見出し画像

ココアを飲む話。

外は今日も雨。もう夏が来るというのに、勢いよく窓に打ちつける雨粒は弱まることを知らず、天色を覆ったあの分厚い雲は日に日にその色を重ねているようだ。薄暗い雨に囲まれ光を忘れ去ってしまった此処は、時や季節が成すものもなく、生を感じることもなく、まるで自分だけ取り残されてしまったよう。木の葉が激しい雨粒に耐えている様をただ意味もなく見つめていると、もう光を見ることができないなんて考えが頭をよぎり、気がきでなくなった。落ち着かせるために窓から離れてキッチンに向かい、冷蔵庫からミルクを出してココアを入れようとしたが、いつものミルクで溶かして飲むやつの袋が見当たらない。仕舞う場所を間違えたことなんて今まで一度もない、おかしいと焦りながら隣の棚も確認しはじめた時、雨が降り始めたあの日に切らしたことを思い出した。あの時はこんなにも雨が長引くなんて夢にも思ってもみなくて、雨が止んだら買いに行こうと考えていたんだった。仕方なく代わりになりそうなものを探していたら、棚の片隅に忘れかけられた無糖のココアがあった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


ホットココアが、君のお気に入りの料理だった。君が時間をかけて作っていた『特製ホットココア』には、いくつもこだわりがあった。例えば、砂糖のグラム数がとても重要だとか、隠し味にバターを入れるとか入れないとか。食に一切の関心がない僕には、それが本当のことなのかどうかなんて分かる訳もなく、君がいなくなってしまった今、それを知る由もない。

君がいなくなったのはもう何ヶ月も前、まだ春が顔を見せはじめたばかりの頃だった。これから訪れる新しい生活に胸を膨らませていた矢先、「あなたには幸せになってほしいの」と突然そう言い残して、君は去っていった。そんな言葉だけ残していくなんて、本当に勝手なものだ。今まで僕を求め続けて、散々僕に依存している素振りを見せて、振り回して傷つけておいて、いまさら…今更幸せになってほしいだとか、よく簡単に口に出来たものだ。君に必要とされている、そのことだけで生きてきた自分がほんと馬鹿みたいじゃないか。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


袋に書かれている『美味しいココアの作り方』を読みながら、ホットココアの材料を揃え、鍋に火をかける。たかがココアなのに、こんなにも作るのに時間がかかってしまうのか。意外と面倒な手順を踏むことに驚きを隠せなかった。粉を煎って、水を少しずつ入れてペースト状にして、さらに少しずつミルクを加えていく、なんて。

面倒なことはいつも知らん顔して逃げていた君が、こういう面倒なことは好き好んでおこなっていたなんて。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


毎日を一緒に過ごしていて、君のことなんて何でも知ってるつもりだったけど、よく考えたら何にも知らないのかもしれない。君とする話はいつも僕のことばかりで、君の話をする時だって、僕を楽しませるための面白い話だけだった。君はいつも何も考えてなさそうで、ただただ、いつも楽しそうに笑っていた。

君との関係というのは曖昧なもので、数ヶ月なぜか一緒に過ごしていただけ、と言われれば否定することはできないような、そんな関係だった。一緒に過ごすようになったきっかけがなんだったのかを思い出そうとしたことは何度もあるけれど、何せ一切記憶がないのだ。何か大きな出来事があったわけでも、猛烈に盛り上がれるような共通の好みがあったわけでもない。たまたま君と僕が出会って、気がついたらそうなったとしか言いようがない。もしかしたら、お互いに誰でもよかったのかもしれない。もしくは、なんだってよかった、のかもしれない。そこに現れたのがたまたま君だっただけで、僕は人の温もりだったり、人の存在というものにただ縋り付きたいだけだったのかもしれない。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


ようやく出来上がったココアをマグカップに移していくと、とても一つには入り切らなくて、仕方なく君が使っていたコップにも注いだ。この販売元のレシピは一人分には対応していないらしい。

想像していなかった量のココアを前に、どうしたものかと手を止める。確かにココアが飲みたかったのだけれど、とても一気には飲めそうにもない。外の何も変わらない景色を観るのはもう飽きた。読書も一通り終えてしまった。そういえば、描きかけの絵がアトリエに転がっていたような、何を描いている途中だったか思い出せないけれど。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


そういえば、君が突然いなくなったことは前にも何回かあった。ある時は何も言わずに突然、ある時は「ごめんね」のメモ1枚だけを残して。居なくなったのが初めてのときも、そうでないときも、変わらず僕の心はかき乱されて、その度に自責の念に駆られ、自分を傷つけて生きてきた。それなのに、1週間くらい経つと何もなかったかのような顔で戻ってきて、いつもと変わらない仕草でココアを作っていた。あのココアを飲むと、君が何でいなくなったのかなんて、どうでも良くなってしまうからこわいものだ。何でいなくなったのだろうか。何で戻ってきたのだろうか。もう聞くことはずっとない。正直、君が今回いなくなったときだって、最初は同じようにすぐ帰ってくるものだと思い込んでいた。いや、そう思い込もうとしていた。

「最近、あなたに嫌われているように感じることがよくあって…」
今思えばあの台詞が、本当にいなくなる兆候だったのかもしれない。僕はいつもと変わらずに君を大切に思っていたし、君を傷つけないようにすることで頭がいっぱいだったし、嫌いになる心の隙間なんてどこにもなかったのに。そんな風に捉えられるような出来事に身に覚えがなさすぎて、「僕はそんなことないよ」と答えることしかできなかった。あの時にもっと君のことをフォローするような何かを口に出来ていたら、結果は変わったのだろうか。あの時はどうしてそう思ったのかを考えることに必死で、そんなところまでは気が回らなかったし、どうせ気を回したところで君を安心させてあげられるような気の利いたセリフなんて僕には思い付けなかったに違いない。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


描きかけの絵は、月明かりに照らされている君だった。何にもない夜空をバックにどこか遠くを見ている君は、まだ下書きのような段階だった。これを仕上げて君とちゃんとさよならをしよう、とそう思って筆を手に取ったのに、その筆を動かすことができなかった。さっきまで、君の楽しそうな顔が浮かんでいたのに、もう何も思い出せない。君の目も、口も、鼻も、耳も、輪郭でさえも、思い出そうとするたびに君は不鮮明になっていく。君は本当にここで過ごしていたのだろうか。絶対に忘れられなかった大切な思い出達さえも、不鮮明に霞んでしまっているようだった。

何もしないうちに飲み終わってしまった2杯のココアは、すっかり温くなってしまっていて、何ともパッとしない味がした。君が入れてくれたものとは全く違うものに違いない。

気が付けば、君が入れてくれたあのココアの味でさえも、もう思い出せなくなっていた。

(終)