数多の一生の別れに

祖父が亡くなってからというもの感じていることを、文章に起こしておこうと思いながら随分時間が経ってしまった。今更でも書いておこうと思う。

5年前の9月、癌で祖父が亡くなった。

余命宣告では桜が散るころにはもう駄目かもと言われながら、9月まで耐えた。本人も死を覚悟していたので、いわゆる終活としてあらゆることについて準備を整えており、葬儀も祖父が葬儀業者と予め打ち合わせてあった希望のとおりに執り行われた。おかげでスムーズにことは進み、私は自分の感情に身を任せることよりもとにかく祖母に寄り添うことに集中し、祖父の希望通り弔事を読んで、祖父を見送ったその後は祖母を役所へ連れていって書類手続などを粛々と行った。

諸々が済んで高速で1時間半離れた自宅へ帰る道のりで、ようやく一人になり、泣いた。

祖父は亡くなった。心の準備はできていた。死に目には会えなかったけれど、棺の中の姿も見た。火葬後の骨も見た。涙も流した。

それなのに、祖父の死ということが頭では分かってもいつまでもピンとこなかった。どこかへ消えてしまった、という感覚に近い。もう二度と会えないということだけはよくわかっていた。私にとって死別とはそういうものだった。

今でも時々、おじいちゃん元気かなぁと思う。元気どころかもうどこにもいないのに、元気でいるといいなと思う。


それはちょうど、学生時代にバイトでお世話になっていた人たちと、今は連絡も取れずどうしているかも一切分からない感覚と似ている。あれほど毎日のように顔を合わせていた人たちと、バイトを辞めて遠方へ越してからは縁が切れてしまい、おそらくよっぽど二度と会うことはない。今となっては最早、彼らが生きていても死んでいてもそれすら気づくこともない。今後再会できる人もいるかもしれないけど、多くは、すでに永遠の別れと同義になっていると思う。

ただ、ふと思い出す時、みんな元気だといいなと思う。


この4年の間に死別について考えることが他にもあった。

2年前、会社の上長が亡くなった。50代だった。療養のために仕事を休んでいることは分かっていたけれど、復帰するものと皆が疑わなかったのに、ある日突然 死亡を通知するメールが全社配信で届いた。

特段親しい間柄ではないものの、関わりを持っていた人の死をたった一通のメールで知らされて、それで終わりになった。
最後に関わったのは、何と言うほどのものでもない備品購入について、入院中の病室から承認してもらったことだった。私はお礼の一言も伝えなかった。

これも、ある時から消え去ってしまった人になった。


もう一つは、祖母の旧来の友人について。祖母も高齢となり、現実と妄想の区別がつかなくなって介護施設へ入居する運びとなった。年賀状のやり取りが難しいので祖母の友人たちにはその旨を私から連絡していた。その誰もが私に直接電話をしてきて、祖母は元気か、会いに行ってもいいかと尋ねてきた。80代になってもこのように連絡をとり合える友人が、果たしてその頃の私にはいるだろうかと思った。

そのうちの一人のご友人について、半年ほど前に義理の娘さんという方を通じて訃報を受け取った。

介護施設の方に相談すると、祖母は既に友人の死を事実として理解することも受け止めることも難しく、ただ精神的に不安定にさせるだけと言われた。本人が苦しむことになるのでできれば伝えないことを勧める、との回答であった。

祖母がそのような状態にあることは家族としても理解しているし、専門家の意見でもある。毎日祖母を見守っているのは今や家族ではなく施設の職員である。結果、伝えないことに決めた。それが正しいことなのか、本当に祖母のためになる選択なのかは未だにわからない。

"老い"というのは少しずつのお別れなのだと改めて思う。おそらく祖母はその生涯で得た人間関係について、もうほとんどの相手とは二度と会うことがないだろう。自宅をはじめとした思い出の地にも、あらゆる持ち物にも、一人でできていた事柄にも、本人の明確な認識はないまま最後の別れが訪れた。


人生の黄昏時でなくとも、日常とは別れの連続である。数多の一生のお別れを、忙しい毎日の中でいつのまにか通り過ぎていて、ふと気づいたときには人生から既に消えている。
限りある私はその全てに思いを馳せるわけにもいかないけれど、あともう少しだけ大切にできたはずのことを、後になって気づいてしまうこともある。

大人になると日々の仕事と生活に追われ、親しかった人とも会おうとしなければ会わないまま時が経つ。さよならを言うこともなく別れたままになる人も少なくないだろう。またいつか、と言いながら、いつかはやってこないかもしれない。

だから、会いたい人に、できる限り何度でも会いに行く。連絡をとる。伝えたいことは伝えたい時に伝える。たったそれだけのシンプルなことを続けたい。
ありきたりな感想かもしれないが、自分の経験と実感に裏打ちされた確かな思いである。
願わくば、そんな繋がりが80歳になっても続けばいいと思う。

そして、なすすべもなく
通り過ぎてきてしまった愛すべき永遠の別れたちへ。
どうか元気でいてくれますようにと
ただ今も、そう願うばかりです。



"今日一日の「サヨナラ」と永遠の「サヨナラ」の響きは時々同じ"
UVERworld / HOURGLASS
https://youtu.be/RUtntvZmeec?si=cY7ziUrLhBNnSpMF


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