた。

 それを考慮されて潜書には室生が呼ばれていたが、打ち合わせの途中に志賀直哉に連れられた芥川が姿を見せた。そして自分が潜書すると強硬に-芥川らしくなく-主張した。特務司書は許可しなかったが、執拗に迫る芥川に折れて30分-菊池には15分と告げた-だけ潜書を許可する妥協した。
 潜書は無事成功したが、直後多数の侵蝕者に襲われ、個々に分断され、菊池は喪失状態で強制帰還、後の三人は本の世界に取り込まれ、それ以降誰も潜書できなくなった。

 芥川の有魂書-潜書時に芥川から菊池に託された-を白い本に変え、それに発表時の『あの頃の自分の事』を記述し、白い本を通って本来の『あの頃の自分の事』に潜書する、という荒業で侵蝕は浄化された。

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 松岡は芥川の本の浄化後の事を思い返す。耗弱状態で帰還した松岡は補修のため医務室に留置きとなったが、それの解除のため、鷗外森林太郎の診察だけでなく斎藤茂吉の診察設けた。
 斎藤の診察室は医務室の一角に新たに設えた個室で施錠は出来ないが防音はほぼ完璧だった。そこで斎藤が言った。
「潜書前と変わりはないか」
 命日前後の心の変動の事を言っているのだと松岡は理解した。奇しくも松岡の命日は芥川の命日の二日前である。だが、ぼんやりした不安に追われて三十六歳で自死を選んだ芥川に比べて、松岡は七十七歳まで生きた。晩年は老齢からくる衰えで病むことが多かった。なので何時その時が来てもおかしくない思っていた。来れば定命来なければ次の一日も生きる-仕事をする-だけと決めた。悔いはない。 
「ありがとうございます。特に問題は無いかと思います」
 斎藤はじっと松岡の表情を見て、受け答えを観察する。
「そうか。今回の戦闘は特に酷かったと聞いている。なにかあれば何時でも頼ってくれ」
 歌人である前に文豪達の精神科医であろうとする男は、そう言うと松岡に自室に戻ってよいと伝えた。

 斎藤の部屋を出て森に挨拶をし、上着を取りに休んでいた寝台に戻った松岡は子供の声を聞いた。
「それでね、トトちゃんがごんの鼻の先でね……」
 覗いてみると見舞客は一人ではなく新美南吉と徳冨だった。徳冨の肩のほととぎす-トト-が羽ばたいて松岡の目の前に跳んでくる。松岡が右手を差し出すと慣れた様子で人差し指に止まった。
「あ……、退院、できるんだ」
 松岡の様子に徳冨が訊く。
 トトを連れて寝台に向かいながら松岡は答えた。
「はい。わざわざお見舞いいただいたのですが、先ほど許可をもらいました」
「松岡、部屋に戻るの」
 不安そうに首をかしげて芥川が訊く。
「ええ、いつまでも医務室の寝台を占領しているわけにはいきませんから。そのうち久米が来ますよ」
 久米かぁ……と呟いた芥川が背凭れにしている枕に身体を預けて天井をむく。しばらくそのままにしていたが、むっくりと身体を起こすと、使っていた寝台を整理していた松岡に言った。
「松岡、南吉君と蘆花さんを証人にして仲直りをしよう」
 芥川から意外な言葉が飛び出たことに松岡は振り向く。
「仲直り、ですか」
「うん、僕は本の中で君に酷いことをした」
 あれは……と松岡は口ごもる。
「侵蝕されていたとはいえ、やってはいけないことだ、友達には特に」
「しかし、アクタ、僕も貴方に同じことをしましたよ」
 穏やかな空色の瞳が松岡に訴えかける。
「あれは侵蝕の浄化には必要なことだった。でも、君の事だ。心のどこかで気に病んでいるんじゃないのかい。佐保山にたなびく霞のようにお互い消えかかったんだから」
 傍にいた新美がぎょっとした表情になった。徳冨もいつになく険しい表情をしている。
「僕はこんな気持ちを抱えたままでいたくない。だから君が僕の頬を打ってくれ、それから僕が君の頬を打つ」
 芥川はもう決めた、とばかりに松岡に言い放つ。
「そんな……。いくらなんでもそういう事で友人の頬を打つなんてできませんよ。お互いにそう思っている。それだけで充分ではありませんか」
「昔は、君、結構荒事でもめ事を解決してたじゃないか」
「それとこれとは話が別ですよ、アクタ。僕は今の話で充分です」
「それじゃ、僕の気が済まない」
 芥川は引き下がらない。
「なら、こうしよう。松岡、君が右手で僕の左手を打つ。僕は右手で君の左手を打つ」
「それはあまり変わらないと思うのですが……」
 どうしようと視線を送る松岡に、徳冨を新美は、受け入れたら、という笑みを返す。
 ぱちん、ぱちんという音に続いて、照れくさそうな笑いが医務室に響いた。

 ※※※ ※※※ ※※※

 アクタとは、ああいう形だったけど、話すことが出来た。でも……
考え込む松岡の耳が微かな物音を拾った。松岡が注意を向ける間もなく、ざりっという砂を踏む音がして、木陰に人影が現れた。
 ぎょっとして見上げた松岡が見たのは、火をつける前の煙草を指に挟んだ菊池だった。
 菊池は木陰に入ってきた勢いそのまま無防備に松岡に向かってくる。足元に向けた視線が上がりそこに松岡がいるのを見て、驚いて煙草を落とした。
「ま、松岡……」
「寛……」
 菊池は人がいるとは予想してなかったのだろう、常になく疲れた顔をしていた。
「す、すまねえ、誰かいるって思わなかったもんでな」
 煙草を取り落としたことも気づかずに松岡に話しかける。
「いえ、僕も誰か来るとは予想もしてませんでした。ここは新館が近いですし」
 研究棟職員の特権で新館にも二十四時間入館は可能だが、収蔵書籍や資料に文豪達の食指は動かない。例外は中野重治で帝國の社会情勢を研究にしばしば新館を訪れている。ほかは目の前の菊池だがやはり新館の収蔵書籍を手にしている。
「ああ、司書と館長の許可が出たのでまた新しい投資先を探してる」
 そういうと菊池は手の中の本を松岡に見せる。生前は成功した経営者、実業家だった菊池は転生してもその手腕で一財産を稼いでいると噂されているが、それは本当のようである。これを島崎藤村ら取材組や石川啄木が聞きつけたらどうするだろう、直木三十五は当然知っているかもしれないが……
「そんなことを僕に言って、誰かにバレだらどうするんです」
 突っ立ったままの菊池に席を開けながら松岡は軽口を叩く。
「アンタはそんな事しないさ。いろいろ自分の胸に収めて一人で抱えていくタイプだ」
 ベンチに座って拾い上げた煙草に火を付けた菊池はそう返す。隠そうとしているが声に疲れがにじみでている。
「一人で抱える、ですか……。間違いないですね、今も一人で考えてましたから」
「松岡……」
 いつもの●●●●声色に変わって菊池が訊ねる。
「寛。夏の……アクタの本の潜書を覚えてますか」
 みしっとベンチの背凭れが軋む音がして、菊池が、ああ、と答えた。
「あの後、潜書する奴ら全員に、司書は栞紐をつけるようになったな」
 松岡が横目で菊池の様子を確認する。菊池は背凭れに身を預け、煙草をくわえてたまま遠くを見ている。突っ込んで訊いてこない事を確認すると松岡は話を切り出す。
「そうですね……。でも僕が考えていたのは……」
 不意に松岡の心にこれは大賭けギャンブルかもしれないという気持ちが起こった。
アクタも随分酷いことをする、と考えていたんです」
 背凭れが軋む。
「いや、潜書前の雰囲気からすると既に侵蝕されていたのかもしれない。親友に魂を委ねて、本から追い出すなんて」
「あれは司書が強制帰還を掛けたせいだぞ」
「ええ、分かっています。本来ならアクタも含めて四人全員を戻すはずだった。しかし戻れたのは本の中では名前しか登場しない寛だけだった」
 ぎしりと大きく背凭れが軋む。
 菊池がこちらを見ているのを松岡は感じた。
「名前しかというのはおかしいかな。あれが発表された時は寛への手紙もあったから。僕も潜書のあとアクタの全集を読み返して思い出したんですけど。寛への手紙と一緒に削除されてしまった章も、あの頃のアクタを見ているようで懐かしかった」
「何が言いたい……」
 一段低い菊池の声が松岡に届く。松岡の意図が読めず珍しく菊池は苛立ち始めていた。菊池の指先で煙草の煙だけが立ち昇っている。
「僕等が、生前の結末、あの人生を送った出発点があの大正4年だ。出世も事件も諍いも離反も、あの一年がなければ起こらなかったかもしれない。それを……それを書き上げた作品を読み直して予感したから、アクタは、わざわざ手紙の章と自分の生活を書いた章を削除したんだ。『あの頃』を俯瞰して見たから……」
 松岡は菊池と反対に前かがみになって足元を見る。
「でも、僕にはわからなかった。僕は僕のことで精一杯だったから。入り婿のような形で先生のお嬢さんと結婚したのも、十年沈黙を守ったのも、すべて実家から逃れたいという僕のエゴイズムだ。久米への返答という意味もあったけど、あの本を書いたのはあの時の自分の状況をある程度冷静に見ることが出来るようになったからだ」
 松岡の鼻先を菊池の煙草の煙が流れていく。
「遅すぎた返答だったけど……」
 呟いた松岡の鼻先から煙草の匂いがふわりと遠くなる。煙草の煙を一口、大きく吸い込むと菊池はそれをゆっくりと吐き出す。煙草の匂いがまた濃く松岡の鼻腔を擽った。
「松岡……」
 吸い殻を携帯灰皿に放り込むと菊池は続けた。
「俺はアンタに謝らなきゃいかん」
 背凭れから身を起こし菊池は松岡を見る。
「『第四次新思潮』の時な、本当に……本当に逃げ出しちまおうって思ったんだ……」
「寛……」
「アンタが侵蝕者に取り込まれて姿を消してから、蘆花さんのトトに道案内されて『寺』の前まで行ってな。アンタが何と戦ってたか初めてわかった」
 松岡は無言で菊池の言葉に耳を傾ける。
「怖気で震えたよ。敵わねぇって思った。こんなもんに松岡は取り込まれてんのか、取り戻せるかってな。取り戻せなかったらと思うとそれを見るのが怖くなった」
 松岡が首を曲げて菊池を見る。
 菊池の紅玉の瞳と松岡の雌黄の瞳がぶつかる。
「トトに促されて皆の処に戻ったが…………。気持ちはあの話を書いた『あの頃』の俺と同じだ。第三者の視点、他人事だ。侵蝕者に思い知らされたことに動揺してたかもしれん。とても久米や蘆花さんみたいな台詞を吐く勇気は持てなかった。皆の前では友達だからって言ってるのにな。見殺しにしようとしたんだ。アンタに何もいう資格はないよ」
 さわさわと中庭の池に漣が立つ。菊池は松岡から視線を外した。
「読みましたか……」
 あの、と続けかけて松岡は止めた。自分に関して出された本は少ない。
「ああ。まあ、山本は国会議員をやってたし、戦争中から志賀さんや武者さんと繋がってたからな。心配はしてない。…………アンタと久米がどうなったかは知りたくてな」
 他に心配する相手がいるだろう、と松岡は思ったが言わずに置いた。池には先ほどと反対方向に漣が立つ。
「後悔ばかりだと……」
「ああ……」
「『あの頃は』後悔ばかりだと……。話したんですよ、久米と、山本と」
 菊池はもう一度、ああ、と答え、考える。あの事件だけを切り取れば、山本も関係してくるかもしれない。  
 風が止まり、池の面がないだ。色づいた葉がくるくると舞いながら池に落ちた。波紋が広がり池の端で消えると落ち葉が滑るように池の面を動いた。
「それだけ、いろいろやらかしたんですよ。『あの頃』もも。鉄拳制裁を受けるほどね」
 菊池が振り返ると松岡の『あの頃』のにやりと笑う顔があった。

<了>
 


 
 

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